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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第八十四話 渡し場は、軍の橋ではない

川は帳面を読まない。


 喜助のその言葉は、清洲蔵へ戻ってからも妙に残った。


 帳面は大事だ。


 伊三郎の帳面がなければ、清洲式などとっくに絡まっている。

 高畑砦飯線も、水札も、常備飯も、連絡足も、どこかで混ざって崩れていたはずだ。


 だが、川は帳面を読まない。


 今日晴れていても、上流で雨が降れば水は増える。

 こちらが急いでいても、渡し舟は揺れる。

 荷を濡らしたくないと思っても、舟底の板は濡れている。

 帳面に「この時刻に渡す」と書いても、流れが強ければ渡れない。


 なら、帳面に何を書くべきか。


 川の予定ではない。


 川を見る者の言葉だ。


「つまり、喜助殿を正式に川見役にする必要があります」


 伊三郎は朝の蔵で、きっぱり言った。


 権六が味噌湯をすすりながら顔を上げる。


「また役が増えた」


「必要です」


「最近、必要じゃない役がないな」


「ないです」


 即答だった。


 かやは川道用の包みを広げている。


 厚味噌片。

 二重竹皮。

 笹を薄く挟んだ試作品。

 水結び。

 濡れ戻り用の札。


 蔵の一角には、昨日作ったばかりの「濡れ戻り棚」が置かれていた。


 川道から戻った荷は、たとえ中身が無事に見えても、いったんそこへ置く。


 高畑線にも、北尾根仮線にも戻さない。


 湿気は目に見えないことがある。


 それを混ぜれば、全部が悪くなる。


「川見役って、具体的に何を見るんだ?」


 作兵衛が聞いた。


 伊三郎は板に書いた。


 一、水位。

 二、流れ。

 三、渡し舟の揺れ。

 四、渡し待ちの客。

 五、荷を載せる順。

 六、戻りの可否。

 七、川水と飲み水の違い。


「多いな」


 太助が横からぼやいた。


「川って水だけじゃないんだな」


 昨日、川道を歩いた太助の文句には重みがある。


 水が多い道ほど、飯は濡れる。


 そのことを、皆がもう知ってしまった。


「問題は、喜助殿が引き受けるかだ」


 俺は言った。


 川見役。


 言葉にすれば簡単だ。


 だが、それは喜助を清洲の都合に巻き込むことでもある。


 渡し場には普通の客がいる。

 商人がいる。

 村の者がいる。

 荷を急ぐ者がいる。

 病人を渡したい者もいるかもしれない。


 そこへ、織田の飯荷が来る。


 もし「軍の荷だから先に渡せ」となれば、渡し場の腹はすぐ荒れる。


 敵はそこへ噂を入れるだろう。


 織田が渡しを奪った。

 清洲の飯のせいで商いが止まった。

 喜助は織田に買われた。


 そんな紙が出るのは、目に見えている。


「だから、川見役は命令役じゃない」


 俺は言った。


「判断役です。渡せるか、渡せないかを見る。普通の客をどかす役ではない」


 かやが頷く。


「飯荷が優先じゃなくて、川の都合が優先」


「軍の都合じゃなくてか?」


 権六が言う。


「軍の飯荷でも、川でひっくり返したら意味がない」


「それはそうだ」


 佐助が厚味噌片を包みながら、ぽつりと言った。


「味噌は、川に落ちると全部終わります」


 妙に切実だった。


 彼にとっては、戦より味噌の死のほうがつらいのかもしれない。


 昼前、俺たちは川道へ向かった。


 今回は荷を多く持たない。


 試作用の厚味噌片。

 濡れ札。

 川見役の話をするための礼。

 喜助に見てもらう見本の帳面。


 あくまで相談だ。


 決定ではない。


 川辺へ着くと、喜助は舟の縄を直していた。


 こちらを見るなり、眉を上げる。


「また来たな」


「今日は相談です」


「相談って顔じゃないな。面倒を持ってきた顔だ」


 当たりすぎていて、少し返事に困る。


 喜助は舟の縁に腰を下ろし、手ぬぐいで手を拭いた。


「言ってみろ」


「喜助殿に、川見役をお願いしたいです」


「断る」


 早い。


 権六がいたら喜びそうな即答だった。


 俺は慌てず頭を下げた。


「理由を聞いても?」


「面倒だからだ」


「それは分かります」


「分かってねえ。川見役なんて名がついたら、皆が俺に聞きに来る。水はどうだ、荷はどうだ、いつ渡れる、いつ戻れる。普通の客もいる。俺は渡し守であって、清洲の番人じゃない」


 その通りだった。


 俺は頷いた。


「はい。だから、命令役ではなく、見る役です。渡し場の客をどかす役ではありません」


「同じことだろ」


「違います」


 かやが一歩前へ出た。


「喜助さんが『今日は駄目』と言ったら、清洲の飯荷も止まる。『客が先』と言ったら、客が先。『この荷は濡れる』と言ったら、包み直す。清洲が喜助さんを使うんじゃなくて、川の判断を清洲が聞く形にしたいんです」


 喜助は、かやをじっと見た。


「口がうまいな」


「本当のことです」


「本当のことでも、後で変わることがある」


 重い言葉だった。


 最初は約束する。


 けれど、軍の都合が強くなれば、渡し場に無理を言うかもしれない。


 喜助が疑うのは当然だ。


 俺は持ってきた板を出した。


 伊三郎が書いたものだ。


 川見役定め案。


 一、川見役は渡しの順を決める者ではなく、川の可否を告げる者。

 二、普通の客を軍荷で押しのけない。

 三、飯荷は川見役が不可と言えば渡さない。

 四、川見役の手間は記録し、手当てを出す。

 五、渡し場の商いを妨げた場合は記録し、補う。

 六、濡れた荷は清洲で責任を持ち、渡し守に押しつけない。


 喜助は板を受け取り、ゆっくり読んだ。


 字は読めるらしい。


 少し時間をかけてから、顔を上げた。


「普通の客を押しのけない、か」


「はい」


「本当に守れるのか」


「守る形を作ります」


「形?」


「飯荷の渡し時刻を決めすぎません。川見役の札が来たら動く。急ぎの時は緊急札を出しますが、その場合も喜助殿が川を見て不可なら止めます」


 喜助は鼻で笑った。


「信長様の荷でも止めるのか」


 空気が少し固くなった。


 俺は、一瞬迷った。


 だが、ここで迷ってはいけない。


「川が駄目なら、止めます」


 喜助の目が鋭くなる。


「言ったな」


「言いました」


「その言葉、帳面に書け」


「書きます」


 伊三郎がいたら即座に書いただろう。


 今日は俺が小帳面に書いた。


 川が駄目なら、信長様の荷でも止める。


 字は下手だが、書いた。


 喜助はそれを見て、少しだけ口元を動かした。


「なら、話は聞く」


 断る、から、聞く、になった。


 大進歩だ。


 そこへ、渡し場の普通の客がやって来た。


 商人らしい男で、荷を二つ持っている。


 油紙に包まれた品だ。


「喜助、渡れるか」


 男は俺たちを見て、顔をしかめた。


「また清洲の荷か」


 やはり来た。


 喜助が答える前に、商人は言った。


「この前も清洲の者が来て、舟を見てただろ。今度は渡しまで軍のものにする気か」


 喜助の顔が険しくなる。


 俺はすぐ頭を下げた。


「違います。今日は相談に来ただけです。お客さんの渡しを止めません」


 商人は疑いの目で見る。


「そう言って、後で先に渡せと言うんだろ」


「言いません」


「どうだか」


 喜助が低く言った。


「今日はこの人らは渡らん。おまえを渡す」


 商人は少し驚いた顔をした。


「本当に?」


「俺がそう言った」


「ならいい」


 商人はまだこちらを見ていたが、荷を舟へ運んだ。


 喜助は舟へ乗り込む前に、俺たちへ言った。


「見てろ。渡し場は、こういう場所だ」


 舟が出る。


 俺たちは岸で待った。


 商人の荷を先に載せる。

 人を乗せる。

 舟底の濡れた場所を避ける。

 揺れた時、荷が滑らないよう縄で軽く押さえる。

 向こう岸で、喜助は先に人を下ろし、それから荷を手渡した。


 清洲の飯荷と同じことを、普通の客にもしている。


 いや、逆だ。


 普通の客にしている手順こそ、川の手順なのだ。


 こちらはそれを借りるだけだ。


 喜助が戻ってくると、商人は向こう岸から一度頭を下げて去った。


 喜助は舟を岸へ寄せながら言った。


「今の男、口は悪いが荷は大事にする。濡らしたら俺のせいになる。軍の荷だけ丁寧に扱えば、ああいう客が離れる」


「はい」


「渡し場は、軍の橋じゃない」


 その言葉が、腹に落ちた。


 渡し場は、軍の橋ではない。


 人の商いの道だ。

 暮らしの道だ。

 そこを軍の飯荷が通らせてもらう。


 この順番を間違えたら、川道仮線は始まる前に腐る。


「それも書きます」


 俺が言うと、喜助は少し笑った。


「何でも書くな、清洲は」


「書かないと忘れます」


「忘れるなら書け」


 少しだけ、喜助の腹がこちらへ寄った気がした。


 その後、川見役の具体的な札を決めた。


 喜助は、面倒そうにしながらもよく考えてくれた。


 青札――渡し可。

 黄札――待て。水位または客多し。

 赤札――渡し不可。

 黒印――濡れ危険。荷包み直し。

 白印――飲み水不可。本流使うな。

 丸印――細湧き使用可。ただし少量。


 権六がいれば「色が多い」と言っただろう。


 俺も少し思った。


 だが、川は一つの札で済まない。


 水位、客、濡れ、飲み水。


 全部違う。


「客多しで待て、も札に入れるんですね」


 かやが言うと、喜助は頷いた。


「そこが大事だ。水は渡れても、客が多けりゃ待て。客をどかして飯荷を渡すと、後で川が荒れる」


「川じゃなくて人が荒れる?」


「人が荒れりゃ、川も荒れる」


 喜助らしい言い方だった。


 次に、飯荷の扱いを試した。


 今日は実際に渡らない。


 舟へ載せる手順だけ。


 厚味噌片の包みを三つ。

 濡れ試験用の竹皮。

 水結びの紐。


 喜助が見て、すぐ指摘する。


「これは重ねすぎるな」


「なぜ」


「下の包みが湿気を吸う。上が重しになる」


 かやが包みをばらす。


「なら、平置き?」


「平置き。だが、場所を取る。だから数を絞れ」


 飯荷は大量に渡せない。


 一度に渡す数を絞る。


 回数を増やせば、渡し場を塞ぐ。


 数を増やせば、濡れる。


 川道仮線は、やはり簡単ではない。


 喜助は舟底に小さな木枠を置いた。


「これを使え」


「何ですか」


「魚籠を置く台だ。濡れた底から少し浮く」


 魚籠台。


 飯荷にも使えるかもしれない。


 ただし、魚を運ぶ客が使うものだ。


「借りるなら、客の邪魔にならない時だけだ」


 喜助が先に言った。


「はい」


「清洲用に別の台を作るなら、舟に合う大きさにしろ。大きすぎると邪魔だ」


 かやの目が輝いた。


「作れます。畳める小台にします」


「畳める?」


「板二枚を組むだけ。使わない時は外す。舟に残さない」


 喜助は少し考えた。


「それならいい。舟に勝手に据え付けるなよ」


「しません」


 渡し場の商いを壊さない小台。


 また道具が増える。


 だが、これは必要な道具だ。


 昼過ぎ、川の水が少し上がった。


 喜助がすぐ気づいた。


「ほら、草が増えた」


 川面に、細い草が流れている。


 昨日と同じ合図だ。


「今ならまだ渡れるが、飯荷は待て」


「なぜですか」


「戻りが読めない。客一人なら渡す。飯荷は濡れたら困るし、戻りの荷もある」


 青札ではなく、黄札。


 渡しそのものは可能。

 だが飯荷は待て。


 こういう判断が必要なのだ。


 川見役は、ただ「渡れる」「渡れない」を言う役ではない。


 何なら渡せるか。


 何を待たせるか。


 それを見る役だ。


 俺は小帳面に書いた。


 水位上昇初期。客可、飯荷待て。

 川見役判断必須。

 青黄赤だけでなく、荷種別も必要?


 また複雑になる。


 でも、川は複雑だ。


 清洲へ戻る前に、喜助へ正式に聞いた。


「川見役、引き受けていただけますか」


 喜助は腕を組んだ。


「条件がある」


「はい」


「一つ。俺が駄目と言ったら駄目だ」


「はい」


「二つ。客をどかすな」


「はい」


「三つ。手間は記録しろ。銭だけじゃない。客を待たせた時も記録しろ」


「はい」


「四つ。川を知らない奴が、舟の上で勝手に荷を動かすな」


「はい」


「五つ。俺を織田の犬みたいに言わせるな」


 最後が、一番重かった。


 喜助は渡し守だ。


 川の者だ。


 清洲に協力することで、渡し場の人々からそう見られる可能性がある。


「それも守ります」


 俺は言った。


「川見役は清洲の命令を聞く役ではなく、川の判断を清洲へ伝える役です。そう書きます」


 喜助は少し黙り、やがて頷いた。


「なら、仮で引き受ける」


 仮。


 今はそれで十分だ。


 川道仮線の川見役も、まずは仮でいい。


 正式にする前に、互いに腹を見る。


 清洲へ戻ると、伊三郎が報告を聞いてすぐ清書した。


 川見役、喜助。仮。

 役は命令ではなく判断。

 客をどかさない。

 川が駄目なら信長様の荷でも止める。

 青札、黄札、赤札、黒印、白印、丸印。

 客多しの場合、飯荷待て。

 魚籠台利用可。ただし客優先。清洲用折り畳み小台を検討。

 渡し場は軍の橋ではない。

 人の商いの道を借りる。


 伊三郎は最後の一文を、少し丁寧に書いた。


「重要ですね」


「はい」


 俺は答えた。


 川道先候補は、少し形が見え始めた。


 北尾根とは違う。


 鳥や薬売りではなく、水と渡し場の商いが腹だった。


 夜、清洲蔵では川道用厚味噌片の湯を飲んだ。


 昨日より少し改良されている。


 笹の香りがほんの少し移っていた。


 悪くない。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、客をどかさない味だな」


「味で分かるのか?」


「分かる。うまいけど、先に渡せって顔してない」


 意味は分からないが、少し分かる気もした。


 かやが椀を持って笑う。


「今日の飯は、舟の隅でおとなしくしてる味」


「それなら良い飯だ」


 佐助が真面目に言った。


「舟の中で暴れる味噌は困ります」


 皆が笑った。


 作兵衛は腕を組んだまま言った。


「川道は、喜助を潰したら終わるな」


「うん」


「茶屋もそうだった。村もそうだった。井戸番もそうだった。便利な人ほど潰しやすい」


 その通りだった。


 茶屋を潰すな。

 村を道具にするな。

 井戸番を一人で潰すな。

 渡し場は軍の橋ではない。


 飯線は、人を使うものではない。


 人の暮らしの上を、通らせてもらうものだ。


 そのことを忘れた瞬間、飯線は敵より先にこちらの手で腐る。


 俺は厚味噌片の湯を飲み干した。


 川道仮線は、まだ仮だ。


 だが、喜助という川を見る目が加わった。


 水が多い道ほど、飯は濡れる。


 そして、人の商いを濡らしてはいけない。


 次は、清洲用の折り畳み小台と川見札を使って、実際に飯荷を少量だけ渡す試験になる。

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