第八十三話 水が多い道ほど、飯は濡れる
北尾根仮線は、いったん保留になった。
捨てたわけではない。
鳥場。
薬売り。
弥吉。
低い松。
割れ石。
夕方の戻り足を狙う餌。
見えたものは多い。
だが、見えすぎた。
あそこへ今すぐ飯を流せば、敵の目の中へ米を運ぶことになる。
だから、北尾根は残す。
残すが、飯は流さない。
清洲蔵の板には、伊三郎の字でそう書かれた。
北尾根仮線――正式候補として残す。飯線化は保留。
保留。
その二文字は、思ったより腹に残った。
進んでいないように見える。
だが、無理に進まなかったことも、たぶん進みなのだ。
そう思わなければ、鳥場で我慢した意味がなくなる。
そして、見分は次へ移った。
川道先候補。
水が多い道だ。
北尾根で喉が先に文句を言うなら、川道は安心できる。
そう思っていた。
少なくとも、清洲蔵の何人かはそう思っていた。
権六など、朝から妙に明るかった。
「水があるなら楽だろ」
味噌片をかじりながら、そんなことを言う。
「北尾根みたいに喉が干からびない。川なら飲める。洗える。湯も沸かせる。文句が減る」
かやが荷紐を結びながら、冷たく言った。
「川の水をそのまま飲む気?」
「……駄目なのか?」
「駄目な時もある。泥が混じる。上流で何か流されてるかもしれない。そもそも渡し場で勝手に汲めるとは限らない」
「川なのに?」
「川でも、使い方がある」
権六は納得しない顔だった。
だが、俺は高畑の井戸番を思い出していた。
水は、あるだけでは使えない。
誰が使うか。
いつ使うか。
飲めるのか。
飯に使えるのか。
荷を濡らさず渡れるのか。
水が多い道には、水が多い道の腹がある。
伊三郎は、川道仮線の見分札を用意していた。
「今日の目的は、川そのものではありません」
「川道なのに?」
権六が聞く。
「はい。川を渡る前後の荷の動きを見ます。渡し場、湿気、荷崩れ、竹皮の濡れ、味噌の変化、水を使う権利、渡し守との関係」
「多いな」
「川は多いです」
伊三郎は真顔で言った。
その言い方が少しおかしくて、かやが小さく笑った。
佐助は、川道用の試作品を並べている。
高畑用の味噌片とは違う。
北尾根用の歩き飯とも違う。
川道では水がある。
だが、湿気がある。
味噌片は薄いほど湿気に弱い。
割れるより先に、柔らかくなって包みに貼りつくかもしれない。
竹皮の内側に水気が入れば、味噌がにじむ。
「川道用は、味噌片より少し厚くします」
佐助が説明した。
「高畑の味噌片より厚い。北尾根より塩は少し強め。水で溶けることを前提にします。ただ、湿気でべたつかないよう、外側を少し乾かします」
「味噌玉じゃ駄目か?」
作兵衛が聞いた。
「味噌玉も試します。ただ、渡しで揺れると潰れるかもしれません。厚味噌片と、小味噌玉の両方を試します」
厚味噌片。
小味噌玉。
また増えた。
かやが二種類の包みを見比べる。
「水結びは分かりやすいけど、包みが濡れた時にほどきにくくなるかも」
「濡れてもほどける結びが要るか」
「うん。逆に、濡れても勝手にはほどけない結び」
「矛盾してないか」
「飯の荷なんて、だいたい矛盾してるよ」
最近のかやは、妙に強い。
その通りなので、何も言えない。
川道先候補には、喜助が関わる。
川を知る男だ。
以前、水面の膜を見つけた時にも世話になった。
ただ、今回向かうのは、いつもの川辺より少し先。
渡し場を越えた向こう側に、小さな中継地として使える場所があるかを見る。
高畑のような砦ではない。
北尾根のような尾根道でもない。
川を渡った先に、飯を一時置けるか。
そこから美濃側の道へ伸ばせるか。
それを見る。
清洲を出た時、荷は思ったより多かった。
水がある道なのに、水筒も持つ。
川水をすぐ使えるとは限らないからだ。
厚味噌片。
小味噌玉。
濡れ確認用の竹皮。
縄。
油を少し塗った布。
普通の竹皮。
川道用の仮札。
太助は荷を見て、顔をしかめた。
「水の道なのに、水対策の荷が重い」
「文句として正しい」
作兵衛が言った。
「水があるから軽くなると思ったが、濡れないための荷が増えてる」
俺も同じことを思った。
水が多い道ほど、飯は濡れる。
それだけのことを、まだ歩く前から知った気がした。
川へ近づくと、空気が変わった。
北尾根の乾いた風とは違う。
湿った匂い。
泥の匂い。
草が水を吸った匂い。
遠くで水が石に当たる音。
佐助が顔を上げた。
「匂いが多いですね」
「良いのか、悪いのか」
「どちらもです。水の匂いが多いと、悪いものの匂いが紛れます」
川道では、佐助の鼻も苦労するらしい。
水の匂いは、すべてを柔らかく包む。
それが安心にもなり、隠れ蓑にもなる。
渡し場に着くと、喜助が待っていた。
痩せた男だが、目がよく動く。
川を見ている者の目だ。
「清吉。今度は川の向こうへ飯を置きたいって?」
「置けるかを見るだけです」
「見るだけって言う奴は、だいたい後で置く」
「否定しにくいです」
喜助は笑わなかった。
川を指差す。
「今日は水が高い」
「雨は降っていませんが」
「上で降ったんだろ。ここだけ見ても川は分からない」
いきなり重い言葉だった。
川は、ここだけ見ても分からない。
水は上から来る。
上流の雨、泥、倒木、人の手。
それが、ここに来る。
北尾根の水が少ないのとは違う。
川道は、見えない上流まで腹に入れなければならない。
喜助は、荷を見た。
「味噌か」
「厚味噌片と小味噌玉です」
「名前がいちいち増えるな」
「俺もそう思います」
「渡しで揺らすぞ」
「揺らさないでください」
「無理だ」
即答された。
渡しは揺れる。
それが前提だ。
揺らさない荷ではなく、揺れても崩れない荷にしなければならない。
かやが渡し舟を見た。
底は濡れている。
板の隙間に水が光っている。
人が乗れば揺れる。
荷を置く場所は限られる。
「荷を底に直置きしたくない」
かやが言った。
喜助は頷く。
「直に置いたら濡れる。吊るすか、膝に抱えるか、板を敷く」
「板は?」
「あるが、濡れてる」
濡れた板。
意味がないようで、ないよりましなのか。
佐助が竹皮の包みを一つ、渡し場の湿った空気にさらした。
「すぐ柔らかくなりますね」
「まだ濡れてないのに?」
「はい。湿気だけで外側が緩みます」
川道用の包みは、竹皮だけでは足りない。
油布は必要かもしれない。
だが、油布を使うと匂いがつく。
匂いがつけば、食べる時に嫌がられる。
それに、油布は数が限られる。
また難しい。
「まず渡ろう」
作兵衛が言った。
「見ないと分からん」
俺たちは渡し舟に乗った。
荷は少ないはずなのに、妙に緊張する。
北尾根では、足元が乾いていた。
ここでは、全部が湿っている。
水が近い。
近すぎる。
太助が小さく言った。
「落としたら終わりだな」
喜助がすぐ返した。
「落としたら拾え。流れが速い時は諦めろ」
「諦めるのか」
「人を落とすよりましだ」
川の言葉は、いつもはっきりしている。
舟が出た。
揺れる。
思ったより小さな揺れだ。
だが、荷は動く。
小味噌玉の包みが少し転がりかけ、かやがすぐ押さえた。
「丸いものは駄目」
即答だった。
佐助が悔しそうに頷く。
「小味噌玉は、舟では転がりますね」
「包みを四角にするか、やめるか」
厚味噌片のほうは、平たい分、動きにくい。
ただし、端が湿気を吸いそうだった。
渡しの途中で、喜助が川面を見た。
「今日は上流から草が流れてる。水が増える時は、先に草が来る」
「草?」
「こういう細い草だ。岸を削ってくる。午後はもう少し水が上がるかもしれん」
渡る時刻も問題だ。
朝は渡れる。
昼は危ない。
夕方は戻れないかもしれない。
川道の飯線は、時刻に縛られる。
北尾根は喉に縛られた。
川道は水位に縛られる。
向こう岸へ着くと、最初の問題がすぐ出た。
岸がぬかるんでいる。
舟から下りる時、足が沈む。
荷を持ったまま下りると、身体が傾く。
太助が踏ん張って、顔をしかめた。
「ここで荷が揺れる」
作兵衛が頷く。
「渡しそのものより、下りる時が危ないな」
かやも言う。
「荷を先に渡して、手渡しする必要がある。人が降りてから荷を受ける。背負ったまま下りるのは危ない」
川道では、荷の受け渡しが増える。
受け渡しが増えれば、数が乱れる。
誰が受けたか、どこに置いたか、濡れたかどうか。
全部見なければならない。
伊三郎がいたら悲鳴を上げただろう。
いや、たぶん喜んで帳面を作る。
向こう岸の少し上に、平たい場所があった。
草が低い。
水から少し離れている。
荷を一時置くにはよさそうに見える。
だが、喜助は首を振った。
「そこは駄目だ」
「なぜ」
「増水すると水が来る。今は乾いて見えるだけだ」
乾いて見えるだけ。
怖い言葉だった。
北尾根では、水がないのに草が湿った。
川道では、乾いて見える場所が水に沈む。
水は、今の姿を信用してはいけない。
「どこなら?」
作兵衛が聞く。
喜助は少し上の段を指した。
「あそこなら水は来にくい。ただ、上るのが面倒だ」
上の段。
少し高い。
荷を持って上がるには、足場が悪い。
だが、増水には強い。
また選択だ。
楽な場所は水に弱い。
安全な場所は荷がつらい。
飯線は、いつもこうだ。
俺たちは上の段へ向かった。
ぬかるみから草地へ、さらに土の段を上がる。
太助がすぐ言った。
「ここで滑る」
「どこだ」
「段の手前。足を置く場所が削れてる」
作兵衛が見た。
「荷を持つなら縄がいる。手をかける場所も」
かやが短縄を出す。
「仮に張ってみる」
縄を張ると、上りやすくなった。
ただし、縄を残すかどうかは別問題だ。
残せば、こちらが使う場所だと分かる。
毎回持ち込んで張るなら、手間が増える。
川道先候補の荷置き場は、上段なら使える。
しかし、縄が要る。
水位の確認も要る。
渡しの時刻も要る。
俺は小帳面に書く。
向こう岸下段、乾いて見えるが増水で沈む。不可。
上段、荷置き可。上り滑る。短縄必要。
縄残し不可。都度張り検討。
渡し後、荷先渡し。背負ったまま下船危険。
佐助が荷を開いた。
厚味噌片の包みは、外側が少し湿っている。
中身は無事。
小味噌玉は、転がったせいで一つ潰れかけていた。
「小味噌玉は舟に弱いです」
佐助は悔しそうに言った。
「味は?」
俺が聞くと、彼は潰れかけたものを湯なしで少し舐めた。
「味は良いです。でも運びにくい」
「味が良くても、道に負けるなら駄目か」
「はい」
佐助は苦い顔だった。
職人としては味の良いものを使いたいのだろう。
だが、飯線では味だけでは決まらない。
道に勝てない飯は、道で壊れる。
川道用は、厚味噌片が有利。
ただし、湿気対策が必要。
水はある。
喜助が川から少し離れた浅い流れを示した。
「飲むなら、ここじゃなく、あっちの細い湧きだ。川の本流はやめろ」
「湧きがあるのか」
「少しだけな。渡し場の者は知ってる」
案内された場所には、土の間から細く水が出ていた。
水量は少ない。
だが、澄んでいる。
佐助が匂いを見る。
「飲めそうです。ただ、量は少ない」
水はある。
だが、多くはない。
川があるのに、飲める水は少ない。
これも腹に落ちた。
川道だから水に困らない、というのは間違いだった。
川は渡る水。
湧きは飲む水。
飯に使える水は、また別に見る必要がある。
小帳面に書く。
本流、飲み水不可寄り。
細湧き、飲用可。量少。
湧き場、渡し守の知識。勝手使用不可。
喜助がこちらを見た。
「書いてるか」
「はい」
「なら書いとけ。川の水は多いが、飲める水は少ない」
「そのまま書きます」
「そのままでいい」
喜助は満足そうに頷いた。
その後、上段の荷置き場で、試しに厚味噌片を湯に溶いた。
湯は、持ち込み水で作った。
川道なのに持ち込み水。
少しおかしい気もするが、最初はそれでいい。
厚味噌片は、北尾根用よりよく溶けた。
味も近い。
権六がいれば、峠ではなく茶屋に入ったと言ったかもしれない。
太助が飲んで言った。
「これはうまい」
佐助の顔が明るくなる。
だが、太助は続けた。
「でも、渡すまでが面倒」
佐助の顔が少し曇る。
作兵衛が笑った。
「両方正しい」
うまい。
だが面倒。
川道用の飯は、その両方を抱えている。
北尾根用は味を近づけるのに苦労した。
川道用は味は出しやすい。
だが、濡れる。揺れる。滑る。渡る。
それが難しい。
昼を過ぎる前に戻ることにした。
喜助が水位を気にしていたからだ。
「午後までいると、帰りが面倒になる」
「そんなに変わりますか」
「変わる日もある。今日は草が流れてる。早めに戻れ」
川では、早めに戻ることも見分だ。
渡し舟に戻る時、上段から下りるのにまた縄を使った。
下りのほうが怖い。
荷を先に下ろし、人が後から下りる。
渡し舟へ乗せる時、厚味噌片の一包みが濡れた板へ触れた。
かやがすぐ気づき、別布へ移す。
「一瞬で湿る」
「中は?」
佐助が確認する。
「まだ大丈夫です。でも、これを繰り返すと危ない」
濡れた板に触れる一瞬。
それだけでも記録になる。
川道では、荷の置き場が一瞬でも重要だ。
清洲へ戻る途中、喜助が言った。
「川道を使うなら、渡し守をただの舟扱いするな」
「どういう意味ですか」
「水位、流れ、渡る順、荷の置き方。渡し守が見ないと危ない。清洲が勝手に帳面で決めても、川は帳面を読まん」
川は帳面を読まん。
伊三郎に聞かせたいような、聞かせたくないような言葉だ。
「伝えます」
「伝えろ。俺が言ったと」
「はい」
茶屋ではなく、川辺で水を少し買った。
正確には、喜助の持っていた飲み水を分けてもらった形だ。
それも記録する。
川道では、喜助への負担も増える。
渡しの時間を乱す。
普通の客を待たせる。
荷を優先させる。
水を使う。
それを当たり前にしてはいけない。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が待っていた。
小帳面を渡す前から、彼は筆を構えている。
「川はどうでしたか」
「水が多くて、水に困りました」
伊三郎は一瞬止まった。
「詳しくお願いします」
報告する。
渡し舟は揺れる。
小味噌玉は転がり、潰れやすい。
厚味噌片は有望だが湿気対策が必要。
渡し舟の底板は濡れている。荷の直置き不可。
背負ったまま下船は危険。荷を先渡し。
向こう岸下段は乾いて見えるが増水で沈む。
上段は荷置き可、ただし縄が必要。
川本流は飲み水に向かない。細湧きは使えるが少量。
水位は上流次第。草が流れる日は早戻り。
渡し守の判断が必須。
川は帳面を読まない。
最後の言葉を聞いて、伊三郎は少し眉を動かした。
「喜助殿が?」
「はい」
「……正しいです」
怒るかと思ったが、伊三郎は真面目に頷いた。
「帳面は川を止められません。ですが、川を見る人の言葉を残すことはできます」
伊三郎らしい返しだった。
かやは、すぐに川道用の荷棚を見直した。
「川道仮線は、濡れ棚が必要。乾いた荷と濡れた可能性のある荷を分ける。戻った包みは高畑棚にも北尾根棚にも絶対戻さない」
「濡れ戻り棚か」
「うん。濡れたかもしれないものを一時置く場所」
また棚が増える。
佐助は厚味噌片を確認しながら言った。
「川道用は、小味噌玉を一度外します。厚味噌片を改良します。包みの外側は二重。中は油布ではなく、乾いた笹を薄く入れて水気を逃がす方法を試します」
「笹?」
「匂いが移るかもしれません。でも油布よりは食べ物に近いです」
作兵衛は人足へ向けて言った。
「川道は、荷を背負うだけじゃない。渡す、受ける、待つ、足場を作る。背の力より、手順が大事になる」
太助が疲れた顔で頷く。
「北尾根は喉が先に文句を言う。川道は足元が先に悪口を言う」
伊三郎は、また書いた。
川道、足元が先に悪口を言う。
太助は諦めたように天井を見た。
「もう好きに書いてくれ」
夜、清洲蔵では川道用の厚味噌片を使った湯を飲んだ。
味は良い。
北尾根の歩き飯より、ずっと飯らしい。
権六がすすって、少し悔しそうに言った。
「うまいじゃねえか」
「今日は文句なしか」
「ある。うまいのに運びにくい。腹立つ」
なるほど。
それは確かに川道の文句だ。
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、濡れないように必死な味だね」
「水が多いのに」
「水が多いから」
俺は頷いた。
北尾根には、水の匂いがなかった。
川道には、水の匂いがありすぎた。
どちらも、飯を難しくする。
水がなければ喉が文句を言う。
水が多ければ荷が濡れる。
飯線に楽な道はない。
ただ、違う面倒があるだけだ。
川道先候補は、まだ仮線だ。
しかし、北尾根とは違う可能性がある。
味は作れる。
水も、使えるものを見つければある。
問題は、渡し、湿気、荷崩れ、喜助の判断。
川は帳面を読まない。
なら、川を読む者の腹を見なければならない。
次は、喜助と渡し場をどう飯線に組み込むか。
それが川道仮線の最初の宿題になった。




