第八十二話 古い榎の下で、薬売りは鳥の話をした
三日というのは、長い。
米を炊くには長すぎる。
味噌片を乾かすには短すぎる。
人の腹を落ち着けるには、ちょうど嫌な長さだった。
弥吉が薬売り風の男と、古い榎で会う。
そう分かってから、清洲蔵の空気はずっと少し硬かった。
弥吉を捕まえるのは簡単ではないが、できないことではない。
薬売りを待ち伏せることも、できる。
だが、それをすれば糸が切れる。
薬売りの後ろに誰がいるのか。
鳥場の餌を誰が考えたのか。
北尾根のどこまで敵に見られているのか。
弥吉の母の薬代に、どんな形で入り込まれたのか。
そこまで見えないまま、目の前の男だけ捕まえても、また別の腹へ入られる。
だから、泳がせる。
弥吉を守りながら。
それが、この三日間の決まりだった。
清洲蔵では、弥吉の母のために医者へ話が通された。
弥助殿が手配した医者は、薬売りから渡された薬を少し見ただけで、顔をしかめたという。
「毒ではないが、効く薬とも言い難い」
弥助殿からその報告を聞いた時、俺は腹の奥が冷えた。
弥吉は、母のために銭を受け取った。
鳥場に餌を撒いた。
その代わりに得た薬は、本当に効くかも分からないものだった。
敵は、銭だけではなく、希望にも値をつける。
それが嫌だった。
「清吉、顔」
かやが、味噌片の棚を直しながら言った。
「焦げてるか」
「焦げてるというより、苦く煮詰まってる」
「それは嫌だな」
「嫌なら、煮詰めすぎないで」
無茶を言う。
だが、かやの言いたいことは分かった。
怒りだけで動けば、弥吉も、茶屋も、炭焼き場も巻き込む。
ここで一番してはいけないのは、薬売りへの怒りを、弥吉へ向けることだった。
伊三郎は、古い榎周辺の簡単な見取り図を作っていた。
茶屋から北へ少し行った場所。
道の脇に、大きな榎。
その裏に細い山道。
少し離れたところに、枯れた用水跡。
さらに奥へ行けば北尾根へつながる。
薬売りとの待ち合わせに使うには、ちょうどよすぎる場所だった。
茶屋から近すぎず、遠すぎず。
人通りはあるが、多くはない。
山へ入る者も通る。
「見張りを置きすぎると目立ちます」
伊三郎が言った。
「置かなすぎると見失う」
作兵衛が腕を組む。
「弥吉はどうする」
「茶屋から普通に出る。餌袋は持つ。でも中身は、佐助が見たものと同じに似せた別の袋にする」
佐助が頷いた。
「本物の餌袋は茶屋で封をしています。今日持たせるものは、見た目だけ近いものです。鳥が食べても強く寄りすぎないよう、甘い匂いは抜いてあります」
「薬売りに見抜かれないか」
権六が聞く。
佐助は少し考えてから言った。
「袋を開けて匂いまで見られたら、分かるかもしれません。でも、弥吉さんが『まだ残っている』と見せる程度なら」
かやが口を挟んだ。
「弥吉さんに嘘を言わせすぎないほうがいい。顔に出る」
それもそうだ。
弥吉は悪人ではない。
だから、嘘が得意とも思えない。
弥吉には、必要以上の芝居をさせない。
薬売りに聞かれたら、決めたことだけ答える。
鳥は来ている。
餌は撒いた。
でも、清洲の者が北尾根を見に来たかは分からない。
母の薬がもっと欲しい。
それだけ。
捕まえようとしない。
詰め寄らない。
問いたださない。
弥吉の役は、薬売りを安心させて喋らせることではない。
薬売りが何を言うか、こちらが見る時間を作ることだ。
弥助殿は、最後に短く言った。
「弥吉を矢面に立たせすぎるな」
「はい」
「弥吉が怯えたら、薬売りは逃げる。弥吉が怒ったら、薬売りも逃げる。弥吉が泣いても逃げる」
「難しいですね」
「だから、おまえが行く」
俺か。
最近、そういう言い方が増えた気がする。
飯炊きなのに。
ただ、もう自分でも分かっている。
これは飯の話だ。
鳥に餌を撒かせたのも、弥吉の母の薬代も、北尾根の水のなさも、全部つながっている。
飯線の腹を見る仕事だ。
古い榎へ向かったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
薬売りが夕方前に来るという話だったので、早すぎても遅すぎてもいけない。
茶屋へ着くと、女将は普段通りに客へ茶を出していた。
普段通りに見える。
だが、店の奥には弥吉がいた。
顔色は悪い。
手元の湯呑みを、何度も持ち替えている。
「大丈夫ですか」
俺が声をかけると、弥吉は苦笑した。
「大丈夫に見えますか」
「見えません」
「正直ですね」
「嘘を言っても仕方ないので」
弥吉は少しだけ息を吐いた。
「母は、少し寝られました。医者の薬、効いてるみたいです」
「それはよかった」
本当にそう思った。
この件の中で、初めて少し温かい話だった。
弥吉は湯呑みを見つめたまま言った。
「俺、あの薬売りを信じてました。母に薬をくれるって言われて、鳥の餌くらいならって」
「分かります」
「分からないでしょ。清洲の人には」
弥吉の声には棘があった。
当然だ。
俺は清洲蔵にいる。
米も味噌もある。
医者へ話を通すこともできた。
弥吉には、それがなかった。
「全部は分かりません」
俺は言った。
「でも、薬代が腹に来ることは分かります。銭が足りない腹に、敵が入ることも見てきました」
弥吉は黙った。
女将が横から言った。
「弥吉。今日は、清洲の言う通りにしな。あんたを売る気なら、もう縄をかけてるよ」
「おかみさんは、清洲の味方なんですか」
「茶屋の味方だよ。道が荒れたら、うちは困る。あんたが山で変なことに使われても困る」
弥吉は俯いた。
茶屋の女将の言葉は、時々、槍より刺さる。
古い榎へ向かう前に、確認した。
弥吉は餌袋を持つ。
俺たちは直接隣には立たない。
小平と護衛は、榎の裏手の枯れた用水跡へ。
作兵衛は山道側。
かやは茶屋近くで、戻りの道を見る。
佐助は茶屋に残り、預かった餌袋と薬袋の匂いを比べる。
太助は、茶屋から少し離れたところで通行人のふりをする。
権六は、やはり清洲に残った。
本人は最後まで不満だったが、女将に「声が大きい人は今日は駄目だね」と言われて黙った。
古い榎は、思ったより大きかった。
根が地面を押し上げ、太い幹が道の脇に立っている。
枝は低く張り出し、葉が影を作っていた。
待ち合わせには向いている。
影がある。
道が見える。
山へ逃げる小道もある。
薬売り風の男が、そこを選んだ理由が分かる。
弥吉は榎の下に立った。
俺は少し離れたところで、旅人のふりをして腰を下ろす。
手元には小さな包み。
中は歩き飯ではなく、普通の握り飯だ。
見た目だけのためだ。
昼下がりの道は、静かだった。
虫の声。
遠くの鳥。
茶屋のほうから聞こえる湯の音。
待つ。
また待つ。
北尾根の低い藪で待った時とは違うが、腹の焦れ方は似ている。
見たい。
早く来てほしい。
いや、来てほしくない。
そんな腹が交互に動く。
しばらくして、男が来た。
薬売り風。
まさに女将が言った通りだった。
粗末ではないが目立たない旅装。
腰に小箱。
手には杖。
顔は柔らかい。
柔らかすぎる。
道で困った者に声をかけるのがうまそうな顔だった。
「弥吉さん」
男は穏やかに呼んだ。
「待たせましたか」
「いえ」
弥吉の声は少し硬い。
俺は息を潜めた。
薬売りは周囲を軽く見た。
茶屋の方。
山道。
榎の裏。
目が柔らかいのに、見る場所が鋭い。
ただの薬売りではない。
「餌は撒いてくれましたか」
「はい」
「鳥は?」
「来ています」
「飛びましたか」
来た。
鳥が来たか、ではない。
飛んだか。
薬売りは鳥が飛ぶことを気にしている。
弥吉は、決めた通り答えた。
「遠くから見ただけです。飛んだかは分かりません」
薬売りの目が、一瞬だけ細くなった。
「見なかったのですか」
「母の具合が悪くて、急いで戻ったので」
嘘ではない。
母の具合が悪いのは本当だ。
薬売りは少し考え、それから笑った。
「親孝行ですね。ですが、鳥の様子は見てください。飛ぶかどうかが大事なのです」
「なぜですか」
弥吉が聞いた。
少し声が震えていた。
薬売りは、まるで子どもに教えるように言った。
「山鳥は、人が通る場所を教えてくれます。どの道を獣が使うか、どの尾根に人が入るか。薬草を探す者には大事なのですよ」
薬草。
うまい言い方だ。
山に薬草を探す者なら、鳥の動きを見る。
何も知らない弥吉なら、信じてもおかしくない。
「薬は」
弥吉が言った。
「母の薬は、ありますか」
「ありますとも」
薬売りは小箱を開けかけた。
その時、ふと手を止めた。
「ただ、その前にもう少し手伝ってほしい」
弥吉の肩が強張る。
「まだ何か」
「餌の場所を少し変えましょう。低い松のそばは、人が警戒し始めています」
俺は、思わず息を止めた。
低い松。
敵は低い松を知っている。
昨日、俺たちが目印候補にした場所。
いや、敵の物見座り場からも見えていた。
低い松をこちらが使う可能性も、もう読まれている。
薬売りは続けた。
「次からは、割れた石の手前に少し撒いてください。鳥が少し手前で動けば、尾根へ入る者の足も早く分かります」
割れ石。
そこまで把握されている。
俺の腹が冷たくなった。
低い松だけではない。
割れ石も見られている。
北尾根仮線の目印候補は、敵にすでに読まれている。
弥吉は、少し息を呑んだ。
「割れた石って、あの入口の?」
「そうです。あなたなら分かるでしょう。炭焼き場へ行く時にも見える」
「でも、あそこに撒いたら、茶屋から来る人にも見えませんか」
「だから少量でいい。鳥が気づけば十分です」
薬売りは穏やかに言う。
穏やかな声で、北尾根の喉元に餌を置かせようとしている。
「それと」
薬売りは小袋を出した。
「これは新しい餌です。前よりよく鳥が集まります。夕方前に撒いてください。朝よりも夕方です。人が戻る時に飛べば、もっと分かりやすい」
戻る時。
行きではなく、戻り。
敵は戻る足も見ようとしている。
高畑で学んだ戻り包みの重さが、頭をよぎった。
敵も、戻る時が弱いと知っている。
弥吉の手が震えた。
「母の薬は」
薬売りは笑った。
「もちろん。これを三日続けてくれれば、薬も続けて渡します」
薬を餌にしている。
鳥の餌と、母の薬。
同じ手の上に乗せている。
俺は立ち上がりそうになった。
その瞬間、枯れた用水跡の方で、小さく木片が鳴った。
小平からの合図だ。
動くな。
俺は腹を押さえるように、膝の上の手を握った。
まだだ。
捕まえるな。
追うな。
見たものだけ持ち帰れ。
弥助殿の言葉を、必死で腹に落とす。
弥吉は小袋を受け取った。
薬売りは、別の包みを出した。
「こちらが薬です。煎じて飲ませるといい」
弥吉は包みを握りしめた。
薬売りは最後に、低い声で言った。
「清洲の者には話さないほうがいいですよ。彼らは、山の事情を分かりません。あなたが鳥に餌をやっただけでも、敵と決めつけるかもしれない」
腹が煮えた。
だが、弥吉は以前なら揺れていたかもしれないその言葉を、今日は聞き流した。
「……はい」
小さく答えるだけだった。
薬売りは満足したのか、北の山道へは行かず、茶屋とは反対の道へ歩き出した。
小平たちは追わない。
ただ、逃げた方向を見る。
薬売りが完全に消えてから、弥吉はその場にしゃがみ込んだ。
俺はようやく立ち上がった。
「よく耐えました」
弥吉は顔を上げない。
「俺、馬鹿だった」
「馬鹿ではありません」
「馬鹿だろ。あいつ、全部分かってて……俺は鳥に餌をやってるだけだと思って」
「だから、今日止められました」
弥吉は薬の包みを見た。
「これも、効かない薬ですか」
「佐助に見てもらいます。医者にも」
「母に渡せないのか」
「今は渡さないほうがいい」
弥吉は唇を噛んだ。
悔しいだろう。
母のために受け取った薬を、すぐ使えない。
だが、危ない薬かもしれない。
茶屋へ戻ると、女将は何も言わずに湯を出した。
佐助が餌袋と薬包を確認する。
餌袋は、前より甘い匂いが強かった。
「鳥を集める力を強くしていると思います」
佐助は眉を寄せた。
「薬は?」
「匂いだけでは分かりません。ただ、前の薬とは少し違います。医者に見せるべきです」
女将が低く言った。
「弥吉、今日は山へ戻るんじゃないよ。うちで少し休みな」
「でも、親方が」
「私から話す。清洲の人が押しかけたんじゃない。あんたが倒れそうだから茶屋で休ませた。それでいい」
茶屋の女将は、やはり強い。
俺は頭を下げた。
「また負担をかけます」
「もうかかってるって言っただろ」
「はい」
「でも、ここで弥吉を山へ戻したら、顔で全部ばれる。そうなるほうが面倒だよ」
もっともだった。
清洲へ戻る道で、作兵衛が言った。
「低い松と割れ石、両方読まれてたな」
「はい」
「北尾根は、もう一度考え直しだ」
俺は頷いた。
正式候補として残す。
だが、今の目印は使えない。
低い松も割れ石も、敵に見られている。
鳥場は入口へ近づいてきた。
さらに夕方、戻りの時を狙うようになった。
北尾根仮線は、思った以上に敵の目の中にある。
清洲蔵へ戻ると、弥助殿が待っていた。
報告を聞き終えると、目が鋭くなった。
「捕まえなかったな」
「はい」
「よし。薬売りは泳がせる価値がある。低い松、割れ石まで知っているなら、後ろに道を見ている者がいる」
「北尾根はどうしますか」
俺が聞くと、弥助殿はすぐ答えなかった。
代わりに、こちらを見た。
「おまえはどう見る」
またそれだ。
俺は少し考えた。
「北尾根仮線は、正式化をさらに遅らせるべきです」
伊三郎が筆を構える。
「ただし、捨てません。敵が入口まで見張りを寄せてきたということは、北尾根を相当気にしています。ですが、今の目印は全部危ない。低い松、割れ石は使えません。鳥場も入口へ移されます。まず、鳥場を無力にするのではなく、敵がどこまで北尾根を見ているかを調べる必要があります」
「飯は」
「まだ流せません。歩き飯の改良は続けますが、北尾根へ実運用はしません。見分用の小荷のみ」
弥助殿は頷いた。
「よい」
伊三郎が清書する。
薬売り発言。
低い松、割れ石を把握。
新餌、夕方前、戻り足狙い。
弥吉、敵意なしの可能性高い。薬代を利用。
薬売りは泳がせる。
北尾根仮線、正式化延期。
候補として残すが飯は流さない。
目印再設計必要。
鳥場問題は入口へ拡大。
権六が報告を聞き、珍しく黙っていた。
しばらくして言った。
「薬で腹を握るのは、嫌だな」
「本当に」
俺は答えた。
夜、清洲蔵では温かい粥を食べた。
弥吉の母のために作った粥に近い、柔らかいものだ。
佐助が少し薬草の香りのある菜を入れた。
医者が使うようなものではない。
ただ、腹に優しい香りだった。
権六がすすって言った。
「今日の飯は、怒りを焦がさない味だな」
「怒ってるのか」
「怒ってる。でも、焦がしたら弥吉まで焦げる」
権六にしては、本当に分かっている言葉だった。
かやが椀を持って言った。
「北尾根、どんどん遠くなるね」
「遠くなった。でも、見えたものは増えた」
佐助が静かに言った。
「敵は、鳥の飯も人の薬も使います。こちらは、食べるものをちゃんと見ないと」
作兵衛が頷く。
「飯線は、道だけじゃない。人の弱いところを全部通るんだな」
俺は粥をすすった。
温かい。
今日、古い榎の下で、薬売りは鳥の話をした。
だが、本当に使っていたのは鳥ではない。
弥吉の母の病。
薬代。
山の若者の不安。
清洲への不信。
その全部を使って、北尾根の目を作ろうとしていた。
北尾根仮線は、まだ正式化できない。
だが、捨てもしない。
敵がそこまで嫌がるなら、そこには意味がある。
ただし、飯を流す前に、人の腹を守らなければならない。
古い榎の下で、俺たちはそれを見た。




