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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第八十一話 炭焼きの煙は、腹の奥まで黒くしない

 鳥に飯をやる者がいた。


 北尾根の鳥場へ、穀らしきものを撒いていた若い男。


 茶屋の女将によれば、北の炭焼き場へ出入りしている若者らしい。


 ただ、それだけで敵とは決められない。


 敵なら捕まえればいい。

 敵に雇われたなら、誰に雇われたかを吐かせればいい。

 知らずに使われているなら、鳥場の意味を分からせなければならない。


 だが、どれなのか分からないまま炭焼き場へ踏み込めば、山の者の腹が荒れる。


 炭焼きは、山を知る。


 山道を知る。

 水の少ない場所を知る。

 炭を運ぶ背の重さを知る。

 誰がどの尾根を通るかも、おそらく俺たちよりずっと知っている。


 そこを敵に回せば、北尾根仮線どころではない。


 飯線は通る前に折れる。


「つまり、今日は炭焼き場へ行かない」


 清洲蔵の朝、俺がそう言うと、権六が眉をひそめた。


「行かないのか」


「行かない」


「鳥に飯をやってた奴がいるのに?」


「だからこそ、いきなり行かない」


 権六は納得していない顔だった。


 ただ、最近は納得していない顔のまま黙ってくれることが増えた。


 成長なのか、諦めなのかは分からない。


 伊三郎が帳面を開いた。


「茶屋経由で山の事情を探る、ですね」


「はい。女将が炭焼きの者を知っているなら、まず茶屋で話を聞きます。炭焼き場には踏み込まない。若者の名前、最近の様子、銭に困っているか、誰と会っているか」


「茶屋に負担をかけすぎないよう注意が必要です」


「分かっています」


 茶屋は城ではない。


 何度も言われて、ようやく腹に染みてきた。


 茶屋は道の途中にある。


 商いをしている。

 客が来る。

 湯を沸かす。

 旅人の話を聞く。

 道の気配を知る。


 だから便利だ。


 だが、便利だからといって連絡所や見張り場にしすぎれば、茶屋が潰れる。


 茶屋が潰れれば、道の腹が一つ消える。


 かやが、小さな荷を用意した。


「今日は見分荷じゃなくて、茶屋へ持っていく礼の品」


「礼?」


「茶屋に話を聞くなら、ただ聞くだけは駄目でしょ。味噌片じゃ固いから、普通の握り飯と干し菜少し。あと、清洲の味噌を小壺で」


「賄賂みたいにならないか」


「ならないように、茶代として渡す。情報の買い取りじゃなく、迷惑をかけてる分」


 かやはこういうところが細かい。


 いや、正しい。


 銭や物を渡す時の形を間違えると、また別の腹が揺れる。


 茶屋の女将に「清洲へ情報を売っている」と見られれば、茶屋の立場が悪くなるかもしれない。


 礼は礼。


 口止めでも、買収でもない。


 伊三郎が言った。


「茶屋礼分、記録します」


「そこまで?」


「はい。後から疑われないように」


 疑いが晴れたことも記録する。


 高畑で学んだことだ。


 佐助は、今日は味噌片を持たなかった。


 代わりに、小さな布袋を持っている。


「何だそれ」


「炭の匂いを見るためです。鳥場で撒かれた穀に炭の匂いが混じっていれば、炭焼き場から来た可能性が高いです。ただ、直接は比べられないので、茶屋に残っている炭の匂いを見ます」


「茶屋の炭か」


「茶屋は炭を買うはずです。どこの炭か分かれば、炭焼き場の筋も見えるかもしれません」


 飯線なのに、今度は炭の匂いだ。


 火も飯の一部。


 炭も火の一部。


 そう考えれば、まったく外れてはいない。


 作兵衛は人足を連れていかないと言った。


「今日は荷を運ぶ日じゃねえ。人足をぞろぞろ連れていくと、茶屋も山の者も構える」


「太助は?」


「連れていく」


「人足じゃないのか」


「連絡足としてだ。あいつは茶屋の空気を見られる。文句も出る」


 太助は、少し離れたところで微妙な顔をしていた。


「俺、どんどん変な役になってないか」


「役に立ってる」


 俺が言うと、太助は苦笑した。


「それが一番怖いんだよなあ」


 今日の一行は少ない。


 俺、かや、佐助、作兵衛、太助、小平。


 護衛は目立たないよう二人。


 権六は清洲蔵に残る。


「俺は?」


 権六が不満そうに言った。


「声が大きい」


「ひどくないか」


「今日は茶屋で話を聞く日だ。文句を大声で拾う日じゃない」


「小声の文句も拾えるぞ」


「拾いすぎる」


 権六は最後まで不満そうだったが、弥助殿に「残れ」と言われて黙った。


 茶屋へ向かう道は、いつもの道だ。


 高畑へ行く時も、北尾根へ折れる時も通る。


 慣れた道のはずなのに、今日は少し違って見えた。


 茶屋が目的地だからだ。


 いつもは通過点。


 今日は、そこが腹になる。


 茶屋の女将は、店先で火鉢の灰をならしていた。


 俺たちを見ると、すぐに北の山へ目をやった。


「今日は山へ行かない顔だね」


「分かりますか」


「足が急いでない」


 恐ろしい。


 俺たちは茶屋の脇に腰を下ろした。


 かやが礼の小壺と握り飯を出す。


「いつも道のことでお世話になっているので」


 女将はすぐには受け取らなかった。


「情報料かい」


「違います。茶代と、迷惑をかけている分です。話せないことは話さなくていいです」


 女将は、かやをしばらく見てから、小壺を受け取った。


「なら、もらうよ。変に銭だけ渡されるよりいい」


 やはり、形は大事だ。


 俺は頭を下げた。


「北の炭焼き場へ出入りしている若い男について聞きたいです」


「鳥に餌をやってたかもしれない子だね」


「はい。ただ、敵と決めたくありません」


「決めてから来るなら、私は話さなかったよ」


 女将は、火鉢の灰をならす手を止めた。


「あの子は、弥吉っていう。炭焼きの親方の甥だ。腕は悪くないけど、まだ若い。山の仕事より、町へ出る話のほうが好きな子だね」


「銭に困っていますか」


「困ってない若い者なんているかい」


 女将は少し笑った。


「ただ、最近は特に困ってる様子だった。母親が具合を悪くして、薬代が要るとか聞いたよ」


 薬代。


 銭の穴だ。


 誰かがそこへ入った可能性がある。


 作兵衛が低く聞いた。


「誰かと会っていたか」


「茶屋でかい?」


「はい」


「二度、知らない男と話していた。侍ではない。商人にも見えない。旅の薬売りみたいな格好だったね」


 薬売り。


 母親の薬代。


 嫌なつながりだ。


 佐助が顔を上げる。


「薬売りは、本当に薬を持っていましたか」


「小箱を持っていたよ。中身までは知らない。弥吉に何か小袋を渡していた」


「小袋」


 鳥の餌か。

 薬か。

 銭か。


 女将は続けた。


「その後から、弥吉は茶を飲まなくなった。急いで北へ行って、急いで戻るようになった」


「鳥場へ餌を置くよう頼まれた可能性がありますね」


 俺が言うと、女将は頷きも否定もしなかった。


「あの子が、それが何のためか分かってるかは怪しいよ」


「どういうことですか」


「鳥寄せの餌だと言われたら、山の者は不思議に思わない。鳥を捕る者もいる。獣を避けるために餌を撒くと言う者もいる。山には、そういう理屈がいくつもある」


 知らずに利用されている可能性。


 腹が少し重くなる。


 敵と決めて捕まえるのは簡単だ。


 だが、薬代に困り、薬売り風の男から小袋を渡され、鳥寄せのためだと言われていたなら。


 弥吉は、敵の目になっている自覚がないかもしれない。


「炭焼きの親方は?」


 かやが聞いた。


「堅い人だよ。山の決まりにはうるさい。清洲の兵がいきなり入ったら、怒るだろうね」


「話を通すなら?」


「弥吉を責める形ではなく、茶屋で偶然会う形がいい。親方に先に言うより、弥吉の腹を見たほうがいい」


 茶屋の女将は、もうほとんど軍議に参加しているようなものだった。


 ただし、彼女は茶屋の者として言っている。


 山の者の腹を荒らさず、清洲の顔も潰さない形。


 それが茶屋の見方なのだろう。


「弥吉は今日も来ますか」


 俺が聞くと、女将は北の道を見た。


「来ると思う。餌を置くなら夕方前かもしれない。朝はもう通った」


「ここで待っても?」


「客としてならね」


「もちろんです」


 茶屋で待つ。


 また待つ見分だ。


 太助が小さくため息をついた。


「待つ仕事、増えてないか」


「増えてるな」


「荷運びのほうが分かりやすい」


「分かる」


 茶屋の客として、俺たちは茶を頼んだ。


 銭を払う。


 席を塞ぎすぎないよう、端に座る。


 護衛は少し離れて、旅人のように見せる。


 かやは女将の手伝いをしようとして止められた。


「客は客らしくしてな。手伝われると目立つ」


「すみません」


「気持ちはもらっとく」


 待つ間、佐助は茶屋で使っている炭の匂いを見た。


 女将が炭を一つ持ってくる。


「これは北の炭焼きのだよ。弥吉のところ」


 佐助は慎重に匂いを見る。


「鳥場の匂いと近いです。穀の匂いに、この炭の煙が少し混じっていました」


「つまり、弥吉が持っていた可能性が高い?」


 かやが聞く。


「はい。ただ、炭焼き場の者なら誰でも同じ匂いになります」


 決めつけない。


 でも、線は太くなる。


 昼を過ぎた頃、弥吉は来た。


 茶屋の前を、早足で通ろうとした。


 背負い籠。

 腰に小袋。

 顔は若い。

 目元に疲れがある。


 女将が声をかけた。


「弥吉、今日は茶も飲まないのかい」


 弥吉は足を止めた。


 一瞬、俺たちを見た。


 清洲の者だと気づいたのか、少し身体が固くなる。


「急いでるんで」


「この前からずっと急いでるじゃないか。母御の具合は?」


 その言葉で、弥吉の顔が変わった。


「……あまり」


「薬は効いたのかい」


 弥吉は答えなかった。


 俺は立ち上がらず、座ったまま言った。


「薬売りから薬を買ったのですか」


 弥吉の目が鋭くなる。


「誰です」


「清洲蔵の清吉です」


「俺、何も悪いことしてません」


 早い。


 その言葉が早すぎた。


 悪いことをしていない者もそう言う。


 悪いことをした自覚がない者もそう言う。


 そして、少しだけ自覚がある者も。


「悪いことをしたと決めに来たわけではありません」


 俺は言った。


「北尾根の鳥場に、何か撒いていますか」


 弥吉の顔が強張った。


 手が、腰の小袋へ少し動く。


 小平が目だけで見た。


 だが、誰も動かない。


 捕まえない。


 追わない。


 ここは茶屋だ。


 弥吉はしばらく黙り、それから低く言った。


「鳥寄せの餌です」


「誰に頼まれましたか」


「薬売りの人に。山鳥の動きを見たいって。餌を撒くだけで銭になるって」


「何のために山鳥を見ると?」


「知らない。俺は、母に薬が要るんです」


 声が少し荒れた。


 茶屋の女将は何も言わない。


 かやも、佐助も黙っている。


 俺はゆっくり聞いた。


「その餌を撒くと、鳥が飛びます」


「飛びますよ、そりゃ」


「鳥が飛ぶと、尾根に人が入った合図になります」


 弥吉は、最初意味が分からない顔をした。


 次に、目が揺れた。


「……そんな」


「鳥場の近くに、人が座った跡もあります。鳥が飛ぶのを見る場所です」


「俺は、そんなの知らない」


 声が掠れた。


 嘘かもしれない。


 だが、俺には本当に知らなかったように見えた。


「小袋を見せてもらえますか」


 弥吉はためらった。


「捕まえますか」


「今は捕まえません。中身を見たいだけです」


「信じられるかよ」


 当然だ。


 信じろと言うほうが無理だ。


 その時、茶屋の女将が言った。


「弥吉。ここで逃げたら、山へ話が広がるよ。見せるだけ見せな」


 弥吉は唇を噛み、小袋を出した。


 佐助が布の上で受け取る。


 匂いを見る。


「粟と屑米です。それに、少し甘い匂いがあります」


「毒ですか」


「鳥を寄せるためのものだと思います。人が食べるものではありません」


 つまり、鳥餌だ。


 だが、ただの鳥餌ではなく、鳥を集めやすくするために手を加えてある。


 誰かが用意したものだ。


「薬売りは、次にいつ来ると言いましたか」


 作兵衛が聞いた。


 弥吉は小さく首を振る。


「三日後。餌を撒いたか聞くって」


「どこで?」


「茶屋の少し北の、古い榎のところ」


 待ち合わせ場所まで出た。


 小平が静かに息を吐いた。


 弥吉は俺を睨むように見た。


「俺、捕まるんですか」


 俺はすぐには答えなかった。


 ここで「捕まらない」と言えば嘘になるかもしれない。


 「捕まる」と言えば、山の腹が一気に荒れる。


「今は、捕まえに来たのではありません」


 俺は言った。


「でも、この餌撒きは止めてもらいます。薬売りとの話も、こちらに知らせてください」


「母の薬は?」


 そこだった。


 弥吉の腹は、そこにある。


 母の薬。


 それを無視すれば、また誰かが入る。


「薬は本物か分かりません」


 佐助が言った。


「むしろ、あなたの母上に効いていないなら危ないかもしれません」


 弥吉は顔を青くした。


「じゃあ、どうしろって言うんだよ」


 かやが静かに言った。


「茶屋のおかみさん経由で、清洲の医者に見てもらえるか相談しよう。約束はできないけど、薬売りに頼り続けるよりいい」


 俺は頷いた。


「弥助殿に上げます。薬代のことも、山の者のことも。弥吉さんを敵としてではなく、使われた可能性がある者として報告します」


 弥吉は黙った。


 目に、悔しさと怖さが混じっていた。


「俺、鳥に餌やっただけだ」


「はい」


「それが、敵の合図になるなんて、知らなかった」


「だから、ここで止めます」


 茶屋の女将が、弥吉へ湯を出した。


「飲みな。顔が真っ青だよ」


 弥吉は湯を受け取った。


 手が少し震えていた。


 その日は、弥吉を清洲へ連れていかなかった。


 代わりに、茶屋で女将立ち会いのもと、次の約束をした。


 鳥餌は撒かない。

 薬売りが三日後に来たら、茶屋の女将へ知らせる。

 清洲側は、山の炭焼き親方へ直接踏み込まない。

 弥吉の母の薬について、清洲で医者に相談する。

 小袋は一つ預かる。残りは茶屋で封をして保管する。


 茶屋がまた重い役を負う形になる。


 だから、女将にも確認した。


「負担をかけます」


「もうかかってるよ」


 女将は正直だった。


「でも、ここで弥吉を引っ張っていかれたら、もっと面倒になる。茶屋で止められるなら、そのほうがまし」


「ありがとうございます」


「礼はいい。後で揉めないよう、ちゃんと書いておくれ」


「はい」


 伊三郎が喜びそうな言葉だ。


 清洲へ戻る道で、太助が言った。


「捕まえないの、難しいな」


「そうだな」


「悪いことしたかもしれない奴を見逃すみたいで、腹が変な感じになる」


 作兵衛が答えた。


「見逃すんじゃねえ。糸を切らずに見るんだ」


 糸を切らずに見る。


 その言葉が腹に残った。


 清洲蔵へ戻ると、弥助殿が待っていた。


 報告を聞き終えるまで、何も言わなかった。


 弥吉。

 炭焼き親方の甥。

 母の薬代。

 薬売り風の男。

 鳥寄せの餌。

 三日後、古い榎で再会予定。

 弥吉は鳥が合図になるとは知らなかった可能性。

 茶屋で一時保留。

 母の薬について相談必要。


 弥助殿は短く言った。


「よく捕まえなかった」


「迷いました」


「捕まえれば、薬売りは逃げる。炭焼き場は荒れる。北尾根は閉じる」


「はい」


「医者の件は手配する。薬売りは泳がせる。ただし、弥吉に逃げられるな。茶屋だけに背負わせるな」


「承知しました」


 伊三郎は報告を清書しながら、最後にこう書いた。


 鳥場問題。

 敵そのものではなく、薬代の腹を使われた疑い。

 山の者を敵にしない。

 茶屋を潰さない。

 糸を切らずに見る。


「糸を切らずに見る、書くんだ」


 作兵衛が言うと、伊三郎は頷いた。


「重要です」


 夜、清洲蔵では少し温かい粥を食べた。


 今日は北尾根の歩き飯ではない。


 弥吉の話を聞いた後、なぜか皆、薄い歩き飯を食べる気になれなかった。


 佐助が、腹に優しい粥を作った。


 薬の話が出たからかもしれない。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、鳥じゃなく人の腹の味だな」


「どういう意味だ」


「鳥に飯をやってたのは、人の腹が困ってたからだろ」


 権六にしては、妙にしみる言葉だった。


 かやが静かに頷いた。


「敵は、弥吉さんのお母さんの薬代に入ったんだね」


 作兵衛が言った。


「銭の穴と同じだ。今度は薬の穴だ」


 薬の穴。


 また新しい穴だ。


 敵は、米だけを狙わない。

 水だけを狙わない。

 銭だけでもない。


 病人の薬代にまで入ってくる。


 そこを見ないと、鳥場は消えない。


 俺は粥をすすった。


 温かい。


 弥吉の母も、こんなふうに腹へ落ちるものを食べられているだろうか。


 そう思った。


 北尾根仮線は、まだ正式にはできない。


 鳥場の餌は止まりそうだ。


 だが、その奥に薬売りがいる。


 薬売りの奥に、誰がいるかは分からない。


 次は、古い榎。


 三日後、薬売りが来る。


 鳥に飯をやる者を見たら、その後ろに、人の腹があった。

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