第八十話 鳥に飯をやる者
鳥場を踏まない。
それが、北尾根仮線の次の決まりになった。
鳥を飛ばせば、こちらが来たと分かる。
餌を蹴散らせば、見抜いたことが分かる。
鳥場へ近づきすぎれば、敵の物見座り場から見られる。
ならば、鳥場そのものではなく、鳥に飯をやる者を見る。
清洲蔵の朝は、その話から始まった。
「鳥に飯をやる者、か」
権六が味噌片を噛みながら言った。
「飯炊きが鳥の飯まで気にするようになったら終わりだな」
「終わりじゃない。始まったんだよ」
かやが、北尾根用の小包みを並べながら返す。
「鳥が飛ぶことでこっちの動きが見えるなら、鳥の腹も飯線の一部になる」
「鳥の腹まで帳面にするのか」
権六が伊三郎を見る。
伊三郎は、すでに筆を持っていた。
「必要なら」
「するんだな……」
もう誰も驚かない。
清洲式は、ついに鳥の腹まで帳面に入れることになった。
ただし、今回の目的は鳥を捕まえることではない。
鳥場へ餌を置く者を直接追いかけることでもない。
見つけた瞬間に捕まえようとすれば、相手は逃げる。
逃げれば、次から餌を置く場所を変える。
場所を変えられれば、北尾根のどこが見られているのか分からなくなる。
今ほしいのは、犯人ではなく、仕組みだ。
誰が、いつ、どこから来て、どこへ戻るのか。
鳥場へ餌を置く目的は何か。
物見座り場とつながっているのか。
北尾根をこちらが使うと、本当に敵へ伝わるのか。
それを見る。
かやが板の上に小石を置いた。
「見る場所は三つ」
一つ目、茶屋。
二つ目、割れ石の手前。
三つ目、物見座り場を横から見られる低い藪。
鳥場そのものには近づかない。
「茶屋は、鳥餌を持つ者が通るかもしれない場所」
かやが言う。
「でも茶屋を見張り場にしすぎると、おかみさんに負担がかかる」
「だから茶屋には簡単な印だけ」
俺が続けた。
「いつもの白布と赤紐に加えて、今日は青い布。穀や餌を持つ怪しい者が北へ向かったら、青布を出してもらう」
権六が眉を寄せた。
「色が増えて覚えられるのか」
「だから今日だけだ」
伊三郎が補った。
「常設にしません。茶屋へ負担をかけないため、一日限りの試験印です」
二つ目の割れ石は、北尾根へ入る手前の目印だ。
低い松より手前にある。
ここから尾根下道へ回れば、鳥場へ近づきすぎずに物見座り場の方角を確認できる。
三つ目の低い藪は、昨日かやが見つけた場所だった。
背の低い木が密集し、上からは見えにくい。
そこからなら、物見座り場へ人が来たかどうかだけは見える。
ただし、長居はできない。
虫が多く、足場も悪い。
そして、見ようとしすぎればこちらも見られる。
「連絡足は?」
作兵衛が聞いた。
「太助と小平。村側は使わない。今日は北尾根の見分だから、前進飯場の村までは絡めない」
「茶屋には?」
「俺たちが行く前に、一度だけ寄って説明する。帰りにも寄る。茶屋から人は出さない」
茶屋を潰すな。
信長様の言葉がずっと腹にある。
茶屋は城ではない。
連絡に使わせてもらうが、茶屋の暮らしを壊してはいけない。
佐助は歩き飯を整えていた。
「今日は長く隠れて見るかもしれません。歩き飯より、待ち飯に近いかもしれません」
「待ち飯?」
また名前が増えそうな気配がした。
佐助は慌てて首を振った。
「名前にしなくていいです。ただ、歩きながらではなく、短く待つ間に食べる形です」
「待つなら食いやすくできるか」
「はい。でも、匂いは抑えます。鳥や人を寄せたくありません」
鳥に餌を置く者を見るために、こちらの飯の匂いで鳥を寄せたら笑えない。
いや、笑えないどころか失敗だ。
今日の歩き飯は、さらに匂いを抑えた。
味はまた少し遠くなった。
権六が試食して、深く頷いた。
「味が隣国へ戻った」
「遠ざかったのか」
「うん。だが匂いは出ない」
「今日だけはそれでいい」
佐助は少し悔しそうだったが、納得していた。
出発は朝より少し遅らせた。
茶屋の女将が言った通り、餌を置くなら朝か夕方前の可能性がある。
朝早すぎると、すでに終わっているかもしれない。
遅すぎると、鳥場だけ見て終わる。
だから、朝の客が少し動いた後の時刻にした。
清洲を出る前、弥助殿が俺に言った。
「捕まえるな」
「はい」
「追うな」
「はい」
「見たものだけ持ち帰れ」
言い方は短い。
だが、今日の要点はそれだった。
見たい腹を抑える。
追いたい腹を抑える。
捕まえたい腹を抑える。
飯線の見分は、腹を抑える仕事でもある。
茶屋へ着くと、女将はすでに青い布を用意していた。
「今日はこれかい」
「すみません。一日だけお願いします」
「怪しい穀持ちが北へ行ったら青布。知らない男なら赤紐。道塞ぎなら白布。色屋みたいになってきたね」
「増やしすぎないようにします」
「そうしておくれ。常連が何事かと思う」
女将は笑いながらも、顔は真剣だった。
「今朝、北へ行った男が一人いたよ」
俺たちは一斉に黙った。
「どんな?」
かやが聞く。
「炭焼き風。背負い籠は軽そうだった。穀の袋かどうかは分からない。茶は飲まずに通った」
「知っている人ですか」
「顔は見たことがある。北の山の炭焼き場に出入りしてる若いのだと思う」
炭焼き。
北尾根のあたりに出入りする者なら、鳥場へ餌を置くこともできる。
だが、すぐに敵とは言えない。
炭焼きなら普通に山へ入る。
鳥場の近くを通ることもある。
「青布は?」
「まだ出してない。怪しいと決めるほどじゃなかったからね」
正しい判断だ。
何でも青布を出せば、青布の意味が軽くなる。
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます。帰りにまた寄ります」
「鳥を飛ばさないようにね」
茶屋を出て、北へ折れた。
草の高い入口は、昨日より少し乾いている。
だが、足元は相変わらず見えにくい。
今日は人数も少ない。
俺、かや、佐助、作兵衛、太助、小平、護衛二人。
権六は清洲に残った。
文句役を連れてくると声が大きい、というか、本人も「俺は鳥を飛ばす自信がある」と言ったので置いてきた。
それはそれで正直だった。
草の低い道を拾い、木立へ入る。
歩き飯はまだ食べない。
鳥場に近づく前は、口を動かさない。
小さなことだが、昨日決めたことだ。
木立を抜ける前に、作兵衛が全員を止めた。
短く確認する。
「ここから声を落とす。急ぐな。足を置く前に見る。鳥を見るより、人の座る場所を見る」
太助が小さく頷いた。
今日は文句も小さい。
尾根入口へ出る。
相変わらず、空が広い。
見晴らしがいい。
見晴らしがいいという言葉が、だんだん褒め言葉に聞こえなくなってきた。
割れ石のところから、尾根下道へ入る。
今日は低い松までは行かない。
目的は鳥場ではなく、鳥場を見る者の動きだ。
低い藪へ回る。
足場は悪い。
膝を曲げ、腰を低くし、草を大きく揺らさないよう進む。
太助が一度、口を開きかけて閉じた。
文句を飲み込んだらしい。
作兵衛がそれを見て、小さく頷いた。
低い藪へ入ると、視界は悪くなった。
だが、物見座り場の草倒れは斜めに見える。
鳥場は直接見えない。
その代わり、物見座り場へ人が来れば分かる。
「ここで待つ」
俺は小声で言った。
待つ。
飯線の見分で一番苦手な時間だ。
歩いているほうが楽だ。
荷を運んでいるほうが分かりやすい。
何かをしている気になる。
待つだけの時間は、腹が焦れる。
その腹を落ち着けるために、佐助が待ち用の小さな歩き飯を配った。
匂いの薄い味噌片を四分の一。
小さな握り飯を一口。
声を出さずに食べる。
水はまだ飲まない。
味は遠い。
だが、喉には残りにくい。
太助が目だけで「まし」と訴えた。
たぶん、ましなのだろう。
しばらく何も起きなかった。
鳥も見えない。
人も来ない。
風だけが、草の先を揺らす。
俺は焦れてきた。
見たい。
鳥場へ行けば、餌があるか分かる。
草倒れへ行けば、足跡がもっと見える。
低い松まで進めば、尾根上の様子が見える。
だが、それをしないために来た。
見たい腹が危ない。
昨日の作兵衛の言葉を思い出す。
その時、小平がそっと指を上げた。
物見座り場の左手。
草が、風とは違う揺れ方をした。
人だ。
全員が息を止める。
やがて、草の間から若い男が現れた。
背負い籠を持っている。
茶屋の女将が言っていた炭焼き風の若者かもしれない。
服は山仕事のもの。
腰に小さな袋。
手に細い杖。
動きは慣れている。
男は物見座り場には座らなかった。
そこを通り過ぎ、鳥場の方角へ向かった。
俺の腹が熱くなる。
追いたい。
見たい。
だが、動かない。
男は鳥場の近くで腰を下ろしたようだった。
直接は見えない。
でも、腕の動きが少し見えた。
何かを地面へ撒いている。
佐助が、息を詰めるように小さく言った。
「穀の匂いです」
やはり。
餌だ。
男は長居しなかった。
撒くと、すぐに戻ってきた。
その時、鳥が飛んだ気配はなかった。
つまり、男は鳥を飛ばさない距離と動きを知っている。
慣れている。
男は物見座り場の近くで一度立ち止まり、尾根上を見た。
それから、草倒れの場所には座らず、さらに少し上の別の木陰へ移動した。
そこから鳥場を見ているらしい。
昨日見た草倒れは古い座り場。
今日は別の座り場を使っている。
敵も、場所をずらしている。
かやが目だけで俺を見た。
追うな。
分かっている。
男はしばらくして、北側の山道へ消えた。
炭焼き場の方角だ。
完全に見えなくなるまで、誰も動かなかった。
鳥はまだ飛んでいない。
俺たちも飛ばしていない。
見分は、成功したのかもしれない。
だが、胸の奥は重い。
炭焼き風の若い男。
敵の者なのか。
敵に銭で使われているのか。
ただ鳥に餌をやっているだけなのか。
物見座り場との動きから考えれば、ただの鳥好きではなさそうだ。
でも、まだ決めつけない。
ここで焼くな。
五郎兵衛殿なら、そう言うだろう。
作兵衛が小声で言った。
「戻るぞ」
俺は頷いた。
鳥場へ行かない。
餌を確認しに行かない。
男を追わない。
見たものだけ持ち帰る。
低い藪を出る時、太助が足を滑らせかけた。
声は出さなかった。
だが、草が少し揺れた。
全員が止まる。
鳥の動きはない。
物見もいない。
助かった。
太助は冷や汗をかいていた。
戻り道、木立に入るまで誰も喋らなかった。
木立の中でようやく、太助が小さく言った。
「文句言っていいか」
「いい」
作兵衛が答える。
「待つ見分、荷運びより疲れる」
「それは書く」
「書くなよ……いや、書け。ほんとに疲れる」
待つ見分は疲れる。
これも記録だ。
低い姿勢で待つ。
声を出さない。
見たいのを我慢する。
動きたいのを止める。
これは、普通の荷運びとは違う負担だ。
連絡足とも違う。
観察足。
また名前が増えそうだ。
俺は小帳面に書きかけて、ため息をついた。
でも、書く。
観察足、待つ負担大。
茶屋へ戻ると、女将は俺たちの顔を見て、すぐに水を用意した。
「飛ばさなかったね」
「はい」
「見たかい」
「炭焼き風の若い男が、鳥場へ何か撒きました」
女将は目を細めた。
「やっぱり」
「知っていますか」
「名前までは知らない。でも、北の炭焼き場に出入りしてる若いのだと思う。最近、妙に茶も飲まずに通るようになった」
「前は飲んでいた?」
「たまにね。金がないから白湯だけの時もあったけど、話はした。最近は急いでる」
銭か。
誰かに使われているのかもしれない。
だが、まだ分からない。
女将は静かに言った。
「捕まえるのかい」
「今日はしません」
「それがいい。山の若いのをいきなり捕まえると、炭焼き連中が荒れる」
やはり。
捕まえれば終わりではない。
山の者の腹が荒れる。
そこへ敵がまた紙を入れるかもしれない。
「次は、炭焼き場との関係を見ます」
俺は言った。
「飯線に使うなら、山の者も見る必要があります」
「どんどん広がるね」
「はい」
「飯って面倒だ」
「本当に」
茶屋で水を買い、清洲へ戻った。
蔵に着くと、伊三郎、弥助殿、権六が待っていた。
権六はすぐ聞いた。
「鳥は?」
「飛ばさなかった」
「餌は?」
「撒いていた」
「誰が?」
「炭焼き風の若い男。まだ敵とは決めない」
弥助殿が頷いた。
「よし。追わなかったな」
「はい」
「それでいい」
報告をまとめる。
鳥場へ炭焼き風の若い男が穀らしきものを撒いた。
鳥は飛ばず。男は慣れている。
物見座り場は一つではなく、日によってずらしている可能性。
男は北の炭焼き場方面へ戻った。
茶屋の女将によれば、最近急いで通るようになった。
捕縛はせず。炭焼き場との関係確認が必要。
観察足は待つ負担が大きい。
北尾根仮線は、正式候補として残すが、飯線化はまだ不可。
次は山の者の腹を見る必要あり。
伊三郎は最後の一行を書いたあと、顔を上げた。
「また腹が増えましたね」
「増えた」
俺は答えた。
鳥の腹。
物見の腹。
山の炭焼きの腹。
北尾根を飯線にするには、山の者まで見なければならない。
弥助殿は言った。
「炭焼き場を焼くな。話を聞け。敵に使われているなら、なぜ使われたかを見る」
「はい」
銭か。
脅しか。
知らずにやっているのか。
分からない。
でも、見なければならない。
夜、清洲蔵では今日の観察用に持っていった匂いの薄い歩き飯を食べた。
味は遠い。
だが、喉には残りにくい。
権六は食べて言った。
「今日の飯は、鳥に食わせなかった味だな」
「こちらもあまり食べた気がしない」
「だから鳥も寄らねえんだろ」
かやが笑った。
「確かに」
佐助は少し悔しそうだった。
「でも、観察用としてはこれでよかったと思います。匂いが出ません」
作兵衛が言った。
「待つ見分用には、腹いっぱいより眠くならない飯がいい。今日のは眠くならん」
太助が小さく言う。
「ただ、待つと腹じゃなくて足がつらい。あと文句を言えないのがつらい」
権六が深く頷いた。
「分かるぞ。文句を言えない文句ほど重いものはない」
「権六とは分かり合いたくないなあ」
皆が笑った。
俺も笑った。
だが、腹の奥には、炭焼き風の若い男の背中が残っていた。
鳥に飯をやる者。
その者が敵なのか、敵に使われた者なのか。
それを見ないまま、北尾根を飯線にはできない。
北尾根は、まだ仮線だ。
正式候補として残す。
だが、飯はまだ流さない。
次は、山の者の腹を見る。
鳥を飛ばさずに見た先には、人の腹があった。




