第七十九話 鳥場を踏まない見分
北尾根の鳥は、ただの鳥ではないかもしれない。
その疑いが清洲蔵に持ち帰られてから、蔵の中には妙な空気が流れていた。
鳥。
ただそれだけなら、飯とは関係がない。
米を食う鳥なら困る。
味噌片をつつく鳥ならもっと困る。
だが、山の尾根にいる鳥など、普通なら「いた」で終わる。
けれど、北尾根では違った。
鳥が飛べば、尾根に人が入った合図になる。
鳥が毎日同じ場所に集まるなら、誰かが餌を置いているかもしれない。
餌を置いて鳥を集め、こちらが近づいた瞬間に鳥を飛ばす。
遠くの物見がそれを見る。
清洲の者が北尾根へ入ったと知る。
それは罠とは少し違う。
穴もない。
縄もない。
刃もない。
ただ、鳥が飛ぶ。
それだけで、こちらの足が見える。
「嫌な罠だな」
権六が味噌片をかじりながら言った。
「踏んでも足は痛くならない。でも、敵に見える」
かやが北尾根用の荷布を直しながら答える。
「罠というより、目印だね。こっちが踏むんじゃなくて、鳥が飛ぶ」
「鳥に裏切られるのか」
「鳥は悪くないよ」
「じゃあ餌を置いた奴が悪い」
「それはそう」
佐助は、試作用の歩き飯を小さな包みに分けていた。
昨日よりさらに一口を小さくしている。
味噌片は半枚どころか、四分の一でも割れるよう浅い筋を入れてあった。
「そこまで小さくするのか」
俺が聞くと、佐助は頷いた。
「鳥場の近くでは、長く噛まないほうがいいと思います。口を動かしすぎると、喉が渇きますし、話したくもなります」
「飯を食うと話したくなるのか?」
「人によります」
その横で権六が目を逸らした。
たぶん自覚があるのだろう。
伊三郎は帳面を開き、今日の見分項目を読み上げた。
「北尾根仮線、第三見分。目的は鳥場の確認。ただし、鳥を飛ばさないことを最優先。近づきすぎない。低い松を目印に、尾根下道から観察。餌の有無、物見座り場、鳥の動き、風向き、戻り水を確認」
「鳥を飛ばさないで餌を見るって、できるのか?」
権六が聞く。
かやが答えた。
「直接は見ない。周りを見る」
「周り?」
「鳥が集まる場所に、毎日誰かが来るなら、足跡がある。草が倒れる。餌を運んだ袋の跡があるかもしれない。鳥場そのものを踏まずに、周りから見る」
作兵衛も頷いた。
「鳥場に突っ込んだら終わりだ。飛ぶ。だから、鳥が飛ばない距離で止まる。見えないものは、今日は見えないでいい」
「見えないでいいのか」
太助が不思議そうに言った。
今日も連れていく。
文句のため、というより、喉と足の反応を見るためだ。
作兵衛が答えた。
「見ようとして見つかるよりましだ。見分は欲張ると怪我する」
これは高畑でも何度も学んだ。
砦まで行きたくても行かない。
罠を外したくても外さない。
鳥場を見たくても踏まない。
飯線は、我慢の線でもある。
弥助殿が蔵へ来た。
「北尾根を正式候補に残すかどうか、今日の報告で一度判断する」
いきなりだった。
俺は顔を上げた。
「今日で、ですか」
「残すか、保留にするかだ。正式線にするわけではない。だが、見分を続ける価値があるかは決める」
それは重い。
高畑と違い、北尾根にはまだ砦も井戸番もない。
水も薄い。
尾根から丸見え。
鳥場の疑い。
物見座り場らしき草倒れ。
危険が多い。
だが、もし使えれば、高畑とは別の目になる。
敵にとっても嫌な線になる可能性がある。
「使えないなら、早く保留にするのも仕事だ」
弥助殿は言った。
「使えない道へ飯を流せば、米も人も失う」
「はい」
「ただ、怖いだけで捨てるな。敵が嫌がるから鳥を置いたのかもしれん」
その言葉に、蔵の中が少し静かになった。
敵が鳥場を作ったのなら。
つまり、北尾根に入られたくない理由があるのかもしれない。
危ないから避けるべきなのか。
敵が嫌がるから残すべきなのか。
その見分をしに行く。
俺は小さく息を吐いた。
「行きます」
今日の荷は、さらに軽くした。
歩き飯の試作品。
水少し。
粉袋。
草を結ぶ短縄。
低い位置で見るための小さな布。
そして、鳥場を遠くから示すための簡単な絵札。
鳥を追い払う道具は持たない。
追い払った時点で負けだ。
清洲を出て、茶屋へ向かう。
茶屋の女将は、もう俺たちが北尾根へ行く顔を覚えたらしい。
「今日は鳥かい」
「はい。飛ばさないで見たいです」
「難しいね」
女将は店の脇に置いてあった古い籠を指した。
「鳥を見るなら、鳥を見る人のほうを見るんだよ」
「鳥を見る人?」
「鳥が飛ぶのを合図にするなら、飛ぶところを見る場所がある。鳥そのものより、見る人が座る場所を探しな」
俺たちは顔を見合わせた。
昨日の草倒れ。
物見座り場かもしれない場所。
女将の言葉で、それが急に重くなった。
「茶屋の鳥もそうですか」
「屋根の鳥を追う子どもを見ると分かるよ。鳥を見てるようで、実は鳥が飛ぶ先を見てる」
女将はさらりと言った。
この人は、いったいどれだけ道と人を見ているのだろう。
「ありがとうございます」
「水は?」
「少し買います。今日は喉を枯らさないように」
「北尾根なら、それがいい」
水を買い、北へ折れた。
草の高い入口は、昨日より少し乾いている。
ただし、朝露が完全に消えたわけではない。
かやが草の低い道を選ぶ。
遠回りだが、草の揺れが少ない。
太助はすぐに文句を言った。
「遠回りすると、見分に来たって感じが薄いな」
「何だそれ」
「近い道を行きたい腹が文句を言う」
作兵衛が言った。
「その腹は今日は黙らせろ。近い道ほど目立つ」
歩き飯の試験も同時に行う。
小さな握り飯を一口。
味噌片を四分の一。
水は飲まない。
昨日より食べやすい。
味は近くなった。
ただ、細かくなった分、包みの扱いが難しい。
太助が小声で言う。
「これ、落としそうだ」
「落としたら?」
作兵衛が聞く。
「拾いたくなる」
「拾うな。北尾根で落とした飯は、鳥の餌になる」
その言葉に、皆が一瞬止まった。
そうだ。
歩き飯を落とせば、鳥が寄る。
こちらの飯が、敵の鳥場を増やすことになるかもしれない。
俺は急いで小帳面に書いた。
歩き飯、落とすな。
落とした飯は鳥餌になる。
拾えぬ場合は土で隠す?
最後は疑問で書いた。
土で隠すのがよいのか、逆に跡になるのか。
後で考える。
木立を抜ける前に、かやが全員を止めた。
「ここから先、喋りすぎない。歩き飯も一回止める」
「食わないのか」
太助が聞く。
「鳥場の近くで口を動かしながら歩くと、注意が散る」
作兵衛が頷く。
「まず見る。食うのは戻り」
腹は少し寂しい。
だが、今日は鳥場を見る日だ。
飯の試験は大事だが、目的を混ぜすぎると失敗する。
尾根入口へ出る。
相変わらず見晴らしがよい。
俺たちは尾根上へ出ず、昨日と同じ尾根下道へ回った。
右足に負担がくる斜め道。
だが、見えにくい。
太助が小声で言う。
「右足がもう文句を言ってる」
「まだ入口だ」
「だから文句なんだ」
作兵衛が頷く。
「短距離用だな。ここを長く使うと足が乱れる」
低い松が見えた。
昨日、護衛の男が目印候補にした木だ。
思ったより低く、枝が横へ広がっている。
尾根上からは目立たないが、尾根下道からはよく見える。
良い目印だ。
ただし、目印があるということは、敵も使う可能性がある。
低い松の手前で止まる。
鳥場は、そこからさらに先の開け場だ。
黒い鳥がいる。
今日もいる。
五羽。
昨日より一羽多い。
鳥は地面をつついている。
時々、顔を上げる。
まだこちらには気づいていないようだ。
かやが小さな布を広げ、荷の形を崩す。
遠くから人の形が立ちすぎないようにするためだ。
ただし、布を大きく動かさない。
大きな動きは鳥を驚かせる。
護衛の男が、鳥場ではなく右手の斜面を見ていた。
「昨日の草倒れの近くです」
俺たちは、そちらへ目を向けた。
尾根下道から少し上がった場所に、草が倒れている。
昨日見た場所と同じ。
ただ、今日はその周りに新しい跡があった。
小さな足跡。
草の折れ方。
座ったようなへこみ。
そして、細い枝が一本、不自然に折られている。
「物見が座ったな」
作兵衛が低く言った。
「ここから鳥場が見えるのか?」
俺が聞くと、護衛の男が頷いた。
「見えます。鳥が飛べば分かります。さらに尾根上の道も見える」
茶屋の女将の言葉が当たった。
鳥を見る人を見る。
ここだ。
鳥場そのものより、この物見座り場が重要だった。
かやが草に触れず、距離を測るように見た。
「ここ、低い松も見えるね」
「つまり、低い松を目印に進むと、物見にも見られる?」
「可能性がある」
目印は味方にも敵にも目印になる。
また一つ面倒が増えた。
佐助が空気の匂いを探るようにした。
「何か乾いた穀の匂いがします」
「穀?」
「粟か、屑米か、はっきりは分かりません。鳥場のほうから、ほんの少し」
やはり餌か。
鳥場には、誰かが穀を撒いている可能性が高い。
直接見に行きたい。
だが、行けば鳥が飛ぶ。
今日は行かない。
鳥場を踏まない見分だ。
俺は自分に言い聞かせた。
「ここまで」
太助が驚いた顔をした。
「餌、見ないのか」
「見ない」
「あと少しだぞ」
「あと少しが、鳥を飛ばす」
太助は黙った。
不満そうだが、分かったようだった。
作兵衛が言う。
「見たい腹が一番危ない」
重い言葉だ。
俺の腹にも刺さった。
見たい。
知りたい。
確認したい。
でも、そのために鳥を飛ばせば、敵にこちらの見分を知らせる。
見分は、全部を見ることではない。
見ないと決めることも見分だ。
小帳面に書く。
鳥場、五羽。
同地点。
穀の匂い疑い。
物見座り場あり。
低い松も見える。
餌場踏まず。
今日は行かない。
見たい腹危険。
そこから戻る前に、かやが周囲をもう一度見た。
「もし北尾根を使うなら、低い松を使いすぎないほうがいい」
「目印なのに?」
「目印だから。こちらが使うと読まれる。低い松の手前で必ず曲がる、ってなると、そこを見られる」
「じゃあどうする」
「目印を二つにする。低い松と、手前の割れ石。日によって曲がる場所を変える」
高畑で学んだずらしの考え方だ。
ただし、北尾根ではずらしすぎると足が乱れる。
使える目印は少ない。
「割れ石は?」
作兵衛が示した。
木立の出口近くに、割れた平たい石がある。
昨日は気づかなかった。
そこから尾根下道へ入ると、少し遠回りだが物見座り場からは見えにくいかもしれない。
小帳面に書く。
低い松、使いすぎ注意。
割れ石、第二目印候補。
日替わりで曲がり検討。
戻り道、太助が我慢できずに歩き飯を食べた。
味噌片四分の一。
すぐに言った。
「これは食べやすい。でも、何度も食うと面倒だ」
「歩き飯だからな」
「歩きながら細かい飯を食うと、自分が鳥みたいな気分になる」
皆が声を殺して笑った。
北尾根で笑いすぎると声が通る。
太助は続けた。
「でも、鳥みたいに少しずつ食うなら、水は減る」
いい文句だった。
鳥みたいに少しずつ食う。
皮肉なことに、鳥場を避ける飯は、鳥の食べ方に近づいていた。
清洲へ戻る前に、茶屋へ寄った。
女将は俺たちの顔を見るなり言った。
「飛ばさなかったね」
「分かるんですか」
「鳥が飛んだなら、山側の鳥も騒ぐ。今日は静かだった」
そこまで分かるのか。
茶屋の女将は、やはり恐ろしい。
俺は鳥場の様子を話した。
餌の匂い。
物見座り場。
低い松。
割れ石。
女将は少し考えてから言った。
「鳥場を使ってるなら、餌を置く人間がいる。餌を置く人間は、毎日同じ時には来ないかもしれないけど、鳥が腹を空かせる前には来る」
「いつ頃でしょう」
「朝か、夕方前。昼は鳥も暑くて動きが鈍い」
また情報が増えた。
鳥にも腹の時がある。
餌を置く者は、その腹に合わせて動く。
飯線なのに、鳥の腹まで見ることになるとは思わなかった。
清洲へ戻ったのは昼過ぎだった。
深く入らなかったので、時間は短い。
だが、見たものは重かった。
伊三郎は報告を聞き終えると、しばらく黙った。
「北尾根仮線は、どう見ますか」
その問いが来ると分かっていた。
弥助殿も同席している。
正式候補として残すか。
一度保留するか。
俺は地図を見た。
北尾根の入口。
草の道。
尾根下道。
低い松。
割れ石。
鳥場。
物見座り場。
「使いにくいです」
俺は言った。
「水がありません。尾根上は見えすぎます。鳥場は人為の疑いが強い。物見座り場もあります。歩き飯も、まだ十分ではありません」
弥助殿は黙って聞いている。
「でも、保留にするには惜しいです」
自分で言いながら、腹が重くなった。
「理由は」
弥助殿が聞く。
「敵が鳥場を作っているなら、北尾根を見られたくない理由があります。物見座り場も、こちらが通る可能性を意識している。何もない道なら、そこまでしないかもしれません」
作兵衛が頷いた。
「使いやすい道じゃない。だが、使えたら敵は嫌がる」
かやも言う。
「正式線はまだ無理。でも、捨てるのは早い。次は鳥場を直接踏まず、餌を置く人間の動きを見るべき」
佐助が続ける。
「歩き飯は改良できます。水は少ないままですが、食べ方で減らせます」
権六が腕を組んだ。
「文句は多い。でも、文句が多いから駄目とは限らない。文句が多い道ほど、使えたら敵も嫌がるかもしれない」
弥助殿は少しだけ口元を動かした。
「文句役らしい判断だな」
伊三郎が板に書いた。
北尾根仮線。
正式候補として残す。
ただし、飯線化は保留。
次回、鳥場の餌置き人確認。
歩き飯改良継続。
水問題未解決。
尾根上通行不可寄り。尾根下短距離検討。
「正式候補として残すが、飯線化は保留」
俺はその言葉を見て、少し息を吐いた。
進んだようで、止まったような判断だ。
だが、それでいいのだと思う。
使えるか、使えないか、使わぬほうがよいか。
北尾根はまだ、そこまで決められない。
捨てない。
だが、流さない。
見続ける。
それが今日の結論だった。
夜、歩き飯をまた食べた。
四分の一味噌片。
小さな握り飯。
乾燥菜。
少しの水。
権六は言った。
「今日の飯は、見たいのを我慢した味だな」
「うまいか?」
「うまくはない。でも、腹に残る」
かやが椀を持って言う。
「鳥を飛ばさなかった味でもあるね」
佐助は小さく頷いた。
「味噌片も、鳥みたいに少しずつ食べる飯になりました」
太助が嫌そうに言った。
「俺の文句がまた残る」
伊三郎はもう書いていた。
鳥みたいに少しずつ。
俺は笑った。
北尾根は、まだ線ではない。
だが、捨てるには早い。
敵が鳥を集め、人を座らせ、こちらの動きを見ようとしているなら。
そこには、敵が嫌がる何かがある。
次は、鳥ではなく、鳥に餌を置く者を見る。
飯線の見分は、ついに鳥の腹まで見るところへ来てしまった。




