表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/160

第七十八話 鳥を飛ばさぬ飯

 北尾根用の飯は、腹より先に喉を見る必要があった。


 高畑砦の飯は、砦に届くかどうかがまず問題だった。


 火が使えるか。

 水が使えるか。

 常備飯をどこに置くか。

 井戸番が倒れた時にどうするか。

 戻り包みをいつ開けるか。


 高畑には、高畑の面倒があった。


 だが、北尾根は違う。


 そもそも、水の匂いが薄い。


 見晴らしが良すぎる。

 尾根の上を歩けば、こちらの姿が線になって見える。

 草の揺れも、鳥の飛び立ちも、遠くから合図になる。


 飯を持っていく前に、歩くだけで見つかる。


 それが北尾根だった。


 清洲蔵では、朝から歩き飯の改良が続いていた。


 小さな握り飯を、さらに小さくする。

 味噌片に浅い切れ目を入れ、半分ずつ折れるようにする。

 乾燥菜は細かすぎると喉に残るので、少し形を残す。

 水は少量。

 ただし、一度に飲ませない。


 佐助は、味噌片を指先で割っていた。


「半分に割れるようにはなりました」


「粉は?」


「出ます。完全には防げません。でも、昨日よりは少ないです」


「味は近づいたか?」


 俺が聞くと、佐助は少しだけ困った顔をした。


「近づけすぎると、水が欲しくなります」


 隣で試食していた権六が、口を動かしながら言った。


「味は峠を越えて、麓の茶屋が見えた」


「分かるような、分からないような」


「昨日より近い。でも、まだ遠い」


 佐助は真面目に頷いた。


「香りは足しました。塩は増やしていません」


「水が欲しくなるか?」


「少し欲しいです」


 権六は水を飲もうとして、かやに手を止められた。


「待って。北尾根用なんだから、すぐ水を飲んだら試しにならない」


「文句役を干からびさせる気か」


「文句を聞いてるんだよ。どのくらいで水が欲しくなるか」


 権六は大げさにため息をついた。


「半枚なら我慢できる。一枚だと水が欲しい。二枚は敵」


「味噌片が敵になった」


 俺が言うと、佐助がすぐ帳面へ向かう伊三郎に言った。


「一度に半枚まで。歩き飯用味噌片は半枚単位で」


 伊三郎が書く。


 歩き飯用味噌片。

 一度に半枚。

 一枚だと水欲しさ増。

 二枚は敵。


「最後のは書かなくていいだろ」


 権六が言ったが、伊三郎は顔を上げなかった。


「現場の表現は残します」


「俺の文句、残りすぎじゃねえか」


「役に立っています」


「褒められてる気がしねえ」


 かやは、歩き飯の包みを変えていた。


 高畑の前進飯は腰に固定した。


 しかし北尾根では、腰に下げた包みが草に触れやすい。


 草に触れれば湿る。


 湿れば竹皮が弱る。


 さらに、草が揺れる。


「北尾根では腰より胸前かな」


 かやが言った。


「胸前だと歩きにくくないか?」


「大きいとね。でも歩き飯は小さい。胸の内側に入れる形なら、草に触れない。手もすぐ届く」


 作兵衛が見て頷いた。


「背負い荷の紐に通せばいい。ぶら下げるんじゃなく、押さえる」


「走ったら?」


「北尾根で走るな」


 作兵衛は即答した。


「走ったら鳥が飛ぶ。草が鳴る。足が滑る。北尾根は走る道じゃねえ」


 それも今日の大事な点だった。


 高畑の前進飯は、兵が動く飯だった。


 北尾根の歩き飯は、走る飯ではない。


 歩きながら、少しずつ口へ入れる飯。


 立ち止まらないための飯。


 そして、音を立てないための飯。


「鳴らさない飯か」


 俺が呟くと、かやが目を細めた。


「また変な名前考えてる?」


「いや、歩き飯でいい」


「それでいい。名前を増やすと、伊三郎が喜ぶ」


「私は必要なら喜びます」


 伊三郎は真顔だった。


 昼前、北尾根の二度目の入口見分へ出ることになった。


 今回は、昨日より少しだけ先へ進む。


 ただし、鳥のいる開け場までは近づきすぎない。


 目的は三つ。


 一つ、歩き飯を実際に歩きながら食べられるか。

 二つ、草を揺らさず進める場所があるか。

 三つ、鳥が合図になるなら、どう避けるか。


 荷は少ない。


 北尾根用歩き飯。

 小さな水筒。

 粉袋。

 草を束ねる短縄。

 そして、鳥を飛ばさないために使えるかもしれない小さな布。


「布?」


 俺が聞くと、かやは頷いた。


「鳥の近くへいきなり人が出ると飛ぶ。遠くから大きく動くともっと飛ぶ。だから、姿を少し低く見せる。布で荷の形を崩す」


「鳥に効くのか?」


「分からない。だから試す」


 分からないことは、試す。


 それも清洲式になってきた。


 茶屋の前を通ると、女将がまた北の山を見た。


「今日は昨日より風があるよ」


「北尾根は風があるとどうなりますか」


「口が乾く。あと、鳥は風上へ飛ぶ」


 鳥の話が出た。


 俺は身を乗り出した。


「鳥に詳しいのですか」


「詳しいってほどじゃないけどね。茶屋の屋根にも来るから。驚くと一斉に飛ぶけど、毎日通る人には慣れる。急ぐ足音には慣れない」


 毎日通る人には慣れる。


 急ぐ足音には慣れない。


 これは大事だ。


 北尾根で鳥を飛ばさないためには、鳥を驚かせない歩き方が要る。


「音ですか」


「音と、急な動きだね。あと、上から影がかかると飛ぶ」


 かやが頷いた。


「荷の影も見られるか」


「大荷は駄目だな」


 作兵衛が言う。


「北尾根は、荷を小さくするだけじゃなく、人の動きも小さくする必要がある」


 茶屋で水を少し買い、北へ折れた。


 昨日と同じ草の高い入口。


 朝露は昨日ほどではない。


 だが、草は相変わらず足元を隠す。


 今日は、いきなり草を分けて進まず、かやが細い道筋を見た。


「こっち。草の低いところを拾う」


「遠回りじゃないか?」


 太助が言う。


「遠回りだけど、草が揺れにくい」


 北尾根では、近さより見えにくさ。


 高畑でも学んだことだが、北尾根ではさらに厳しい。


 草が揺れれば、誰かが通ったと分かる。

 足元を隠せば転ぶ。

 濡れた草で包みが湿る。


 草の低い場所を拾うと、確かに遠回りになる。


 だが、荷の揺れは少ない。


 太助が歩きながら文句を言った。


「遠回りは腹が減る」


「近道で転ぶよりいい」


 作兵衛が言う。


「転ぶともっと腹が減る」


「転ぶと腹が減るのか?」


「怒って減る」


「それは分かる」


 くだらない会話だが、足音が荒くならない。


 それも大事だった。


 木立の中へ入る前に、歩き飯を試す。


 立ち止まらない。


 胸前の小包みから、握り飯の小片を一つ取る。


 口へ入れる。


 少し噛む。


 水は飲まない。


 次に味噌片を半枚。


 舌に乗せ、ゆっくり溶かす。


 佐助が小声で聞いた。


「どうですか」


「食べられる。でも、話すと喉に残る」


「歩き飯中は喋らないほうがいいですね」


 伊三郎がいたらすぐ書くだろう。


 俺は小帳面に書いた。


 歩き飯中、話さない。

 喉に残る。


 太助も試す。


「半枚ならいける。一枚だと水が欲しい。あと、歩きながら包みを戻すのが面倒」


 かやがすぐ包みを見る。


「開け口を折り返せるようにする。片手で戻せないと駄目だ」


 また改良だ。


 北尾根用は、包みも歩きながら扱える必要がある。


 木立を抜け、尾根入口へ出る。


 昨日と同じく、見晴らしが良い。


 見られている腹になる。


 だが今日は、すぐ尾根上へ出ず、少し下の木陰を進んだ。


 完全な道ではない。


 斜面に沿う細い獣道のような場所だ。


 かやが見つけた。


「尾根の真上よりは見えにくい」


「荷は?」


 作兵衛が見る。


「背負いなら通れる。大荷は無理。足元は斜め」


 太助がすぐ言った。


「右足が疲れる」


「昨日は左肩だったな」


「今日は右足」


 作兵衛が頷く。


「北尾根は、上は見られる。下は足が疲れる。どっちを取るかだな」


 どちらも嫌だ。


 だが、選ばなければならない。


 飯線とは、良い道を探すだけではない。


 悪い道の中で、どの悪さを引き受けるかを決めるものだ。


 小帳面に書く。


 尾根下道。

 見えにくい。

 足場斜め。右足疲れ。

 大荷不可。

 短距離なら可。


 さらに進むと、昨日見た鳥のいる開け場が遠くに見えた。


 黒い鳥が数羽。


 やはり何かをつついている。


 護衛の男が低く言った。


「昨日と同じ場所です」


「餌場なのか、誰かが置いているのか」


 俺が呟くと、佐助が少し顔を上げた。


「匂いはここからでは分かりません。でも、同じ場所に集まりすぎです」


 自然の餌場かもしれない。


 だが、もし誰かが餌を置いて鳥を集めているなら。


 人が近づけば鳥が飛ぶ。

 遠くの物見がそれを見る。

 清洲の者が尾根へ入ったと分かる。


 鳥を見張りの道具にしていることになる。


 かやが布を取り出した。


「今日は鳥を飛ばす距離までは行かない。でも、布の動きを試したい」


「ここで?」


「うん。鳥から見えるかどうかじゃなく、こちらの荷の影を小さくする試し」


 彼女は小荷に布を巻き、肩からの出っ張りを減らした。


 見た目が丸くなる。


 人の形が少し小さく見える。


 作兵衛が見て言った。


「背は楽じゃないな」


「楽じゃない。でも短時間なら」


 太助が試しに背負う。


「暑い」


「布で包むから?」


「あと、背中が蒸れる。歩くと汗がこもる」


 北尾根でこれは問題だ。


 水が少ないのに汗が増える。


 見えにくさと、喉の乾き。


 またどちらを取るかになる。


 小帳面に書く。


 荷布、影小さく。

 暑い。汗増。

 長用不可。鳥場手前のみ。


 鳥を飛ばさないための布は、ずっと使うものではない。


 鳥場の手前だけ。


 短く使い、過ぎたら外す。


 また面倒が増えた。


 だが、面倒を嫌がれば鳥が飛ぶ。


 護衛の男が、尾根上をじっと見ていた。


「鳥場の少し手前に、低い松があります」


「見えるか?」


「見えます。あれを目印に、そこで下道へ回れば、鳥の真下へ出ずに済むかもしれません」


 低い松。


 新しい目印だ。


 近づきすぎず、遠くから見える。


 あそこで道を変える。


 北尾根仮線には、低い松の分岐が重要になるかもしれない。


「今日は低い松まで行かない」


 俺は言った。


「場所だけ見る。次に、低い松の手前まで。鳥場はさらに次」


 太助がほっとした顔をした。


「正直、もう喉が乾いてきた」


「水は?」


「まだ我慢できる。でも、喉が先に文句言ってる」


 またその言葉だ。


 北尾根では、本当に喉が先に文句を言う。


 水筒を少しだけ回す。


 一口ずつ。


 飲みすぎない。


 小三郎がいれば水札を置きたがるだろう。


 北尾根にも、水札が要るかもしれない。


 いや、井戸も水場もない道で水札というのも変だ。


 持ち水札。


 俺はそう書きそうになり、やめた。


 名前ばかり増える。


 だが、必要になる予感がした。


 戻る時、尾根下道から木立へ戻ったところで、小さな異変があった。


 草の一部が不自然に倒れている。


 昨日はなかった。


 かやがしゃがみ込む。


「人がいたかも」


「敵か?」


 太助が小声で聞く。


「分からない。でも、ここに座った跡に見える」


 護衛の男が周囲を見る。


「尾根上を見るには良い場所です。鳥場も見える」


 つまり、物見が座る場所かもしれない。


 草の倒れ方は新しい。


 誰かが、俺たちが昨日来た後にここへ入ったのか。


 敵の物見。

 炭焼き。

 猟師。

 ただの村人。


 分からない。


 触らず記録する。


 草倒れ。

 尾根上と鳥場が見える。

 物見座り場の可能性。

 触らず戻る。


 北尾根は、やはり見られている。


 まだ飯線にもなっていない仮線なのに、もう見られている気がする。


 茶屋へ戻ると、女将が水を出す前に言った。


「鳥、いたかい」


「いました。同じ場所に」


「誰かが何か撒いてるかもね」


「やはり?」


「鳥は賢いよ。何もなければ毎日同じ場所に集まらない」


 これで、鳥場はほぼ人為の疑いが濃くなった。


「撒くなら何を?」


「粟でも屑米でも、虫でも。山ならいろいろある」


 飯で鳥を集める。


 敵は、鳥にも飯を使うのか。


 俺は嫌な気持ちになった。


 飯で人を助けることもできる。

 飯で鳥を集め、敵の目にすることもできる。


 飯は、使い方次第でこちらにも敵にもなる。


 茶屋で水を買い、清洲へ戻った。


 清洲蔵に着くと、伊三郎が待っていた。


 小帳面を渡す。


 彼はしばらく眺め、少しだけ息を吐いた。


「昨日より読めます」


「褒めてる?」


「はい」


 ならいい。


 報告をまとめる。


 北尾根仮線、第二見分。


 歩き飯、半枚味噌片なら水我慢可。

 歩き飯中は喋らない。

 包みは片手で戻せる形へ改良。

 草の低い道は遠回りだが揺れ少。

 尾根下道は見えにくいが右足負担。

 荷布は影を小さくするが暑く、汗増。鳥場手前のみ。

 鳥場、昨日と同じ場所。人為餌の疑い。

 低い松、分岐目印候補。

 草倒れ、物見座り場の可能性。

 北尾根は喉・鳥・草を見る線。


 伊三郎は最後の一行を見て言った。


「喉・鳥・草」


「変か?」


「いえ。北尾根仮線の特徴として分かりやすいです」


 また採用されそうだ。


 佐助はさっそく歩き飯を改良した。


 味噌片に浅い切れ目。

 半枚で折れる。

 粉が出にくいよう、少し厚みを変える。

 握り飯は一口を小さくし、竹皮の中でばらけないように二段包み。


 かやは包みの開け口を片手で戻せるようにした。


「歩きながら開けて、歩きながら閉じる。止まらない包み」


「止まらない包み」


 権六が試して言う。


「開けやすい。でも、慣れないと落とす」


「なら練習が要る」


 作兵衛が言った。


「歩き飯を持つ奴には、食い方の稽古も必要だ。飯の稽古だな」


 飯の稽古。


 また変な言葉が増えた。


 だが、北尾根では本当に必要だ。


 歩きながら食べ、喋らず、飲みすぎず、包みを落とさない。


 それは練習しないとできない。


 夕方、清洲蔵の裏で歩き飯の稽古をした。


 権六、太助、仁吉、若い人足二人。


 歩きながら、小さな握り飯を食う。

 味噌片を半枚だけ口へ入れる。

 水はすぐ飲まない。

 包みを閉じる。

 札筒を落とさない。


 権六がすぐ言った。


「文句がある」


「何だ」


「歩きながら飯を食うと、飯を食った気がしない」


「北尾根用だからな」


「でも、足は止まらない」


「それが大事」


「つまり、飯じゃなくて足の油だな」


 足の油。


 思わず笑ってしまった。


 伊三郎は書いていた。


「書くのか」


「表現として面白いです」


「兵に伝わるか?」


「伝わるかもしれません」


 夜の飯は、歩き飯の改良版を湯と一緒に食べた。


 北尾根の現地では、こんなにゆっくりは食べられない。


 だが、味を見るためだ。


 権六は言った。


「味は麓まで来た」


「ようやくか」


「でも、店には入ってない」


「茶屋の前か」


「そうだな」


 佐助は真剣に頷いた。


「次は店先くらいまで近づけます」


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、鳥を飛ばさない味だね」


「飯で鳥が飛ぶのを止められるのか」


「飯だけじゃ無理。でも、歩き方と包み方と食べ方を変えれば、少しは」


 その通りだった。


 北尾根では、飯だけでは足りない。


 歩き方。

 荷の形。

 草の避け方。

 鳥の見方。

 水の飲み方。

 全部合わせて、ようやく飯線になる。


 俺は歩き飯を一口食べた。


 小さい。


 味はまだ遠い。


 だが、昨日より近い。


 鳥を飛ばさず、草を揺らさず、喉を枯らしすぎず、尾根を越える。


 北尾根仮線は、そんな無茶をこちらへ求めている。


 まだ正式線には遠い。


 だが、今日、少しだけ北尾根の腹が見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ