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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第七十七話 北尾根には、水の匂いがなかった

 北尾根仮線の見分は、朝から妙に軽かった。


 荷が軽い。


 高畑砦へ向かった時のような水筒の重さがない。

 砦十人包みもない。

 常備飯の箱板もない。

 味噌片は試作用を少し。

 握り飯も小さめ。

 乾燥菜と、少量の塩。

 あとは札筒と、足元を見るための短い縄。


 軽い。


 だが、軽いから安心というわけではなかった。


 水が少ないから荷が軽いのだ。


 水が少ないということは、道の先で腹を戻す手段が少ないということでもある。


 清洲蔵の入口で、太助が水筒を持ち上げて言った。


「今日は楽そうだな」


 作兵衛がすぐ首を振った。


「楽に見える日は、だいたい後で文句が出る」


「俺が言う前に言うなよ」


「おまえが言うから先に言った」


 太助は不満そうに口を曲げたが、否定はしなかった。


 北尾根仮線は、まだ正式な飯線ではない。


 候補だ。


 高畑砦飯線のように砦があるわけではない。

 井戸番がいるわけでもない。

 村の老人が毎朝札をくれるわけでもない。


 地図の上では、美濃方面へ向かう尾根筋の一つ。


 敵から見れば、こちらの動きを横から見る場所になるかもしれない。

 こちらから見れば、高畑とは別の目になるかもしれない。


 ただし、そのためには飯が通らなければならない。


 飯が通るかどうか。


 今日はその入口だけを見る。


 深く入らない。

 無理をしない。

 使えるか、使えないか、使わないほうがいいかを見る。


 伊三郎は清洲に残る。


 高畑線の通常運用と、仮線の帳面を分けるためだ。


 出る前に、伊三郎は俺へ小さな見分札を渡した。


「北尾根仮線、第一見分です」


「分かってる」


「高畑と同じものを探しすぎないでください」


 俺は少し手を止めた。


「同じもの?」


「はい。背戻し窪地や石仏の曲がりのような場所を探すと、目が曇ります。北尾根には北尾根の腹があります」


 北尾根の腹。


 嫌な言い方だ。


 でも、正しいのだろう。


「分かった。高畑の影を追いすぎない」


「お願いします」


 かやは横で荷を確認していた。


「今日は、味噌片の包みも仮結び。山結び。高畑の細結びとは混ぜない」


「何度も聞いた」


「何度も言わないと混ざる」


 それも正しい。


 佐助は、北尾根用の味噌片を布袋に入れた。


 昨日、権六が「味が遠い」と言ったものを少し直した品だ。


 塩は控えめ。

 香りは少し強め。

 湯なしでも口の中でほどけるよう、薄くしてある。


 ただし、脆い。


 割れやすい。


 佐助は心配そうに言った。


「山道で割れるかもしれません」


「割れたら?」


「食べられます。ただ、粉になると数が分かりにくくなります」


「粉袋を別に持つ?」


「はい。割れた分は粉袋へ。戻ってから量を見ます」


 味噌片の割れまで記録する。


 また面倒だ。


 だが、北尾根では荷が揺れる。


 揺れて割れるなら、それも道の情報だ。


 俺たちは清洲を出た。


 高畑へ向かう道とは途中まで同じだったが、前進飯場の村までは行かない。


 茶屋の手前で北へ折れる。


 茶屋の女は、店先で俺たちを見ていた。


「今日は高畑じゃないんだね」


「北尾根を見に行きます」


「また道を増やすのかい」


「増えるかどうかを見るだけです」


 女将は箒を止め、北の山を見た。


「あっちは水がないよ」


 いきなりだった。


「知っていますか」


「昔、炭焼きが通ってた。水を持たずに入ると喉が鳴るって言ってたよ」


 喉が鳴る。


 それだけで嫌な道だと分かる。


「沢は?」


「あるにはあるけど、尾根に上がってからじゃ遠い。水を取りに下りると、戻るのが嫌になる」


 戻るのが嫌になる水場。


 それは、水場として使いにくい。


 水はあるだけでは駄目だ。


 水を取りに行って戻れるかが大事だ。


「ありがとうございます。茶屋には負担をかけません」


「そうしておくれ。うちは城じゃないからね」


 女将はいつものように言った。


 だが、今日は少し笑っていた。


 北へ折れると、道の雰囲気はすぐ変わった。


 高畑へ向かう道より、人の気配が薄い。


 草が伸びている。

 轍は浅い。

 荷車の跡はほとんどない。

 山裾へ向かう小道が、細く上っていく。


 かやが足元を見る。


「荷車は無理だね」


「最初から無理か」


「無理。背負いのみ」


 作兵衛が人足二人へ言った。


「今日は試し荷だ。軽いが、気を抜くな。草で足元が隠れる」


 太助がすぐ文句を言う。


「草が脛に当たって気持ち悪い」


「書くぞ」


「書かれるほどの文句じゃない」


「でも、草が高いと足元が見えない」


 作兵衛が言うと、太助は「あ」と小さく言った。


 文句の中に道がある。


 高い草は、ただ不快なだけではない。


 石や穴を隠す。


 湿りも隠す。


 蛇がいても分からない。


 かやが草の根元を見た。


「朝露が残る。包みが濡れやすい」


 川道ほどではない。


 だが、足元の草で竹皮が湿る可能性がある。


 北尾根は乾いていると思っていたが、入口の草は湿っていた。


 水場はないのに、荷は湿る。


 嫌な道だ。


 小帳面に書く。


 草高い。

 足元隠れる。

 朝露で包み湿る。

 荷車不可。

 背負いのみ。


 少し上ると、道は木立の中へ入った。


 日が遮られる。


 涼しい。


 だが、風が通らない。


 歩いていると汗がこもる。


 水を飲みたくなるのに、水場はない。


 佐助が味噌片を一つ取り出し、軽く割れを確認した。


「まだ大丈夫です」


「湿気は?」


「包みの外は少し湿っています。中は無事です。でも長く置くのは嫌です」


 北尾根用は軽い。


 だが、日持ちには不安がある。


 高畑の常備飯とはまったく違う。


 ここには、常備を置く前提で考えないほうがいいかもしれない。


 木立を抜けると、急に視界が開けた。


 尾根の入口だった。


 右手に清洲側の低地が見える。


 左手は美濃側へ落ちていく斜面。


 道は細い。


 そして、見晴らしがよすぎた。


 かやが低く言った。


「見えるね」


「見えるな」


 こちらから遠くが見えるということは、向こうからも見える。


 高畑の石仏の曲がりとは違う。


 あそこは局所的に見られる休み場だった。


 北尾根は、道そのものが見られる。


 尾根上を歩く限り、荷も人も動きも隠しにくい。


 太助が思わず言った。


「ここで休むの、嫌だな」


「理由は?」


 作兵衛が聞く。


「落ち着かない。背中を見られてる感じがする」


 いい文句だ。


 まさにそれだった。


 俺も同じ感覚があった。


 風はある。

 眺めもいい。

 荷を下ろせそうな平たい場所もある。


 だが、落ち着かない。


 敵の目があるかどうか分からないのに、見られている腹になる。


 小帳面に書く。


 尾根入口、見晴らし良すぎ。

 休み場不可。

 見られる腹。

 荷下ろし短時間のみ。


 佐助が味噌片を一枚口に含んだ。


 水なしで試すためだ。


 少し噛んで、顔をしかめる。


「味は近くなりました。でも、水が欲しくなります」


「塩は控えめだろ」


「はい。それでも、乾いた口だと欲しくなります。ここは風で口が乾きます」


 風で口が乾く。


 水場がないだけではない。


 尾根の風が水を奪う。


 北尾根用の飯は、塩だけでなく、口の乾きまで考える必要がある。


「握り飯は?」


 俺が聞くと、太助が試しに小さな握り飯を食べた。


 少し柔らかくしたものだ。


 すぐに言った。


「崩れない。でも口に残る。水なしだと、急いで食えない」


 作兵衛が頷く。


「急いで食えないなら、敵に見られる場所では困る」


「小さく分ける?」


 かやが言う。


「一口をもっと小さく。食べる回数は増えるけど、一回の水は減る」


 佐助が考える。


「味噌片も、一枚ではなく半枚ずつ使えるように切れ目を入れます」


 北尾根用の飯は、さらに小分けになる。


 高畑の戻り包みとも違う。


 尾根の上で立ち止まらず、口に少しずつ入れられる形。


「歩き飯だな」


 権六がいればそう言いそうだ、と思った。


 実際、言葉としては悪くない。


 北尾根用は、歩き飯。


 俺は小帳面に書いた。


 歩き飯、検討。


 かやに見られたら笑われるかもしれない。


 尾根をさらに進むかどうか、少し迷った。


 今日の目的は入口見分だ。


 深く入らない。


 だが、入口だけでは水の有無が分からない。


 茶屋の女は、水は遠いと言った。


 それを確認したい気持ちもある。


 その時、五郎兵衛殿の配下が手を上げた。


 護衛としてついていた男だ。


「ここから先、尾根上に黒い鳥が集まっています」


「鳥?」


 俺たちは身を低くして見た。


 尾根の先、少し開けた場所に鳥が数羽いる。


 何かをつついている。


 自然な光景かもしれない。


 だが、護衛の男は顔を険しくした。


「人が通ると鳥が散ります。見張りの合図に使われることがあります」


「つまり、進むと分かる?」


「はい。鳥が飛べば、遠くから動きが見える」


 そんな見方があるのか。


 尾根は、見晴らしだけでなく、鳥まで目になる。


 高畑の石仏罠とは違う。


 北尾根は、自然そのものが合図になりやすい。


「今日はここまで」


 俺は言った。


 太助が少し驚いた。


「もう戻るのか」


「入口見分だ。鳥の先は次にする」


 作兵衛が頷く。


「正しい。深追いすると、戻りの水が危ない」


 戻りの水。


 そうだ。


 今日は水が少ない。


 尾根で口が乾いた。


 これ以上進めば、戻りに水が足りなくなるかもしれない。


 北尾根は、水を飲みたくなるのに、水がない。


 それだけで、危ない。


 戻る前に、尾根入口の少し下にある木陰で荷を下ろした。


 完全には休まない。


 短い肩直しだけ。


 佐助が味噌片の割れを確認する。


 三枚中、一枚の端が欠けていた。


「揺れと乾きで欠けました」


「食えるか」


「食べられます。でも粉が出ます」


 粉袋へ入れる。


 戻って量を見る。


 こんな小さな欠けも、積もれば数が狂う。


 小帳面に書く。


 北尾根、味噌片端欠け。

 粉袋必要。

 小分け切れ目は慎重に。


 帰り道、草の高いところで仁吉が足を引っかけた。


 転びはしない。


 だが、荷が揺れた。


 かやがすぐ止める。


「やっぱり入口の草が危ない。尾根だけ見てると、入口で転ぶ」


 これも大事だ。


 見晴らしのよい尾根ばかり気にしていた。


 だが、実際に荷が乱れたのは入口の草だった。


 敵の目ではなく、足元の草。


 飯線は、派手な危険だけではない。


 小さな不快が荷を崩す。


 茶屋へ戻ると、女将が水を出そうとした。


 俺は一瞬迷った。


 茶屋に頼りすぎるな。


 信長様の言葉が頭に浮かぶ。


「買います」


 俺は言った。


 女将は少し笑った。


「いちいち律儀だね」


「茶屋を潰すなと言われています」


「誰に?」


「上様に」


 女将は目を丸くし、それから吹き出した。


「殿様がうちの茶屋の心配かい」


「はい」


「変な織田だね」


 水を少し買い、皆で飲んだ。


 うまかった。


 北尾根の後の水は、ただの水ではなかった。


 喉が鳴る、という女将の言葉を思い出す。


 清洲蔵へ戻ったのは、昼過ぎだった。


 深く入らなかったので、時間はかかっていない。


 だが、全員の顔に疲れがあった。


 水の少ない道は、距離以上に疲れる。


 伊三郎はすぐ報告を聞いた。


 俺が小帳面を出すと、彼は少しだけ目を細めた。


「字が薄いです」


「尾根で書いたから」


「努力します」


 努力して読まれる帳面。


 申し訳ない。


 報告をまとめる。


 北尾根仮線、入口見分。


 荷車不可。

 草高く、朝露で包み湿る。

 尾根入口は見晴らし良すぎ。休み場不可。

 水場なし。茶屋情報では尾根上の水は遠い。

 風で口が乾く。味噌片、水欲しさ増。

 握り飯、一口を小さくする必要あり。

 味噌片、半枚使用検討。ただし欠けや粉化注意。

 鳥が合図になる可能性あり。深追いせず撤退。

 入口草で足引っかけ。尾根だけでなく入口対策必要。

 茶屋で水を購入。茶屋依存注意。


 伊三郎は書き終えてから、しばらく黙った。


「高畑とは違いますね」


「違う」


 俺は即答した。


「高畑は、点をつないだ飯線だった。北尾根は、線そのものが見られる。休む場所を探す前に、歩きながら食べる飯が要る」


「歩き飯」


 伊三郎が書く。


「本当に書くのか」


「よい名前です」


 また採用されてしまった。


 かやが笑う。


「歩き飯、清吉っぽい」


 佐助は真剣だった。


「歩き飯用に、味噌片を半枚ずつ折れる形にします。握り飯も一口を小さく。水なしで喉に残りにくいよう、乾燥菜の入れ方を変えます」


 作兵衛が言う。


「北尾根見分は短く切る。戻り水を必ず残す。人足の文句は早めに聞く。喉が乾いたと言い出したら、もう遅いかもしれん」


 太助が頷いた。


「北尾根は、腹より先に喉が文句を言う」


 それだ。


 俺は思わず太助を見た。


「今の、いい」


「え、書くのか?」


 伊三郎はもう書いていた。


 北尾根、腹より先に喉が文句を言う。


 太助は頭を抱えた。


「俺の文句、残りすぎだろ」


 権六がいれば喜んだだろう。


 夜、清洲蔵では北尾根用の試作飯を改めて作った。


 歩き飯。


 小さな握り飯をさらに二つに分ける。

 味噌片には浅い切れ目を入れ、半分ずつ使えるようにする。

 乾燥菜は細かくしすぎず、喉に残らない程度に混ぜる。

 水は少量。


 食べてみる。


 味はまだ少し遠い。


 だが、昨日よりは近い。


 権六は試食して言った。


「味が峠を越えた」


「やっとか」


「でも、まだ麓までは来てない」


「遠いな」


 佐助は悔しそうだが、少し笑っていた。


 かやが椀を持って言う。


「今日の飯は、水の匂いがしない味だね」


「水の匂い?」


「北尾根、そうだったでしょ。水がないっていうより、水の気配が薄い」


 その通りだった。


 北尾根には、水の匂いがなかった。


 草の湿りはある。

 汗も出る。

 口は乾く。


 なのに、飲める水の気配が遠い。


 そういう道だった。


 高畑とは違う。


 だから、飯も違う。


 俺は歩き飯をもう一口食べた。


 小さい。


 軽い。


 腹いっぱいにはならない。


 だが、足を止めずに少しだけ前へ進むための飯になるかもしれない。


 北尾根仮線。


 まだ入口しか見ていない。


 それでも、この線は簡単ではないと分かった。


 水のない尾根では、飯より先に喉が試される。


 次は、その喉をどう守るかだ。

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