第七十六話 三本の線を引く前に、蔵が絡まった
複数砦飯線。
その言葉が清洲蔵に入ってきた途端、蔵の空気は少しだけ悪くなった。
悪いと言っても、誰かが怒鳴ったわけではない。
米俵は黙っている。
味噌樽も黙っている。
味噌片も、竹皮の中で静かに乾いている。
けれど、人の腹だけがざわついていた。
高畑砦飯線は、一本だった。
一本でも、あれだけ面倒だった。
水札。
戻り包み。
砦十人包み。
常備飯。
井戸番。
連絡足。
茶屋の白布と赤紐。
偽緊急札への確認足。
それを、今度は三本に増やす。
北尾根候補。
川道先候補。
山裾手前候補。
名前を聞くだけなら簡単だ。
地図の上に石を三つ置くだけなら、もっと簡単だ。
だが、飯は石ではない。
米も味噌も、人の背も、帳面も、文句も、三倍に増えたからといって綺麗に三つへ分かれてくれるわけではない。
そのことを、俺たちは新章の初日から思い知った。
「清吉」
かやが、朝一番で俺を呼んだ。
「もう絡まった」
「何が?」
「線」
早い。
まだ何も始まっていないのに、もう絡まったらしい。
俺が荷台の前へ行くと、かやは三種類の竹皮包みを並べていた。
高畑用の細結び。
北尾根候補用の山結び。
川道先候補用の水結び。
昨日決めたばかりの仮結びだ。
高畑は正式線だから細結び。
北尾根は山道を想定して山結び。
川道先は濡れを想定して水結び。
山裾手前は草結び。
ところが、目の前には細結び、水結び、山結びが混じっていた。
「誰が混ぜた?」
俺が聞くと、かやは首を振った。
「誰かが悪いんじゃない。置き場が悪い」
「置き場?」
「高畑用の味噌片棚の横に、川道先の試作用を置いた。さらに北尾根用の包みを同じ竹皮で作った。結びは違うけど、急いでると混ざる」
佐助が横で小さく言った。
「味噌片も、見た目が似ています。輸送用、高畑常備用、川道湿気試作用、山道軽量用……香りは違うのですが、包んでしまうと分かりにくいです」
伊三郎は帳面を開いたまま、すでに眉間に皺を寄せていた。
「棚を線ごとに分ける必要があります」
「蔵が狭くなるな」
権六が入口から言った。
「清洲蔵が飯で埋まるぞ」
「もうだいぶ埋まってる」
俺が言うと、権六は妙に真面目に頷いた。
「正式に埋まり始めたな」
笑えない。
高畑だけなら、高畑棚でよかった。
だが、複数線になれば、線ごとの棚が要る。
高畑用。
北尾根候補用。
川道先候補用。
山裾手前候補用。
そして、それぞれに試作品と本運用がある。
味噌片だけではない。
水筒、竹皮、包み紐、札、戻り札、文句札、見分札。
全部、線ごとに違ってくる。
俺は思わず額を押さえた。
「美濃を攻める前に、蔵が負けるぞ」
作兵衛が人足たちの背当てを持って近づいてきた。
「それを先に言うための初日だろ」
「慰めか?」
「いや、事実だ。蔵の中で混ざるものは、道に出たらもっと混ざる」
その通りだった。
清洲蔵で混ざるなら、前進飯場ではもっと混ざる。
砦ではさらに混ざる。
敵に狙われるまでもなく、こちらが自分で絡まる。
「まず蔵を分けます」
伊三郎が言った。
「線ごとの棚。線ごとの札箱。線ごとの試作籠。高畑の正式運用と、新しい三候補は絶対に混ぜません」
「名前は?」
権六が聞く。
「必要か?」
俺が言うと、権六は当然のように言った。
「必要だろ。文句を言う時に困る」
最近、文句を基準に物事が決まることが増えている。
不本意だが、実際に困る。
伊三郎はすぐに板へ書いた。
一、高畑線。
二、北尾根仮線。
三、川道仮線。
四、山裾仮線。
「仮線?」
かやが聞く。
「はい。まだ正式な飯線ではありません。候補です。仮線と呼びます」
仮線。
悪くない。
正式線と仮線。
これなら、まだ見分段階だと分かる。
俺は頷いた。
「仮線の荷は、絶対に高畑へ出さない。高畑の荷も仮線へ回さない」
「それも書きます」
伊三郎はまた書く。
字が増える。
板も増える。
帳面も増える。
そして、俺の腹も重くなる。
午前のうちに、清洲蔵の中の配置替えが始まった。
高畑線棚はそのまま。
北尾根仮線は、山道用の軽い荷を置くため、背負い荷の近くへ。
川道仮線は、湿気を見るため、水筒と竹皮保管の近くへ。
山裾仮線は、草地や村境を想定して、連絡札と小荷の間へ。
かやが縄を張り直す。
佐助が味噌片を小さな木札で分ける。
伊三郎が線ごとの札を作る。
作兵衛が人足に説明する。
「高畑線は細結び。北尾根仮線は山結び。川道仮線は水結び。山裾仮線は草結び。分からなくなったら勝手に持つな。聞け」
太助が顔をしかめた。
「結びが増えすぎだ」
「だから聞けと言ってる」
「聞いたら怒られないか?」
「怒らない。黙って間違えたら怒る」
それは大事だ。
分からないと言える場所を作らなければ、人は勝手に判断する。
勝手な判断は、飯線を絡ませる。
清洲式は面倒だが、面倒を隠すともっと面倒になる。
昼前、最初の「机上見分」が始まった。
実際に道へ出る前に、蔵の中で三つの仮線を動かす真似をする。
伊三郎が考えた。
地図の上に三つの線を置き、それぞれに仮の札を送る。
北尾根仮線は山道で水少なめ。
川道仮線は水多めだが湿気あり。
山裾仮線は村との接触あり、火は条件付き。
それぞれへ、どんな飯を出すか決める。
「面倒な遊びみたいだな」
権六が言った。
「遊びではありません」
伊三郎は真顔だ。
「蔵の中で間違えるなら、道に出る前に直せます」
まず北尾根仮線。
山道。
荷車不可。
背負いのみ。
水場不明。
敵の目は尾根上にありそう。
俺は考えた。
「北尾根は、軽さ優先。握り飯は小さく。味噌片は輸送用より硬め。水は少なめだが、味噌片をそのまま使える塩加減にする。火は使わない前提」
作兵衛が頷く。
「人足は少数。文句を隠さない奴。足場を見るため、太助みたいなのが向く」
太助が嫌そうにした。
「また俺か」
「まだ決まってない」
「決まる顔してるぞ」
次に川道仮線。
川の先。
水はある。
だが湿気と濡れが問題。
味噌片は柔らかくなるかもしれない。
竹皮が湿ると握り飯が悪くなる。
佐助がすぐ言った。
「川道用は味噌片より味噌玉のほうがいいかもしれません。硬く乾かした味噌片は湿気で割れ方が悪くなります。水があるなら、少し厚い味噌玉を湯で溶くほうが安定します」
「高畑と逆か」
「はい。場所が違います」
かやが荷の形を考える。
「濡れ対策で竹皮二重。ただし重くなる。荷車が使えるならいいけど、渡しの揺れで中が寄る。味噌は竹筒も試す」
川道は、北尾根とはまったく違う。
同じ味噌では駄目。
同じ包みでも駄目。
最後に山裾仮線。
村境。
草地。
火は条件付き。
水場はあるかもしれないが、村のものかもしれない。
噂が入りやすい。
俺は高畑の前進飯場を思い出した。
「山裾は、まず村を見る。飯より先に約束。火と水を勝手に使わない。握り飯中心で、味噌片は少量。噂紙対策で、荷を大きく見せない」
権六が言った。
「そこは文句が多そうだな」
「どんな?」
「村は『兵が増える』って文句。兵は『飯が少ない』って文句。人足は『草で足が濡れる』って文句」
嫌なほど想像できる。
伊三郎は全部書いた。
そして、しばらくして顔を上げた。
「三つとも、高畑式をそのまま使えません」
分かっていたことだ。
だが、はっきり言葉にされると重い。
高畑で学んだことは役に立つ。
しかし、高畑の形はそのまま写せない。
信長様の言葉通りだった。
高畑で学んだことを忘れるな。
だが、高畑に縛られるな。
「清吉」
かやが言った。
「一本ずつ見たほうがいいよ」
「三本同時は無理か」
「無理。少なくとも最初は。蔵が絡まる」
すでに絡まりかけている。
同時に見分へ出れば、誰が何を見たのか分からなくなる。
高畑線の維持もある。
北尾根、川道、山裾を全部いっぺんに見ようとすれば、清洲蔵の腹が破れる。
「最初は北尾根仮線から」
俺は言った。
皆がこちらを見る。
「理由は?」
伊三郎が聞く。
「高畑と一番違うようで、一番近いからです。山道、軽荷、火なし。高畑で使った考え方が一部使える。でも、尾根の敵目や水なしはもっと厳しい。最初に見るにはいいと思います」
作兵衛が頷いた。
「人足の背を見るにもいい。川道は喜助も絡むから準備が要る。山裾は村の話が先だ」
かやも言う。
「北尾根なら荷の軽量試験から入れるね」
佐助は少し不安そうだったが、頷いた。
「北尾根用の味噌片を作ります。高畑輸送用よりさらに小さく、湯なしで使えるように。ただ、水が少ないなら塩は強くできません」
「味は?」
「たぶん、もっと粗末になります」
権六がすぐ反応した。
「また粗末飯か」
「粗末と言われるかもしれません」
佐助は真面目に言った。
俺は首を振った。
「先に清洲で食べる。高畑の時と同じだ。粗末と言われる前に、俺たちが文句を出す」
権六が胸を叩いた。
「任せろ」
「誇るな」
午後、北尾根仮線用の試作が始まった。
小さな握り飯。
さらに薄い味噌片。
干し菜ではなく、細かく砕いた乾燥菜。
水が少なくても喉を通るよう、握り飯を少し柔らかくしたい。
だが、柔らかいと崩れる。
かやが試しに包む。
走る。
揺れる。
崩れる。
「駄目」
かやが即答した。
「柔らかすぎる。山道で潰れる」
佐助が味噌片を調整する。
「塩を弱めると味が薄すぎます。疲れた時に効かない」
権六が試食する。
「これは文句が出る」
「どんな文句?」
「味が遠い」
「味が遠い?」
「口に入れたのに、味がまだ山の向こうにいる」
妙な表現だ。
だが、分かる気もした。
味が弱すぎるのだ。
北尾根用は、水を欲しがらせないために塩を弱めた。
その結果、腹に届く味が遠い。
佐助は真剣に頷いた。
「では、香りを少し足します。塩ではなく香りで味を近づける」
「そんなことできるのか」
「試します」
佐助の顔が、少し職人の顔になった。
味噌片職人である。
おとらときぬも呼ばれた。
味噌片の形が増えるということで、手間賃の話も同時にする必要がある。
俺は先に言った。
「北尾根用は手間が増えます。試作分も、きちんと記録します」
おとらは笑った。
「最近の清洲は、先に銭の話をするようになったね」
「敵の銭が入る前に、こちらの手間を見たいので」
「いいことだよ」
きぬが小さく頷いた。
「手間を見てくれるなら、面倒な味噌でも作れる」
これも高畑で学んだことだった。
手間を見ないと、敵がそこへ入る。
夕方には、北尾根用味噌片の試作ができた。
薄い。
小さい。
塩は控えめ。
だが、香りが少し近い。
佐助が、味噌の中に干し菜の香りを移す工夫をしたらしい。
権六が食べて、少し目を細めた。
「さっきより近い」
「山の向こうから戻ってきたか」
「峠の手前くらい」
「まだ遠いな」
「でも進歩だ」
佐助は真面目に頷いた。
「もう少し調整します」
夜、清洲蔵では北尾根仮線用の試作飯を皆で食べた。
小さな握り飯。
香りを足した薄味噌片。
乾燥菜。
少ない水。
高畑砦飯より、さらに寂しい。
だが、軽い。
腹いっぱいにはならない。
しかし、山道で足を止めないための飯としては、考える余地がある。
作兵衛が言った。
「これだけだと、人足は長くは無理だ。北尾根見分は短く切るべきだな」
「一日で深く入らない」
俺は頷いた。
「まず入口だけ見る。水、休み場、敵の目。高畑みたいに一気に砦まで考えない」
伊三郎が書く。
北尾根仮線、第一見分。
入口のみ。
水場確認。
休み場確認。
敵目確認。
人足負担確認。
深追いしない。
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、三本に増える前に絡まった味だね」
「嫌な味だな」
「でも、蔵の中で絡まってよかった。道に出てから絡まるよりまし」
その通りだ。
新章初日。
俺たちはまだ道へ出ていない。
それでも、もう一つ学んだ。
複数砦飯線は、地図に線を引けば始まるものではない。
蔵の中を分けるところから始まる。
棚を分ける。
札を分ける。
味を分ける。
手間を分ける。
文句を分ける。
分けたうえで、絡まないようにつなぐ。
一本の飯線では、美濃は動かない。
だが、三本の線を引く前に、清洲蔵そのものが絡まっては意味がない。
俺は薄い味噌片を噛んだ。
味はまだ遠い。
でも、少しだけ近づいている。
北尾根仮線。
次は、そこを見に行く。




