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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第七十五話 一本の飯線では、美濃は動かない

高畑砦飯線が、正式に軍の道になった。


 そう言われた翌朝、清洲蔵は少しだけ落ち着いていた。


 落ち着いていた、というより、皆が疲れていた。


 飯線が認められたからといって、米俵が軽くなるわけではない。

 味噌片が勝手に割れて束になるわけでもない。

 水札が自分で歩くわけでもない。

 連絡足の札筒が跳ねなくなるわけでもない。


 それでも、蔵の中には、昨日までと違う空気があった。


 高畑砦飯線は、もう思いつきでも試しでもない。

 信長様の命で、美濃攻略準備の一部になった。


 その重さは、米俵より静かで、味噌樽より腹に残った。


「清吉」


 かやが味噌片の束を並べながら言った。


「顔が正式採用された味噌みたい」


「どういう顔だ」


「嬉しいけど、塩気が増えてる顔」


「分かりにくい」


「分かるでしょ」


 分からないようで、少し分かった。


 嬉しい。


 それはある。


 俺たちが歩いて、見て、失敗しかけて、文句を聞いて、何度も作り直したものが、軍の道として認められた。


 けれど同時に、塩気が増えた。


 責任の味だ。


 正式になったものは、もう「試しだから」で済まない。


 高畑砦の飯が止まれば、清洲蔵の責任になる。

 水札が乱れれば、井戸番だけではなく俺たちの責任になる。

 連絡足が偽札を飲めば、前進飯場の村や茶屋まで巻き込む。

 常備飯が腐れば、高畑砦の目が曇る。


 重い。


 だが、悪い重さではない。


 作兵衛が人足たちの背当てを見ながら言った。


「清吉、今日は高畑行き少なめだな」


「ああ。見張り前飯と水札の確認だけ」


「なら、連絡足の練習を増やせる。太助が札筒の紐にまた文句を言ってた」


 太助はすぐ振り返った。


「言うだろ。あれは跳ねる。軽いくせに自己主張が強い」


 権六が笑った。


「札筒にも文句か。見込みがある」


「権六に認められても嬉しくねえ」


 皆が笑った。


 笑いがある。


 これも、飯線の一部なのだと思う。


 笑えなくなった蔵は危ない。


 文句も笑いも、腹の空気を抜く穴だ。


 昼前、信長様から再び呼び出しが来た。


 昨日、大きな報告を終えたばかりだ。


 また何かあったのかと、俺の腹がすぐ重くなる。


 弥助殿は、いつも通り短く言った。


「清吉、伊三郎、かや、佐助、作兵衛、権六。来い」


「権六も、すっかり定番だな」


 俺が小声で言うと、権六は胸を張った。


「文句は軍を動かす」


「動かしすぎると邪魔だ」


「そこを聞き分けるのが文句役だ」


 もう、言い返す気も失せた。


 信長様の部屋へ入ると、地図が昨日より大きく広げられていた。


 高畑砦だけではない。


 美濃へ向かう境目の道が、さらに広く描かれている。


 小さな砦。

 村。

 川。

 山道。

 渡し場。

 まだ名前も知らない場所。


 高畑砦は、その中の一つに過ぎなかった。


 俺は地図を見た瞬間、嫌な予感がした。


 信長様は、俺たちが頭を下げる前から地図を見ていた。


「高畑の飯線は通った」


「はい」


 俺は答えた。


「では、次だ」


 やはり来た。


 腹の中で、昨日の粥が急に重くなった気がした。


 信長様は、高畑砦の横に置かれた石を指で押した。


「一本の飯線では、美濃は動かない」


 部屋が静まった。


「高畑は目になる。だが、目が一つでは敵も読む。高畑へ飯を集めれば、敵は高畑の喉を締めに来る。昨日の偽札がそうだ」


 高畑砦飯線の喉。


 清洲、茶屋、前進飯場、高畑。


 そこを敵は狙った。


 一本の線は、通れば強い。


 だが、一本しかなければ、そこを締められる。


「なら、飯線を増やす」


 信長様は地図の別の場所に石を置いた。


 一つ目。

 高畑より少し北の小さな尾根。

 二つ目。

 川道に近い渡し場の先。

 三つ目。

 奥の村には入らないが、その手前の山裾。


 全部、美濃へ向かう線の候補だった。


 伊三郎の筆が止まった。


 かやも黙った。


 佐助は少し顔を青くしている。


 作兵衛は腕を組み、地図を睨んでいる。


 権六ですら、すぐには文句を言わなかった。


 俺は、ただ地図を見ていた。


 一本でも大変だった。


 高畑砦飯線だけで、どれだけのものを作ったか。


 味噌片。

 砦十人包み。

 水札。

 戻り包み。

 連絡足。

 茶屋の布と紐。

 井戸番の代役。

 常備飯の開け時。

 偽緊急札への確認足。


 それを増やす。


 複数の砦。

 複数の飯線。


 腹が重いどころではない。


 蔵ごと背負わされたような気がした。


「上様」


 俺は恐る恐る言った。


「高畑だけでも、まだ細い線です」


「知っている」


 信長様は即答した。


「だから増やす」


「細いから、ですか」


「そうだ」


 信長様は地図から目を上げた。


「太くするだけでは、敵に見える。一本を太くすれば、敵はそこを切る。細い線を何本も作る。敵に、どれが本筋か読ませぬ」


 俺は息を呑んだ。


 一本を太くするのではない。


 細い線を何本も作る。


 清洲式そのものだった。


 荷も分ける。

 味噌も分ける。

 水も分ける。

 文句も分ける。

 常備飯も分ける。


 今度は、飯線そのものを分ける。


「ただし」


 信長様の声が少し低くなった。


「無闇に増やせば、清洲蔵が潰れる」


 その一言に、俺だけでなく全員が頷きそうになった。


 当然だ。


 人手も米も味噌も、水筒も、味噌片を作る手も、帳面を書く伊三郎の手も無限ではない。


 高畑砦飯線を三つも四つも同時に作れば、清洲蔵そのものが腹を壊す。


「だから、まず候補を見ろ」


 信長様は言った。


「高畑を基準にし、同じ形をそのまま写すな。場所ごとに飯を変えよ」


 伊三郎が小さく呟いた。


「高畑式を写すのではなく、考え方を写す……」


 信長様が聞きとがめるように見る。


「そうだ。高畑の味噌片が、別の砦でも使えるとは限らぬ。高畑の水札が、そのまま川道の先で使えるとは限らぬ。石仏の罠がなければ、別の罠がある」


 かやが地図を見ながら言った。


「荷の形も変わりますね。川道近くなら濡れ対策が先。山裾なら背負い。尾根なら軽さ」


 佐助も続ける。


「味噌片も、水の多い場所と少ない場所で塩を変えます。湿気が多ければ乾かし方も変えます」


 作兵衛が言う。


「人足も同じ奴を回しすぎると潰れる。線ごとに背の使い方が違う」


 権六がようやく口を開いた。


「文句も増えるぞ」


 信長様が権六を見た。


「増えるだろうな」


「高畑の兵、川道の兵、山の人足、村、茶屋。全部違う文句になります」


「なら、聞き分けろ」


 権六は一瞬、目を丸くした。


 それから、妙に真面目な顔で頭を下げた。


「はっ」


 文句役が、ついに正式な役のようになってしまった。


 少しおかしい。


 でも、笑えなかった。


 それくらい、話が大きくなっていた。


 信長様は、三つの石を見ながら言った。


「美濃攻略は、城を攻める前に飯の目を置く。高畑で一つ。次に二つ。三つ。敵が嫌がる場所に、飯を先に置く」


 敵が嫌がる場所へ、飯を先に置く。


 前にも似た言葉を聞いた。


 だが、今は重さが違う。


 飯を置くとは、兵を置くことだ。

 水を決めることだ。

 文句を聞くことだ。

 連絡をつなぐことだ。

 偽札を見抜くことだ。


 ただ米俵を置くことではない。


「清吉」


「はい」


「次の章だ」


 信長様の言葉に、俺は顔を上げた。


「高畑砦飯線は、もう試しではない。これより、複数砦飯線の見分に入る。まず三候補。全部に飯線を通すとは限らぬ。使えるか、使えぬか、使わぬほうがよいかを見よ」


 使える。

 使えぬ。

 使わぬほうがよい。


 飯場可否帳と同じだ。


 だが、今度は砦と飯線そのものに対して使う。


「承知しました」


 俺は頭を下げた。


 声は思ったより落ち着いていた。


 不思議だった。


 怖い。


 もちろん怖い。


 でも、高畑の前に立った時のような、何も分からない怖さではなかった。


 今は、少しだけ道具がある。


 七つの目。

 五つの柱。

 行き包み。

 戻り包み。

 水札。

 連絡足。

 文句帳。

 常備飯。

 そして、見続けるという考え方。


 全部をそのまま使えるわけではない。


 でも、腹の中に残っている。


 信長様は地図を畳ませなかった。


 そのまま俺たちへ見せ続けた。


「高畑で学んだことを忘れるな。だが、高畑に縛られるな」


 その言葉は、味噌片より硬く腹に残った。


 会議が終わると、清洲蔵へ戻る道で、誰もすぐには喋らなかった。


 最初に口を開いたのは、やはり権六だった。


「増えるな」


「増えるな」


 俺は答えた。


「文句も」


「飯も」


「帳面も」


 伊三郎が静かに言う。


「増えます」


「即答だな」


「増える前提で整理しないと潰れます」


 かやがため息をついた。


「高畑用の棚だけじゃ足りないね。線ごとの棚がいる。混ぜたら終わり」


 佐助も言った。


「味噌片の種類が増えます。輸送用、常備用、川道用、山裾用……名前を決めないと混ざります」


 作兵衛が人足のほうを見る。


「背も増えねえぞ。人足の回し方を先に決める。線を増やして背を壊したら、全部止まる」


 太助が近くで聞いていて、顔をしかめた。


「連絡足も増えるのか」


「増えるだろうな」


「札筒の紐、先に直してくれ。複数になったら腰が死ぬ」


 かやが笑った。


「分かった。連絡足用の紐も改良」


 それすら、もう新しい課題になる。


 清洲蔵へ戻ると、蔵の中がいつもより狭く感じた。


 米俵は同じ。

 味噌樽も同じ。

 味噌片の棚も同じ。

 水札も同じ。


 だが、地図の上には新しい線が三本増えた。


 その重さで、蔵が狭く感じる。


 伊三郎はすぐに新しい板を用意した。


「複数砦飯線候補帳」


「早いな」


「遅いくらいです」


 板には、三つの候補が書かれた。


 一、北尾根候補。

 二、川道先候補。

 三、山裾手前候補。


 名前はまだ仮だ。


 だが、名前がつけば見える。


「まずは見分項目を作ります」


 伊三郎が言う。


「高畑の七目と五柱を基準にします。ただし、最初から高畑と同じ仕組みにしない。使えるか、使えないか、使わぬほうがよいかを見る」


 かやが荷の棚を見て言った。


「線ごとに色……じゃなくて、結びを変えよう。高畑は細結び。北尾根は仮に山結び。川道先は水結び。山裾手前は草結び」


「草結び?」


 権六が反応する。


「名前が弱そうだな」


「文句あるなら案出して」


「……草結びでいい」


 弱い。


 権六は名前を出すのが苦手らしい。


 佐助は味噌片の試作用に、小さな札を作った。


「湿気を見るため、同じ味噌片を三か所に持っていく必要があります。どこで柔らかくなるか、匂いが変わるか」


「味噌片の見分か」


「はい。味噌も道を見ます」


 味噌も道を見る。


 佐助らしい言葉だった。


 作兵衛は人足たちを集めた。


「すぐに全部の道へ行くわけじゃねえ。ただ、これから見分が増える。無理に『行けます』と言うな。足が悪い日は先に言え。背中は嘘をつくな」


 人足たちはざわついた。


 見分が増える。


 仕事も増える。


 銭の話も必要になる。


 作兵衛は先に言った。


「待機銭、見分銭、連絡足銭。曖昧にしないよう清吉が上げる」


 俺は急に名前を出されて、慌てて頷いた。


「上げます」


 太助が言った。


「通るのか?」


「通すように言う」


「清吉が言うと、何か通りそうで怖いな」


「俺にそんな力はない」


 でも、言わなければならない。


 高畑で学んだ。


 銭の穴を見ないと、敵の銭が入る。


 線が増えるなら、銭の穴も増える。


 そこを見ないまま進めば、清洲蔵の腹が先に崩れる。


 夕方、前進飯場の村へ高畑飯線が正式になったことと、次の見分が始まることを伝える使いを出した。


 老人から返ってきた言葉は短かった。


「線を増やすなら、村を道具にするな」


 俺は、その返事を聞いて深く息を吐いた。


 厳しい。


 だが、正しい。


 村は飯線の部品ではない。


 人が暮らしている場所だ。


 茶屋も同じ。

 井戸番も同じ。

 人足も同じ。


 線を増やすほど、人を部品に見てしまう危険がある。


 そこは忘れてはいけない。


 夜、清洲蔵では、高畑飯線正式化の締めとして作った粥の残りを少し薄め、皆で食べた。


 豪華ではない。


 むしろ昨日より薄い。


 次が始まる前の飯だった。


 権六が椀を見て言った。


「今日の飯は、終わったのに終わってない味だな」


「それだな」


 俺は笑った。


 高畑砦飯線の話は、ひとまず終わった。


 だが、美濃攻略の飯は終わらない。


 一本の飯線が軍の道になった。


 そして、一本では足りないと分かった。


 かやが言う。


「次は三本かあ」


 佐助が小さく言う。


「味噌片も三倍ですね」


 伊三郎が即答する。


「帳面も三倍です」


 作兵衛がため息をつく。


「背は三倍にはならねえぞ」


 太助が札筒を持ち上げる。


「腰もな」


 皆が笑った。


 笑ったが、その笑いの奥には、次の重さがあった。


 俺は粥をすすった。


 薄い。


 だが、腹に落ちる。


 高畑で学んだことを忘れるな。

 だが、高畑に縛られるな。


 信長様の言葉が、湯気の向こうに残っていた。


 一本の飯線では、美濃は動かない。


 なら、次は複数の飯線だ。


 清洲蔵の火は、まだ消えそうにない。

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