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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第七十三話 偽の緊急札

 連絡足は、飯を運ばない。


 米俵も背負わない。

 味噌片も持たない。

 水筒も、最低限だけ。


 それなのに、清洲蔵の誰もが、連絡足を見送る時は少し息を止めた。


 荷より軽い。

 でも、意味は重い。


 清洲から茶屋へ。

 茶屋から前進飯場の村へ。

 前進飯場の村から高畑砦へ。

 そしてまた戻る。


 札を運ぶ。


 風の札。

 水の札。

 道の札。

 火の札。

 罠の札。

 文句の札。

 砦の水札。

 常備飯の開封札。


 飯そのものではない。


 だが、札がなければ飯は間違える。


 火を使ってはいけない日に火を使う。

 水が少ない日に味噌片湯を増やす。

 石仏の曲がりで止まってしまう。

 砦の常備飯を開ける時を誤る。


 札は小さい。


 だが、飯の向きを決める。


 その朝、太助は連絡足として清洲蔵の入口に立っていた。


 背負い荷はない。


 腰に小さな札筒。

 竹筒の水。

 非常用の味噌片一枚。

 小さな握り飯。

 そして、戻り札の束。


 太助は何度も札筒を触っていた。


「落ち着かないのか」


 俺が聞くと、太助は苦い顔をした。


「米俵のほうが気が楽だ。重いものは、背中で分かる。札は軽すぎて怖い」


 作兵衛が頷いた。


「軽い荷ほど、落とした時に気づきにくい。だから二人で行け」


 太助の横には、弥助殿の配下である小平が立っている。


 口数は少ないが、目がよく動く男だ。


 太助が文句で道を見るなら、小平は黙って道を見る。


 二人で一組。


 清洲側の連絡足。


 前進飯場の村からは、若い男の伊之助と、もう一人の村人・弥太が交代で出ることになっている。


 茶屋は連絡の途中で、道の異常を布と紐で知らせる。


 白布なら道塞ぎ。

 赤紐なら知らぬ男。

 何もなければ通常。


 簡単だ。


 簡単だから、使える。


「今日はまず試しだ」


 俺は太助へ言った。


「無理に速く行かなくていい。道を見て、茶屋を見て、村で札を受けて戻る。怪しいものがあったら、進まず戻る」


「進まず戻るのが仕事って、足が変な気分になるな」


「戻るのも仕事だ」


 太助は少し笑った。


「清洲式は、戻ることばっかり大事にする」


「戻らないと、次がない」


 それは、もう何度も腹で知ったことだった。


 連絡足が出た後、清洲蔵はいつもより静かになった。


 荷が出たわけではない。


 だが、何か大事なものが外へ行った感じがする。


 伊三郎は帳面を開き、時刻を記していた。


「出発、辰の刻前。清洲札筒一。戻り札五種。同行二名」


「そこまで書くのか」


「札が狙われていますから」


 そうだ。


 敵は荷だけではなく、連絡を狙ってきた。


 なら、札の動きも飯の動きだ。


 昼前、太助たちは戻ってきた。


 息は上がっているが、顔は悪くない。


「茶屋、異常なし。白布なし、赤紐なし。前進飯場の村、風は昼過ぎから山側へ。水は昨日より少し戻った。石仏の罠、変化なし。山側の足跡、新しいものなし」


 伊三郎がすぐ書く。


 俺はほっと息を吐いた。


 連絡足は通った。


 まずは一本、通った。


 太助は水を飲み、すぐ文句を言った。


「札筒が腰で跳ねる。走ると邪魔だ」


 かやが即座に札筒を見た。


「紐の位置が悪いね。少し斜めにしよう」


「あと、小さな握り飯はありがたい。でも、急ぐと喉に残る」


「連絡足用はもっと小さく二つに分ける」


 佐助が言う。


「味噌片は?」


「今日は食わなかった。でも、あると少し安心する」


 食べない飯にも意味がある。


 安心のための味噌片。


 それも連絡足の荷になる。


 午後には、村側の伊之助が清洲へ来た。


 村から清洲へ直接ではなく、茶屋を経由してきた。


 途中で茶屋の女が白布と赤紐の場所を見せてくれたらしい。


「おかみさんが言ってた。『うちは城じゃないけど、布くらいなら出す』って」


 伊之助が苦笑する。


 俺は頭を下げた。


「無理をさせないようにします」


「爺さんも同じこと言ってた。茶屋を潰すなって」


 信長様と同じことを言う。


 老人もなかなか怖い。


 その日、連絡足は三往復した。


 大きな異常はない。


 それだけで、清洲蔵から前進飯場の村までの線が、前より見えるようになった。


 荷が動く前に、札が動く。


 札が戻ってから、荷を決める。


 火ありか、火なしか。

 水を足すか、持ち込みだけか。

 高畑砦へ見張り前飯を送るか、常備飯でつなぐか。


 判断が早くなった。


 だが、線が見えれば、敵もそこを見てくる。


 翌朝、問題は高畑砦から来た。


 砦の使いが、息を切らして清洲蔵へ飛び込んできた。


 札筒を握っている。


 顔色が悪い。


「高畑から緊急札です!」


 蔵の中が一気に固まった。


 緊急札。


 赤い線の入った札だ。


 高畑砦で常備飯を開ける判断に関わる札でもある。


 俺は受け取ろうとして、手を止めた。


 先に合言葉。


「朝の水」


 使いは答えた。


「……左二折り」


 合っている。


 だが、声が一瞬遅れた。


 伊三郎の目が細くなる。


「誰から預かりましたか」


「砦の入口で……小三郎殿からと」


「小三郎本人から?」


「いえ、砦の下へ向かう途中で、森田殿の使いと名乗る者から」


 嫌な感じがした。


 札筒を開ける前から、腹が冷える。


 伊三郎が布の上で札を開いた。


 中には、赤札。


 緊急。


 そして、短い文。


 高畑、敵影多数。戻り遅延の恐れ。常備飯一箱開封せよ。清洲より追加不要。


 常備飯一箱開封せよ。

 清洲より追加不要。


 俺は文を読めない。


 だが、伊三郎が読み上げた瞬間、かやが言った。


「おかしい」


「どこが」


「清洲より追加不要、が変」


 佐助も頷いた。


「本当に敵影多数なら、追加不要とは言わないと思います。水も飯も確認するはずです」


 作兵衛が腕を組む。


「戻り遅延なら、戻り包みと水の話が先だ。常備飯一箱って、開けさせたいだけに聞こえる」


 権六が低く言った。


「偽札か」


 伊三郎は札を裏返した。


「紙は本物に近いです。ですが、折りが違います」


「折り?」


「高畑の緊急札は、赤線を内側にして二つ折りにする決まりです。これは外側に出ています」


 俺は息を呑んだ。


 細かい。


 だが、そこで見分けられる。


 偽の緊急札。


 敵は、連絡網へ入り込んできた。


 目的は、高畑砦の常備飯を無駄に開けさせること。


 常備飯を一箱開ければ、安心の飯が減る。

 補充が不要と信じれば、清洲から追加が出ない。

 砦の兵はその場では食えるが、次の日に不安になる。

 そして「清洲の連絡は当てにならない」となる。


 飯線の喉へ、偽の赤札を詰め込んできたのだ。


「使いを責めるな」


 俺はまず言った。


 使いは青い顔でこちらを見た。


「すみません。俺、急げと言われて」


「急いでくれて助かりました。でも、今から確認します」


 ここで使いを責めれば、次から緊急札を持つ者は怖がる。


 遅れる。


 隠す。


 それが一番危ない。


「太助と小平を出す」


 俺は言った。


「ただし、荷は出さない。確認足です。茶屋、前進飯場の村、高畑への連絡を順に確認。高畑へは直接、森田殿か小三郎本人の返しを取る」


 伊三郎が書く。


「確認足」


 また新しい名が増えた。


 だが、必要だ。


 緊急札が来た時、すぐ荷を動かすのではなく、確認する足。


 もちろん、本当に緊急なら遅れる危険がある。


 だから判断が難しい。


 俺は弥助殿へ報告を飛ばした。


 弥助殿はすぐ蔵へ来た。


 札を見る。


「偽だろうな」


「はい。ただ、本当に高畑で何か起きている可能性もあります」


「だから確認足か」


「はい」


 弥助殿は頷いた。


「よし。ただし、清洲でも備えを作れ。偽と見て何もしないのも危ない」


「予備飯を作ります」


 俺は答えた。


「常備飯補充用ではなく、緊急確認後にすぐ出せる火なし飯です。握り飯、味噌片、水。前進飯場の村の水は使わない前提で」


「出せ」


 弥助殿は短く言った。


 清洲蔵はすぐ動いた。


 確認足が出る。


 同時に、緊急火なし飯を作る。


 だが、まだ出さない。


 確認を待つ。


 この「待つ」が難しい。


 兵も人足も、赤札を見たことで空気がざわついている。


 権六が入口に立った。


「まだ飯は出さねえ! 偽札かもしれねえ! でも何もしねえわけじゃねえ! 文句は俺に言え!」


「高畑が本当に危なかったらどうする!」


「だから確認足が走ってる!」


「走ってる間に遅れたら!」


「遅れねえように飯は作ってる! おまえらは邪魔するな!」


 文句を受けつつ、邪魔をさせない。


 権六の役は、本当に門番に近くなってきた。


 太助と小平は、茶屋を越え、前進飯場の村へ向かった。


 その間に、村側の連絡足も清洲へ向かって出ていたらしい。


 昼前、茶屋から赤紐が出たという知らせが戻った。


 知らぬ男あり。


 やはり。


 茶屋の近くで、森田殿の使いを名乗る男が見られていた。


 茶屋の女が声をかける前に消えたという。


 続いて、前進飯場の村から村札が来た。


 高畑からの正規札はまだ来ていない。

 石仏変化なし。

 山側、足跡少し。

 高畑方面から煙なし。

 敵影多数の気配なし。


 偽札の疑いが濃くなる。


 だが、まだ高畑本人の確認がない。


 清洲蔵では、火なし飯が包まれたまま待っていた。


 握り飯の湯気はもうない。


 だが、これは火なし飯だ。


 冷めても食える形にしてある。


 佐助が言った。


「待つと味は落ちます。でも、今出して間違えるよりいいです」


 かやも頷く。


「荷は出したくなる。でも、偽札に乗って出す荷は敵の荷になる」


 敵の荷になる。


 その言葉は怖かった。


 こちらの米でも、こちらの味噌でも、敵の思う場所へ動けば敵の荷になる。


 昼を少し過ぎて、太助が戻った。


 息が荒い。


 だが、顔は明るかった。


「高畑、無事! 敵影多数なし! 森田殿から正規札!」


 蔵の中に、溜まっていた息が一気に抜けた。


 伊三郎が正規札を受け取る。


 折りを見る。

 赤線はなし。

 通常札。

 合言葉も合う。


 読み上げる。


「高畑、通常。井戸番回復中。小三郎水番補助。見張り前飯、予定通り必要。常備飯、開封なし。偽札に注意されたし」


 偽札確定。


 常備飯は開けられていない。


 助かった。


 もし偽札を信じて常備飯一箱を開けていたら、高畑の備えは減っていた。


 さらに「清洲より追加不要」とあったため、補充も止めていたかもしれない。


 敵はそこを狙った。


「緊急火なし飯はどうしますか」


 佐助が聞いた。


 俺は少し考えた。


「見張り前飯として高畑へ送る。ただし、偽札対応で遅れたことを伝える。常備飯補充ではない」


 かやが頷く。


「荷札を変える」


「頼む」


 偽札で止まった飯を、無駄にしない。


 ただし、用途をはっきり変える。


 これを曖昧にすると、また数が合わなくなる。


 伊三郎が帳面に書く。


 偽緊急札対応。

 確認足実施。

 緊急火なし飯、見張り前飯へ転用。

 常備飯は開封なし。

 偽札の特徴、赤線外折り、清洲追加不要の不自然文言。


 弥助殿は、偽札を布に包ませた。


「使いを追う。だが、今日の勝ちはそこではない」


「勝ち、ですか」


「常備飯を開けなかった。連絡網が偽札を飲み込まなかった。これが勝ちだ」


 確かに。


 敵は飯を食わせようとした。


 変な話だ。


 だが、食わせることで備えを減らそうとした。


 こちらは食わせなかった。


 そして、必要な飯だけを送り直した。


 夕方、高畑から返札が来た。


 見張り前飯、到達。

 常備飯、未開封。

 兵へ偽札の件を説明。

 水、通常。

 井戸番「赤札にも腹がある。焦って食うな」と発言。


 権六がそれを聞いて笑った。


「井戸番、だいぶ清洲式に染まったな」


「赤札にも腹がある、か」


 俺は少し笑った。


 いい言葉だ。


 緊急札にも腹がある。


 本当に腹が減っている札か。

 敵が食わせたい札か。

 焦らせる札か。


 見なければならない。


 夜、清洲蔵では偽札で待機した火なし飯と同じものを食べた。


 冷めた握り飯。

 味噌片。

 干し菜。

 少しの水。


 権六が言った。


「今日の飯は、食わなかった常備飯の味だな」


「食ってないのに味がするのか」


「する。食わずに守った飯の味だ」


 作兵衛が頷いた。


「食うことだけが飯じゃねえ。食わないで残す飯もある」


 かやが椀を持って言った。


「今日は、札を噛まずに済んだ味」


「札は噛まないだろ」


「でも、噛まされそうだった」


 その通りだ。


 偽の緊急札を噛めば、常備飯が開いた。


 高畑砦の備えが減った。


 連絡網への信用も傷ついた。


 連絡足は、今日初めて本当の意味で働いたのだと思う。


 太助は疲れた顔で握り飯を食べていた。


「札は軽いけど、やっぱり重い」


「明日も頼む」


「文句言っていいか」


「もちろん」


「札筒の紐、まだ跳ねる」


 かやがすぐ札筒を手に取った。


「直す」


 皆が少し笑った。


 笑えるなら、まだ線は生きている。


 清洲、茶屋、前進飯場、高畑砦。


 一本の線として、少しずつつながり始めた。


 敵はそこへ偽の緊急札を混ぜた。


 だが、飲み込まなかった。


 飯線の喉は、今日は詰まらなかった。

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