第七十二話 前へ出るほど、後ろが細くなる
兵三十が高畑砦の先へ出て、全員戻った。
その報告が清洲へ届いた夜、蔵の中には久しぶりに少しだけ明るい空気があった。
戦ったわけではない。
敵を討ち取ったわけでもない。
城を落としたわけでもない。
けれど、高畑砦から織田の足が前へ出た。
敵の物見はそれを見た。
こちらも敵の物見を見た。
そして、兵は戻った。
行き包みと戻り包み。
水札。
砦常備飯。
井戸番。
五人組の確認。
面倒なものが、全部少しずつ働いた。
だから戻れた。
その夜の粥は、いつもより少しだけ味が濃かった。
誰が言い出したわけでもない。
佐助が味噌を少し増やし、誰も止めなかった。
権六は椀をすすって言った。
「今日は文句が少ない」
「珍しいな」
「文句がないわけじゃねえ。戻ってきた飯は、文句を少し黙らせる」
権六にしては、静かな言い方だった。
俺も少しだけ笑った。
けれど、翌朝にはその空気は消えた。
前進飯場の村から、朝の札が来なかった。
いつもなら、夜明けの少し後に村から小さな札が届く。
水の様子。
風の向き。
火を使える時刻。
石仏の曲がりの見張り。
罠の状態。
高畑砦へ向かう道の気配。
村の老人が、若い男か水番の娘に持たせてくれる。
必ず毎朝、という決まりではない。
だが、高畑砦飯線が動き始めてからは、ほぼ毎日来ていた。
その札が来ない。
「遅れてるだけじゃないのか」
権六が言った。
だが、伊三郎の顔は硬かった。
「今日は高畑砦へ見張り前飯を送る日です。前進飯場の水と風が分からないまま出すのは危険です」
「村まで行けば分かる」
俺が言うと、かやが首を横に振った。
「分かるけど、出てから分かるのと、出る前に分かるのは違う」
その通りだ。
飯は、出てから考えると遅いことがある。
火の時刻が合わなければ、前進飯場で待つ。
待てば人足の背が削れる。
村の水が使えなければ、持ち込み水を増やす必要がある。
風が悪ければ、火を焚かずに握り飯へ切り替える必要がある。
朝の札は、小さい。
だが、飯の出し方を決める札だった。
「使いを出す」
俺は言った。
「清洲から前進飯場へ。村の様子を見てくる」
「待て」
弥助殿の声が入口からした。
いつの間にか来ていた。
顔が硬い。
「村へ行くなら、ただの使いではなく護衛をつけろ」
「何かあったのですか」
「茶屋の手前で、村から来るはずの若い男が足止めされていた」
蔵の空気が変わった。
「足止め?」
「荷車が道を塞いだ。壊れたふりだ。村の若い男は迂回しようとして、そこで別の男に『清洲からの命で、今日は村札は不要になった』と言われた」
「偽の命ですか」
「そうだ」
また偽の指示。
だが今回は、味噌玉や荷ではない。
連絡だ。
村から清洲への札を止める。
清洲から村への判断を遅らせる。
高畑砦の正面ではなく、後ろの線を切りに来た。
「若い男は?」
「戻ってきた。茶屋の女が怪しんで、こちらへ知らせを走らせた。若い男は無事だが、札はまだ届いていない」
茶屋の女。
また助けられた。
清洲式は、茶屋まで巻き込んでいる。
いや、巻き込んでしまっている。
それだけ敵も狙う。
「前へ出るほど、後ろが細くなるな」
作兵衛が低く言った。
その言葉が、腹に落ちた。
高畑砦から三十人が前へ出た。
敵はそれを嫌がった。
だから、砦正面ではなく、清洲と前進飯場の間を狙った。
後ろの連絡を止めれば、前の飯は乱れる。
飯が乱れれば、砦の足は止まる。
「今日の高畑行きは?」
弥助殿が聞いた。
俺は地図を見た。
今日出す予定だったのは、見張り前飯と味噌片の入れ替え分。
量は少ない。
だが、水と風の情報がない。
村札が来ないまま出せば、前進飯場で火を使えるか分からない。
それでも高畑砦には見張り前飯が必要だ。
止めれば砦側が不安になる。
無理に出せば村との約束を乱す。
「二段に分けます」
俺は言った。
「第一便は火を使わない飯だけ。握り飯と味噌片、干し菜。水は清洲から持ち込み。前進飯場では火を使わず、村の水も使わない」
かやが頷く。
「軽荷ならすぐ出せる」
「第二便は村札が届いてから。火と水が使えるなら、味噌片用の湯と追加水を送る。使えないなら、そのまま中止」
伊三郎がすぐ書く。
「村札遅延時、第一便火なし、第二便札後判断」
弥助殿が聞いた。
「村への連絡は?」
「別に出します。荷とは分けます」
俺は答えた。
「村札が止められたなら、荷と連絡を同じ道に載せるのは危ない。連絡だけの足を作ります」
「連絡足か」
伊三郎がまた書いた。
もう名前になってしまったらしい。
連絡足。
飯を運ぶ足ではない。
札を運ぶ足。
声を運ぶ足。
遅れや水や風を運ぶ足。
今まで、荷のついでに札が動いていた。
だが、それでは狙われる。
前へ出るほど、後ろの連絡も独立して守らなければならない。
「連絡足には誰を?」
かやが聞く。
作兵衛がすぐ答えた。
「人足より足の軽い者がいい。荷を持たない。ただし、道の文句を言える者」
「また文句か」
権六が嬉しそうに言う。
「大事だろ」
作兵衛は真顔だった。
「連絡足は、道が変なら戻って言わなきゃならねえ。黙って突っ切る奴は向かん」
たしかに。
連絡足は速いだけでは駄目だ。
怪しい荷車がある。
知らない男が立っている。
茶屋の様子が違う。
村の水番がいない。
そういう変化を見て戻る者でなければならない。
弥助殿が言った。
「こちらから二人出す。村側からも一人出せるか確認しろ。清洲だけの連絡足では、村が置いていかれたと思う」
「はい」
村と一緒に連絡を作る。
これも大事だった。
清洲が勝手に決めれば、また噂が入る。
第一便はすぐに出た。
握り飯。
味噌片。
干し菜。
清洲水。
火なし。
人足は少ない。
かやが荷を見て、佐助が味噌片を確認し、作兵衛が水持ちの肩を見た。
権六は兵へ説明した。
「今日は火なし飯だ! 村札が止まったからだ! 前進飯場で火を使わねえ! 文句は聞くが、村の水を勝手に使うな!」
「また火なしかよ!」
「敵が札を止めたんだ! 文句は敵にも言え!」
「敵に届かねえよ!」
「俺がまとめて言っとく!」
笑いが起きた。
それだけで、少し救われる。
第一便が出た後、俺たちは連絡足の準備に入った。
連絡足は荷を持たない。
だが、空手ではない。
小さな札筒。
水少し。
非常用の味噌片一枚。
足を止めないための小さな握り飯。
そして、戻り札。
戻り札は、道が危ない時に使う。
そのまま村へ行かず、途中から戻る場合に、どこで何を見たかを簡単に示すものだ。
伊三郎が絵で作った。
荷車。
知らぬ男。
道塞ぎ。
水場異常。
紙。
字が読めない者でも印で分かる。
「連絡足は飯より軽いけど、責任は重いな」
太助が言った。
彼が連絡足の一人に選ばれていた。
「文句を言えるから選ばれたぞ」
作兵衛が言う。
「嬉しくねえ」
「でも向いてる」
太助は渋い顔をしたが、断らなかった。
もう一人は弥助殿の配下の若い者。
無口だが、目がよく動く。
二人で行く。
一人が見落としても、もう一人が見る。
連絡も、分ける。
昼前、茶屋の女からの知らせが正式に届いた。
茶屋手前で壊れたふりをした荷車は、すでに消えている。
だが、轍が不自然に深く残っていた。
わざと道を塞ぎやすい場所で止めたらしい。
村の若い男は、茶屋で休んでから清洲へ向かう途中だという。
しばらくして、その若い男が清洲蔵へ着いた。
息を切らし、顔を赤くしている。
手には朝の札。
遅れて届いた札だ。
俺は受け取り、伊三郎に渡した。
伊三郎が読む。
「風、昼前までは弱い。昼過ぎから山側へ変わる。水、昨日より少なめ。火は朝のうちのみ。石仏の罠、変化なし。山側に足跡少し増。老人より、今日は火を使うな、とのこと」
火を使うな。
第一便を火なしにして正解だった。
もし札を待たずに、いつもの火あり荷を出していたら、前進飯場で揉めたかもしれない。
若い男は息を整えながら言った。
「爺さんが怒ってた」
「偽の命に?」
「それもだけど、清洲と村の間で嘘を言われたことに。『飯の道に嘘を置くな』って」
飯の道に嘘を置くな。
老人らしい言葉だ。
俺は頭を下げた。
「遅れても持ってきてくれてありがとうございます」
「茶屋のおかみさんがいなかったら、戻されてたかもしれない」
「後で礼を」
「礼より、次からどうするか決めてくれって爺さんが言ってた」
「決めます」
その場で、清洲側の連絡足と村側の連絡足を作る案を伝えた。
若い男は少し驚いたが、すぐ頷いた。
「村からも出す。俺と、もう一人。水番の娘は水場を離れられないから無理だ」
「無理に出さないでください」
「うん。水番がいなくなると、それこそ揉める」
村の中でも役が見えてきている。
水番は水場にいる。
連絡足は道を見る。
老人は判断する。
村も少しずつ、飯線の形を持ち始めている。
午後、第一便から戻り札が来た。
前進飯場、火なしで通過。
村の水、使わず。
老人、了承。
高畑へ向かう途中、石仏の曲がりに変化なし。
背戻し窪地、虫多し。
高畑へ見張り前飯、到達。
飯は届いた。
火を使わずに。
村の水を使わずに。
連絡が遅れても、飯は止まらなかった。
だが、ここで安心してはいけない。
連絡が切られかけたのは事実だ。
前へ出た成功の直後、後ろの線が狙われた。
それを、信長様へ報告する必要があった。
夕方、信長様への報告に呼ばれた。
俺、伊三郎、かや、作兵衛、佐助、権六。
弥助殿もいる。
地図の上には、清洲から前進飯場までの線が太く引かれていた。
その先に高畑砦。
さらに先に、前回兵三十が出た地点。
信長様は、その後ろの線を指で叩いた。
「敵は、前へ出た足を見て、後ろの喉を締めに来た」
喉。
腹ではなく喉。
清洲と前進飯場の連絡は、飯線の喉だった。
ここを締められれば、前へ飯が通らない。
「はい」
俺は答えた。
「村札が止められかけました。偽の清洲命もありました。今日は火なし第一便で高畑へ届けましたが、このままでは危険です」
「どうする」
「連絡足を作ります。清洲側二人、村側二人。荷とは別に札を運ぶ。戻り札も持たせます。道の異常を見たら、無理に進まず戻る」
伊三郎が補う。
「連絡札には絵印を入れます。荷車、知らぬ男、道塞ぎ、水場異常、紙。字が読めない者でも伝えられるようにします」
かやが続ける。
「荷と連絡を同じにしません。荷が遅れても連絡が戻る。連絡が止まっても、火なし第一便のような最低限の飯は出せるようにします」
作兵衛も言う。
「連絡足は足の速さだけで選びません。文句を言える者、道の違いを言える者にします」
信長様の目が少しだけ権六へ動いた。
権六は慌てて背筋を伸ばした。
「文句は、道を見る目にもなります」
権六が言った。
自分でも驚いたような顔をしていた。
信長様は短く笑った。
「文句役が軍学を語るか」
「い、いえ、そんな」
「悪くない」
権六は少し顔を赤くした。
信長様は地図へ視線を戻した。
「前へ出るほど、後ろを守れ」
静かな声だった。
「高畑の先へ兵を出せば、高畑を守るだけでは足りぬ。高畑へ飯を送る道、前進飯場の村、茶屋、清洲蔵。すべて狙われる」
「はい」
「美濃を攻めるとは、前だけを見ることではない。後ろが細れば、前の槍は折れる」
後ろが細れば、前の槍は折れる。
胸に落ちた。
飯線は、ただの裏方ではない。
前の槍を折らせないための線だ。
「連絡足を認める」
信長様は言った。
「清洲と前進飯場の間を、飯線の喉として守れ。茶屋も使え。だが、茶屋を潰すな」
「潰すな、とは」
「頼りすぎるなということだ」
それは大事だった。
茶屋の女は何度も助けてくれている。
だが、茶屋を連絡の要にしすぎれば、敵は茶屋を狙う。
茶屋の商いも壊れる。
助けてもらうことと、背負わせることは違う。
「分かりました」
俺は答えた。
清洲へ戻ると、連絡足の準備が本格化した。
太助は、妙に緊張した顔をしていた。
「俺、荷より札のほうが緊張する」
「落としたら軽いけど重いからな」
作兵衛が言う。
「意味が分からんけど、分かる」
太助は苦笑した。
村側からも、若い男ともう一人が来ることになった。
茶屋には、無理をさせない。
ただし、異常を見た時の知らせ方だけ決める。
茶屋の軒に白い布が出ていたら、道塞ぎあり。
赤い紐なら知らぬ男あり。
何もなければ通常。
茶屋の女は、それを聞いて言った。
「うちは城じゃないんだけどね」
「すみません」
「でも、道が荒れると商いも困る。やるよ。ただし、勝手に兵を置かないでおくれ」
「置きません」
「ならいい」
また一つ、約束ができた。
夜、清洲蔵では火なし第一便と同じ飯を食べた。
握り飯。
味噌片。
干し菜。
少しの水。
温かい粥ではない。
だが、今日の飯には別の重さがあった。
権六が言った。
「今日の飯は、後ろを守る味だな」
「前に出てないのに?」
「前へ出たから、後ろが狙われたんだろ」
かやが頷く。
「後ろの飯って、地味だけど怖いね」
作兵衛も言った。
「戻り包みと同じだ。前へ行く飯より、戻る飯、つなぐ飯のほうが重い時がある」
伊三郎は連絡足帳を書きながら、静かに言った。
「荷の線、飯の線、水の線、文句の線。今日から連絡の線も正式に入ります」
また線が増える。
でも、必要だった。
高畑砦の先へ足を出すほど、清洲蔵と前進飯場の間は大事になる。
前へ出るほど、後ろが細くなる。
なら、その細いところを太くする。
米だけでなく、札と声と文句と約束で。
俺は味噌片を噛んだ。
少ししょっぱい。
水を飲む。
喉を通る。
飯線の喉も、こうして通してやらなければならない。




