第七十一話 戻るための飯
前へ出る兵の飯は、行きのことだけ考えてはいけない。
それを、俺は前日の夜から何度も考えていた。
兵は前へ出る。
敵の目に、こちらの足を見せる。
高畑砦がただの見張り場ではなく、そこからさらに外へ踏み出せる場所だと知らせる。
だが、踏み出した足は戻らなければならない。
戻れなければ、飯線は勝ったことにならない。
行き包み。
戻り包み。
小さな竹皮の包みが二つ。
一つは前へ出る前に食う。
もう一つは戻りのために残す。
たったそれだけのことなのに、俺の腹は朝から重かった。
清洲蔵では、まだ夜明け前から砦前進飯を包んでいた。
兵三十人分。
行き包み三十。
戻り包み三十。
予備五。
水筒は五人組ごとに二つ。
味噌片は小型。
干し菜は控えめ。
握り飯は細長いものを小さく二つに割れる形。
かやが包みを一つずつ腰紐に通せるよう整えている。
「行き包みは右寄り、戻り包みは左寄り」
「逆じゃ駄目か」
「駄目。戻り包みを先に食べる馬鹿が出る」
権六が横で咳払いした。
「誰のことだ」
「権六みたいな人」
「俺なら両方食う」
「だから駄目なんだよ」
かやは冷静だった。
権六も否定しなかった。
佐助は味噌片を確認している。
「戻り包みの味噌片は、少し塩を強めました。でも水を欲しがりすぎない程度です」
「難しい加減だな」
「はい。疲れた時は塩気が欲しくなります。でも強すぎると、水筒が先に空になります」
作兵衛は兵ではなく、人足のほうを見ていた。
今日は兵三十が高畑砦から先へ出る。
清洲から兵三十を直接動かすのではない。
清洲からは砦までの補給を支え、高畑砦で前進飯を渡し、そこから兵が出る。
つまり、人足は砦の先へ多く出さない。
それでも、水筒と予備飯を砦まで運ぶ必要がある。
「人足は少なめだが、今日は水が重い」
作兵衛が言った。
「水持ちは二人ずつ交代。背当ての予備を忘れるな。高畑までで潰れたら話にならねえ」
伊三郎は帳面台で、今日の流れを読み上げた。
「清洲より前進飯、予備、前進用水を出す。前進飯場の村で水を足す場合は、老人と水番の確認。石仏の曲がりは停止不可。背戻し窪地で肩直し。高畑砦で森田殿に引き渡し。兵三十、五人組六つ。行き包み、戻り包み、水札確認。常備飯は原則開けない。戻りが遅れた場合のみ、小頭、井戸番または代井戸番、組頭の二名確認で開封可」
「長い」
権六が言った。
「長いですが、必要です」
伊三郎は一切揺れなかった。
俺も長いと思う。
けれど、どれか一つ抜けると飯は乱れる。
水を忘れれば、戻り包みが喉に詰まる。
戻り包みを先に食えば、帰りの足が鈍る。
常備飯を簡単に開ければ、砦の安心が減る。
石仏で止まれば、罠に足を取られる。
長い理由が、全部ある。
弥助殿が蔵へ来た。
「出せるか」
「はい」
俺は答えた。
「怖いか」
いつもの問いとは少し違う。
信長様ではなく、弥助殿に聞かれた。
俺は包みを見た。
小さい。
あまりにも小さい。
この小さな包みで、兵三十の足を支える。
「怖いです」
「なら、見落とすな」
「はい」
清洲を出たのは、朝日がまだ低い頃だった。
荷は軽い。
だが、水がある。
水は揺れる。
太助の言葉どおりだった。
米は黙って重い。
水は揺れて重い。
人足たちは水筒を布で巻き、音が鳴らないようにして進む。
茶屋の前を通ると、女将が店先に立っていた。
「今日は、戦かい」
「戦ではありません」
俺は答えた。
「でも、兵が前へ出ます」
「じゃあ戦の手前だ」
女将は鋭い。
俺は少しだけ頷いた。
「飯も手前です」
「変な答えだね」
女将は笑わなかった。
「気をつけな。手前で転ぶと、本番より痛い」
そうかもしれない。
前進飯場の村に着いた時、老人はすでに待っていた。
栗の木の下に、水番の娘もいる。
今日は前進用水を少し足す。
清洲から持った水だけでは、戻りまで少し心細い。
だが、村の水を使いすぎてはいけない。
老人が水札を見た。
「飲み水、味噌片用、非常用。砦の真似か」
「はい。村の水も、どれに使うか残します」
「よし。勝手に汲むな」
「もちろんです」
水番の娘が、桶を持ってきた。
無言で、水を測るように注ぐ。
以前なら、こちらも水をただ受け取っていたかもしれない。
今は違う。
水は、誰かの腹だ。
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
娘は小さく頷き、言った。
「高畑の人たちにも、水で揉めないように言ってください」
「伝えます」
村の娘まで、高畑砦の水を気にしている。
飯線は、もう清洲と砦だけのものではない。
途中の村も、その線に触れている。
栗の木で荷を直し、石仏の曲がりへ進む。
そこは今日も止まらない。
罠はまだ残されている。
村の若い者と五郎兵衛殿の配下が、遠目に見張っていた。
俺たちは見ないふりをして通りすぎる。
太助が小声で言った。
「あそこは本当に足が休みたがる」
「足に言っておけ。休むなって」
作兵衛が返す。
「足は言うこと聞かねえよ」
「だから飯線で縛るんだ」
作兵衛の言葉が、少し重く聞こえた。
足を縛るのではない。
危ない場所で休ませないために、別の場所まで持たせる。
そのための飯だ。
背戻し窪地で一度休む。
虫は相変わらず多い。
だが、ここは敵から見えにくい。
人足の肩を直す。
水筒の音を確認する。
前進飯の包みが崩れていないか見る。
佐助が味噌片の束を確認し、かやが腰紐の緩みを見る。
俺は握り飯を一つだけ食べた。
今日の俺は、高畑砦の先へは出ない。
だが、砦までは行く。
食べなければ判断が鈍る。
高畑砦に着いた時、森田甚助殿はすでに兵三十を並べていた。
五人組が六つ。
小三郎もいる。
井戸番はまだ本調子ではないらしいが、井戸のそばに座って水札を見ていた。
「立たなくていいです」
俺が言うと、井戸番は鼻を鳴らした。
「立てる。だが、今日は座って水を見る」
「それで十分です」
小三郎が水札を持ってきた。
「前進用水はここ。砦の井戸とは別。味噌片用は少なめ。非常用は触らない。これでいいですか」
「はい」
若いのに、昨日よりずいぶん落ち着いている。
嫌な役でも、一度仕組みが見えると人は動ける。
森田殿が兵たちへ声をかけた。
「今日は高畑の先へ出る。戦を仕掛けるな。敵の目を見る。戻るまでが役目だ」
戻るまで。
俺はその言葉に頷いた。
前へ出ることではなく、戻ることまでが役目。
そこで、俺と権六が前に出た。
権六は文句役として、今日は高畑砦まで同行している。
兵三十を見回し、権六が声を張った。
「飯の話をするぞ!」
兵たちが少しざわつく。
戦の前に飯の話か、という顔もある。
権六は気にしない。
「行き包みは右! 戻り包みは左! 右は行き、左は帰り! 左を先に食った奴は、帰り道で自分の腹に謝れ!」
数人が笑った。
緊張が少し解ける。
俺が続けた。
「前進飯は、腹いっぱいにする飯ではありません。前へ出て、戻るまで足を止めないための飯です。水は砦の井戸とは別にします。足りないと思っても、勝手に井戸の水を使わないでください」
若い兵が聞いた。
「戻り包み、腹が減ったら食ってもいいのか」
森田殿が睨みかけた。
俺は先に答えた。
「食べたら帰りがつらくなります。どうしても食べたい時は、五人組で相談してください。一人で勝手に食べない」
「五人でなら?」
「五人で判断したなら、戻りも五人で責任を持つ」
兵たちは顔を見合わせた。
これは少し効いたようだった。
一人で食うのは簡単だ。
五人で相談となると、簡単には開けにくい。
かやが包みを配り、佐助が味噌片の数を見て、作兵衛が腰の位置を直す。
小三郎が水筒を配る。
井戸番が座ったまま言った。
「水は大事に飲め。味噌片を口に入れすぎるな。喉が渇く」
兵の一人が小声で言った。
「座ってても、うるさいな」
井戸番は聞こえていたらしい。
「うるさいから水が残る」
今度は兵たちが笑った。
井戸番も少しだけ笑っていた。
高畑砦の空気が、昨日より少し強くなっている。
敵に狙われた場所が、逆に固まった。
それがうれしかった。
兵三十は砦を出た。
俺たちは砦に残る。
森田殿は先頭ではなく、砦に残った。
前へ出る隊は、若いが落ち着いた組頭が率いる。
高畑砦は空にしてはいけない。
これも飯と同じだ。
全部を前に出せば、後ろが空く。
俺は見張り台の近くから、兵たちの背を見た。
行き包みが右。
戻り包みが左。
小さな包みが腰で揺れている。
かやが目を細めた。
「思ったより揺れてない」
「よかった」
佐助は水筒を見ている。
「水の音も少ないです」
作兵衛は兵の歩き方を見ていた。
「最初はいい。問題は戻りだ」
その通りだった。
前へ出る時、人は気が張っている。
飯も水も守れる。
問題は戻り。
気が抜け、足が重くなり、腹が減る。
戻り包みが効くのは、その時だ。
兵たちが尾根の向こうへ消えてから、砦の中は妙に静かになった。
森田殿は見張り台に上がり、遠くを見る。
井戸番は水札を見ている。
小三郎は水筒の残りを確認する。
俺は常備飯の箱を見た。
今日は開けない予定だ。
だが、もし戻りが遅れたら開ける。
開け時は決まっている。
それでも、いざその時になると迷うだろう。
飯の決まりは、平時に書くのは簡単だ。
腹が荒れた時に守れるかが本番だ。
半刻ほどして、見張り台から声が飛んだ。
「戻る!」
森田殿の声だった。
兵三十が戻ってくる。
だが、少し乱れていた。
走ってはいない。
しかし、行きより明らかに歩きが重い。
森田殿が目を細める。
「敵を見たな」
砦の入口で、俺たちは待った。
兵たちが戻ってくる。
組頭の顔には汗があった。
「敵の物見を見ました。数は二、三。こちらを見て引いた。追っていません」
目的は達した。
敵に足を見せた。
追わなかった。
戻った。
それだけで大きい。
だが、問題は兵たちの腹だ。
戻ってきた五人組の一つが、少し遅れていた。
一人の若い兵が顔をしかめている。
「戻り包みは?」
作兵衛が聞いた。
組頭が答えた。
「途中で開けました。五人で」
「全員食ったか」
「はい。ただ、水が少し足りないと文句が出ました」
小三郎が水筒を見る。
「飲みすぎではありません。戻り包みの味噌片が少し強かったかもしれません」
佐助がすぐ反応する。
「戻り用、少し塩を落とします。疲れには効くけど、水が増えるなら調整します」
別の組は、戻り包みを開けていなかった。
だが、そのうち一人が不満を言う。
「開けずに戻ったけど、腹が鳴った。開けていいのか迷った」
権六がすぐ聞いた。
「何で開けなかった?」
「組頭が、戻れる距離だと言ったから」
「で、戻れた」
「戻れたけど、腹は減った」
「それは文句として正しい」
権六が俺を見る。
俺は頷き、小帳面に書く。
戻り包み、開け判断に迷い。
距離と疲れで基準必要。
森田殿が言った。
「戻り包みを開ける基準もいるな」
「はい」
俺は答えた。
「敵を見た後、戻りが半刻を超える場合。足が乱れた場合。組頭が必要と判断した場合。ただし、一人ではなく五人組で確認」
伊三郎がいないので、俺の字はひどい。
でも、腹には入った。
兵三十は全員戻った。
怪我なし。
飯紛失なし。
水筒一つ、栓緩みあり。
戻り包み使用、六組中二組。
敵の物見あり。
追撃なし。
高畑砦の先へ、織田の足は出た。
そして戻った。
戻ったことが、何より重かった。
森田殿は兵たちを見て、静かに言った。
「戻ったな」
組頭が頭を下げる。
「はい」
「次も戻るぞ」
「はい」
その会話に、俺は少し胸が熱くなった。
前へ出ることは、武士たちの仕事だ。
だが、戻ることもまた仕事だ。
戻らせる飯を作ること。
それが、今日の俺たちの仕事だった。
清洲へ戻る前に、井戸番が水札を差し出した。
「前進用水、残り少し。非常用、手つかず。井戸、手つかず」
「ありがとうございます」
「水は守った。だが、戻り包みで水が欲しくなるなら、味を直せ」
「はい」
井戸番の文句は、もう砦の水を守る情報になっていた。
帰り道、前進飯場の村へ寄ると、老人が俺たちの顔を見るなり言った。
「戻ったか」
「はい。兵三十、全員戻りました」
「なら、今日は飯が勝ったな」
飯が勝った。
その言葉は、やけに腹に落ちた。
清洲へ戻ったのは夕方だった。
伊三郎は報告を聞きながら、ものすごい勢いで筆を走らせた。
「砦前進行動、成功。敵物見確認。追撃なし。戻り包み二組使用。水不足感あり。戻り包み塩分調整。開封基準追加。五人組確認有効。前進用水、井戸水と分離成功」
「長いな」
権六が言う。
伊三郎は顔を上げずに答える。
「重要です」
夜、清洲蔵では砦前進飯を食べた。
行き包みと戻り包み。
戻り包みは少し塩を落とした試作品だ。
権六が食べて言った。
「今日の飯は、戻ってきた味だな」
「うまいか」
「うまいというより、ほっとする」
かやが頷く。
「戻り包みって、名前のわりに重いね」
作兵衛が言った。
「戻る飯は、行く飯より重い。腹じゃなくて、気持ちがな」
佐助は味噌片の塩加減を気にしている。
「もう少しだけ落とします。でも、落としすぎると疲れた時に弱い」
伊三郎はそれも書いた。
俺は椀を置き、清洲蔵の外を見た。
高畑砦の先へ、兵三十が出た。
敵は見た。
こちらも敵を見た。
そして、全員戻った。
その裏に、行き包みと戻り包みがあった。
水札があった。
常備飯があった。
井戸番が座って水を見ていた。
小三郎が水筒を数えた。
森田殿が追うなと決めた。
飯は、戦場で槍を振るわない。
だが、兵の足を前へ出し、戻す。
今日、そのことを初めてはっきり見た気がした。




