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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第七十話 敵が嫌がる場所へ、飯を先に置く

井戸番が腹を下した翌日、高畑砦から届いた水札は、思ったより静かだった。


 飲み水、残りあり。

 味噌片用、水少なめ。

 非常用、手つかず。

 代井戸番、小三郎。

 井戸番、粥のみ。回復待ち。


 伊三郎が読み上げたあと、清洲蔵の中に小さな安堵が広がった。


 水は乱れなかった。


 井戸番が倒れたにもかかわらず、砦の水は崩れなかった。


 小三郎が代井戸番を務め、森田甚助殿が確認し、砦水札で残りを見せた。


 水が増えたわけではない。


 だが、揉め方が見えるようになった。


 それだけで、砦の腹は少し落ち着いたらしい。


「札で水は増えないけど、文句の形は変わるんだな」


 権六が言った。


「文句役としてはどうなんだ」


「見えない文句より、見える文句のほうがいい。殴る前に言えるからな」


「殴るな」


「たとえだ」


 たとえにしては物騒だ。


 だが、言いたいことは分かる。


 見えない不満は、ある日いきなり噴く。

 見える不満は、まだ扱える。


 高畑砦の水も、ようやく扱える形になってきた。


 その日の昼前、信長様から呼び出しが来た。


 俺、かや、佐助、作兵衛、伊三郎、権六。


 最近は、権六まで普通に呼ばれる。


 本人は得意げだが、俺としては少し納得がいかない。


「文句役も軍議に出る時代だな」


 権六が胸を張る。


「時代が悪い」


 俺が言うと、かやが笑った。


「清洲式が悪いんじゃない?」


 否定できなかった。


 信長様の部屋には、いつもの地図が広げられていた。


 清洲から高畑砦までの飯線。

 前進飯場の村。

 石仏の曲がり。

 背戻し窪地。

 砦の井戸。

 そして、高畑砦のさらに先。


 美濃側へ、ほんの少し伸びる細い道があった。


 そこに、小さな石が置かれている。


 まだ砦でも村でもない。


 ただの山裾の道。


 けれど、信長様の指はそこを押さえていた。


「敵は高畑を嫌がっている」


 信長様は言った。


 いきなりだった。


 だが、誰も驚かなかった。


 高畑へ飯を届かせたくない。

 砦の水を乱したい。

 常備飯を粗末飯と呼ばせたい。

 井戸番を倒したい。


 それだけ敵が手をかけるなら、高畑砦は敵にとって嫌な場所なのだ。


「砦を嫌がるなら、そこは目になる」


 信長様は続けた。


「目になるなら、次は足を出す」


 足。


 俺の腹が重くなる。


 高畑砦は、これまで飯を届ける先だった。


 今度は、そこを基点に前へ出る。


 飯線が、また一段伸びる。


「小勢を出す」


 信長様の指が、砦の先の石を軽く叩いた。


「兵三十。高畑から半刻ほど先へ出て、道と敵の目を探る。戦を仕掛けるのではない。だが、敵にこちらの足が砦の外へ出ることを見せる」


 兵三十。


 数だけ見れば小さい。


 だが、高畑砦の先だ。


 前進飯場の村より先。

 石仏の罠より先。

 背戻し窪地より先。

 高畑砦よりさらに先。


 そこへ飯を持たせる。


 しかも戦ではなく、前進行動。


 兵は長くは出ない。

 だが、腹を空にして出すわけにはいかない。

 戻りに遅れれば、砦飯が要る。

 敵に追われれば、荷は軽くなければならない。


 信長様は俺を見た。


「清吉。飯はどうする」


 来た。


 腹の中で、米俵が一つ沈んだ。


 俺は地図を見た。


 清洲から運ぶ大荷では間に合わない。


 高畑砦の常備飯を全部開けるのも違う。


 常備飯は非常用だ。


 前進行動のたびに開けていたら、砦の安心が消える。


 なら、別に作る。


「高畑から出る三十人には、砦前進飯を作ります」


「砦前進飯」


 伊三郎の筆が動いた。


 もう名前が書かれている。


 俺は続けた。


「常備飯とは別です。見張り前飯とも別。兵一人に握り飯一つ、小さな味噌片二枚、干し菜少し。水は砦の井戸を使わず、清洲から高畑へ持ち込んだ前進用水を分けます」


「なぜ井戸を使わん」


 信長様が聞く。


「井戸番が倒れた直後です。ここで前進兵が井戸の水を使うと、砦内でまた揉めます。高畑砦の水は、まず砦を守る者のものにします」


 信長様は頷いた。


「続けよ」


「前進飯は軽くします。腹いっぱいではなく、戻るまで持たせる飯です。温かい飯は出しません。火も使わない。戻りが遅れた場合のみ、砦の常備飯を森田殿と井戸番、または代井戸番の確認で開ける」


「人足は」


 作兵衛が一歩前へ出た。


「兵三十なら、飯荷は兵に持たせられます。ただ、水は分けたほうがいい。水持ち二人。予備一人。高畑砦の中で受け渡し、砦の先へは人足を出しすぎない。人足が敵に追われると戻りが悪い」


 かやも言う。


「前進飯の包みは、兵の腰につけられる形にします。胸前だと槍の邪魔になる。腰の後ろは落とす。左腰の少し前。走った時に揺れにくい形」


 佐助が続ける。


「味噌片は常備用より塩を控えます。前進中に水が欲しくなりすぎると困ります。ただし、汗をかくので薄すぎても駄目です」


 伊三郎は黙って書いている。


 権六が腕を組んで言った。


「兵は文句を言うぞ」


「何の文句だ」


 信長様が少し面白そうに聞いた。


 権六は、さすがに少し緊張しながらも答えた。


「腹いっぱいじゃない。温かくない。少ない。砦に飯があるのに何で開けない。そう言うと思います」


「ではどうする」


「先に言います。これは腹いっぱいにする飯じゃなく、戻ってくるための飯だ、と」


 信長様の口元がわずかに動いた。


「文句役らしいな」


 権六は少しだけ得意そうに頭を下げた。


 信長様は地図へ目を戻した。


「よし。三十を動かす。明朝ではない。明後日だ」


 明後日。


 少し息ができた。


 明日ではない。


 だが、ゆっくりはできない。


「明日、高畑で前進飯を試せ。兵数名で持ち具合、食い方、水の減りを見る。明後日、本番だ」


「承知しました」


 俺たちは頭を下げた。


 清洲蔵へ戻ると、すぐに準備が始まった。


 砦前進飯。


 新しい飯だ。


 もう何種類あるのか、自分でも分からなくなりそうだった。


 清洲粥。

 人足粥。

 前進飯場粥。

 握り飯。

 味噌玉。

 味噌片。

 砦常備飯。

 見張り前飯。

 そして、砦前進飯。


 飯炊きの仕事は、ただ釜を振ることではなくなっている。


 飯の形を、場所と時に合わせて変えること。


 それが清洲式になりつつあった。


 かやが試しの包みを作る。


「左腰用。薄く、硬め。竹皮は二重にしない。一重で包んで、その上から布紐。重くしすぎない」


「一重で大丈夫か」


「日持ちはしない。これはその日食べる飯だから。一重でいい」


 佐助が味噌片を調整する。


「塩は控えめ。でも、舌に味が残る程度。干し菜は細かくしすぎると粉になります。少し形を残します」


 作兵衛は兵の動きを考えていた。


「走るかもしれないなら、包みが揺れないこと。食べる時は立ったままでも口に入ること。手が汚れていても食えること」


「手が汚れていたら?」


 俺が聞くと、作兵衛は手を見せた。


「戦場や道で、いつも綺麗な手とは限らん。竹皮の端を持って食える形にしろ」


 これも大事だ。


 飯は、綺麗な場所でだけ食うものではない。


 砦の先では、手を洗う水も惜しい。


 手を汚さず食べる工夫がいる。


 伊三郎は帳面に項目を作る。


 砦前進飯。

 一日用。

 日持ち不要。

 軽さ優先。

 左腰装着。

 手を汚さず食べる。

 水は前進用水。

 常備飯とは別。


 権六が試作品を腰につけ、わざと走った。


 蔵の中を走るな、と言いかけたが、必要な試験だったので我慢した。


 権六は三歩で止まった。


「揺れる」


 かやがすぐ包みの紐を直す。


「紐を斜めにする」


 もう一度走る。


「まだ少し揺れる。でもまし」


 作兵衛が見て言う。


「兵は槍も持つ。腰だけじゃなく、槍を構えた時の邪魔も見ろ」


 権六が棒を槍代わりに持つ。


 包みが手に当たる。


「邪魔だ」


 かやが位置を少し下げる。


「ここなら?」


「走ると腿に当たる」


「難しいな」


 砦前進飯は、味だけではなく、身体の動きに合わせる必要があった。


 人足の荷とも違う。

 見張り飯とも違う。

 兵が動く飯。


 夕方まで試し、どうにか形ができた。


 左腰より少し後ろ。

 布紐で斜めに固定。

 竹皮の開け口は上。

 握り飯は細長く、片手で食える形。

 味噌片は小袋に二枚。

 干し菜は握り飯に少し混ぜる。


「握り飯に干し菜を混ぜるのか」


 権六が食べて言った。


「悪くねえ。口の中が寂しくない」


 佐助が頷く。


「干し菜を別にすると落としやすいので、少し混ぜました。ただ、混ぜすぎると握りにくいです」


 作兵衛が食べる。


「人足飯より硬いが、兵が動くにはいい。柔らかいと崩れる」


 かやが満足そうに包みを見た。


「砦前進飯、初型」


 伊三郎が書く。


 初型。


 まだ完成ではない。


 明日、高畑で試す。


 翌朝、俺たちは試作品を持って高畑砦へ向かった。


 前進飯場の村では、老人が包みを見て言った。


「また新しい飯か」


「砦から少し前へ出る兵用です」


 老人の顔が変わった。


「高畑の先へ出るのか」


「明後日、小勢で」


 隠さない。


 全部は言えないが、村に関わることは伝える。


 老人は栗の木の向こうを見た。


「なら、石仏の曲がりをもっと見ろ。敵は、そこをまだ捨てていない」


「はい」


「それと、砦の先へ出る兵は戻りに腹が荒れる。行きより戻りの飯を考えろ」


 行きより戻り。


 盲点だった。


 前進飯ばかり考えていた。


 だが、前へ出た兵は戻ってくる。


 戻りは緊張が解ける。

 疲れが出る。

 敵に追われるかもしれない。

 腹も荒れる。


「戻り飯も要る」


 俺は小帳面に書いた。


 高畑砦では、森田甚助殿がすでに聞いていた。


「三十を出すそうだな」


「はい。今日は前進飯の試しです」


 森田殿は兵を五人出した。


 若い兵二人。

 見張り慣れした兵二人。

 そして、小三郎。


 代井戸番をしていた小三郎だ。


「俺もですか」


 小三郎が嫌そうに言う。


 森田殿は即答した。


「水の減りも見る。おまえが一番分かる」


 小三郎は渋々頷いた。


 試しは砦の外、短い坂道で行った。


 兵に前進飯を腰につけさせる。


 歩く。

 早歩きする。

 軽く走る。

 槍を構える。

 しゃがむ。

 包みを開ける。

 片手で食べる。

 水を少し飲む。


 問題はすぐ出た。


「走ると包みが後ろへ回る」


「開け口が少し硬い」


「握り飯が細長いのは食べやすい。でも、早く食うと喉に残る」


「味噌片は小さいほうがいい」


「干し菜が歯に挟まる」


 権六がいなくても、文句は出る。


 俺は一つずつ聞いた。


 佐助が味を直す。

 かやが包みを直す。

 作兵衛が装着位置を見る。


 小三郎は水の減りを見ていた。


「この飯なら、一人が飲む水は少しで済む。でも、喉に残ると水が増える。握り飯をもう少し小さく二つに分けたほうがいい」


「二つに?」


「一つだと、急いで食う。二つなら、少しずつ食える」


 いい意見だった。


 井戸番役をした小三郎らしい。


 水の使い方から飯を見る。


「二小包みにする」


 俺は言った。


「一つを行き。もう一つを戻りにしてもいい」


 老人の言葉がここでつながる。


 戻り飯。


 同じ包みの中に、行きと戻りを分ける。


 兵が全部を行きで食べないよう、包みも分ける必要がある。


 森田殿が言った。


「戻り分を勝手に食う奴が出る」


 権六がいれば「俺なら食う」と言っただろう。


 俺は頷いた。


「戻り包みには印をつけます。戻るまで開けない。食べたら自分が困る、と先に伝える」


「困ると分かっていても食う奴は食う」


 森田殿の声は厳しい。


「なら、組で見る。五人組で戻り包みを確認する。ひとりが食べ尽くさないように」


 作兵衛が言った。


 五人組。


 前進飯も組で見る。


 また分けて、つなぐ。


 試しを終える頃には、砦前進飯の形は少し変わっていた。


 一人分を二小包みに分ける。

 行き包みと戻り包み。

 味噌片は小さく。

 干し菜は細かすぎず、握り飯に混ぜすぎない。

 水は小三郎が見た量を基準。

 五人組で戻り包み確認。


 森田殿は、最後に高畑の先を見た。


「明後日、敵に見せる足になる」


「はい」


「飯で足を縛るなよ」


「縛らないように作ります」


「飯で足を戻せ」


 その言葉は、腹に残った。


 飯は足を止めることもある。


 重すぎれば足を縛る。

 足りなければ戻れない。

 水を欲しがらせすぎれば動きが鈍る。


 前進飯は、兵の足を前へ出し、戻すための飯だ。


 清洲へ戻ると、伊三郎が試験結果を清書した。


 砦前進飯、改。


 一人二小包み。

 行き包み、戻り包み。

 左腰斜め固定。

 五人組で戻り包み確認。

 水量基準、小三郎案。

 手を汚さず食べられる開け口。

 干し菜控えめ。

 味噌片小型。


 権六が聞いて言った。


「俺がいないのに文句が豊作だな」


「安心しろ。おまえの仕事はなくならない」


「安心していいのか、それ」


 夜、砦前進飯の改を皆で試した。


 行き包みと戻り包み。


 同じようで少し違う。


 戻り包みは、少し味噌片の塩気を強めてある。


 疲れた時に効くように。


 ただし、水を欲しがりすぎない程度に。


 かやが言った。


「今日の飯は、前へ出て戻る味だね」


「戻る味か」


 作兵衛が頷く。


「戻る飯は大事だ。行くだけの飯は、兵を置き去りにする」


 俺は戻り包みを見た。


 小さい。


 だが、重い。


 明後日、兵三十が高畑砦の先へ出る。


 戦ではない。


 だが、敵に足を見せる。


 その足を支えるのは、この小さな包みだ。


 敵が嫌がる場所へ、飯を先に置く。


 そして、兵が戻るまで腹を切らさない。


 それが次の仕事だった。

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