第六十九話 井戸番の腹が揺れた日
砦側の文句も拾う。
そう決めただけで、高畑砦の空気は少し変わったらしい。
森田甚助殿から届いた最初の文句札には、こうあった。
味噌片は常備用のほうがよい。
輸送用は匂いが薄く、夜には寂しい。
糒は湯が足りないと歯に残る。
炒り豆は見張り前に食べると、口の中が乾く。
井戸番がうるさい。
最後の一行で、清洲蔵の空気が少し止まった。
井戸番がうるさい。
言い方は雑だ。
だが、大事な文句だった。
水を勝手に使わせない。
味噌片用の湯を制限する。
井戸の前で長話をさせない。
夜に汲む量を決める。
水筒を混ぜるなとうるさく言う。
砦の兵から見れば、確かにうるさいのだろう。
だが、井戸番がうるさくなければ、砦の水はすぐ乱れる。
水が乱れれば、飯が乱れる。
飯が乱れれば、見張りが乱れる。
見張りが乱れれば、高畑砦の目が曇る。
つまり、井戸番のうるささも兵糧だった。
「嫌な兵糧だな」
権六が文句札を覗き込んで言った。
「うるささまで兵糧か」
「でも、そうだと思う」
俺は答えた。
「井戸番が黙ったら、水が減る」
「井戸番が嫌われすぎたら?」
権六が聞く。
俺は黙った。
それも問題だ。
井戸番が正しくても、兵全員から嫌われれば、水の決まりは守られにくくなる。
人は、嫌いな者の言うことを守りたがらない。
それが正しくてもだ。
伊三郎が帳面に新しい欄を作った。
「砦水文句欄」
「また増えた」
「必要です。井戸番への文句は、水管理の不満です。放置すると、水を勝手に使う者が出ます」
佐助は味噌片を見ながら言った。
「味噌片を少し食べると、水が欲しくなります。水の不満が増えるのは当然です」
作兵衛も頷いた。
「人足もそうだ。塩気が強い飯を食わせて水を出さないと荒れる。荒れると、隠れて飲む」
「砦でも同じか」
「同じだろうな」
かやは、水筒の紐を直しながら言った。
「水筒を分けるだけじゃ足りないね。誰が、いつ、どの水を使っていいか、砦の兵にも分かる形にしないと」
水の見える化。
そんな言葉は誰も使わないが、そういうことだ。
井戸番だけが知っているのではなく、砦の兵全員がある程度知る。
どれだけ飲んでいいのか。
味噌片用の湯はいつ使えるのか。
見張り前の水はどこから取るのか。
非常時は誰が決めるのか。
井戸番の腹へ全部乗せると、井戸番が潰れる。
そして敵は、そこを狙ってきた。
翌朝、高畑砦から急ぎの使いが来た。
砦の若い兵だった。
顔色が悪い。
「井戸番が倒れました」
その一言で、蔵の中が凍った。
「水が尽きたのか」
俺が聞くと、若い兵は首を振った。
「水はあります。けど、井戸番が朝から腹を下して、小屋から出られません」
また腹。
薪運びの時と同じ嫌な感じがした。
「何か食べたのか」
佐助がすぐ聞く。
「昨夜、見張り明けに干し柿をもらったと言っていました。誰からかは……」
「誰からか分からない?」
「外の者ではないと思います。砦の中に置いてあったとかで」
砦の中に置いてあった干し柿。
嫌すぎる。
佐助の顔が厳しくなった。
「その干し柿、残っていますか」
「分かりません。森田様が触るなと言って、井戸番の小屋を閉めています」
森田殿の判断は早い。
触らず残した。
それは助かる。
だが、問題は井戸番が倒れたことだ。
井戸番がいない間、誰が水を決めるのか。
砦の兵は、すでに水で文句を持っている。
その井戸番が倒れた。
敵が狙ったのなら、狙いは水そのものではなく、水の決まりだ。
「すぐ行く」
俺は言った。
弥助殿へ報告し、許可を受ける。
弥助殿は短く言った。
「水を運べ。だが、運びすぎるな」
「運びすぎるな、ですか」
「井戸番が倒れたからといって清洲が水を大量に入れれば、砦の者は井戸番など不要と思う。水の決まりが崩れる」
なるほど。
水を助ける必要はある。
だが、水管理を壊してはいけない。
清洲から水を運べば解決、ではない。
井戸番の役を一時的に支え、砦の水の決まりを守る。
「代井戸番を立てます」
俺は言った。
「砦内の者から。清洲は水を補いますが、決定は砦側に残します」
弥助殿は頷いた。
「それでよい」
高畑へ向かう荷は、いつもより水が多かった。
ただし、大量ではない。
飲み水竹筒。
味噌片用の小水筒。
井戸番の腹を落ち着ける薄粥の材料。
湯を作るための小さな火道具。
佐助の確認布。
そして、砦水札。
かやが水筒を分けながら言った。
「水は重い。今日は人足を増やす?」
作兵衛が首を振った。
「増やしすぎると目立つ。二人増やすだけ。水筒は分散。倒れたら全部失う形にしない」
「音は?」
「布を巻く」
水筒が鳴らないよう、竹の当たる部分に布を巻く。
石仏の曲がりは止まらない。
背戻し窪地で一度だけ肩を直す。
そこから砦へ進む。
道はもう何度も通った。
だが今日は、水の重さがある。
太助がすぐ文句を言った。
「水は米より意地が悪い」
「どういう意味だ」
「米は黙って重い。水は揺れて重い」
作兵衛が頷く。
「名言だな」
「書くのか?」
太助が嫌そうな顔をする。
「書く」
俺は本当に書いた。
水は揺れて重い。
高畑砦に着くと、森田甚助殿が入口で待っていた。
顔には疲れがある。
「来たか」
「井戸番は?」
「小屋だ。腹は落ち着かんが、意識ははっきりしている」
「水は?」
「今のところ残っている。だが、朝から揉めかけた」
「誰が決めたのですか」
「俺だ。だが、水の細かい量までは見切れん」
森田殿は小頭だ。
砦全体を見る。
敵の動きも、見張りも、兵の配置も見る。
水の細かいことまで全部見るのは無理だ。
だから井戸番がいる。
その井戸番が倒れた瞬間、砦の水の腹が揺れた。
まず井戸番の小屋へ行った。
井戸番は寝床に横になっていた。
顔は青いが、目はまだ強い。
「清洲の飯炊きか」
「はい。大丈夫ですか」
「腹が大丈夫じゃない」
声は弱い。
だが、口の強さは残っている。
少し安心した。
佐助が干し柿について聞くと、井戸番は顔をしかめた。
「見張り明けに、小屋の前に置いてあった。誰かの差し入れかと思った」
「食べたのですか」
「一つだけな。甘かった。嫌な甘さではなかったが、後から腹に来た」
小屋の隅に、残りの干し柿が布に包まれて置かれていた。
森田殿が触るなと言ったものだ。
佐助が慎重に匂いを見る。
すぐ顔を険しくした。
「何か塗っています。強い毒ではないと思いますが、腹を下すようなものかもしれません」
「やはりか」
森田殿が低く言った。
井戸番が舌打ちする。
「俺を倒して、水を使わせる気か」
「たぶん」
俺は答えた。
「井戸番がいない時、誰が水を決めるか。それを揺らす狙いだと思います」
井戸番は悔しそうに目を閉じた。
「俺が食わなければ」
「置いた者が悪い。食ったことだけを責めると、次から誰も言わなくなります」
俺は、清洲蔵で学んだことをそのまま言った。
「ただ、これからは砦の中でも、置いてある食べ物は食べない決まりにしましょう。誰からか分からない差し入れは、井戸番でも兵でも、まず出す」
「砦でも清洲式か」
井戸番が苦笑した。
「面倒だな」
「はい。でも、面倒で守れることがあります」
「それは分かる」
井戸番は、少し悔しそうに認めた。
次に、代井戸番を決める必要があった。
森田殿は若い兵の一人を指した。
「小三郎。しばらく井戸を見る」
小三郎と呼ばれた兵は、露骨に嫌な顔をした。
「俺ですか」
「そうだ」
「水で文句言われる役じゃないですか」
その言い方に、周りの兵が少し笑った。
だが、小三郎の顔は真剣だ。
井戸番が嫌われ役だと分かっている。
だから嫌なのだ。
俺は言った。
「一人で背負わない形にしましょう」
「え?」
小三郎が俺を見る。
「代井戸番は一人。でも、水を決める時は、森田殿か組頭の一人と一緒に確認する。水の札を使います」
俺は持ってきた砦水札を出した。
三種類ある。
飲み水。
味噌片用。
非常用。
絵で分かるようにしてある。
飲み水は水筒の絵。
味噌片用は小椀の絵。
非常用は赤い線。
「朝に、今日使える分を札で分けます。飲み水分、味噌片用、非常用。使ったら札を裏返す。誰が見ても、残りが分かるように」
小三郎は札を受け取った。
「これなら……少しは言いやすいかもしれません」
「井戸番が勝手に渋っているのではなく、札で決まっていると見せる」
井戸番が寝床から低く言った。
「そうだ。俺がうるさいんじゃない。水が少ないんだ」
砦の兵たちが少し笑った。
井戸番も、少しだけ笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
水場へ向かった。
井戸の水はある。
だが多くはない。
今日は清洲から持ち込んだ水を、味噌片用に回す。
砦の井戸は飲み水優先。
非常用は触らない。
小三郎が札を並べ、森田殿が確認する。
最初はぎこちない。
でも、見える。
誰がどの水を使っているか見える。
これだけで、文句の形は変わるはずだ。
若い兵が言った。
「味噌片用、少なくないですか」
小三郎が言い返しかけた。
だが、俺は先に言った。
「少ないです。今日は清洲から持ち込んだ分だけです。砦の井戸は飲み水優先。味噌片は、湯に溶かす分と、そのまま食べる分を分けます」
「そのままはしょっぱい」
「はい。だから、常備用は少し薄めに調整します。ただ、薄すぎると腹に残りません」
若い兵は不満そうだったが、頷いた。
文句は出る。
でも、理由も見える。
それが大事だった。
井戸番には、薄い粥を作った。
砦の水は使わず、清洲から持った水で。
味噌は入れない。
塩をほんの少し。
腹を下した者に重いものは出せない。
佐助が見ながら言った。
「今日はこれだけにしてください。干し柿は絶対に食べないでください」
「二度と食わん」
井戸番が苦い顔で言う。
小三郎が横で言った。
「井戸番が勝手に拾い食いするなよ」
「うるさい」
井戸番が睨む。
だが、少し笑いが出る。
砦の空気が、少し戻った。
俺たちはその日のうちに、砦の決まりを一つ追加した。
差し入れ禁止ではない。
それだと兵の気持ちも荒れる。
差し入れは、誰からか分かる形にする。
名前のない食べ物は、食べずに水札の横の箱へ入れる。
佐助か、砦の確認役が見るまで口にしない。
井戸番、小頭、見張り組には特に徹底する。
森田殿が言った。
「砦の中にも、怪しいものを出す箱がいるな」
「清洲蔵にもあります」
「真似させてもらう」
敵が清洲式を真似るのは嫌だが、味方が真似るのはありがたい。
帰り際、井戸番が寝床から声をかけた。
「清吉」
「はい」
「水の札、悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、札があっても水は増えん」
「はい」
「そこを忘れるな」
厳しい言葉だった。
でも、その通りだ。
札は水を増やさない。
帳面も水を増やさない。
見えるようにするだけだ。
増やすには、運ぶか、使い方を変えるしかない。
「忘れません」
俺は答えた。
清洲へ戻る道で、太助が言った。
「井戸番、嫌な役だな」
「そうだな」
「でも、いないと困る」
「うん」
「文句役と似てるな」
それを権六が聞いたら、ものすごく嫌がりそうだ。
でも、少し似ている。
嫌なことを言う役。
文句を受ける役。
皆の腹に必要なのに、感謝されにくい役。
そういう役ほど、敵に狙われる。
清洲へ戻ると、伊三郎が報告を聞いてすぐに書いた。
井戸番腹下し。
干し柿に混ぜ物疑い。
代井戸番、小三郎。
砦水札、飲み水・味噌片用・非常用。
水の残りを見える形に。
差し入れは名を残す。
無名の食べ物は確認箱へ。
井戸番は嫌われ役であり、水の要。
最後の一行を見て、俺は少し笑った。
「嫌われ役って書くのか」
「重要です」
伊三郎は真顔だった。
「嫌われ役ほど、守らなければ崩れます」
その通りだった。
夜、清洲蔵でも水札を試した。
待機粥用の水。
味噌片用の湯。
飲み水。
非常用。
札を置くだけで、どの水を使っているか分かりやすくなる。
権六が見て言った。
「俺にも分かる」
「それは大事だ」
「どういう意味だ」
「分かりやすいという意味だ」
かやが笑った。
「今日の飯は、水が見える味だね」
「札で水は増えないけどな」
俺が言うと、佐助が頷いた。
「でも、見えないと減り方も分かりません」
作兵衛が粥をすすりながら言った。
「井戸番も人足も、嫌な役ほど腹が減る。そこを敵に食われるんだな」
俺は椀を見た。
薄い粥。
今日は井戸番に出したものと同じくらい軽い味にした。
腹を下した者に出す飯。
派手さはない。
だが、必要な飯だ。
高畑砦の井戸番は、敵に狙われた。
水を乱すために。
水そのものではなく、水を守る人の腹を揺らすために。
なら、こちらはその腹も守らなければならない。
水を運ぶだけでは足りない。
水を決める人を、一人にしない。
見える形にする。
嫌われ役を、孤立させない。
それもまた、飯の道だった。




