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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第六十八話 粗末な飯と呼ばれた日

 高畑砦の兵が、清洲の飯を「粗末飯」と呼んでいる。


 その話が清洲蔵へ届いた時、俺は味噌片を割っていた。


 湯が少なくても使えるよう、薄く伸ばした味噌を乾かし、十枚ずつ束ねる。干し菜を混ぜる。塩気を少し均す。砦十人包みの中へ入れる。


 手間はかかる。


 温かい粥を炊くより、ある意味ずっと面倒だ。


 だが、砦では火を使えない時がある。

 水で揉める時がある。

 煙を見せられない時がある。

 敵の目がある。


 だから作った。


 その飯が、粗末飯と呼ばれている。


 俺は、手元の味噌片を見た。


 薄い。

 小さい。

 地味だ。


 確かに、見た目だけなら粗末だ。


 湯気もない。

 椀いっぱいの粥でもない。

 味噌汁として香り立つわけでもない。

 糒と干し菜と味噌片と少しの炒り豆。


 清洲蔵で食べる温かい粥を知っている者から見れば、物足りないだろう。


「誰が言っていたんですか」


 伊三郎が聞いた。


 知らせを持ってきたのは、五郎兵衛殿の配下だった。


「砦の若い兵数人です。直接こちらへ文句を言ったわけではありません。ただ、見張り交代の時に漏らしていたと」


「紙ですか。口ですか」


「口です。ただ、言い回しが妙でした」


「妙?」


 配下は少し顔をしかめた。


「『清洲では温かい粥を食っているのに、砦には板味噌と乾いた米だけ寄こす』と」


 蔵の中が静かになった。


 権六が低く言った。


「嫌な言い方だな」


 俺もそう思った。


 この噂は、まったくの嘘ではない。


 清洲蔵では温かい粥を食べる。

 高畑砦には糒や味噌片を置いている。


 形だけ見れば、その通りだ。


 だが、理由が抜けている。


 火が使えない。

 煙を見せられない。

 水が少ない。

 常備にする必要がある。

 日持ちしなければならない。

 鼠や湿気にも耐えなければならない。


 その理由を抜いて、「清洲だけ良い飯を食っている」と言えば、砦の兵の腹に刺さる。


 敵はそこを狙っている。


「粗末飯か」


 作兵衛が腕を組んだ。


「腹立つな」


「でも、砦の兵から見れば、そう見えるかもしれない」


 俺が言うと、権六が俺を見た。


「清吉、怒らねえのか」


「怒ってる」


「顔は怒ってる」


「でも、怒っても飯はうまくならない」


 権六は少し黙った。


 それから、椀を手に取るような仕草をした。


「じゃあ、食わせるしかねえな」


「何を?」


「俺たちも同じ飯を食ってるところを見せる。清洲の奴らが温かい粥を隠れて食ってるって思われてるなら、砦飯を清洲でも食えばいい」


 権六にしてはまともな案だった。


 いや、かなりまともだった。


 かやも頷く。


「それは効くかも。説明だけだと弱い。同じものを食べるのが早い」


 佐助が少し不安そうに言った。


「ただ、砦飯は毎日食べるには固いです」


「だからこそ、だ」


 作兵衛が言った。


「清洲でも試す。食って文句を出す。砦の兵だけに食わせる飯じゃないって見せる」


 伊三郎が筆を取る。


「同食確認」


「また名前がついた」


 俺が言うと、伊三郎は真面目に言った。


「必要です。清洲側も砦飯を食べ、改善点を出す。砦側には、その記録も見せる」


 同じ飯を食う。


 同じ文句を聞く。


 同じ帳面に残す。


 それは、噂への返事になるかもしれない。


 弥助殿へ報告すると、すぐに許可が出た。


「高畑へ行け」


 短かった。


「清吉、佐助、権六。かやは荷を見る。作兵衛は人足を選べ。伊三郎は同食記録を作れ」


「権六も行くのですか」


 俺が聞くと、弥助殿は当然のように頷いた。


「文句役が要る」


 権六は妙に胸を張った。


「任せろ。粗末飯と言われた飯の文句なら、俺が一番うまく聞ける」


「誇るところか?」


「誇るところだ」


 そして、その日の昼は清洲蔵でも砦飯になった。


 温かい粥は出さない。


 糒。

 味噌片。

 干し菜。

 炒り豆。

 持ち込み水を湯にしたもの少し。


 砦と同じ形だ。


 味噌片を湯に入れる。


 ゆっくりほどける。


 糒を少し戻す。


 すぐには柔らかくならない。


 干し菜を加えると、香りは立つが、粥のような丸みはない。


 権六が一口食べて、眉を寄せた。


「うん。粗末だ」


 佐助が肩を落としかける。


 権六は続けた。


「でも、粗末って言い方が悪い。これは粗末なんじゃなくて、削ってる飯だな」


「削ってる飯?」


「いらねえものを削ってる。湯気とか、うまさとか、腹いっぱい感とか。代わりに、軽さと日持ちと隠れやすさを残してる」


 俺は少し驚いた。


 権六が、そんなことを言うとは思わなかった。


 かやが笑う。


「文句役、成長したね」


「馬鹿にするな。文句は深いんだ」


 作兵衛も砦飯を食べた。


「背負う側からすると悪くない。軽い。ただ、食った気は薄い。砦で不満が出るのは分かる」


 佐助は真剣に頷く。


「味噌片をもう少し香り強くできます。ただ、匂いが漏れます」


「砦用は匂いを強くしすぎるな」


 俺は言った。


「でも、砦の中で食べる常備飯なら、少し香りを足せるかもしれない。輸送中の味噌片と、砦内で開ける味噌片を分けよう」


 伊三郎がすぐ書いた。


「輸送用味噌片、常備用味噌片、区分」


 また分ける。


 だが、意味はある。


 敵に見つからず運ぶものと、砦の中で兵の腹を落ち着けるものは違う。


 同じ味噌片でも、役が違う。


 午後、俺たちは高畑砦へ向かった。


 今日の荷は少ない。


 ただし、砦飯の試食分を持っている。


 清洲蔵で食べたものと同じだ。


 伊三郎が書いた同食記録も持った。


 清洲蔵で誰が食べ、何を文句として出したか。


 権六の「粗末ではなく削ってる飯」まで記録されていた。


「本当にそれ持っていくのか」


 権六が嫌そうに言う。


「重要です」


 伊三郎は譲らなかった。


「清洲側も文句を出したと分かれば、砦側だけが我慢させられているわけではないと伝わります」


「俺の文句が外交になるとはな」


「外交かは分かりませんが」


 高畑砦へ向かう道は、もう何度も通ったが、気は抜けない。


 石仏の曲がりは今日も危険地。


 背戻し窪地で肩を直し、砦へ進む。


 砦に着くと、森田甚助が待っていた。


 顔が硬い。


 井戸番もいる。


 その後ろに、若い兵が数人。


 たぶん噂を口にした者たちだろう。


 森田が先に言った。


「清吉。耳に入ったか」


「はい」


「すまん」


「謝らないでください。不満は出ます」


 森田は少し苦い顔をした。


「出るにしても、言い方がある」


「言い方を作った者がいるかもしれません」


 俺はそう答えた。


 森田の目が細くなる。


「敵か」


「分かりません。でも、『清洲は温かい粥を食っている』という言い方は、誰かが火をつけたように聞こえます」


 若い兵の一人が、むっとした顔で前に出た。


「でも、清洲では食ってるんだろ。温かい飯を」


「食べています」


 俺は答えた。


 兵の顔がさらに険しくなる。


 ごまかさない。


 ここで嘘を言えば終わる。


「清洲蔵では温かい粥も食べます。でも今日は、清洲蔵でも砦飯を食べました」


 俺は伊三郎の同食記録を出した。


 森田が受け取り、読む。


 井戸番も覗き込む。


 若い兵は字が得意ではないのか、顔だけ見ている。


 森田が読み上げた。


「清洲蔵、昼。砦飯同食。権六、粗末だが削ってる飯。作兵衛、軽いが食った気は薄い。佐助、香り改善余地あり。清吉、輸送用と常備用を分ける必要あり」


 若い兵が権六を見た。


「本当に食ったのか」


 権六は胸を張った。


「食った。文句も言った」


「うまかったか」


「うまくはねえ」


 砦の空気が一瞬止まった。


 権六は続けた。


「でも、ここで食う飯としては意味がある。清洲の粥をそのまま持ってきたら、途中で悪くなるか、煙で敵に見つかるか、水で揉める。おまえらに粗末飯を押しつけてるんじゃねえ。ここで生きるように削った飯だ」


 若い兵は黙った。


 俺が言うより、権六が言うほうが届くこともある。


 文句役だからだ。


 自分も文句を言う者の声は、不満の腹に入りやすい。


 佐助が味噌片を一束出した。


「今日、二種類持ってきました」


「二種類?」


 井戸番が聞く。


「輸送用と、常備用です。輸送用は匂いを抑えています。常備用は、砦内で開ける前提なので、少し香りを出しています。ただし、保存は少し弱くなります」


 森田が受け取る。


「保存が弱くなるのは困る」


「長く置くものには向きません。開封訓練や見張り延長用に、早めに使う分です」


 井戸番が言った。


「水は?」


「常備用は湯に溶かすと香りが出ます。でも水がない時は、そのまま少しずつで」


 若い兵がぼそっと言った。


「香りがあるなら、少しはましだな」


 まし。


 それでいい。


 粗末から、ましへ。


 いきなり美味いにはならない。


 砦飯はそういう飯ではない。


 その場で試食することになった。


 もちろん、井戸番の許可を得た水だけを使う。


 小さな湯を作る。


 煙は出しすぎない。


 常備用味噌片を溶くと、昨日より少し香りが立った。


 若い兵たちが順に飲む。


 一人が言う。


「これなら、夜に飲めたら落ち着く」


 別の兵が言う。


「でも、量は少ない」


 権六がすぐ返す。


「少ないって文句は正しい。だから見張り前飯と常備飯を分けるんだろ」


 森田が頷く。


「通常の見張り前に少量。非常時に常備飯。そこを混ぜるから揉める」


 少しずつ、話が整っていく。


 ただ、敵の噂はそれだけでは終わらなかった。


 井戸番が低い声で言った。


「昨夜、柵の外に小さな木札が落ちていた」


 森田が俺たちを見た。


「まだ見せていなかったな」


 木札には、雑な字が刻まれていた。


 伊三郎はいないので、森田が読んだ。


「『清洲は砦を目にするが、腹とは見ていない』」


 俺の胸が冷えた。


 清洲は砦を目にする。


 だが腹とは見ていない。


 嫌な言葉だ。


 信長様の「高畑を目にする」という言葉を、敵がどこかで聞いたのか。


 それとも、似た考えを読んだのか。


 砦の兵にとって、自分たちが「目」とだけ扱われ、「腹」を見られていないと思えば、不満は増す。


 森田は木札を握った。


「これを読んだ若いのが、荒れた」


 若い兵は顔を背けた。


「……実際、そう思った。俺たちは見張り台の目で、腹は後回しかって」


 俺はすぐには答えなかった。


 否定するだけなら簡単だ。


 でも、砦常備飯を作り始めるまで、俺たちは高畑砦の腹を十分に見ていなかった。


 水で揉めていることも。

 常備飯の開け時も。

 夜の不安も。

 粗末飯と呼ばれることも。


 見えていなかった。


「後回しにしていたところはあります」


 俺は言った。


 森田がこちらを見る。


 若い兵も見る。


「飯を届ける線ばかり見て、砦の中でそれをどう食べるか、誰が不満を持つか、水でどう揉めるか、まだ見切れていませんでした。だから、今日来ました」


 若い兵は黙った。


「砦を目にするなら、腹も見ます。目だけでは、人は立っていられません」


 権六が横から言った。


「腹が減ると、目は怒るからな」


 変な言い方だったが、砦の兵たちが少し笑った。


 笑いが出た。


 それだけで、木札の毒が少し薄まった気がした。


 俺は続けた。


「清洲でも砦飯を食べます。文句も出します。改善します。砦だけに我慢させる飯にはしません」


 森田は静かに頷いた。


「なら、次から砦側の文句も帳面に入れろ」


「もちろんです」


 井戸番が言った。


「水の文句もだ」


「はい」


 若い兵が少し迷ってから言った。


「……味噌片、もう少しだけ香りがあるといい」


 佐助がすぐ頷く。


「常備用なら調整できます。ただ、保存との釣り合いがあります」


「それも書くのか」


「書きます」


 佐助が答えた。


 若い兵は少し笑った。


「清洲は何でも書くんだな」


 俺も笑った。


「書かないと、忘れます」


 その日の帰り道、石仏の曲がりでは止まらなかった。


 だが、俺は心の中で手を合わせた。


 砦の中にも、噂の罠が掘られていた。


 粗末飯。


 清洲は温かい粥を食っている。

 砦を目としか見ていない。

 腹を見ていない。


 そういう言葉は、石仏の穴と同じだ。


 踏めば足を取られる。


 だが、見つければ避けられる。


 清洲へ戻ると、伊三郎が報告を聞いてすぐに清書した。


 砦同食記録。

 砦飯、輸送用・常備用に区分。

 常備用は香りを少し強める。

 保存期間短め。

 砦側文句欄新設。

 水文句欄新設。

 木札「清洲は砦を目にするが腹とは見ていない」。

 返答――目にするなら腹も見る。


 伊三郎は最後の言葉を書きながら、少しだけ目を細めた。


「よい言葉です」


「権六の言葉も書くのか」


「腹が減ると、目は怒る、ですね」


「書かなくていいだろ」


「書きます。兵には伝わりやすい」


 権六は満足そうだった。


 夜、清洲蔵でも砦飯を食べた。


 今日は常備用味噌片入り。


 輸送用より少し香りがある。


 確かに、気持ちが落ち着く。


 権六が言った。


「今日の飯は、粗末飯から少しまし飯になった味だな」


「名前が悪い」


「でも、進歩してる」


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、砦の腹も見る味」


 俺は頷いた。


 高畑砦は、清洲の目になる。


 だが、目だけでは人は立てない。


 腹がある。


 水で揉める腹。

 粗末飯に不満を持つ腹。

 夜の物音に怯える腹。

 常備飯を開けたくなる腹。


 そこを見ることも、飯の仕事だ。


 敵は言葉で穴を掘る。


 こちらは、同じ飯を食って、その穴を埋める。


 粗末な飯と呼ばれた日。


 俺たちは、その飯を一緒に食べた。


 それが、たぶん最初の返事だった。

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