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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第六十七話 ある飯は、人を安心させ、油断もさせる

 砦に飯を置くと、兵の顔が変わる。


 森田甚助の言葉は、本当だった。


 高畑砦へ砦十人包みを二つ置いた翌日、俺たちは見回りを兼ねて砦へ向かった。


 今日は大きな荷はない。


 新しい砦十人包みを一つ。

 入れ替え用の味噌片。

 湿気を見るための竹皮。

 小さな鼠除けの板。

 そして、開封札を追加するための木札。


 砦常備飯は置いて終わりではない。


 置いた後に、見に行く。


 数を見る。

 湿気を見る。

 鼠を見る。

 兵の顔を見る。


 それが今日の仕事だった。


 前進飯場の村を通ると、老人が栗の木の下で俺たちを待っていた。


「今日は荷が軽いな」


「砦の飯を見に行きます」


「置いた飯か」


「はい」


 老人は鼻を鳴らした。


「置いた飯は、置いた者を試す」


「昨日も似たことを言っていましたね」


「何度でも言う。飯は置くと腐る。人の心も一緒だ」


 重い。


 朝から重い。


 だが、嫌な重さではなかった。


 俺は頭を下げた。


「見てきます」


「石仏はまだ触るな。若い者が見ている。昨日の夕方、山側に足跡が増えていた」


「敵ですか」


「分からん。だが、村の者ではない」


 高畑砦飯線は、まだ見られている。


 石仏の曲がりは、今日も止まらず通る。


 背戻し窪地で一度だけ肩を直し、そこから砦へ向かった。


 今日は風が弱い。


 弱い風は歩くには楽だが、煙が滞る。


 火を使わない飯を考えたのは正しかったと思った。


 高畑砦に着くと、入口で井戸番が待っていた。


 昨日より顔は少し柔らかい。


「清洲の飯炊きか」


「清吉です。常備飯を見に来ました」


「来たか」


 その言い方に、少し引っかかった。


 来たか。


 来ると思っていた声だった。


 砦の中へ入ると、すぐに理由が分かった。


 見張り台の下に仮置きしていた砦十人包み。


 二つ置いたうち、一つの包みが開いていた。


 俺は足を止めた。


 かやも止まる。


 佐助が息を呑む。


 作兵衛が低く言った。


「誰が開けた」


 井戸番は、少し苦い顔をした。


「開け方は決まり通りだ。森田殿と俺が立ち会った」


「では、問題は?」


 俺が聞くと、井戸番は見張り小屋のほうを顎で示した。


「開けるのが早すぎた」


 森田甚助が出てきた。


 顔には疲れがある。


 だが、怒っているというより、困っている顔だった。


「昨日の夜、見張りの一組が騒いだ」


「何があったのですか」


「敵影を見たと言った。実際は鹿だったかもしれん。だが、夜の山で物音が続き、見張りが不安がった。腹も減っていた。常備飯を開けろという話になった」


「それで開けた」


「俺と井戸番で開けた。決まり通りにな」


 決まりは守っている。


 二人で確認して開けた。


 開封札もある。


 だが、開け時が決まっていなかった。


 いつなら開けていいのか。


 敵襲か。

 見張りが長引いた時か。

 飯が届かなかった時か。

 夜の不安で腹が荒れた時か。


 決めていなかった。


 だから、開ける判断が森田殿と井戸番の腹へ全部乗った。


 それは重い。


「中身は?」


 かやが聞いた。


「十人分、全部配った」


 森田殿が答える。


「残しは?」


「ない」


 そこは守られている。


 開けたら使い切る。


 湿気や数の乱れを避けるためだ。


 ただ、問題は別にあった。


 井戸番が言った。


「食った奴らは落ち着いた。だが、食わなかった組が不満を言っている」


 やはり。


 常備飯を開けると、食べた者と食べなかった者が出る。


 砦十人包みは、十人分だ。


 砦全員分ではない。


 見張り組に配れば、待機組は不満を持つ。


 待機組に配れば、見張り組が怒る。


 飯があると安心する。


 だが、飯を誰に配るかで揉める。


 森田殿は腕を組んだ。


「飯がない時は、ないことで揉める。飯がある時は、誰が食うかで揉める。面倒なものだ」


「はい」


 俺は頷いた。


「飯は面倒です」


「清吉が言うと、少し諦めがつくな」


 褒められているのか、呆れられているのか分からない。


 俺たちは、開いた包みを確認した。


 竹皮は湿っていない。

 鼠の跡もない。

 味噌片の束はすべて使われた。

 糒も残っていない。

 干し菜も塩も配られている。


 管理としては悪くない。


 問題は、開け時と配り方。


 それから、もう一つ。


 佐助が未開封のもう一包みを見て、眉を寄せた。


「これ、少し湿気ています」


「昨日置いたばかりだぞ」


 俺が言うと、佐助は竹皮の端を見せた。


「見張り台の下は風が通ります。でも、夜露が吹き込んだのだと思います。外側の竹皮が少し湿っています。中まではまだ大丈夫です」


 かやが置き場を見た。


「台が低い。地面からの湿気もある。もう少し上げたい」


「上げると見える」


 森田殿が言う。


「だから箱が必要です。風は通す。でも露は避ける。鼠が入らない。人が勝手に触りにくい」


 かやは言いながら、もう頭の中で形を作っているようだった。


 井戸番が渋い顔をする。


「箱を作るなら材がいる」


「砦で作れますか」


「簡単なものなら。だが、見張り台の補修材を削るわけにはいかん」


 そこでまた問題だ。


 飯を守る箱のために、砦の補修材を使えば本末転倒になる。


 清洲から小さな箱を持ってくるか。


 しかし、箱は荷になる。


 背負いにくい。


 敵にも見えやすい。


 砦常備飯の箱。


 また新しい荷が増えた。


 作兵衛が言った。


「箱を丸ごと持つより、板を分けて持って、砦で組めばいい」


「組めるか?」


「簡単なものなら。釘は使わず、縄と溝で」


 かやが頷く。


「組み立て箱。いいね。板で運べば薄い。砦で組んで、要らない時はばらせる」


 伊三郎がいれば、もう書いていただろう。


 俺は小帳面に急いで印をつけた。


 組み立て箱。

 露避け。鼠避け。

 板で運ぶ。

 砦で組む。


 森田殿が俺の小帳面を見て、少し笑った。


「それで清洲へ伝わるのか」


「伊三郎が何とかしてくれます」


「便利な者がいるな」


「はい」


 心からそう思う。


 次に、開け時を決めることになった。


 森田殿、井戸番、見張り組の兵二人、俺たち。


 小屋の外で話す。


 砦の中は狭いので、声を落とさないとすぐ全員に聞こえる。


 だが、隠しすぎてもよくない。


 常備飯の決まりは、兵全員がある程度知っていなければならない。


「開けてよい時を三つに分けましょう」


 俺は言った。


「一つ、飯が予定通り届かなかった時。二つ、見張りが長引いて交代が遅れた時。三つ、敵の動きで砦を離れられない時」


 井戸番が言う。


「夜に物音がして不安になった時は?」


 昨夜のことだ。


 俺は少し考えた。


「それは、三つ目に入るかどうかを小頭と井戸番が判断する。ただし、ただ不安だから開けるのではなく、見張り延長や警戒強化があった時に限る」


 森田殿が頷く。


「そうでないと、夜ごとに開けることになる」


「はい」


 見張りの若い兵が不満そうに言った。


「でも、腹が減ると目が利かない」


「それは本当です」


 俺は答えた。


「だから、通常の見張り前にも少し腹へ入れる仕組みが必要です。常備飯は非常用。普段の見張り飯とは分けるべきです」


 森田殿が俺を見た。


「また飯が増えるのか」


「量は少しです。見張り前の味噌片一枚と干し菜少し。常備飯とは別に、当日分として清洲から送る」


「それが毎日届かなかったら?」


「届かない日に常備飯を開ける」


 ようやく形が見えてきた。


 砦常備飯は、普段食べる飯ではない。


 普段の見張り飯と分ける。


 見張り前の小さな腹入れは当日分。


 届かない時、見張りが長引く時、敵で動けない時だけ常備飯を開ける。


 配り方も決める。


 開けた包みは、開けた時点で担当組へすべて配る。

 ただし、見張り組だけでなく、交代で入る次の組にも一部回す。

 食べた者の数を開封札へ記す。

 残りは戻さない。


 若い兵が言った。


「食べた者の名まで書くのか」


「名まで書くと時間がかかります。組名と人数でいいと思います」


 森田殿が頷いた。


「それならできる」


 井戸番が付け加えた。


「水も同じだ。常備飯を開けるなら、水の使い方も一緒に決めろ。味噌片を湯にするのか、そのまま食うのか」


 大事なことだ。


 常備飯と水は切り離せない。


 俺は頷いた。


「水が足りない時は、味噌片を湯にせず、そのまま少しずつ。水がある時だけ湯に溶く。湯にする場合は、井戸番の確認」


「それでいい」


 井戸番は短く言った。


 不満そうではない。


 この人は水を勝手に使われるのが嫌なのだ。


 水の決まりがあれば、話は通る。


 次に、古い飯の入れ替えだ。


 これが難しい。


 常備飯は置いた瞬間から古くなる。


 古くなったものをいつ入れ替えるか。

 入れ替えた古い飯をどうするか。


 捨てるのはもったいない。

 だが、悪くなった飯は出せない。

 古くなる前に食べるなら、誰が食べるのかでまた揉める。


「古い常備飯は、見張り訓練の日に使う」


 作兵衛が言った。


 皆が彼を見る。


「どういうことだ」


 森田殿が聞く。


「開け方と配り方を練習する日を作る。古くなりそうな包みを、その日に開ける。非常時の練習にもなるし、古い飯を無駄にしない」


 いい。


 とてもいい。


 俺は思わず頷いた。


「常備飯開封訓練」


 俺が言うと、かやが小さく笑った。


「またそのまま」


「分かりやすいだろ」


「うん」


 森田殿も頷いた。


「訓練なら、兵も納得しやすい。『古い飯を食わされた』ではなく、『非常時の飯を試した』になる」


 同じ飯でも、言い方と出し方で腹への落ち方が変わる。


 これは大事だ。


 古い飯を処分するのではない。


 非常時の飯として試す。


 兵が味を知る。

 開け方を知る。

 水の使い方を知る。

 文句も出る。


 その文句を次へ返す。


 清洲式そのものだ。


 砦内で決めたことを、俺は小帳面に必死で記した。


 開け時三つ。

 届かぬ日。見張り長引く日。敵で動けぬ日。

 不安だけでは開けない。

 通常見張り飯と常備飯を分ける。

 水は井戸番確認。

 古い飯は開封訓練。

 組名と人数を札へ。


 字になっているかは怪しい。


 でも、腹には入った。


 置き場の改善として、仮台を少し高くした。


 今日持ってきた小板を使い、かやと作兵衛が簡単に組んだ。


 その上に未開封の砦十人包みを置く。


 布をかける。


 完全には隠さない。


 見えるが、すぐ触れない。


 かやが言った通りの位置だ。


 見張りの若い兵が、それを見て言った。


「あると安心するな」


 森田殿がすぐ言った。


「安心しすぎるな。勝手に開けたら罰だ」


「分かってますよ」


 若い兵は少し不満そうだった。


 だが、その不満も必要だ。


 安心と緊張の間に置く飯。


 砦常備飯は、そういうものなのだろう。


 清洲へ戻る道で、俺たちはあまり喋らなかった。


 考えることが多かった。


 置き場。

 箱。

 開け時。

 配り方。

 古い飯の入れ替え。

 訓練。

 水。

 井戸番。

 兵の不満。


 砦の中に飯を置くと、清洲蔵の問題が小さく生まれる。


 それを今日、はっきり見た。


 前進飯場の村へ戻ると、老人が言った。


「砦の飯、もう揉めたか」


「分かるのですか」


「飯を置けば揉める」


 老人は当然のように言った。


「だが、揉め方を決めておけば、まだましだ」


「揉め方を決める」


「そうだ。人は揉める。なら、どう揉めるか決めておけ」


 深い。


 というか、身も蓋もない。


 でも、その通りだった。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎は俺の小帳面を見て、しばらく黙った。


「読めるか?」


「努力します」


「すまん」


「いえ、腹は伝わります」


 それは褒め言葉なのだろうか。


 伊三郎は、きれいな字で清書していった。


 砦常備飯規定。


 一、常備飯は通常飯ではなく非常用。

 二、開封は小頭、井戸番、または組頭のうち二名確認。

 三、開封時は組名と人数を記す。

 四、開けた包みは戻さず使い切る。

 五、開封時は水の扱いを井戸番と確認。

 六、古くなる前に開封訓練で使う。

 七、通常見張り飯は別に送る。

 八、置き場は風通し、露避け、鼠避けを考える。

 九、見えるがすぐ触れない場所に置く。


 九つ。


 また増えた。


 だが、必要だった。


 夜、砦常備飯を使った試し飯を皆で食べた。


 糒を戻し、味噌片を入れ、干し菜を足す。


 今日は少し炒り豆も入れた。


 歯応えがある。


 権六が言った。


「今日の飯は、開け時の味だな」


「どんな味だ」


「今食うべきか、まだ我慢すべきか迷う味」


 作兵衛が笑った。


「それは砦らしいな」


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、置いた後の面倒の味」


「面倒ばっかりだな」


「でも、置いた飯を面倒見ないと、飯じゃなくなる」


 佐助が静かに頷いた。


「悪くなる前に食べる、ではなく、訓練に使うのは良いと思います。味の変化も分かります」


 伊三郎はすでに「味の変化」も書いていた。


 俺は椀を見た。


 砦に飯がある。


 それは安心だ。


 でも、安心は油断にもなる。


 だから、飯を置くなら、開け時を決める。

 配り方を決める。

 古くなる前の使い方を決める。

 水と一緒に見る。

 文句も聞く。


 一度届く飯。

 続けて届く飯。

 そして、置いておく飯。


 全部違う。


 飯炊きの仕事は、どこまで増えるのだろう。


 そう思いながら、俺は糒と味噌片の混じった飯を食べた。


 うまい、というより、砦の風がする味だった。

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