第六十六話 砦に置く飯は、置いた瞬間から敵になる
三日続けて、高畑砦へ飯は届いた。
その報告を受けた信長様の返事は、短かった。
「高畑を目にする」
それだけだった。
けれど、その一言で清洲蔵の空気は変わった。
高畑砦は、ただの見張り場ではなくなる。
美濃へ向かう前方の目になる。
敵の動きを見る。
道の変化を見る。
川の気配を見る。
そして、織田の足を一歩だけ前へ置く。
そういう場所になる。
だが、目は腹が減れば曇る。
見張りの兵が空腹なら、遠くの影を見落とす。
水で揉めていれば、物音への反応が遅れる。
飯が来るか来ないかで苛立っていれば、砦の中の声が荒れる。
高畑砦を目にするということは、高畑砦の腹を作るということだった。
そして、その役は当然のように清洲蔵へ降ってきた。
「砦常備飯を作れ」
弥助殿が命を伝えた時、俺は一瞬、聞き返した。
「常備、ですか」
「そうだ。毎日届けばよい、では足りん。雨、敵の動き、道の罠、川の乱れ。何かで一日二日届かぬこともある。その時、高畑の目が曇らぬようにする」
つまり、砦の中に飯を置いておく。
それだけ聞けば、簡単に思える。
米を置けばいい。
味噌を置けばいい。
塩を置けばいい。
だが、俺たちはもう知っている。
置いた飯は、置いた瞬間から敵になる。
湿気る。
鼠に狙われる。
数が合わなくなる。
勝手に食われる。
誰が管理するかで揉める。
敵に奪われるかもしれない。
偽物を混ぜられるかもしれない。
そして何より、「ある」と分かった飯は、人の腹を緩ませることがある。
砦常備飯は、ただの蓄えではない。
砦の中に置く、小さな清洲蔵だった。
「清吉、顔」
かやが言った。
「今日は何の顔だ」
「砦の中に蔵を生やそうとしてる顔」
「生やしたくない」
「でも生えるよ。飯を置いたら、そこは小さい蔵になる」
その通りだった。
飯を置けば、そこに蔵の問題が生まれる。
置き場。
出し入れ。
見張り。
湿気。
鼠。
数。
文句。
水。
火。
そして、銭ではなく腹の欲。
伊三郎は、すでに新しい帳面を開いていた。
「砦常備飯帳を作ります」
「やっぱり作るんだな」
「作らない理由がありません」
そう言われると、何も返せない。
佐助は味噌片を見ていた。
「常備にするなら、味噌片はさらに乾かす必要があります。でも乾かしすぎると割れて粉になります」
「粉になると?」
「数が合わなくなります。偽物も混ぜやすくなります」
また数。
また偽物。
作兵衛は腕を組んで言った。
「砦に置くなら、誰が開けるか決めろ。腹減った兵が勝手に開けると、すぐなくなる」
権六が横から口を出す。
「腹減った兵は悪いぞ」
「おまえが言うと妙に説得力があるな」
「俺なら開ける」
「開けるな」
「だから、開けられないようにしろって言ってんだ」
腹立たしいが、正しい。
兵の腹を信じるだけでは駄目だ。
腹が減れば、人は弱くなる。
だから、仕組みで守る。
清洲蔵で学んだことだ。
まず俺たちは、砦常備飯に何を入れるかを考えた。
握り飯は駄目だ。
すぐ食べるならいいが、常備には向かない。
悪くなる。
固くなる。
湿れば腐る。
鼠も寄る。
「糒を使うしかないな」
作兵衛が言った。
糒。
炊いた米を干したもの。
湯や水で戻せる。
そのままでも噛める。
軽く、日持ちする。
兵糧としては当たり前のものだ。
だが、俺は少し顔をしかめた。
「糒だけだと、兵が嫌がる」
権六がすぐ頷いた。
「嫌がる。腹に入るが、心が荒れる」
「心まで言うか」
「大事だぞ。砦で糒だけ食って見張れって言われたら、文句が山ほど出る」
これも正しい。
糒は強い。
だが、毎日それだけでは腹が荒れる。
「糒、味噌片、干し菜、塩」
俺は言った。
「それと、少しだけ噛めるもの。炒った豆はどうだ」
佐助が考える。
「豆は腹持ちします。ただ、水が少ない時に食べすぎると腹が張るかもしれません」
「少量だな」
かやが荷を並べながら言った。
「常備飯は、一人分でまとめる? それとも砦全体でまとめる?」
「一人分のほうが配りやすい」
俺が言うと、伊三郎が首を振った。
「一人分にすると、盗まれた時に気づきにくいです。砦全体で大箱にすると、開けるたびに揉めます」
「じゃあ?」
「組ごとです」
伊三郎は筆を止めずに言った。
「五人分、または十人分で一包み。開けたら、その組で使い切る。残りは戻さない」
かやが頷いた。
「いいね。十人包みなら数えやすい。持ち出しもしやすい」
作兵衛も言う。
「砦の兵は組で見張るだろ。腹も組で見たほうがいい」
十人包み。
砦常備飯の最初の形が見えた。
中身は、糒、味噌片、干し菜、少量の塩、炒り豆。
水は別。
水は常備飯に入れられない。
水筒に入れて置いても、悪くなる。
竹筒が傷めば漏れる。
そもそも砦の水は井戸番が見ている。
「水は砦の水帳に任せる」
俺は言った。
「常備飯とは別に、水の使い方を決める。味噌片用の湯は、原則として持ち込み水か、井戸番が許した分だけ」
伊三郎が書く。
「砦常備飯、水と分離。井戸番確認」
その日の午後、俺たちは試作品を作った。
十人包み。
竹皮を二重にし、中に糒を小袋で入れる。
味噌片は十枚束を二つ。
干し菜は細かく刻み、小さな袋へ。
炒り豆は少しだけ。
塩は別の小袋。
全部を一つに包むと、思ったよりかさばった。
かやが持ち上げて首を傾げる。
「軽いけど、形が悪い」
「形?」
「背負い荷には入れにくい。砦の箱にも積みにくい。丸いというか、膨らむ」
「どうする」
「平たくする。中身を重ねる順を変える」
かやはすぐ包みを開き、並べ直した。
下に糒。
その上に干し菜。
味噌片は横。
塩と豆は隅。
竹皮を平たく折る。
少し板のような形になる。
「これなら重ねられる」
かやが言った。
「名前は?」
権六が聞く。
「名前がいるのか?」
「いるだろ。文句を言う時に困る」
嫌な理由だ。
俺は少し考えた。
「砦十人包み」
「そのままだな」
かやが笑う。
伊三郎は書いていた。
「分かりやすいです」
「また採用か」
「はい」
砦十人包み。
これが砦常備飯の基本になった。
だが、問題は中身だけではない。
置き場だ。
高畑砦の中に置くなら、どこに置くのか。
砦の小屋は湿気がある。
井戸の近くは水気が多い。
火の近くは煙と熱がある。
見張り台の下は敵から見えにくいが、兵が勝手に触りやすいかもしれない。
「実際に見ないと決められない」
俺は言った。
「明日、高畑砦へ行きます。小頭と井戸番にも話を聞く。砦十人包みを少量持って、置き場を試します」
弥助殿は頷いた。
「上様もそれを望んでいる。ただし、砦内に長居するな。敵の目がある」
「はい」
翌朝、砦十人包みを二つだけ持って出た。
少ない。
だが、試すには十分だ。
前進飯場の村では、老人が包みを見て言った。
「また変なものを作ったな」
「砦に置く飯です」
「置く飯は、置いた者の性根が出るぞ」
「性根?」
「置きっぱなしにする者か、見に来る者か。そこが分かる」
刺さる言葉だった。
常備飯は置けば終わりではない。
見に行かなければならない。
古くなっていないか。
数が合っているか。
水と合うか。
兵が勝手に開けていないか。
置いた飯は、見に来て初めて常備になる。
そうでなければ、ただの忘れ物だ。
石仏の曲がりは、まだ危険地のままだ。
村の若い者と五郎兵衛殿の配下が、共同で印を残している。
今日は止まらず通過。
背戻し窪地で一度休み、そこから高畑砦へ向かった。
砦の入口では、昨日の井戸番が待っていた。
「今日は何だ」
「砦常備飯の置き場を見に来ました」
井戸番は砦十人包みを見た。
「大きいな」
「十人分です」
「十人が一度に食うならいい。だが、勝手に開ける奴が出る」
「だから、管理する人を決めたいです」
井戸番は鼻を鳴らした。
「小頭に言え」
高畑砦の小頭は、森田甚助という男だった。
三十を少し過ぎたくらい。
顔は細く、目は鋭い。
いかにも砦で風を見ている男という感じだった。
「清洲の飯炊きか」
「清吉です」
「飯が届いたことは聞いている。助かった」
「今日は常備飯の相談です」
森田甚助は砦十人包みを見た。
「これを置くのか」
「はい。ただ、置き場と開け方を決めないと揉めます」
「揉めるほど飯があるなら、まだよい」
皮肉のようで、本音でもあるのだろう。
砦の中は、広くない。
兵は少数。
見張り台、小屋、井戸、火を使う場所。
昨日見たよりも、内部の狭さがよく分かった。
まず井戸の近くは避ける。
湿気がある。
井戸番も嫌がる。
「飯を井戸のそばへ置くな。水汲みの邪魔になる」
即答だった。
小屋の中はどうか。
湿気は少しあるが、雨は避けられる。
ただ、兵が寝る場所に近い。
腹が減った夜に手が伸びるかもしれない。
権六がいれば「俺なら伸ばす」と言っただろう。
見張り台の下はどうか。
風が通る。
湿気は少ない。
敵からは見えにくい。
だが、雨の吹き込みがある。
かやが床板を見た。
「ここに直接置くと湿る。石か木で少し上げたい」
「台がいるのか」
森田が言う。
「はい。低くていいです。風が通り、鼠が入りにくい形」
「鼠か」
森田は眉を寄せた。
「いるぞ。夜に出る」
やはり。
飯を置けば鼠が来る。
敵より先に鼠が来る。
佐助が包みを見ながら言った。
「鼠にかじられると、そこから湿気も入ります。包みだけでは不十分です」
「箱がいる」
かやが言った。
「ただの箱じゃなく、吊るすか、足をつけるか」
砦に大きな箱を運ぶのは大変だ。
だが、常備飯を置くなら必要になる。
森田は少し考えた。
「小さな箱なら作れる。材は砦にある。だが、大工ではない」
「簡単でいいです。十人包みが二つ入る箱。それを二つ。全部を一つの箱に入れない」
「また分けるのか」
「はい。一つ開けられても、全部なくならないように」
森田は少し笑った。
「清洲式は、何でも分けると聞いた」
「たぶん、その噂は本当です」
俺が答えると、井戸番が低く笑った。
少しだけ、砦の空気が和らいだ。
次に、誰が開けるかを決める。
森田。
井戸番。
見張り組の組頭。
この三人のうち二人が揃わないと開けない。
伊三郎がいれば喜びそうな決まりだ。
「面倒だな」
森田が言う。
「面倒です。でも、一人で開けられると疑いが出ます」
「確かに」
井戸番が頷いた。
「飯のことで疑われるのは嫌だ」
砦にも、清洲蔵と同じ腹がある。
疑いが出る前に、開け方を決めておく。
そして、開けたら帳面に残す。
砦に小さな開封札を置くことにした。
十人包みを開けた日。
誰が開けたか。
何人に配ったか。
残りは戻さない。
残りは戻さない。
ここが大事だ。
開けた包みを戻せば、湿気る。
数が合わなくなる。
誰かが抜いたかと疑う。
開けたら使い切る。
余れば、その場にいる者へ配る。
森田はその決まりを聞いて、頷いた。
「分かりやすい」
「分かりやすくないと、砦では続かないと思います」
「その通りだ」
砦十人包みを二つ、仮置きした。
見張り台の下に、木を二本渡し、その上に置く。
今日は試しだ。
正式な箱は後で作る。
かやが包みの向きを揃える。
「口は壁側。勝手に開けにくくする」
佐助が湿気を見る。
「風は通ります。雨の日は確認が必要です」
作兵衛は兵の動きを見る。
「見張りから戻った兵が、ここを通るな。腹が減ってる時に見えると危ない」
「布で隠すか」
森田が言う。
「隠しすぎると、今度は忘れます」
俺は言った。
「見えるが、すぐ触れない。そういう位置がいい」
これも清洲蔵で学んだことだ。
隠しすぎれば忘れる。
見えすぎれば手が伸びる。
飯の置き場は、人の腹との距離で決まる。
砦を出る前、森田甚助が言った。
「清吉」
「はい」
「飯が置かれると、兵の顔が変わる」
「良いほうにですか」
「両方だ。安心もする。気も緩む。だから、置いた飯をどう見せるかが大事だな」
この人も腹を見ている。
俺は頷いた。
「置いた飯は、見に来ます」
「そうしてくれ。置きっぱなしにされると、飯より疑いが溜まる」
前進飯場の老人と同じことを言う。
置いた者の性根が出る。
高畑砦から戻る道で、俺はずっとその言葉を考えていた。
砦常備飯は、置いて終わりではない。
置いた後に、誰が見るか。
誰が開けるか。
誰が数えるか。
誰が文句を聞くか。
誰が古くなったものを入れ替えるか。
それを決めて初めて、常備飯になる。
清洲へ戻ったのは夕方だった。
伊三郎に報告すると、彼はすぐに新しい項目を書いた。
砦十人包み。
内容、糒、味噌片、干し菜、塩、炒り豆。
置き場、見張り台下、仮台。
水場不可。
小屋内注意。
鼠対策必要。
箱二つに分ける。
開封は二人確認。
開けたら使い切り。
開封札。
定期見回り必要。
権六が横から聞いていた。
「砦にも文句役がいるな」
「森田殿がやるだろう」
「小頭が文句を聞くと、兵は言いにくいぞ」
それは一理ある。
砦にも権六のような、兵の文句を拾う者が必要かもしれない。
ただ、誰でもいいわけではない。
飯を勝手に開けない者。
兵の腹を知っている者。
水番と揉めない者。
また課題が増えた。
夜、砦常備飯の試しを皆で食べた。
糒を湯で戻し、味噌片を少し入れる。
干し菜も足す。
粥ほどではないが、思ったより腹に残る。
炒り豆を少し噛むと、口が寂しくない。
権六が言った。
「今日の飯は、置いておける味だな」
「うまいか?」
「うまさはまあまあ。でも、あると安心する味だ」
作兵衛も頷く。
「砦でこれがあるなら、兵の顔は変わるだろうな」
かやが椀を見て言った。
「今日の飯は、小さな蔵の味」
「高畑砦の中に、清洲蔵の子どもができたみたいだな」
俺が言うと、佐助が少し笑った。
「それなら、ちゃんと見に行かないと育ちませんね」
その通りだ。
砦常備飯は、まだ生まれたばかりだ。
放っておけば腐る。
見に行けば、砦の目を支える腹になる。
俺は糒と味噌片の混じった湯をすすった。
少し固い。
少ししょっぱい。
でも、腹に残る。
高畑砦の中に、飯を置く。
それは、清洲の足をさらに一歩、美濃へ伸ばすことだった。




