第六十五話 一度届く飯と、続けて届く飯は違う
高畑砦へ、飯は届いた。
少量だった。
握り飯と味噌片と干し菜と水筒。
火は使わず、煙も出さず、石仏の罠も踏まず、背戻し窪地で肩を直し、砦から下りてきた兵へ受け渡した。
たったそれだけだ。
だが、その「それだけ」は、清洲蔵の中では小さくなかった。
朝から、皆の動きが少し変わっていた。
佐助は味噌片を昨日より薄くしている。
かやは砦飯の束を、握り飯、味噌片、干し菜、水筒で別々に並べている。
作兵衛は人足の胸前荷を確認し、太助には「今日は芝居じゃなく本当に運ぶぞ」と念を押している。
伊三郎は高畑砦飯線帳を開き、昨日の報告を清書している。
権六は味噌片湯をすすりながら、兵向けの文句を先に考えていた。
「今日も薄いな」
「砦飯だからな」
「砦の兵は怒らねえのか?」
「怒るかもしれない」
「じゃあ先に言っとけ。『これはうまい飯じゃなく、目を曇らせない飯です』って」
「それ、兵に伝わるか?」
「伝わらねえかもな」
権六は平然と言った。
文句役なのに、たまにひどく無責任だ。
だが、言いたいことは分かる。
高畑砦の飯は、清洲蔵で食べる粥とは違う。
湯気を立てて腹を温める飯ではない。
砦の目を曇らせず、兵が見張りを続けるための飯だ。
腹いっぱいにするのではなく、足と目と声を止めない飯。
それを、砦の兵がすぐ納得するとは限らない。
昨日届いた時は「助かる」と言ってくれた。
だが、一度届く飯と、続けて届く飯は違う。
一度ならありがたい。
二度なら期待になる。
三度なら不満も出る。
人の腹は、そういうものだ。
昼前、信長様から命が下った。
高畑砦へ、三日連続で砦飯を届ける。
量は少なくてよい。
だが、途切れさせるな。
砦の水と兵の腹を見ろ。
弥助殿がそれを伝えた時、俺は思わず聞き返した。
「三日連続、ですか」
「そうだ」
「同じ道を三日使えば、敵に読まれます」
「だから、おまえたちが呼ばれている」
弥助殿の答えはいつも短い。
逃げ道も短い。
「一日目は昨日と同じ線を使う。ただし、石仏の曲がりでは偽荷を見せない。敵が見ていると分かった以上、同じ芝居は薄くなる。二日目は背戻し窪地へ入る時刻をずらす。三日目は、砦兵の受け取り場所を少し変える」
伊三郎がすぐ書いた。
「三日連続輸送試験。時刻ずらし、受け取り場所ずらし、偽荷不使用日あり」
かやが地図を見ながら言った。
「問題は水だね。味噌片は湯があればいい。でも砦の水を使いすぎると、砦の兵が困る」
佐助も頷く。
「味噌片はぬるい湯でも使えますが、水がまったくないと、そのまま口に含むしかありません。塩気があるので、水なしではつらいです」
作兵衛が腕を組む。
「水筒を増やすと、背が重くなる」
「水は米より重く感じる」
太助が横から言った。
「揺れるし、音もする。胸前には向かねえ」
文句だ。
だが、大事な文句だ。
水筒は重い。
音がする。
敵に聞こえる。
だが、水がなければ味噌片が使えない。
高畑砦飯線は、飯だけではなく水の線でもあった。
「一日目は、砦の水を使わせてもらわず、こちらの水筒だけで味噌片湯を作る」
俺は言った。
「二日目は、砦の水を少し見せてもらう。使うのではなく、水量と置き場を見る。三日目に、砦側でどれだけ湯を作れるか判断する」
伊三郎が筆を動かす。
「砦水見分、一日目持ち込み水、二日目水場確認、三日目使用判断」
弥助殿は頷いた。
「それでいけ」
こうして、継続輸送試験が始まった。
一日目。
清洲蔵から前進飯場までは、いつもの線で進んだ。
大荷は出さない。
砦飯だけを背負い小荷で運ぶ。
前進飯場の村では、老人がいつものように栗の木の下で待っていた。
「今日は石仏で芝居はしないのか」
「はい。同じことをすると読まれます」
「よし。罠はまだ触るな。村の若い者に見張らせている」
「ありがとうございます」
「礼はいい。石仏の前に穴を掘られたままでは、村の道も落ち着かん」
村の腹にも、罠は残っている。
それを忘れてはいけない。
栗の木で一度荷を下ろし、そこから先へ進む。
石仏の曲がりは、止まらず通りすぎた。
穴の場所には近づかない。
山側に動きは見えない。
見えないから安全、ではない。
見えない時ほど、見られているかもしれない。
背戻し窪地へ入る。
今日も虫が多い。
太助が顔をしかめる。
「ここは虫が飯を食いに来る」
「人の飯はやらない」
「虫にも清洲式がいるな」
「虫にまで帳面は作らないぞ」
小声でそんなことを言いながら、味噌片を確認する。
水筒の湯は、まだ少し温かい。
味噌片は昨日より早くほどけた。
佐助が少しだけ安心した顔をする。
「これなら、砦でも使えます」
そこから中間受け渡し場所へ向かった。
昨日と同じ場所より、ほんの少し手前。
砦の兵が二人下りてきていた。
昨日の年上の兵と、別の若い兵だ。
「清洲からか」
「はい。砦飯です」
合言葉を交わす。
「朝の水」
「左二折り」
正しい。
荷を渡す。
年上の兵が味噌片を見て言った。
「昨日の板味噌か」
「今日は少し溶けやすくしています」
「助かる。昨日のは、歯で割った奴がいた」
佐助の顔がこわばる。
「そのまま食べましたか」
「湯が足りなかった」
やはり水だ。
砦の水が足りていないのか、湯を沸かす時間がないのか。
「砦の水は、どれくらいありますか」
俺が聞くと、年上の兵は少し言いにくそうにした。
「ある。だが、見張りの者が勝手に使うと揉める」
「揉める?」
「井戸番がいる。砦は小さい。水も多くない。味噌片を溶くために湯を沸かすなら、その分だけ誰かの飲み水が減ると言う者がいる」
なるほど。
水がないのではない。
水の使い方が決まっていない。
それは、村の水番と同じだ。
砦の中にも水番がいる。
ただ、村ほど慣れていない。
いや、砦は兵の場所だ。
水を「皆で使うもの」として決める仕組みが弱いのかもしれない。
「明日、砦の水場を見てもいいですか」
俺は聞いた。
年上の兵は少し驚いた顔をした。
「飯炊きが井戸を見るのか」
「飯は水で決まります」
「……確かに」
彼は頷いた。
「小頭に話しておく。ただ、砦の中へ入れるかは分からん」
「入口まででも構いません。水の量と、湯を沸かせる場所を見たいです」
「分かった」
一日目の受け渡しは無事に終わった。
だが、戻る途中、太助が言った。
「砦の兵、少し苛立ってたな」
「分かったか」
作兵衛が聞くと、太助は頷いた。
「飯が少ないとかじゃなく、水で揉めてる顔だ。人足も水で揉める時、ああいう顔になる」
これも文句を見る目だ。
人足の経験が砦の兵の腹を見る。
清洲へ戻ると、伊三郎が報告を受けてすぐ書いた。
砦水、量より運用不明。
井戸番あり。
味噌片湯で揉める可能性。
二日目、水場見分必要。
その夜、俺たちは砦用の味噌片をさらに変えた。
湯が少なくても使えるよう、薄くする。
だが薄くしすぎると割れる。
佐助は、味噌に少しだけ粘りを持たせる工夫をした。
干し菜をさらに細かく刻み、味噌の中に均等に混ぜる。
「手間が増えます」
佐助が言った。
「味噌片作りの手当てに入れる」
俺が言うと、味噌片を作っていたおとらが笑った。
「ちゃんと書いとくれよ」
「書きます」
銭の穴を見た後だからこそ、手間を見落とせない。
二日目。
時刻をずらした。
昨日より半刻遅く出る。
敵に同じ動きを読ませないためだ。
だが、遅く出ると日が高くなり、道の暑さが違う。
太助がすぐ文句を言った。
「昨日より喉が渇く」
作兵衛が頷く。
「時刻をずらすと、水の減りもずれるな」
大事な発見だった。
敵に読ませないために時刻をずらす。
だが、暑さと水の消費も変わる。
ずらし飯は、ただ時刻を変えるだけでは駄目だ。
水筒の量も変えなければならない。
前進飯場の村で、老人が言った。
「今日は遅いな」
「時刻をずらしています」
「なら、水を余分に持て。日が上がると栗の木の先は乾く」
「はい」
老人の助言で、前進飯場の村の水を使うことになった。
もちろん、約束の範囲内だ。
水番に声をかける。
水を少しだけ足す。
帳面に残す。
高畑砦飯線は、前進飯場の村の水にも支えられている。
石仏の曲がりは、今日も通過するだけ。
だが、罠の周りに新しい足跡はなかった。
敵が見ているのか、諦めたのかは分からない。
背戻し窪地で荷を直し、昨日より少し違う道筋で中間地点へ向かう。
砦からは、昨日の年上の兵と、小柄な兵が来ていた。
「小頭の許可が出た」
年上の兵が言った。
「砦の入口までなら来てよい。井戸は外から見るだけだ」
砦の中へ入る。
正確には、入口まで。
それだけでも、少し緊張した。
高畑砦は、近くで見ると本当に小さかった。
土塁。
簡単な柵。
見張り台。
小さな井戸。
粗末な小屋。
城というより、山の上の見張り場だ。
だからこそ、飯と水が弱い。
井戸は深くない。
水はあるが、たくさんは出なさそうだった。
井戸のそばに、厳しい顔をした兵がいた。
「これが井戸番です」
年上の兵が紹介する。
井戸番の兵は、俺を見て眉を寄せた。
「飯炊きが水を見てどうする」
どこへ行っても、最初はそう言われる。
「飯に使う水を、どれだけ使えるか知りたいです。勝手には使いません」
「使わせん」
「今日は使いません。見るだけです」
井戸番は警戒を緩めなかった。
「昨日、味噌板を湯に溶くと言って、若いのが余分に水を使った。飲み水が減る」
「すみません」
「おまえが謝ることか」
「清洲から出した飯なので」
井戸番は少し黙った。
それから、井戸の中を指した。
「見ろ。多くない。朝に汲みすぎると、昼に困る」
俺は覗き込んだ。
水面はある。
だが、確かに深くはない。
これで砦の全員分を支えるのは心細い。
「味噌片用の湯は、砦の水ではなく、こちらから持ち込むほうがよさそうです」
俺は言った。
井戸番は目を細める。
「ならいい」
「ただ、持ち込んだ水を湯にする火は?」
年上の兵が答える。
「小屋の裏で少しなら使える。ただ、煙は見せたくない」
小屋裏を見せてもらう。
風向きによっては、煙が敵側へ流れる。
火を使うなら朝の短い時間だけだ。
ここでも火が問題になる。
砦の中ですら、火は自由ではない。
「砦用には、湯なしでも使える味噌片を増やします」
俺は言った。
「湯を使う日は、清洲から持ち込んだ水で。砦の井戸は飲み水優先。小屋裏の火は、朝だけ」
井戸番は、初めて少しだけ頷いた。
「それなら揉めにくい」
揉めにくい。
砦の中でも、それが大事だった。
飯の味より先に、水の揉め事を減らす。
二日目の報告は重かった。
清洲へ戻ると、伊三郎が新しい欄を作った。
砦水番。
井戸浅い。
飲み水優先。
味噌片用水は持ち込み。
火は小屋裏、朝のみ。
煙注意。
水で兵同士が揉める可能性。
その夜、味噌片はさらに改良された。
湯なしで少しずつ食べられるよう、塩気を均一にする。
硬すぎない。
でも崩れすぎない。
干し菜を細かくし、口の中で嫌な繊維が残らないようにする。
おとらが言った。
「これはもう菓子みたいな手間だね」
「味噌の菓子か」
権六が言うと、おとらは笑った。
「うまくはないよ」
「助かる味ならいい」
最近、皆がその言葉を使うようになった。
助かる味。
三日目。
受け取り場所を少し変えた。
砦の入口までは行かない。
前日より手前、背戻し窪地から少し先の木陰。
そこへ砦兵が下りてくる。
今日は、砦の井戸番も一緒だった。
相変わらず厳しい顔だが、手には空の小竹筒を持っている。
「清洲の水を入れる筒を分ける」
井戸番が言った。
「砦の水筒と混ぜると揉める」
「ありがとうございます」
「礼はいい。混ざると面倒だ」
面倒。
井戸番の口からその言葉が出た。
少しだけ、清洲式が砦にも入った気がした。
この日は、受け渡しも水筒分けも無事に済んだ。
味噌片は、湯なしでも少し食べられる形になっている。
砦兵の一人が、その場で少し口に含んだ。
「しょっぱい」
当然の文句が出た。
佐助が真剣に聞く。
「水が欲しくなりすぎますか」
「少し欲しい。でも、見張り中なら目が覚める」
権六がいたら喜びそうな文句だ。
見張り中なら目が覚める。
これは使えるかもしれない。
ただし、飲みすぎると水が減る。
加減が必要だ。
三日目の帰り道、背戻し窪地で一息ついた時、太助が言った。
「砦の兵も、水で揉めるんだな」
「どこでも揉める」
作兵衛が答えた。
「水と飯と銭は、人を揉めさせる。でも決めておけば、少しはましだ」
それは、この章でずっと学んできたことだった。
三日連続の輸送試験は、どうにか終わった。
飯は途切れなかった。
高畑砦へ、少量ながら三日続けて届いた。
石仏の罠は踏まなかった。
背戻し窪地は機能した。
味噌片は改良された。
砦の水場も見た。
井戸番との話もできた。
だが、問題は残っている。
砦の水は少ない。
火は朝しか使いにくい。
味噌片は湯なしだとしょっぱい。
水筒は重い。
受け取り場所を変え続ける必要がある。
敵の目は消えていない。
清洲へ戻ると、伊三郎が三日分の記録をまとめた。
その顔には疲れがあったが、目は明るかった。
「高畑砦飯線、継続可能。ただし、水持ち込み前提」
「可能か」
「はい。細いですが、可能です」
その言葉だけで、腹の奥が少し温かくなった。
夜、皆で味噌片湯を飲んだ。
今日は、湯なし用の味噌片をあえて湯に溶いたものだ。
少し塩が強い。
権六がすすって言った。
「今日の飯は、水で揉めない味だな」
「揉めないか?」
「いや、少し揉める。でも、揉め方が見えた味だ」
かやが笑った。
「権六もだんだん面倒なこと言うようになったね」
「清洲式に染まったんだよ」
作兵衛が言う。
「不憫だな」
皆が笑った。
俺も笑った。
高畑砦へ、三日続けて飯は届いた。
一度ではない。
続いた。
それは、小さくない。
飯線は、細いままだ。
だが、切れてはいない。




