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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第六十四話 罠に見せる飯、本当に届ける飯

石仏の前に掘られた穴は、朝露の中で静かに口を閉じていた。


 見た目には、ただの土だ。


 草が薄く戻され、踏めば少し沈む。

 知らなければ、そこに足を置くだろう。


 荷を背負った人足なら、なおさらだ。


 肩から荷を下ろす時、人は一瞬、足元を見ない。

 背中の重みを逃がすことに気を取られる。

 その瞬間を狙っている。


 ただの穴ではない。


 人の動きを見た穴だ。


 俺は、石仏の前で手を合わせた。


 隣で、前進飯場の村の老人も手を合わせている。


 その後ろに、若い男が二人。

 五郎兵衛殿の配下が三人。

 かや、佐助、作兵衛。

 人足は太助と、もう一人の仁吉。


 大人数ではない。


 高畑砦飯線の試しとしては、最小に近い。


 今日は二つのことを同時にやる。


 一つは、石仏の曲がりに偽の荷動きを見せること。


 敵がここを休み場だと思っているなら、その思い込みを利用する。


 荷を下ろすふりをする。

 だが、本物の砦飯は置かない。

 人足も長く止めない。

 罠には近づかない。


 もう一つは、本物の砦飯を少量だけ高畑砦へ届けること。


 握り飯、味噌片、干し菜、水筒。

 火を使わない。

 煙を出さない。

 背戻し窪地で一度だけ肩を直し、そこから砦へ進む。


 偽物を見せ、本物を通す。


 飯炊きの仕事とは思えない。


 だが、今はこれも飯の仕事だった。


「清吉」


 かやが小声で言った。


「顔が罠に文句言ってる」


「言いたい」


「言わないで。声が上に抜ける」


「分かってる」


 山の上に、誰かの目があるかもしれない。


 昨日、木の皮を剥いだ印があった。


 あれが敵の目印なら、ここを見ている者がいる。


 今日は、その目を逆に使う。


 老人が低く言った。


「石仏の前で芝居をするのは気が進まん」


「すみません」


「謝るな。罠を仕掛けた奴を釣るためだ。だが、石仏には触るな。荷も置くな」


「はい」


 作兵衛が人足二人へ説明する。


「太助、仁吉。石仏の手前で、荷を下ろすふりだけだ。背から完全に外すな。膝を曲げるだけ。足は印の石より向こうへ出すな」


 太助が顔をしかめる。


「ふりって難しいな」


「本気で下ろすより難しい。だからやる前に一度ここで練習した」


 作兵衛は手で動きを示した。


 荷を背中から少し浮かせる。

 肩を抜くように見せる。

 だが、荷は落とさない。

 足は安全な場所に置く。


 仁吉は無口な人足だが、今日は珍しく言った。


「罠があると分かってても、足がそっちへ行きそうになる」


「だから怖い」


 作兵衛が答えた。


「人の身体は楽なほうへ動く。敵はそこを見てる」


 俺はその言葉を腹へ入れた。


 敵は楽な場所を見る。


 楽な足の置き場。

 休みたくなる平場。

 煙を出したくなる水場。

 荷を下ろしたくなる石仏の前。


 こちらはそこを避けるだけではない。


 時には、敵に「そこを使う」と思わせる。


 五郎兵衛殿の配下が山側へ目を向ける。


「始めましょう」


 かやが偽荷を持った。


 中身は軽い。


 竹皮と古布、少しの石で重そうに見せている。


 本物の砦飯は、太助の胸前と、俺の小荷、佐助の布袋に分けてある。


 味噌片は、今日から薄い長方形になった。


 味噌玉ではない。


 味噌片。


 十枚束を二つ。


 湯がぬるくてもほどけやすいよう、佐助が夜遅くまで調整したものだ。


 石仏の曲がりへ、俺たちはゆっくり近づいた。


 わざと急がない。


 あまり芝居がかると逆に怪しい。


 普通に疲れた人足が、そこで休もうとする。


 その程度に見せる。


 太助が小さくぼやいた。


「本当に疲れてるから、芝居じゃねえぞ」


「ちょうどいい」


 作兵衛が言う。


「ただし、本当に下ろすな」


 石仏の前まであと数歩。


 五郎兵衛殿の配下が、昨日つけた小さな印を見た。


 穴はそのままだ。


 触っていない。


 草も大きく乱していない。


 敵に見つかったと悟らせないためだ。


 太助と仁吉が、合図通りに荷を下ろすふりをした。


 かやが偽荷を少し傾ける。


 竹皮の端が見える。


 遠目には、飯荷に見えるはずだ。


 俺はわざと小帳面を開き、何かを確認するふりをした。


 実際には、字を書いていない。


 手が少し震えていた。


 その時だった。


 山側の草が、ごくわずかに揺れた。


 風ではない。


 五郎兵衛殿の配下が、目だけで合図する。


 いる。


 誰かが見ている。


 俺は心臓が強く打つのを感じながら、何も気づかないふりをした。


「太助、そこで水を……」


 作兵衛が声を出した。


 わざと少し大きめに。


「いや、やっぱり先へ行く。ここは落ち着かねえ」


 太助が不満げに言う。


「休ませろよ」


「少し先だ」


 会話まで芝居に混じる。


 だが、太助の文句は半分本気だった。


 俺たちは荷を完全には下ろさず、すぐ動いた。


 石仏の前を通りすぎる。


 罠は踏まない。


 偽荷も置かない。


 だが、敵には「ここを使おうとしたがやめた」ように見えただろう。


 山側の草が、また少し揺れた。


 五郎兵衛殿の配下の一人が、別方向へ静かに回り込む。


 捕まえるためではない。


 今は深追いしない。


 敵の物見がどの方向へ逃げるかを見る。


 俺たちは石仏の曲がりを抜け、少し進んだところで道を外れた。


 昨日見つけた背戻し窪地へ入る。


 草が深い。


 虫が多い。


 だが、山側からは見えにくい。


 そこで初めて、本物の荷を下ろした。


 太助が大きく息を吐く。


「ふりだけのほうが疲れる」


「それも書く」


 作兵衛が言った。


「偽荷動きは人足に負担あり、ってな」


 俺は小帳面に印をつけた。


 偽荷芝居、疲れる。

 短時間のみ。


 佐助は味噌片を取り出した。


 小竹筒のぬるい湯に入れる。


 昨日より溶けるのが早い。


 完全ではないが、椀の底に残る量は少ない。


「よし」


 佐助が小さく言った。


 その声には、珍しく力があった。


 俺も少し飲む。


 味は軽い。


 だが、塩気がしっかり舌に残る。


 干し菜の細い香りもある。


 温かい粥ではない。


 でも、今この場所で腹を戻すには十分だった。


「これなら砦へ持っていける」


 作兵衛が言った。


 太助も頷く。


「虫の中で飲む味としては、まあ悪くねえ」


「褒めてるのか?」


 佐助が聞くと、太助は笑った。


「褒めてる。虫よりうまい」


「比較が嫌です」


 佐助が真面目に返し、少しだけ皆が笑った。


 笑い声は小さくした。


 ここから先は、さらに声を落とす。


 背戻し窪地で、砦飯を分け直す。


 本物の飯荷は三つに分ける。


 握り飯は太助。

 味噌片は佐助と俺。

 干し菜と水筒は仁吉。


 一人が転んでも、全部は失わない。


 かやが荷の位置を直した。


「胸前の味噌片、草に引っかからないよう少し内側。水筒は鳴らさない。竹が当たる音は意外と通る」


 水筒の音まで敵に聞こえる。


 砦手前では、飯が音にもなる。


 ここから高畑砦へは、昨日より少し先へ進む。


 ただし、砦の門までは行かない。


 砦から出てきた味方の受け取り役と、途中で合流する。


 これも、五郎兵衛殿の配下が昨日のうちに整えたことだ。


 砦そのものに近づきすぎれば、敵に線を見せる。


 だから、砦から少人数で下りてもらう。


 こちらも少人数で上る。


 中間で受け渡す。


 飯線は、砦まで一直線に見せない。


 俺たちは尾根筋へ出た。


 空気が変わる。


 風が少し冷たい。


 木の間から、高畑砦の柵が見えた。


 昨日より近い。


 だが、俺たちは砦を見上げすぎないようにした。


 見る者は、見られる。


 かやが小声で言った。


「清吉、顔を上げすぎ」


「すまん」


「砦に見とれる飯炊きは目立つ」


「気をつける」


 少し進むと、五郎兵衛殿の配下が手を上げた。


 前方に二人。


 味方だ。


 高畑砦から下りてきた兵だった。


 一人は若い。

 もう一人は少し年上で、顔に疲れがある。


 砦に詰めている兵は、すでに飯の不安を感じているのかもしれない。


 年上の兵が低い声で言った。


「清洲からか」


 俺は頷いた。


「砦飯の試しです。少量です」


「助かる」


 その一言が、思ったより重かった。


 助かる。


 砦にいる者にとって、飯が来ることはそれだけなのだ。


 うまいかどうかの前に、来るかどうか。


 俺たちは、決めた通りに受け渡した。


 まず合言葉。


「朝の水」


 俺が言う。


 砦の兵が返す。


「左二折り」


 正しい。


 次に、かやが包みを見る。


 左二折り。

 砦用細結び。

 十枚束。


 佐助が味噌片を一束だけ開き、匂いを見る。


「問題ありません」


 作兵衛が水筒を確認する。


「漏れなし」


 握り飯、味噌片、干し菜、水筒。


 少ない。


 本当に少ない。


 砦の全員を満たす量ではない。


 だが、今日の目的は、砦まで届くことを確かめることだ。


 年上の兵は、味噌片を見て少し驚いた。


「これは?」


「火を使わずに使える味噌です。湯があれば溶かして、なければ少しずつ口に含んでください。ただし、水を飲みすぎないように」


「板みたいだな」


「はい。味噌片です」


 自分で言って、少し恥ずかしい。


 でも、もう名前は決まった。


 若い兵がその場で一枚を口に入れようとしたので、年上の兵が止めた。


「砦で分ける」


 いい判断だ。


 砦の中で配る。

 ここで食べてしまえば、数が崩れる。


 俺は少し安心した。


 受け渡しは短く終わった。


 火は使っていない。

 煙も出していない。

 長く止まっていない。


 砦の兵はすぐ戻る。


 俺たちもすぐ戻る。


 その時、山の下のほうで、小さな鳥が一斉に飛んだ。


 五郎兵衛殿の配下がすぐ低く言った。


「下に動き」


 敵の物見が、石仏の曲がりからこちらの動きに気づいたのか。


 それとも、こちらが本線を動いたことに気づいたのか。


 分からない。


 だが、長居はできない。


「戻ります」


 俺は言った。


 帰り道は、上りより早くしたくなる。


 だが、走らない。


 走れば音が出る。

 荷が揺れる。

 足を滑らせる。


 背戻し窪地まで戻り、そこで一度だけ肩を直す。


 石仏の曲がりは通るが、止まらない。


 罠の近くも踏まない。


 途中、山側から短い笛のような音が聞こえた。


 鳥ではない。


 五郎兵衛殿の配下が目を細める。


「合図です」


「敵の?」


「おそらく」


 石仏で見せた偽の動きが、敵を動かした。


 そして、本物の砦飯はもう渡し終えた。


 完全に成功かどうかは分からない。


 だが、少なくとも今日、砦飯は届いた。


 前進飯場の村まで戻ると、老人が待っていた。


 俺たちの顔を見るなり、何も聞かずに頷いた。


「届いたな」


「はい。少量ですが」


「ならいい」


 若い男が少し興奮した顔で言った。


「石仏の近くに、知らない足跡が増えてた。山へ逃げた跡もある」


「見ましたか」


「触ってない。爺さんに止められた」


 老人が言う。


「罠も足跡も、清洲と一緒に見る。村だけで触ると、後で揉める」


 ありがたい。


 村が、もう清洲式の考え方に少し入っている。


 見たものをすぐ動かさない。


 残す。


 一緒に確認する。


 それができる関係になってきた。


 清洲へ戻ったのは夕暮れ前だった。


 日暮れまで無理に歩かなかったので、足は重いが危なくはない。


 伊三郎は報告を待っていた。


 俺たちが戻ると、すぐ帳面を開く。


「届きましたか」


「届いた」


 その一言で、伊三郎の肩がわずかに下がった。


 緊張していたのだろう。


 俺たちは順に報告した。


 石仏の罠はそのまま。

 偽荷動き実施。

 山側に物見反応あり。

 敵らしき合図音。

 背戻し窪地で砦飯確認。

 味噌片はぬるい湯で使用可。

 砦兵二名と中間受け渡し成功。

 合言葉通過。

 砦飯少量到達。

 帰路で足跡増加。

 村と共同確認予定。


 伊三郎の筆が走る。


 かやが補う。


「偽荷動きは使える。でも人足の負担がある。短時間だけ。偽荷と本物荷は絶対に混ぜない。偽荷の竹皮は、使い回し禁止。誤配の元になる」


 作兵衛も言う。


「石仏で本当に下ろすな。背戻し窪地まで我慢できる荷にする。人足は太助みたいに文句を言える者がいい」


 太助は少し照れた。


「俺の文句、役に立ったならいい」


 佐助は味噌片の束を見せた。


「溶けは改善しました。ただ、砦兵がそのまま食べる可能性もあるので、食べ方の札が必要です。字だけでなく絵で」


「字が読めない兵もいるからか」


「はい」


 俺は頷いた。


「味噌片の食べ方を絵にする。湯に入れる、少しずつ口に入れる、水を飲みすぎない」


 伊三郎が書く。


 権六が横から言った。


「味噌の食い方まで絵になるのか。いよいよ飯が軍学っぽくなってきたな」


「軍学?」


「知らん。言ってみた」


 皆が少し笑った。


 その笑いの中に、疲れと安堵が混じっていた。


 夜、信長様への報告が上がった。


 返ってきた言葉は短い。


「少量でも、届いたなら道はある」


 その一文を伊三郎が読み上げた時、蔵の中が静かになった。


 道はある。


 高畑砦飯線は、まだ細い。


 罠もある。

 敵の目もある。

 石仏の曲がりは危険地。

 背戻し窪地は虫が多く、長置き不可。

 味噌片はまだ改良が要る。

 砦までの本格輸送には足りない。


 それでも、少量の飯は届いた。


 つまり、道はある。


 夜の飯は、砦飯の残りを使った。


 握り飯。

 干し菜。

 味噌片湯。


 温かい粥ではない。


 だが、今日だけはそれがうまかった。


 権六が味噌片湯をすすって言った。


「今日の飯は、砦に届いた味だな」


「少量だけどな」


「最初は少量でいいだろ。腹も道も、最初は細い」


 珍しく、静かな言い方だった。


 かやが椀を持って笑う。


「今日の飯は、罠に見せて、本物を通した味」


「長い」


「でも、そのまま」


「うん」


 俺は味噌片湯を飲んだ。


 薄くて、少ししょっぱい。


 けれど、腹に落ちる。


 火を使わない飯。

 罠を踏まない道。

 見せる偽荷。

 通す本物。

 村と見る足跡。

 砦で待つ兵の「助かる」という声。


 それらが全部、今日の味になっていた。


 高畑砦へ、飯は届いた。


 まだ細い。


 だが、線はつながった。

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