第六十三話 火を使わぬ飯、火より目立つ罠
高畑砦へ飯を送るには、火を小さくするのでは足りなかった。
火を使わない。
そこまで考えなければならない場所がある。
石仏の曲がり。
沢のほとり。
砦へ向かう尾根筋。
山の上から見える道。
昨日歩いた場所を思い返すたびに、俺の腹は妙な冷え方をした。
飯は、本来なら湯気を立てるものだ。
湯気があれば、腹が落ち着く。
味噌の匂いがあれば、人は少し笑う。
火があれば、そこに飯場があると分かる。
けれど、高畑砦の手前では、その全部が敵への知らせになる。
煙が上がる。
湯気が見える。
人が集まる。
荷が下ろされる。
飯が来たと知られる。
つまり、飯が裸になる。
だから、火を使わない飯がいる。
清洲蔵の朝、俺たちは味噌玉ではなく、味噌片を並べていた。
佐助が作った試作品だ。
小さく薄い味噌の板。
干し菜を細かく混ぜてある。
塩気は少し強め。
だが、喉が渇きすぎないように、佐助が何度も調整した。
竹皮に挟むと、まるで薄い札のように見える。
「食い物に見えないな」
権六が覗き込んで言った。
「食い物です」
佐助が真面目に返す。
「湯があれば溶けます。ぬるくても、味噌玉よりはほどけます。湯がなくても、少しずつ口に含めば塩気と味噌が入ります」
「そのまま食うのか?」
「非常時です」
「非常時の味だな」
権六が一枚を見つめる。
佐助は慌てて手で制した。
「まだ数を合わせていません」
「味見役だぞ」
「味見用は別です」
最近、佐助は権六の扱いがうまくなってきた。
権六も、佐助に止められると妙に素直に引く。
かやは、味噌片の束ね方を見ていた。
「十枚束はいい。でも、束が厚いと腰で折れる」
「折れたら駄目か?」
俺が聞くと、佐助は少し考えた。
「食べる分には問題ありません。ただ、数が分からなくなります」
「数が分からないのは困る」
伊三郎が即座に言った。
彼は今日は清洲に残るが、朝の試作には立ち会っていた。
「一束十枚。二束で二十枚。砦の兵へ配る時、数が崩れると揉めます」
作兵衛が味噌片の束を手に取った。
「背負うなら、腰の横より胸の前だな。腰だと擦れる。背中だと潰れる。胸なら手で押さえられる」
「胸に味噌?」
権六が笑う。
「笑うな。背負い荷で潰れた味噌は、荷の中で地獄になる」
作兵衛が真顔で言うと、権六は口を閉じた。
どうやら想像したらしい。
俺も少し想像してしまった。
荷の中で潰れた味噌。
それだけで敵より怖い。
「砦飯は四つに分けよう」
俺は言った。
皆がこちらを見る。
「一つ、握り飯。これは早く食べる分。二つ、味噌片。湯がなくても塩気を入れる分。三つ、干し菜。口寂しさと腹持ちを補う分。四つ、水筒。これは飲む分と、味噌片を溶く分を分ける」
伊三郎がすぐ書き始める。
「砦飯四点。握り飯、味噌片、干し菜、水筒」
かやが頷く。
「水筒は二種類にしよう。飲み水と、味噌片用。味噌を溶いた後の水筒は洗わないと匂いが残る」
「砦手前で洗えない」
佐助が言う。
「なら、味噌片用は小さい竹筒に限定。飲み水とは混ぜない」
「いい」
作兵衛が人足の荷を見ながら言った。
「一人で全部持たせるな。握り飯役、味噌片役、水筒役に分ける。倒れた時に全部失わない」
「また分けるのか」
権六がぼやく。
「分けるから止まらない」
俺が言うと、権六は肩をすくめた。
「最近それを言われると反論しにくい」
実際、そうだった。
全部を一つにまとめれば楽だ。
だが、一人が転べば全部失う。
分ければ面倒だ。
でも、網になる。
火を使わない砦飯。
これまでの粥や飯場とは違う。
温かさで腹を戻す飯ではない。
見つからず、止まらず、最低限の力を入れる飯。
うまさよりも、砦の目を曇らせないための飯。
俺は味噌片を見て、少し複雑な気持ちになった。
飯炊きとしては、熱い粥を出したい。
湯気の立つ味噌湯を飲ませたい。
だが、それができない場所がある。
できない場所に合わせて飯を変える。
それも清洲式だ。
試しの砦飯を四組作った。
握り飯二つ。
味噌片十枚束。
干し菜小袋。
飲み水竹筒。
味噌片用の小竹筒。
これを人足二人、護衛二人に持たせる。
本格輸送ではない。
今日は、前進飯場の村から栗の木を越え、石仏の曲がりの手前まで行き、砦飯の持ち具合を見るだけだ。
昨日より先へは進まない。
高畑砦へ近づきすぎない。
これも大事だ。
「石仏の曲がりは休まない」
作兵衛が人足たちに言う。
「昨日見た通り、あそこは敵から見える。今日は近づく前に道の手前で止まり、様子を見る」
太助が不満そうに言った。
「あそこ、休みやすいのにな」
「休みやすい場所ほど罠になる」
その言葉が、まさかその日のうちに本当になるとは思わなかった。
清洲を出たのは朝のうちだった。
前進飯場の村までは、いつもの道を使う。
表道は特に問題なし。
茶屋の女に軽く挨拶し、水は借りない。
前進飯場の村では、老人に砦飯を見せた。
老人は味噌片を見て、目を細める。
「板かと思った」
「味噌です」
「味噌を板にするのか。面倒なことを考えるな」
「火を使えない場所用です」
老人は少し黙り、それから頷いた。
「高畑の手前なら、火は使うな。煙は上へ行く」
「はい」
「石仏では休むな」
「分かっています」
老人は俺の顔を見た。
「分かっている顔ではあるが、念のためだ」
最近、皆がそう言う。
少し悔しい。
栗の木の下で荷を整える。
砦飯を持った者は、荷を下ろして束の崩れを確認した。
味噌片は割れていない。
握り飯も潰れていない。
水筒の栓も緩んでいない。
ここまでは順調だ。
栗の木を越えると、空気が変わる。
昨日と同じだ。
右足が下がり、荷が片側へ揺れる道。
太助がすぐ文句を言う。
「やっぱりここ、左肩に来る」
「昨日より荷は軽いだろ」
作兵衛が聞く。
「軽い。でも揺れるものは揺れる」
大事な文句だ。
荷の軽さだけでは解決しない道がある。
かやが歩きながら荷の位置を直した。
「胸の前の味噌片、少し右へ寄せて。道が左へ振るから、荷で釣り合いを取る」
「味噌で釣り合いか」
太助が笑う。
「味噌が命綱になる日が来るとはな」
笑いながらも、歩き方は少し安定した。
そのまま石仏の曲がりが見える手前まで進む。
昨日は、あそこで休みたくなると感じた。
今日も同じだ。
道がふっと開け、石仏の前に平たい地面が見える。
荷を下ろすにはちょうどいい。
だからこそ危ない。
俺たちは手前の草陰で止まった。
五郎兵衛殿の配下が先に進む。
足音を消し、石仏の周りを見る。
しばらくして、低い声で合図が戻った。
「来てください。ただし、足元注意」
俺たちはゆっくり近づいた。
石仏の前の平たい場所。
昨日は何もなかった。
今日は違った。
地面の色が、わずかに違う。
草が戻されている。
かやがしゃがんだ。
「掘って埋めてる」
作兵衛が顔をしかめる。
「穴か?」
五郎兵衛殿の配下が槍の柄で地面を軽く押した。
表面が沈む。
浅い穴だった。
深くはない。
だが、荷を背負った人足が足を乗せれば、足首をひねるには十分。
さらに嫌だったのは、穴の場所だ。
荷を下ろそうとして、一歩踏み出す場所。
ちょうど、背負い荷を下ろす時に体重がかかる位置。
「分かって掘ってる」
作兵衛の声が低くなった。
「人足がどう動くか知ってる奴だ」
俺の腹が冷えた。
敵は、石仏の曲がりが休みやすい場所だと知っている。
さらに、荷を下ろす時に人足がどこへ足を置くかも見ている。
ただ道に穴を掘ったのではない。
人の動きを見た罠だ。
かやが石仏の裏へ回った。
「こっちにもある。小さいけど」
もう一つ。
荷を置く場所の近くだ。
もしここで休んでいれば、足をひねる者が出たかもしれない。
荷が倒れ、味噌片や握り飯が散ったかもしれない。
それを見た敵は、高畑砦飯線の休み場を知り、次はもっと大きく狙う。
俺は喉が乾いた。
「昨日、休み場不可にしてよかった」
佐助が小さく言った。
本当にそうだ。
もし昨日、ここを休み場にしていたら。
今日は迷わずここで荷を下ろしていた。
罠に入っていた。
作兵衛は人足たちを下がらせた。
「ここは使わない。近づくな。足を置くな」
太助は穴を見て、顔を青くした。
「昨日、俺、ここで休みたいって言ったな」
「言った」
「……言ってよかったのか、悪かったのか」
「言ったから記録に残った。記録に残ったから、今日は気をつけた」
作兵衛がそう言うと、太助は黙って頷いた。
文句が、罠を避けた。
そう考えると、不思議だった。
太助の「休みたい」がなければ、ここを危ない場所として強く覚えなかったかもしれない。
文句も道を見る。
また一つ、腹に落ちる。
罠は埋め直さなかった。
五郎兵衛殿の配下が小さな印をつけ、場所を記録する。
すぐに穴を埋めると、敵に「見つかった」と知らせることになる。
今日は触らない。
ただ、こちらは使わない。
これも、前に逃げ道で学んだことだ。
かやが石仏の前で手を合わせた。
俺も慌てて手を合わせる。
罠を仕掛けられた場所だからこそ、何もしないわけにはいかなかった。
作兵衛も頭を下げた。
「石仏まで罠に使いやがる」
低い声だった。
怒っている。
俺も腹の奥が熱くなった。
だが、ここで怒鳴っても仕方ない。
口を焦がすな。
見て、戻す。
石仏の曲がりを避け、昨日見つけた背戻し窪地へ向かった。
道を少し戻ってから横へ入る。
草が深い。
虫は多い。
だが、敵の目は少ない。
そこで砦飯を試す。
握り飯を一つ。
干し菜を少し。
味噌片を小竹筒のぬるい湯へ入れる。
昨日より溶けやすい。
薄くした効果が出ている。
ただ、味は軽い。
権六がいれば「文句がある」と言いそうだ。
太助がすすって言った。
「石仏で足をひねるより、こっちで虫に刺されるほうがましだな」
「味は?」
「味噌玉より頼りない。でも、喉は通る。握り飯と一緒ならいける」
作兵衛も飲む。
「背を戻すには足りる。ただ、寒い日は弱いな」
「寒い日?」
「ぬるい湯だと身体が温まらん。砦で夜に使うなら、また別だ」
砦飯にも、時がある。
昼の見分にはよい。
夜や寒い日には弱い。
また課題だ。
佐助がすぐ頷いた。
「寒い日用は、少し生姜……いや、このあたりで手に入る辛味のあるものを少し混ぜられないか試します」
「辛味?」
かやが言う。
「水が欲しくなりすぎると駄目だよ」
「はい。少しだけ」
新しい試作がまた増えた。
だが、今日の本題はそれだけではない。
石仏の罠だ。
俺たちはそれ以上先へ進まなかった。
罠が見つかった以上、敵が近くで見ている可能性がある。
砦手前の線を見せすぎる必要はない。
戻る。
戻ることも、今日の仕事だ。
前進飯場の村へ戻ると、老人が栗の木の下にいた。
俺たちの顔を見るなり、目を細めた。
「何かあったな」
「石仏の曲がりに穴がありました」
老人の顔が変わった。
「石仏にか」
「はい。荷を下ろす足元です」
老人はしばらく黙った。
それから、低い声で言った。
「罰当たりめ」
村の若い男も近づいてきた。
話を聞くと、顔を険しくする。
「石仏の前なら、村の者も通る」
「はい」
「織田の荷だけじゃない。村の者も足をやる」
その通りだ。
敵は、飯線を狙った。
だが、罠は村の者も傷つける。
それが、村の腹を敵から少し離す。
老人は若い男へ言った。
「石仏には触るな。見張れ。罠を外すのは、清洲の者と一緒にやる」
「はい」
俺は頭を下げた。
「すみません。こちらが高畑へ向かうことで、村の道が狙われました」
老人は俺を睨むように見た。
「謝るな。謝るなら、罠を仕掛けた奴に謝らせろ」
「はい」
「だが、道を見に来たのはよかった。使ってから気づけば怪我人が出た」
その言葉で、少し救われた。
見分は面倒だ。
遅い。
だが、罠を避けた。
文句を聞き、休みたくなる場所を危ないと見て、そこを使わなかったから見つけた。
清洲へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
予定より少し早く戻れた。
罠を見つけた後、無理に先へ進まなかったからだ。
伊三郎は報告を聞くと、すぐに表情を引き締めた。
「石仏の曲がり、罠。休み場不可から、危険地へ格上げします」
「格上げというのか」
「はい。下ろしやすいが危険、ではなく、敵が罠を仕掛けた地点です」
かやが補足する。
「ただし、囮には使えるかもしれない」
「囮?」
「敵は、あそこをこちらが使いたい場所だと思っている。なら、こちらが使うふりだけして、実際は背戻し窪地を使う。敵の目をずらせる」
俺は少し考えた。
危険な場所を、ただ避けるだけではない。
敵が見ていると思う場所に、見せる動きを置く。
だが、荷は置かない。
火も使わない。
人も長く止めない。
「危なくないか」
「危ない。だから、ちゃんと決めてから」
伊三郎が書く。
石仏曲がり。
敵罠あり。
休み場不可。
将来、囮地点として検討。
村と共同確認必要。
佐助は味噌片の報告をする。
「今日の薄い味噌片は、ぬるい湯で使えました。ただし、寒い時は弱いです。寒い日用を別に考えます」
作兵衛は人足の報告。
「胸前持ちは使える。左肩道では荷の位置を少しずらす。背戻し窪地は休めるが、虫と長置き注意。石仏は駄目」
太助が横から言った。
「俺の文句も書いといてくれ。休みたい場所ほど危ないって」
伊三郎は真面目に書いた。
太助は少し照れたように笑う。
「本当に書くんだな」
「重要です」
その日の夜、俺たちは砦飯をもう一度食べた。
握り飯。
干し菜。
味噌片湯。
温かい粥ではない。
腹いっぱいにもならない。
だが、歩いた身体には妙に染みた。
権六は報告だけ聞いて、悔しそうにしていた。
「俺も石仏の罠を見たかった」
「見たいものじゃない」
「文句が言えるだろ」
「罠に文句を言ってどうする」
「石仏に謝れって言う」
それは少し分かる。
作兵衛も頷いた。
「石仏に罠は、腹が悪い」
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、罠を踏まなかった味だね」
「うまいというより、助かった味だ」
佐助が小さく言った。
「味噌片も、助かる味に近づいたと思います」
「うん」
俺は頷いた。
高畑砦飯線は、少しずつ形になっている。
火を使わない砦飯。
味噌片。
背戻し窪地。
石仏の罠。
見える休み場を避ける判断。
村との共同確認。
ただ飯を運ぶだけではない。
敵が見ている場所を避け、時には利用し、村の道も守る。
飯線は、道の上に引くものではない。
人の足と、敵の目と、村の怒りと、味噌片の溶け残りまで含めて引くものなのだ。
俺は味噌片湯を飲み干した。
火を使わぬ飯は、まだ頼りない。
でも、今日、罠を踏まずに戻れた。
それだけで、この薄い味噌の味は、腹に深く残った。




