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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第六十二話 砦の手前で、飯は裸になる

 高畑砦へ向かう見分の日、清洲蔵の朝は早かった。


 まだ空が薄墨色のうちから、味噌玉の包みが並べられている。


 今日の味噌玉は、砦用だ。


 いつもの前進飯場用より小さい。

 少し硬い。

 十個ずつ束ねてある。

 包みの折りは左二回。

 結びは砦用の細結び。


 佐助が、一つ一つを指先で押していた。


「硬さは?」


 俺が聞くと、佐助は小さく頷いた。


「昨日より少し小さくしました。湯に溶けるのは遅いですが、砦まで持たせるならこれくらいがいいと思います」


「匂いは?」


「漏れにくいです。ただ、完全には消えません」


「それでいい」


 完全に匂わない味噌は、悪くなっても分からない。


 何度も学んだことだ。


 かやは、砦用の荷を見ていた。


「今日は見分だから、持ちすぎない。握り飯は少し。味噌玉、干し菜、塩、水筒。火打ちは一つ。鍋は持たない」


「鍋なし?」


「砦手前で鍋を出すと、飯場に見える。今日は飯場を作りに行くんじゃなくて、飯線を見る日」


 かやの言う通りだった。


 鍋は目立つ。


 火も目立つ。


 煙はもっと目立つ。


 敵が高畑砦へ飯を届かせたくないなら、砦手前でどこに火が立つかを見るだろう。


 今日は、炊かない。


 見て、戻る。


 それだけでも腹は重い。


 作兵衛は人足を四人選んだ。


 いずれも、よく喋る者たちだった。


「文句が多い人ばかりじゃないか」


 俺が言うと、作兵衛は当然のように答えた。


「見分だからだ。黙って我慢する奴は駄目だ」


「道の悪さを喋るから?」


「そうだ。足が痛い、荷が揺れる、ここで休みたい、ここは嫌だ。そういう文句が道を見る」


 人足の一人、太助が笑った。


「今日は文句を言っていい日か」


「言っていい。ただし、嘘は言うな」


「本当の文句なら山ほどある」


「それでいい」


 こういう人足のほうが、見分には向く。


 前なら、文句の多い者は邪魔だと思っていたかもしれない。


 今は違う。


 文句も、炊き方次第で飯になる。


 伊三郎は清洲に残る。


 代わりに、小さな写し帳を俺に持たせた。


「高畑砦飯線の見分項目です」


「また項目か」


「はい。水、火、泥、荷、村、人、粉に加え、今回は三つ重視してください」


「また増えるのか」


「見えるか、隠せるか、戻れるか」


 俺は顔を上げた。


「残せるか、隠せるか、逃がせるか、ではなく?」


「今回は砦手前です。敵の目が近い。飯が敵から見えるか。荷を隠せるか。危なくなった時に戻れるか。これが重要です」


 見えるか。

 隠せるか。

 戻れるか。


 砦へ近づくと、飯は裸になる。


 そんな気がした。


 前進飯場までは、村の目がある。


 茶屋の目、喜助の川、桑畑の老人、人足の休み場。


 良くも悪くも、誰かの目がある。


 だが砦手前は、敵の目がある。


 味方に見える飯は、敵にも見える。


「分かった」


 俺は写し帳を懐に入れた。


 清洲を出たのは、朝日が城の屋根をかすめる頃だった。


 大荷ではない。


 荷車もない。


 背負い小荷だけ。


 護衛は五郎兵衛殿の配下が数名。


 弥助殿は清洲に残る。


 信長様への報告を受けるためだという。


 俺たちはまず、いつもの表道を進んだ。


 茶屋の前では止まらない。


 水も借りない。


 茶屋の女は、店先を掃きながら俺たちを見た。


「今日は軽いね」


「見分です」


「見分ばっかりだね、あんたら」


「飯は、見ないと焦げます」


 茶屋の女は、少し笑った。


「変な理屈だけど、清吉が言うと本当に聞こえるよ」


 褒められたのかどうか分からない。


 だが、悪い顔ではなかった。


 前進飯場の村へ着いたのは、朝の火が使える時間の終わりに近い頃だった。


 村の老人は、栗の木の下で待っていた。


 今日は小さな火床に火は入れていない。


 湯だけもらうつもりもない。


 村の水を使わず、清洲から持った水で済ませる。


 老人は俺たちの荷を見て、頷いた。


「少ないな」


「今日は見分です。飯場は作りません」


「それでいい。高畑へ行くなら、栗の木の先で足を見ろと言ったな」


「はい」


 老人は、道の向こうを顎で示した。


「そこから先は、村の道ではなく境の道だ。草の倒れ方も違う。荷を背負う者は、そこで一度肩を直せ」


 作兵衛がすぐ人足たちに言った。


「聞いたな。栗の木の先で一度下ろす」


 太助が笑う。


「まだ歩けるぞ」


「歩けるうちに下ろす。歩けなくなってからじゃ遅い」


 老人が作兵衛を見て、少しだけ口元を動かした。


「背のことを分かってる者がいるなら、少しはましだ」


 村から先へ出る前に、俺たちは栗の木の下で一度止まった。


 荷を下ろす。


 背当てを直す。


 握り飯を半分だけ食べる。


 味噌玉はまだ使わない。


 水も少しだけ。


 ここまでは、前進飯場の延長だ。


 だが、ここから先は違う。


 栗の木の影を出ると、道が細くなった。


 右手は低い畑。


 左手は山裾。


 草が高い。


 足元に小石が増える。


 荷車の跡はほとんどない。


 人が通る道だ。


 太助がすぐ文句を言った。


「ここ、荷が揺れる」


「どこで?」


 作兵衛が聞く。


「石が斜めだ。右足が下がる。荷が左へ振られる」


 俺には、そこまで分からなかった。


 だが、太助の歩き方を見ると、確かに片側へ身体が傾く。


 かやが道を見て言う。


「背負い荷なら通れる。でも長く続くと肩が片方だけやられる」


「休み場は?」


 俺が聞くと、作兵衛が周囲を見た。


「少し先の石仏の曲がりなら下ろせるかもしれない」


 石仏。


 道の曲がりに、小さな石仏があった。


 苔がついている。


 前に花が供えられていた跡もある。


 人が休む場所なのだろう。


 だが、かやはすぐ首を振った。


「荷置きには使いたくない」


「なぜ」


「見える」


 かやが山のほうを指した。


 石仏の曲がりは、道が少し開けている。


 下ろしやすい。


 座りやすい。


 だが、山裾の上から丸見えだった。


 敵の物見がいれば、そこに荷が集まるのが分かる。


 飯は裸になる。


 伊三郎の言葉が、腹に戻ってきた。


 見えるか。

 隠せるか。

 戻れるか。


 石仏の曲がりは、休みやすい。


 だが、見える。


「休み場にはしない」


 俺は言った。


 太助が顔をしかめた。


「でも、ここ楽だぞ」


「楽だから敵にも見える」


「敵に見えたら駄目か」


「飯が来る場所だと知られます」


 太助は山を見て、少し黙った。


「……確かに、上から見えるな」


 作兵衛が頷く。


「ここは急な荷直しだけ。長く休むな」


 小帳面に書く。


 石仏曲がり。

 下ろしやすい。

 敵目あり。

 休み場不可。

 急な荷直しのみ。


 さらに進むと、小さな沢があった。


 水は流れている。


 細いが、清い。


 佐助が慎重に見た。


「飲み水にはできます。ただ、人数分の粥には無理です」


「砦用なら?」


「味噌玉湯を少し作る程度なら。けれど、ここで火を使うと煙が上がります」


 かやが周囲を見た。


「水はある。でも隠れない。沢の音で人の声は少し消えるけど、煙は見える」


 沢のそばには、小さな平場があった。


 荷を下ろせる。


 人足も休める。


 水も取れる。


 だが、やはり見える。


 便利な場所ほど、敵も見る。


 これまで何度も学んだ。


「火は使わない」


 俺は言った。


「水は飲み水だけ。味噌玉湯も、ここでは作らない」


 太助がまた文句を言う。


「味噌玉、いつ使うんだ」


「敵に見えにくい場所があれば」


「なかったら?」


「清洲へ戻ってから食べる」


「見分って腹が減るな」


「だから握り飯を半分残してる」


 太助は不満そうに握り飯をかじった。


 その文句も記録する。


 見分時、味噌玉を使えない場合、握り飯配分注意。


 沢を越えると、道はさらに狭くなった。


 ここから高畑砦へ向かう尾根筋が見え始める。


 遠くに、木々の間から小さな柵のようなものが見えた。


 高畑砦だろうか。


 砦というより、山の肩に引っかかった小さな囲いに見える。


 あそこへ飯を届ける。


 そう思うと、荷が急に重く感じた。


 五郎兵衛殿の配下が、手で合図した。


 皆が止まる。


「上に動きがあります」


 声を低くして言う。


 俺たちは身を低くした。


 山の上、木の間。


 確かに、何かが動いた気がする。


 敵か。

 味方か。

 鹿か。


 分からない。


 だが、ここから先は見られていると思ったほうがいい。


 かやが小声で言った。


「この道、荷を隠す場所が少ない」


「戻るなら?」


 作兵衛が振り返る。


「戻れる。ただ、沢のところで詰まる。敵に追われたら、荷を捨てないと走れない」


「荷を捨てる場所も決める必要があるか」


 俺が呟くと、作兵衛が頷いた。


「捨てるって言うと嫌だが、捨てる場所がないと人を捨てることになる」


 重い言葉だった。


 飯を守るために、人を失っては意味がない。


 危なくなったら荷を捨てる。


 その判断も、先に決めておかなければならない。


 小帳面に書く。


 沢から先、敵目可能性。

 戻る時、沢で詰まる。

 緊急荷捨て場所必要。

 人優先。


 さらに少し進むと、道の左にくぼ地があった。


 草に隠れている。


 外からは少し見えにくい。


 水はない。


 火も使えない。


 だが、荷を下ろし、人足が肩を直すには使えそうだった。


 かやが草を分けて入る。


「ここ、いい」


「水はないぞ」


「休み場と荷隠し用。飯を作る場所じゃない」


 作兵衛が人足を入らせた。


 四人が荷を下ろす。


 外から見ると、草に隠れて荷が見えにくい。


 太助が座り込んで言った。


「ここなら休める。虫が多いけど」


「虫は?」


 佐助が草を見た。


「食べ物を長く置くのは嫌です。蟻もいます。でも一時休みなら」


 このくぼ地は、飯場ではない。


 水も火もない。


 だが、荷を一時的に隠し、人足の背を戻す場所にはなる。


 高畑砦飯線には、こういう場所が必要なのだ。


「ここを背戻し窪地にする」


 俺が言うと、かやが笑った。


「また変な名前」


「分かりやすいだろ」


「うん。悔しいけど」


 写し帳に記す。


 背戻し窪地。

 水なし。火不可。

 敵目少。

 荷一時隠し可。

 虫あり。長置き不可。

 人足肩直し可。


 そのくぼ地で、俺たちはようやく味噌玉を一つ試した。


 火は使わない。


 清洲から持った湯を小さな竹筒に入れてきていた。


 もう少しぬるい。


 砦用味噌玉を入れると、溶けにくかった。


 佐助が悔しそうに眉を寄せる。


「やはり、湯がぬるいと残ります」


「でも飲める」


 作兵衛がすすった。


「背を戻すには、これで十分だ。うまさより、塩と味噌が入ることが大事だな」


 太助も飲んだ。


「溶け残りはあるけど、腹には入る。握り飯だけよりまし」


 この意見は大事だ。


 砦手前では熱い湯がないかもしれない。


 ぬるい湯でも使える味噌玉が要る。


 佐助は小さく頷いた。


「砦用は、もっと細かく砕ける形にしたほうがいいかもしれません。丸ではなく、薄く平たいもの」


「味噌玉じゃなくなるな」


 かやが言うと、佐助は少し困った顔をした。


「味噌片、でしょうか」


「みそへん?」


 俺が言うと、かやが笑いをこらえた。


「清吉、変な名前にしないで」


「言ったのは佐助だ」


 佐助が赤くなる。


 だが、案はいい。


 砦用は、味噌玉ではなく薄い味噌片。


 湯がぬるくても溶けやすい。


 割って使える。


 数えやすくするには束にする必要がある。


 新しい荷の形だ。


 また清洲で試すことが増えた。


 背戻し窪地から少し先へ出ると、道は尾根へ向かって上がり始めた。


 高畑砦は、もう近い。


 だが、五郎兵衛殿の配下が首を横に振った。


「今日はここまでです」


「砦までは?」


「あと少し。ただ、上の目が分かりません。荷を持って近づきすぎると、飯線を見せます」


 今日は見分。


 砦へ届ける日ではない。


 俺は頷いた。


「ここまでにします」


 高畑砦を目の前にして戻るのは、少し悔しかった。


 だが、砦へ行くことが目的ではない。


 飯を届ける線を作ることが目的だ。


 線を敵に見せすぎてはいけない。


 戻り道、沢の手前で小さな印を見つけた。


 木の皮が、細く剥がされている。


 五郎兵衛殿の配下が顔を険しくした。


「人の手です」


「敵の目印?」


「分かりません。ただ、最近のものです」


 佐助が近づきすぎないように見た。


「味噌や粉の匂いはありません。けれど、人が立った匂いはあります」


 敵か、山の者か、味方か。


 分からない。


 だが、誰かがこの道を見ている。


 俺たちはその印にも触れず、場所だけ記録した。


 戻る時、石仏の曲がりで太助が言った。


「ここ、やっぱり休みたくなるな」


「だから危ない」


 作兵衛が答えた。


「敵は、休みたくなる場所を見る」


 その言葉が、腹に残った。


 敵は強い場所だけを見るのではない。


 人が休みたくなる場所を見る。


 腹が弱くなる場所を見る。


 飯が裸になる場所を見る。


 前進飯場の村へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 移動としては長すぎない。


 だが、神経を使ったせいで、足が重い。


 村の老人は栗の木の下にいた。


「見たか」


「はい」


「石仏の曲がりで休むな」


 俺は驚いた。


「分かっていたのですか」


「あそこは昔から、楽だから休む。楽だから見られる」


 老人はさらりと言った。


「沢も火を焚くな。煙が上へ行く」


「はい」


「くぼ地は見つけたか」


「草の深いところですか」


「あそこは虫が多い。長く置くな」


 老人は、俺たちが今日見たことをほとんど知っていた。


 地元の目はすごい。


 いや、当然なのだ。


 俺たちが一日見ただけの道を、村の者は何年も歩いている。


「教えてくだされば」


 言いかけて、やめた。


 老人は少し笑った。


「先に全部言っても、おまえらは腹で分からんだろう」


 その通りだった。


 聞くだけでは駄目だ。


 歩いて、肩を痛めて、敵の目を感じて、ようやく腹に落ちる。


「はい。今日、少し分かりました」


「ならいい」


 老人は、握り飯を半分だけ受け取った。


 礼ではない。


 交換だ。


 村から道の助言をもらった分、清洲の握り飯を渡す。


 ただではない形にした。


 関係を腐らせないためだ。


 清洲へ戻ったのは、夕方前だった。


 無理に砦まで行かなかった分、日暮れには間に合った。


 伊三郎は蔵で待っていた。


 俺が写し帳を差し出すと、すぐに開いた。


「多いですね」


「多い」


「砦までは行かなかったのですね」


「行かなかった。見られると思った」


 伊三郎は頷いた。


「正しいと思います」


 少し安心した。


 俺たちは報告を始めた。


 石仏の曲がり。

 下ろしやすいが敵目あり。

 沢。

 飲み水程度。火不可。

 沢から先、敵の目の可能性。

 戻りの詰まり。

 緊急荷捨て場所の必要。

 背戻し窪地。

 水なし、火不可、荷一時隠し可、虫多し。

 砦用味噌玉はぬるい湯で溶けにくい。

 薄い味噌片の案。

 木皮の目印。

 地元老人の助言。


 伊三郎の筆が止まらない。


 かやが荷の形を補う。


「砦用は、味噌玉じゃなく味噌片。薄くて割れるもの。十枚束。湿気に注意」


 佐助が頷く。


「試します」


 作兵衛は人足の話をする。


「栗の木から先は、片肩に来る道。石仏曲がりは休むな。背戻し窪地で肩を直す。ただし、長休みは駄目」


 伊三郎が最後に言った。


「高畑砦飯線は、飯場を点で置くのではなく、休みと隠しの点を細かくつなぐ線ですね」


 それだ。


 前進飯場のように、火と水のある場所を作るのではない。


 高畑砦飯線は、火を焚かず、荷を長く置かず、短い休みと隠しをつないで砦へ近づく線。


 飯場ではなく、飯線。


 その違いが、今日ようやく見えた。


 夜、試しに佐助が味噌片を作った。


 小さく薄い。


 竹皮に挟む。


 湯に入れると、味噌玉より早くほどけた。


 味は少し軽い。


 だが、ぬるい湯でも飲める。


 権六がすすって言った。


「これは砦向きだな。うまいというより、助かる味だ」


「助かる味」


 俺は繰り返した。


 いい言葉だ。


 かやが椀を持って笑う。


「今日の飯は、裸にならない味だね」


「飯が裸?」


「敵から丸見えにならない飯」


「それなら、そうかもしれない」


 俺は味噌片の湯を飲んだ。


 砦の手前で、飯は裸になる。


 下ろしやすい場所は見られる。

 水のある場所は煙が立つ。

 楽な場所は狙われる。

 戻り道は詰まる。

 荷を守りすぎると人を失う。


 だから、見えにくいくぼ地を使う。

 火を焚かない。

 味噌を片にする。

 休み場を短くする。

 戻ることも決めておく。


 高畑砦飯線は、まだ細い。


 だが、今日、最初の線が引けた。

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