第六十一話 敵が止めたい飯
不満の穴を塞ぐには、銭が要る。
それは分かった。
蔵番の油。
味噌玉を作る女たちの手当て。
人足の待機銭。
病で来られない時の代役確認。
疑いが晴れた者の記録。
どれも地味だ。
地味すぎて、槍を持つ者から見れば、何を細かいことをと言われそうな話だった。
だが、その地味な穴から紙が入る。
銭が入る。
偽の味噌玉が入る。
そして飯が止まる。
清洲蔵の中の腹を少し見たことで、俺はようやく分かりかけていた。
敵は、米俵そのものを奪うだけではない。
米俵を運ぶ人の不満を狙う。
味噌玉を作る手の荒れを狙う。
夜の灯りが暗くなる瞬間を狙う。
代役が入る隙を狙う。
つまり、敵は清洲式の外側だけでなく、内側も見始めている。
その事実は、粥に混じった小石のように腹へ残った。
その日の昼過ぎ、弥助殿が清洲蔵へ来た。
いつもより足が速い。
それだけで、蔵の空気が変わる。
「清吉。伊三郎。かや。佐助。作兵衛。来い」
俺は味噌玉用の湯を見ていた手を止めた。
弥助殿の顔は硬い。
だが、昨日までの「蔵の中に穴がある」という顔とは少し違った。
何かが見えた顔だった。
俺たちは帳面台の前に集まった。
伊三郎はすでに筆を持っている。
かやは縄を手にしたまま来た。
佐助は味噌玉の包みを布の上へ置き、手を拭いてから近づいた。
作兵衛は人足待機場所から戻ってきたばかりで、肩に背当てを掛けている。
弥助殿は、地図を広げた。
美濃道の地図だ。
何度も見た道がある。
清洲。
茶屋。
渡し場。
前進飯場の村。
奥の村の黒印。
逃げ道。
境目近くの物見地点。
そこへ、弥助殿は小さな黒石を三つ置いた。
一つ目は、川道で水面に妙な膜が出た場所。
二つ目は、逃げ道に倒木と穴があった場所。
三つ目は、前進飯場の村へ噂紙が出た場所。
さらに、別の石を置いた。
清洲蔵。
偽味噌玉。
塩袋の紙片。
代役の薪運び。
石が、地図の上に点々と並ぶ。
俺はそれを見て、妙な気持ちになった。
それぞれ別々の事件だと思っていた。
川は川。
逃げ道は逃げ道。
噂紙は噂紙。
蔵内の買収は蔵内の買収。
だが、地図の上に置かれると、別のものが見えてくる。
すべてが、美濃道のある一点へ近づく線の上にあった。
弥助殿が、その一点に赤い石を置いた。
「ここだ」
「どこですか」
俺が聞くと、伊三郎が地図を覗き込んだ。
「境目の小砦……高畑砦ですか」
高畑砦。
名前は聞いたことがあった。
美濃側との境にある小さな砦。
大きな城ではない。
立派な石垣があるわけでもない。
大軍が詰める場所でもない。
だが、道を押さえるには大事な場所だと、以前、五郎兵衛殿が話していた。
高畑砦を押さえれば、美濃側の動きが見える。
逆にそこを敵に握られれば、こちらの足が読まれる。
そんな場所だったはずだ。
「敵は、清洲式そのものを壊したいのではない」
弥助殿は言った。
「いや、壊せるなら壊したいだろう。だが、ここまでの仕掛けを見ると、もっと急ぎの狙いがある」
弥助殿の指が赤い石を押さえた。
「高畑砦へ、飯を届かせたくない」
蔵の中が静かになった。
高畑砦へ飯を届かせたくない。
それだけで、今までの点が一本の線になった気がした。
川道を止めれば、味噌と塩が遅れる。
逃げ道を塞げば、予備の背負い荷が通らない。
前進飯場の村を噂で揺らせば、途中の腹起こしができない。
清洲蔵で味噌玉や塩を乱せば、出立そのものが遅れる。
兵の文句を煽れば、清洲式は遅いと内部から崩れる。
人足の不安を煽れば、背負い手が減る。
全部、高畑砦へ向かう飯の線を細らせるため。
俺は地図を見たまま、喉が乾くのを感じた。
「高畑砦には、今、兵がいるのですか」
「少数だ」
弥助殿が答える。
「表向きは、ただの見張りだ。だが、近く動かす。上様は高畑砦を、美濃攻略準備の目として使うお考えだ」
「目」
「敵も、それを嫌がっている」
伊三郎が地図に目を落としたまま言った。
「つまり、砦そのものを攻める前に、飯を細らせて砦を使えなくするつもりですね」
「そうだろう」
弥助殿は頷いた。
「兵がいても、飯がなければ長くは見張れない。砦を空けるか、無理に清洲から直接運ぶことになる。直接運べば、道は伸び、荷は重くなり、隙が増える」
作兵衛が低く言った。
「人足も潰れるな」
「そうだ」
かやが地図を見ながら眉を寄せる。
「高畑砦へ行くなら、前進飯場の村を通るだけじゃ足りない。そこから先の中継がいる。でも奥の村は飯場不可」
「だから敵は奥の村にも噂を入れたのか」
俺が言うと、かやは頷いた。
「あそこを飯場にできないと分かっても、敵に取られたら道の横腹を刺される。清吉が飯場にしないって判断したのは正しかったけど、連絡地としては要る」
伊三郎が筆を走らせる。
「高畑砦飯線」
「また名前が」
俺が呟くと、伊三郎は顔を上げずに言った。
「名前がなければ守れません」
そうだった。
名前がつくと、腹に落ちる。
高畑砦飯線。
清洲から高畑砦へ飯を届ける線。
その線を敵は切りたい。
弥助殿は、紙片を一枚出した。
塩袋に入っていたものとは違う。
代筆男・宗次郎の荷から出た紙束の一部だという。
伊三郎が受け取り、読み上げる。
「『砦は腹より先に目が曇る。清洲の飯を止めよ。前の村を疑わせよ。背負いを疲れさせよ。塩を薄くせよ』」
ぞっとした。
短い文だ。
だが、今までの仕掛けそのものだった。
前の村を疑わせる。
背負いを疲れさせる。
塩を薄くする。
敵は、飯を「炊けなくする」だけではなく、砦に届いた飯の力を弱めようとしている。
塩が薄い。
味噌が足りない。
背負い手が疲れて遅れる。
村が疑って水を貸さない。
その積み重ねで、高畑砦の兵は腹から弱る。
「塩を薄くせよ……」
佐助が小さく言った。
昨日の塩袋の紙。
あれは、ただ銭の受け渡しだけではなかった。
塩を減らすため。
塩が薄ければ、兵の飯は弱くなる。
味だけの話ではない。
暑い日、長く歩く日、汗をかく日。
塩が足りなければ、身体が重くなる。
佐助はそれを分かっている顔だった。
「佐助」
俺が呼ぶと、佐助はすぐ答えた。
「高畑砦へ送る味噌玉は、塩を安定させないと危ないです。薄すぎても駄目。濃すぎると水を欲しがる。砦の水量も見ないと」
「砦の水は?」
弥助殿が答える。
「井戸はあるが深くない。籠城するような砦ではない。見張りのための砦だ」
つまり、大人数を長く食わせる場所ではない。
だが、目として使うなら、少数を確実に支える飯が要る。
「大釜は無理だ」
俺は言った。
「高畑砦には、粥を炊く飯場を置くのではなく、すぐ食える飯と、湯で戻せるものを送る。握り飯、味噌玉、干し菜、塩。水は砦で足りないなら持ち込み。火は小さく」
かやがすぐ続ける。
「荷は軽く。砦用は俵じゃなく、背負い小荷。荷車は砦手前まで。最後は背負い。味噌玉は偽対策の折りを変える。砦用の印も必要」
作兵衛が地図を見ながら言った。
「背負い手は選ぶ。高畑砦まで一気に行かせると潰れる。前進飯場で休ませ、砦手前で一度下ろす場所がいる」
「砦手前に休み場はあるのか」
弥助殿が首を振る。
「詳しくはまだ見ていない」
俺たちは、互いに顔を見合わせた。
見ていない場所へ、飯を送る。
それがどれほど怖いことか、今なら全員が分かっている。
奥の村のように、飯場不可かもしれない。
水がないかもしれない。
薪が銭かもしれない。
道が狭いかもしれない。
敵が見ているかもしれない。
「見分が必要です」
俺は言った。
「高畑砦までではなく、まず砦手前まで。荷をどこで下ろせるか、水をどこで得るか、火を使えるか、村や山の者の腹はどうか。それを見ないと、飯線は作れません」
弥助殿は頷いた。
「上様も同じ考えだ」
やはり。
俺の腹が重くなる。
弥助殿は続けた。
「明朝、砦手前の見分へ出る。大人数ではない。清吉、かや、佐助、作兵衛、護衛数名。伊三郎は清洲で待て」
伊三郎が顔を上げた。
「私も行くべきでは」
「清洲が揺れる」
弥助殿は短く言った。
「敵の狙いが高畑砦飯線と見えた以上、清洲蔵を空にするな。帳面で受けろ」
伊三郎は少し悔しそうだった。
だが、頷いた。
「承知しました」
俺は伊三郎を見た。
この役は俺もよく分かる。
現場へ行きたい。
でも、清洲で受ける者がいなければ、線が乱れる。
「伊三郎、清洲を頼む」
「はい。清吉こそ、現場で見たことを全部持ち帰ってください」
「全部は無理だ」
「では、腹に残ったものだけでも」
伊三郎らしい無茶を言う。
だが、少し笑えた。
弥助殿が地図をたたむ前に、もう一度赤い石を押さえた。
「高畑砦へ飯を届けられるかどうかで、次の動きが変わる」
その言葉は重かった。
城を攻める話ではない。
砦へ兵を入れる話でもない。
飯を届ける話だ。
だが、それで軍の次が変わる。
飯が動けば、国境も動く。
そのことを、俺は前に腹で知った。
今度は、それを本当に試される。
その日の午後、清洲蔵では高畑砦飯線の準備が始まった。
まだ本輸送ではない。
見分用の軽荷だ。
握り飯。
味噌玉。
塩。
干し菜。
水筒。
竹皮。
小さな火打ち。
背当て。
小さな縄。
紙や粉を隔離する布袋。
かやが荷を並べながら言った。
「砦用の荷は、今までの前進飯場用とも違うね」
「どう違う」
「飯場で炊くための荷じゃない。砦で腹を持たせる荷。軽くて、早く食えて、残しても悪くなりにくいもの」
「握り飯は悪くなる」
「だから数を少なめにして、味噌玉と干し菜を増やす。砦で湯を沸かせるなら味噌玉。沸かせないなら、そのまま少し舐めても塩気になる」
味噌玉を舐める。
あまりうまそうではない。
だが、砦ではそんなことも必要になるのだろう。
佐助が言った。
「砦用味噌玉は、少し硬めにします。崩れにくく、日持ちするように。ただ、湯で溶けにくくなります」
「では、小さく?」
「はい。小さくして数を増やします。数え間違いが出やすいので、包みを十個ずつ束にします」
伊三郎がすぐ書く。
「砦用味噌玉、十個束」
作兵衛は人足を選んでいた。
「明日は見分だ。重荷は持たない。だが、歩く距離はいつもより長い。足の速い奴より、文句を隠さねえ奴を選ぶ」
「文句を隠さない人足?」
俺が聞くと、作兵衛は頷いた。
「砦手前の道は初めてだ。『行けます』しか言わない奴は危ない。痛い、重い、休ませろって言える奴のほうが、道が見える」
なるほど。
文句は道を見る目にもなる。
権六が聞いたら喜びそうだ。
俺は小帳面に書いた。
見分人足、文句を言える者。
夕方、前進飯場の村へ知らせを出した。
明日、砦手前の見分へ向かう。
村の水はいつも通りの範囲で使う。
大荷は入れない。
火は必要なら小さく。
高畑砦へ飯を届かせるための見分である。
隠さない。
前進飯場の村には、こちらの目的をある程度伝える。
隠せば、また噂が入る。
返事は、夜に戻ってきた。
老人からだった。
「明日は風が遅く変わる。朝なら火は使える。だが、兵を増やすな。高畑へ行くなら、栗の木の先で一度足を見ろ」
栗の木の先で足を見ろ。
老人なりの助言だ。
村の外れにある栗の木の休み場。
その先から、砦へ向かう道の腹が変わるのだろう。
俺は返事を読んでもらいながら、胸が少し温かくなった。
村はもう、ただ見張っているだけではない。
道のことを教えてくれている。
これも飯線の一部だ。
夜、皆で食べた粥は、砦用味噌玉を試しに溶いたものだった。
少し硬い。
溶け残りがある。
佐助は悔しそうだった。
「もう少し小さくします」
「味は悪くない」
俺が言うと、権六が横から言った。
「砦で食うなら、これでいいんじゃねえか。うまい飯ってより、腹が持つ飯だ」
作兵衛も頷く。
「背負って運ぶなら、小さいほうがいい。硬くても、腹に入ればいい」
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、砦へ向かう味だね」
俺は湯気を見た。
清洲蔵の中にいるのに、高畑砦の赤い石が目に浮かぶ。
敵が止めたい飯。
そこへ届けなければならない飯。
飯が届けば、砦は目になる。
飯が届かなければ、砦はただの石と木の箱になる。
高畑砦飯線。
その名が、腹の中で重くなった。
明日は、その線を見に行く。
まだ飯を運ぶのではない。
飯を運べるかを見る。
だが、それが次の戦の入口なのだと思う。




