第六十話 銭で揺れる腹
銭の音は、米の音より小さい。
米俵を動かせば、縄が軋む。
荷車に積めば、板が鳴る。
釜へ入れれば、ざらざらと音がする。
だが、銭は違う。
袖の中で鳴る。
懐の底で鳴る。
人の腹の奥で鳴る。
聞こえにくい。
だから怖い。
塩袋から出てきた紙片には、こう書かれていた。
今夜、もう一袋。
銭は前と同じ場所。
前と同じ場所。
つまり、一度きりではない。
誰かが、もう銭を受け取っている。
それは清洲蔵の中の者かもしれない。
外の者が中の誰かを使っているのかもしれない。
あるいは、荷へ触れる近い場所にいる者かもしれない。
まだ分からない。
だが、疑いだけは、蔵の中に広がった。
蔵番が蔵番を見る。
人足が蔵番を見る。
味噌玉作りの女たちが、自分たちの手元を隠すようになる。
兵の使いは入口で余計に待たされ、舌打ちをする。
権六の文句門には、朝から文句が溜まった。
「俺たちを疑ってんのか」
「塩袋に触ってないのに、何で待たされるんだ」
「銭を受け取った奴がいるなら、さっさと捕まえろ」
「捕まえるまで飯が遅れるのか」
当然だ。
蔵の中に疑いがあるというだけで、人の腹は荒れる。
俺だって荒れている。
けれど、荒れた腹のまま飯を出せば、どこかで焦げる。
その朝、弥助殿は清洲蔵の入口に立ち、短く言った。
「今日は、誰かを縛るための日ではない」
蔵の中の者たちが、一斉に弥助殿を見た。
「だが、何もなかったことにはしない。塩袋に紙が入った。銭の話もあった。これは事実だ」
声は大きくない。
だが、蔵の隅まで届いた。
「清吉」
「はい」
「おまえが見ろ」
まただ。
腹が重くなる。
「俺が、ですか」
「蔵の腹を見るのがおまえの役だろう」
逃げ道はなかった。
いや、逃げたくはなかった。
だが、怖かった。
蔵の中の者たちの生活や不満を見る。
銭で揺れる腹を見る。
それは、粉を見るより、味噌を見るより難しい。
誰かが銭に揺れたのなら、罰すればいい。
そう考えるほうが簡単だ。
でも、そこで終われば、また別の腹が揺れる。
なぜ揺れたのかを見なければ、蔵はまた同じ穴を開ける。
弥助殿は続けた。
「ただし、甘くするな。買収は罪だ。だが、罪が入る穴を塞がねば、次も入る」
「はい」
「聞け。見ろ。決めつけるな」
俺は頭を下げた。
清洲蔵の中で、また新しい見分が始まった。
水場でも、道でも、村でもない。
人の暮らしの見分だ。
最初に話を聞いたのは、蔵番たちだった。
年配の蔵番、久平。
若い蔵番、藤太。
夜の見回りを担当していた弥七。
久平はまだ怒っていた。
当然だ。
長く蔵を守ってきた者にとって、蔵の中に疑いがあるというだけで名を汚されたようなものだろう。
「俺は三十年、米を見てきた」
久平は言った。
「雨の日も、火事の夜も、兵が酔って騒いだ日もだ。今さら銭で塩を売ると思われちゃ、たまらん」
「思っていません」
俺は言った。
「では何を聞く」
「どうすれば、蔵番が疑われずに済むかです」
久平は眉を動かした。
「疑われずに?」
「はい。今のままだと、紙が一枚入っただけで蔵番全員が疑われます。それは危ない。だから、誰が何をいつ触ったか、もっとはっきり残したいです」
「また帳面か」
「はい」
久平は嫌そうな顔をした。
「帳面ばかり増やすと、仕事が遅くなる」
「遅くなります」
俺は正直に答えた。
「でも、何も残らないと、もっと遅くなります。今回みたいに全部止めて確認することになります」
久平は黙った。
横にいた若い藤太が、小さく言った。
「それは……そうかもしれません」
久平が藤太を睨む。
藤太は肩をすくめた。
「俺、昨日、塩袋のそばを通っただけで見られました。帳面に『通っただけ』って残るなら、そのほうがましです」
久平は何か言い返しかけて、やめた。
若い者の腹は、年配の者とは違う。
名誉で怒る腹もあれば、疑われる怖さで縮む腹もある。
「夜の灯りは?」
俺が聞くと、弥七が答えた。
「油が少なかった。消えたのは風もあるが、芯が短かったんだと思う」
「油が少ない?」
「最近、夜の見回りが増えた。灯りを使う時間も増えた。だが油の支給は前と同じだ」
また出た。
足りないもの。
帳面を増やし、見回りを増やし、蔵を城にした。
でも、灯りの油は前のまま。
そこに穴ができる。
灯りが消えた短い闇。
その闇へ紙が入ったかもしれない。
なら、油も兵糧だ。
俺は小帳面に書いた。
夜見回り増。
油足りず。
灯り弱い。
闇は穴。
久平がその下手な字を見て、少しだけ口元を歪めた。
「それで読めるのか」
「清洲には、直してくれる者がいます」
「変な飯炊きだな」
「よく言われます」
少しだけ、場の空気が緩んだ。
次に、味噌玉作りの女たちに話を聞いた。
おとらと、きぬ。
二人とも、城下の女たちで、味噌を丸める手が早い。
佐助が味を見て、彼女たちが数を作る。
その流れになっていた。
だが、最近は確認が増えている。
手を見せる。
包みを見せる。
折りを確認される。
保管場所へ入る時に声をかける。
おとらは、はっきり言った。
「疑われてるみたいで、気分はよくないね」
「すみません」
「謝れって話じゃない。偽物が混じったんだろ? なら見るしかない。でも、こっちも手間が増えてる」
「どんな手間ですか」
「前は丸めたら籠に入れて終わりだった。今は数えて、折って、見せて、移して、また数える。手が止まる」
きぬも頷いた。
「それに、手が荒れる。味噌を触って、湯で洗って、また味噌。確認が増えて洗う回数も増えた」
俺は手を見た。
赤く荒れている。
今まで見ていなかった。
味噌玉を作る手。
佐助の味を見る鼻には気を遣っていた。
だが、味噌玉を丸める手には、あまり目が行っていなかった。
「手当てが要りますね」
俺が言うと、おとらは少し驚いた顔をした。
「手当て?」
「はい。油か、布か。俺には分かりませんが、味噌玉を作る手が荒れれば、数も味も乱れます」
きぬが小さく笑った。
「飯炊きが、女の手荒れまで帳面にするのかい」
「必要なら」
「必要だよ」
おとらが即座に言った。
「あと、銭もだね」
銭。
場が少し固くなる。
おとらは真っ直ぐ俺を見た。
「味噌玉は増えた。確認も増えた。手間も増えた。でも手間賃は前と同じ。そこを外の奴に突かれたら、揺れる者は出るかもしれない」
強い言葉だった。
自分が揺れると言っているわけではない。
でも、揺れる穴を指している。
「おとらさんは?」
聞くべきか迷った。
だが、聞かなければならない。
「銭で誘われたら?」
おとらは鼻で笑った。
「額によるね」
きぬが「おとら」と小さく咎める。
おとらは構わず続けた。
「綺麗事じゃ腹は膨れない。だけどね、蔵を裏切って食う飯は喉を通らない。私はやらない。でも、手間だけ増えて銭が同じなら、誰かは揺れるよ」
俺は頷いた。
嫌な話だ。
でも、必要な話だ。
「手間賃を上げられるかは、俺だけでは決められません。でも、手間が増えたことは帳面に残します。弥助殿へ上げます」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、手荒れの油も書いておくれ」
「書きます」
きぬが少し笑った。
「変な飯炊きだね」
また言われた。
でも、今日はそれがありがたかった。
次は、人足たちだった。
作兵衛が一緒に立ち会う。
人足約定帳で、支払いや怪我の扱いは少し見えるようになった。
だが、美濃攻略準備が進むにつれ、仕事量は増えている。
早出。
遅出。
待機。
倒木処理。
逃げ道荷。
蔵内の荷移動。
仕事が細かくなり、役も増えた。
その分、混乱も出ている。
茂平が言った。
「役が増えるのはいい。だが、どの役がどの銭なのか、たまに分からない」
「表にできるか」
俺が伊三郎へ聞くと、伊三郎は頷いた。
「できます。背負い、荷車、倒木処理、水汲み、待機。役ごとに記録を分けます」
「待機にも銭が出るのか」
人足の一人が聞いた。
作兵衛が俺を見た。
俺はすぐ答えられなかった。
待機。
荷を背負わず待つ時間。
でも、待つために拘束されている。
いつでも動けるよう、酒も飲まず、別の仕事にも行けない。
それは仕事なのか。
作兵衛が言った。
「待機を無銭にすると、待機役は嫌がる。いざという時にいない。昨日みたいに急な遅れが出たら困る」
「確かに」
「満額じゃなくてもいい。待機銭がいる」
待機銭。
また新しい言葉だ。
でも必要だ。
待つことも仕事。
それは昨日、俺自身が知った。
清洲で待って報告を受けるのも仕事だった。
なら、人足の待機も仕事だ。
「待機銭、帳面に上げます」
俺は言った。
人足たちが少しざわつく。
茂平が言った。
「そういうのが決まってれば、外の銭に揺れにくい」
彼が言うと重い。
紙を渡された者の言葉だからだ。
作兵衛が頷いた。
「そうだ。分からねえ銭が一番腹に悪い」
分からない銭。
たしかに、悪い。
支払われるか分からない。
いくらか分からない。
いつか分からない。
その隙に、敵の銭が入る。
次に、薪運びの話を聞いた。
いつもの薪運びは、まだ腹の具合が悪いという。
弥助殿の配下が調べたところ、昨夜飲んだ酒に何か混じっていた可能性があるらしい。
命に別状はない。
だが、一日仕事ができなかった。
その穴へ代役が入った。
代役帳がなかったから、蔵の奥へ入れてしまった。
薪運びの女房が、蔵の外で言った。
「うちの人が悪いみたいに言われるのは嫌です」
「悪いとは思っていません」
「腹を下しただけで、仕事を奪われるのも怖い」
これも腹だった。
病で一日抜ける。
代役が入る。
その代役が怪しい。
すると、元の薪運びまで疑われる。
これでは、次から腹を壊しても隠すかもしれない。
隠して無理に来れば、別の問題が起きる。
「病で来られない時は、本人を責めない仕組みにします」
俺は言った。
「代役は、こちらで確認します。紹介した人、理由、受け取り場所を記録します。本人が戻った時も、すぐ奥へ入れるのではなく、確認してから」
女房はまだ不安そうだったが、少しだけ頷いた。
「それなら……まだ」
まだ。
今日は、そんな言葉ばかりだ。
まだ信用できる。
まだ話せる。
まだ見てやる。
まだ戻れる。
完全ではない。
でも、ゼロよりずっといい。
昼過ぎまで話を聞き続けた結果、伊三郎の帳面はまた厚くなった。
蔵番の油不足。
味噌玉作りの手荒れと手間賃。
人足の待機銭。
役ごとの支払い区分。
薪運びの病欠と代役確認。
灯り見回り。
塩袋の触れた者の記録。
疑われた者の名誉を守るための記録。
最後の項目を見て、俺は伊三郎に聞いた。
「名誉も帳面にするのか」
「必要です」
伊三郎は言った。
「疑いが晴れたなら、晴れたことも残すべきです。疑った記録だけ残れば、人は戻れません」
胸に落ちた。
そうだ。
疑いは残りやすい。
晴れたことは、すぐ忘れられる。
だから、晴れたことも帳面に残す。
それがないと、蔵の中の腹は固まったままになる。
夕方、弥助殿へ報告した。
弥助殿は黙って聞いていた。
全部聞き終えてから、短く言った。
「銭が要るな」
「はい」
「全部は通らん」
「分かっています」
「だが、通すべきものはある。油、味噌玉手当、待機銭。これは上へ上げる」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は早い。通るかは知らん」
「それでも、上げていただけるだけで」
弥助殿は少しだけ口元を動かした。
「おまえも面倒になったな」
「褒めていますか」
「半分だ」
半分でも、今は十分だ。
その日の夜、信長様から短い返答が来た。
「銭で揺れる腹を、銭だけで塞ぐな。だが、銭を見ぬふりもするな。必要なところへ必要な銭を出せ。帳面で腐らせるな」
伊三郎がそれを読み上げた時、蔵の中が少し静かになった。
必要なところへ必要な銭。
簡単そうで難しい。
銭をばら撒けばよいわけではない。
でも、銭の不安を無視すれば、敵がそこへ入る。
俺たちは、また一つ飯の道を知った。
銭も飯の道だった。
夜、皆で粥を食べた。
今日は、味噌玉作りの女たちが試しに少し干し菜を増やした味噌玉を入れてくれた。
手間賃の話が出たからか、少し気合いが入っている気がする。
権六がすすって言った。
「今日の飯は、銭の味がする」
「うまいのか?」
「ちゃんと払われるなら、うまい」
作兵衛が笑った。
「待機銭も頼むぞ」
「上へ上げた」
「通らなかったら?」
「また文句を聞く」
権六が椀を置いた。
「文句門、忙しくなるな」
かやが言った。
「今日の飯は、揺れる腹を見た味だね」
「少し苦い」
「でも、見ないよりまし」
「うん」
俺は粥をすすった。
味噌の味に、干し菜の細い香りが混じる。
腹に落ちる。
銭で揺れる腹を、ただ汚いものとして見ない。
なぜ揺れるのかを見る。
油が足りない。
手が荒れる。
手間が増える。
待機の銭が曖昧。
病欠が怖い。
疑いが晴れても残らない。
そこへ敵の銭が入る。
なら、穴を見なければならない。
城の中にも、腹はある。
石垣の内側にも、空腹はある。
そこを見ない城は、内側から崩れる。
清洲蔵はまだ揺れている。
でも、今日、その揺れを少しだけ見た。




