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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十九話 城の中にも、腹はある

清洲蔵が城になってから、三日が過ぎた。


 入口は分けられた。


 人入口。

 荷入口。

 火入口。

 味噌玉口。


 薪運びは蔵の奥へ入れない。

 急な代役は帳面に残す。

 味噌玉は作る場所、保管する場所、出す場所を分ける。

 人足は荷を背負ったまま待たない。

 文句は入口で権六が拾う。

 怪しい紙や薬は、外の箱へ出す。


 面倒になった。


 とにかく面倒になった。


 米俵を一つ動かすにも、前より声をかける相手が増えた。


 味噌玉を出すにも、佐助が匂いを見て、かやが折りを見て、伊三郎が数を見て、受け取り役が言葉を返す。


 最初の朝など、権六が本気で怒っていた。


「飯を出す前に腹が減る!」


 もっともだと思った。


 だが、三日もすると、人は少し慣れる。


 兵は入口で止まることを覚えた。

 人足は荷を下ろす場所を覚えた。

 薪運びは外で待つことを覚えた。

 味噌玉作りの女たちは、保管場所へ入る前に手を見せるようになった。

 権六は文句を聞く場所に、勝手に小さな腰掛けを置いた。


「門番みたいですね」


 佐助が言うと、権六は妙に得意そうだった。


「文句門だ」


「嫌な門だな」


 俺が言うと、権六は鼻を鳴らした。


「嫌な門がない城なんか、すぐ落ちるぞ」


 悔しいが、たまに正しいことを言う。


 清洲蔵は、前より守りやすくなった。


 少なくとも、昨日までのように、知らない薪運びが奥へ入ることはない。


 味噌玉の籠へ、知らない包みが紛れることも減った。


 出立前の混乱も少し減った。


 だからこそ、敵の次の手は違うところから来た。


 外から入れないなら、中を買う。


 その疑いが出たのは、味噌玉ではなく、塩袋からだった。


「清吉」


 かやが、塩袋を一つ持ってきた。


 朝の出荷前だった。


 俺は待機粥の火加減を見ていた。


「何だ?」


「これ、少し軽い」


「塩袋が?」


「うん。見た目は同じ。でも持つと軽い」


 俺は受け取った。


 分からない。


 正直、俺の手では同じに感じる。


 だが、かやの顔は真剣だった。


「どれくらい?」


「ほんの少し。でも、同じ荷に入れる袋なら、重さが揃うはず」


 伊三郎がすぐ帳面を持って来た。


「昨日の記録では、その塩袋は前進飯場控え蔵の分です。出荷前に三袋。重さは同じはず」


 かやは袋の口を見た。


「結びは合ってる。でも、一度開けた跡がある」


 佐助も来た。


 塩袋に鼻を近づけず、少し離れて匂いを見る。


「塩です。でも、湿気の匂いが少し違います」


「中身を見よう」


 俺が言うと、伊三郎が首を横に振った。


「ここではなく、確認台で」


 そうだった。


 蔵の中で勝手に開けない。


 確認台へ運ぶ。


 かやが袋を布の上に置き、口をほどいた。


 塩が出る。


 白い。


 だが、下のほうに、細い紙片が折られて入っていた。


 蔵の中の空気が、すっと冷える。


 また紙。


 伊三郎が紙片を広げた。


 俺には読めない。


「何て?」


 俺が聞くと、伊三郎の顔が険しくなった。


「『今夜、もう一袋。銭は前と同じ場所』」


 静かだった。


 誰もすぐには喋らなかった。


 今夜。

 もう一袋。

 銭。

 前と同じ場所。


 これは、噂紙ではない。


 村へ撒く紙でも、人足を煽る紙でもない。


 誰かへの連絡だ。


 清洲蔵の中の誰かへ。


 腹が一気に重くなった。


「中に、いるのか」


 権六が低く言った。


 いつもの軽さがない。


 作兵衛も黙っている。


 佐助の顔は青い。


 かやは紙片ではなく、塩袋の口を見ていた。


「この結び、うちの結びを知ってる人が開けて戻してる」


「外の者では無理か」


「無理じゃない。でも、かなり慣れてる」


 伊三郎は紙を布の上に置いた。


「すぐに誰かを疑うのは危険です」


「でも、中の者だろ」


 権六が言った。


「そう見えます」


 伊三郎は認めた。


「だからこそ、焼いてはいけません」


 焼くな。


 またその言葉だ。


 だが、今回は今まで以上に難しい。


 外の敵なら、まだいい。


 藤七。

 藤助。

 代筆男。

 偽の薪運び。


 彼らは外から来た。


 止めればいい。


 だが、もし清洲蔵の中の誰かが銭で動いているなら。


 米を運ぶ者か。

 塩を扱う者か。

 蔵番か。

 味噌玉作りの者か。

 兵の使いか。

 人足か。


 疑い始めれば、全員が怪しくなる。


 それは、蔵の腹を内側から腐らせる。


「清吉」


 かやが言った。


「顔、焦げてる」


「焦げてると思う」


「でも、焦がさない」


「うん」


 俺は深く息を吸った。


 まず、飯を守る。


 紙の犯人探しより、今日の荷を守る。


「今日の塩袋は全部確認する。前進飯場へ出す塩は、確認済みのものだけ。足りなければ量を減らして、味噌玉の塩を少し調整する」


「塩を減らすと、兵から文句が出るぞ」


 権六が言った。


「出る。だから先に言う。塩袋確認で出立が少し遅れる。腹を壊すよりましだと」


「文句門で受ける」


「頼む」


 権六が入口へ向かった。


 作兵衛には人足へ荷を下ろさせてもらう。


 伊三郎は塩袋の記録を開いた。


 佐助は塩の匂いを見る。


 かやは結びを見る。


 俺は待機粥を増やした。


 出立前に待たせるなら、腹を空にしない。


 文句を腹で焦がさない。


 だが、今回は文句だけでは済まなかった。


 蔵番の一人が言った。


「俺たちを疑うのか」


 声が硬い。


 年配の蔵番だ。


 長く清洲蔵を守ってきた男だと聞いている。


 その顔には、怒りと傷つきが混じっていた。


「疑う前に、見ます」


 俺は言った。


「またそれか」


 蔵番は吐き捨てるように言った。


「見られるほうは、疑われてるのと同じだ」


 その言葉は痛かった。


 たしかに、そうだ。


 こちらが「見ているだけ」と言っても、見られる側は疑われていると感じる。


 味方の腹を見ることは、外の水場を見るよりずっと難しい。


 俺は頭を下げた。


「そう感じさせるのは、すみません」


「謝って済むか」


「済みません。でも、見ないわけにはいきません。塩袋に紙が入っていました。誰かへ銭の話が来ています。このまま出せば、飯が危なくなります」


 蔵番は黙った。


「ただ、今ここで誰かを犯人と決めません。蔵番だけでも、人足だけでも、味噌玉作りの者だけでもありません。塩袋の流れを見ます」


 伊三郎が前に出た。


「昨日、この塩袋を触った者は帳面に残っています。ただし、帳面にない手が入った可能性もあります。帳面が完全ではなかったということです」


 伊三郎が、自分の帳面の不足を言った。


 蔵番の顔が少し変わる。


 責めを全部相手へ向けなかったからかもしれない。


「帳面を直します。出入りも、塩袋の置き場も。だから、確認に協力してください」


 蔵番はしばらく黙り、やがて低く言った。


「……分かった。だが、俺たちの名を汚すな」


「汚しません。見たことだけ残します」


 その場は、どうにか収まった。


 塩袋の全数確認で、さらにもう一枚紙片が見つかった。


 今度は空だった。


 いや、紙には何も書かれていない。


 だが、折り方が同じ。


 何かを包んでいたような跡があった。


 佐助が匂いを見る。


「銭の匂い……というか、金属の匂いがします」


「銭が入っていた?」


「たぶん」


 銭。


 買収。


 疑いは濃くなった。


 弥助殿が呼ばれた。


 紙片と塩袋を見て、しばらく黙る。


「内側へ来たか」


「はい」


「厄介だな」


 弥助殿は短く言った。


 その一言に、全員が頷きそうになった。


 弥助殿は蔵の中を見回した。


「今日、出す荷は?」


「確認済みのものだけ出します。塩は減りますが、味噌玉で調整します。前進飯場へは遅れの知らせを出します」


「出立を止めるか」


 俺は一瞬迷った。


 止めれば安全かもしれない。


 だが、敵はそれを狙っている可能性もある。


 清洲蔵の中で紙を見つけさせ、疑わせ、出立を止める。


 それが目的なら、止めた時点で相手の策に乗る。


「止めません」


 俺は言った。


「ただし、荷を減らします。塩は確認済みだけ。人足には事情を伝えます。兵には、塩が少し薄い可能性を先に言います。文句は権六へ」


 権六が入口から親指を立てた。


 弥助殿は頷いた。


「よし。俺は中の調べをする。だが、清吉」


「はい」


「蔵を凍らせるな」


 蔵を凍らせるな。


 また難しい言葉だ。


 でも、分かる。


 疑いで全員を固めれば、蔵は動かなくなる。


 動かない蔵からは、飯が出ない。


 俺は頷いた。


「はい」


 出立は一刻遅れた。


 だが、止まらなかった。


 前進飯場へは先に知らせを出した。


 今日は塩が少し控えめになる。

 味噌玉で補う。

 水量はいつも通り。

 火は増やさない。

 出立前確認のため遅れるが、荷は出る。


 村の老人からの返事は短かった。


「遅れるなら、火の時を守れ」


 その通りだ。


 遅れたからといって、村の約束を破っていいわけではない。


 清洲側の問題は、清洲側で吸収する。


 兵への説明は、権六がやった。


「今日は塩が薄いかもしれん! 文句は聞く! だが、塩袋に変な紙が入ってた! 腹を壊すよりましだと思って食え!」


「また紙かよ!」


「俺たちの飯、紙に狙われすぎだろ!」


「そうだ! だから紙より腹を信じろ!」


 意味が分かるような、分からないような言い方だ。


 だが、兵たちは笑った。


 笑いながら文句を言う。


 それなら、まだいい。


 人足側は、作兵衛がまとめた。


「今日は遅れた。荷は軽くする。塩が減った分、味噌玉が増える。待った分、待機粥を食ってから出る。背を焦らせるな」


 人足たちは頷いた。


 茂平が小さく言った。


「中に銭を受けた奴がいるのか」


 作兵衛はすぐ答えなかった。


「分からん」


「分からないまま運ぶのか」


「そうだ。だが、見ながら運ぶ。疑いながらじゃない。見ながらだ」


 その言葉が、俺にも刺さった。


 疑いながらではなく、見ながら。


 同じようで違う。


 疑いは人を固くする。


 見ることは、次の動きを作る。


 荷が出た後、清洲蔵では調べが始まった。


 弥助殿の配下が、昨日から今朝までに塩袋へ触れた者を一人ずつ確認する。


 俺も同席した。


 犯人探しのためだけではない。


 どこで蔵の腹に穴が開いたかを見るためだ。


 塩袋は、前進飯場控え蔵の棚にあった。

 昨日の夕方、蔵番が三袋を移した。

 夜、塩の湿気を避けるため、場所を少し変えた。

 その時、味噌玉作りの女が近くを通った。

 朝、出荷前に人足二人が近くで荷を下ろした。

 その後、かやが重さの違いに気づいた。


 流れは見えた。


 だが、誰が紙を入れたかは、まだ見えない。


 その時、老いた蔵番が言った。


「夜の見回りで、灯りが一度消えた」


「灯り?」


 弥助殿が聞く。


「風だと思った。すぐ点け直した。だが、その間、少し暗くなった」


「どれくらい」


「短い。息を二つ三つ数えるほど」


 短い暗闇。


 その間に、誰かが塩袋へ手を入れたのか。


 または、その暗闇を作るために灯りが消されたのか。


 弥助殿は配下へ目配せした。


「灯りも帳面に入れろ」


 伊三郎がすぐ頷いた。


「蔵内七目、火の項目です。灯り、火口、消灯時刻、見回り」


 火は飯を炊くだけではない。


 蔵を照らすものでもある。


 灯りが消えれば、蔵の腹に穴が開く。


 また一つ、見なければならないものが増えた。


 夕方、出した荷は無事に前進飯場へ届いた。


 塩は少し控えめだったが、味噌玉で補った。


 兵から文句は出たが、権六が受けた。


 人足も無事。


 村との約束も守った。


 飯は止まらなかった。


 清洲蔵の中に疑いが残っても、飯は出た。


 それが今日の救いだった。


 夜、皆で粥を食べた。


 今日は塩を少し控えめにした。


 あえてだ。


 今日出した飯に合わせて、清洲蔵でも同じ味を食べたかった。


 権六は一口すすって言った。


「薄い」


「分かってる」


「でも、今日はこれでいい」


 作兵衛も頷いた。


「疑いで腹が重い日は、濃すぎないほうがいい」


 かやが椀を見て言った。


「今日の飯は、城の中の腹の味だね」


「苦いな」


「うん。ちょっと苦い」


 佐助は静かに味噌玉の包みを直していた。


 伊三郎は帳面に新しい頁を作っていた。


 代役帳。

 蔵内七目帳。

 塩袋確認欄。

 灯り見回り欄。


 また増える。


 だが、今日ばかりは増えてほしかった。


 疑いをただ人に向けるのではなく、穴へ向けるために。


 城の中にも、腹はある。


 その腹が空けば、銭に揺れる。

 その腹が暗くなれば、紙が入る。

 その腹が疑いで固まれば、飯は出なくなる。


 清洲蔵は城になった。


 だが、城の中の人の腹まで石垣にはできない。


 だからこそ、見て、聞いて、残して、飯を出し続けるしかない。


 俺は薄い粥をすすった。


 物足りない味だった。


 でも、今日の蔵には、その物足りなさが合っていた。

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