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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第七話 飯炊き足軽、清洲へ呼ばれる

 桶狭間の勝ち戦から一夜明けても、飯場の火は消えなかった。


 いや、消せなかったと言ったほうが正しい。


 勝った、勝ったと兵たちは言う。今川義元を討ち取ったのだと、誰もが興奮した顔で語る。だが、鍋の前に立っている俺には、勝ち戦という言葉がどうにも遠かった。


 粥をすすりながら泣いている若い足軽がいる。


 仲間の名を呼び続ける男がいる。


 敵兵だった者が、縄をかけられたまま震えている。


 村の者らしき老婆が、濡れた袖で孫の顔を拭いている。


 勝ったのだ。


 それは分かる。


 けれど、人の腹は勝ち負けで満ちるわけではない。


 朝になれば腹は減る。


 雨に濡れれば身体は冷える。


 怪我をすれば喉が渇く。


 その当たり前のことが、戦のあとにはやけに重たかった。


「清吉、こっちの粥、もう水みたいだよ」


 かやが鍋を覗き込んで言った。


「米が足りない」


「知ってる。だから言ってる」


「味噌を少し足す」


「その味噌も、もう底が見えてる」


「……じゃあ、塩をほんの少し」


「塩も少ない」


「…………」


「清吉」


「何」


「顔に全部出てる」


「何が」


「どうしよう、って顔」


 かやは呆れたように笑った。


 俺は木杓子を握ったまま、鍋の底を見つめた。薄い粥が、力なく泡を立てている。米粒は数えるほどしかない。それでも、湯気は上がっていた。


 何もないよりは、いい。


 それだけを支えに、俺は鍋をかき混ぜた。


「薄くても、熱いものなら」


「うん」


「少しは腹に入る」


「うん」


「だから、出す」


「分かってるよ」


 かやは短く答え、空いた椀を集め始めた。


 口は悪いが、手は止まらない。


 この女がいなければ、昨日の飯場は途中で潰れていたと思う。竹皮を集め、水桶を回し、怪我人を分け、捕虜の縄まで確認していた。


 俺は飯を見ていた。


 かやは人の流れを見ていた。


 その違いが、何となく分かり始めていた。


「清吉」


 今度は弥助の声がした。


 振り返ると、弥助が飯場の入口に立っていた。泥を落としたばかりなのか、足元はまだ濡れている。顔には疲れが濃かったが、目は昨日よりも穏やかだった。


「はい」


「上様がお呼びだ」


 その一言で、胃が縮んだ。


 またか。


 俺は木杓子を落としそうになった。


「……俺を、ですか」


「他に清吉がいるなら別だがな」


「何か、粗相を」


「知らん」


 弥助は短く言った。


 知らんと言いながら、その顔は少しだけ笑いをこらえているように見えた。


「弥助殿」


「何だ」


「俺、昨日、何かまずいことをしましたか」


「しすぎて、どれのことを言ってるのか分からん」


「……やっぱり」


「水を勝手に煮る。味噌を選る。握り飯を作る。敵に水を飲ませる。村の者に粥を配る。殿の前で勝った後の話をする。普通なら、どこかで一度は殴られてるな」


 俺は青くなった。


 かやが横で吹き出す。


「よかったね、まだ殴られてなくて」


「よくない」


「でも首もつながってる」


「それは本当にありがたい」


 俺が本気で言うと、弥助が鼻を鳴らした。


「心配するな。叱るために呼ぶ顔ではなかった」


「顔で分かるんですか」


「少なくとも、昨日の殿は面白がっておられた」


「それは、それで怖いです」


「だろうな」


 弥助は腕を組んだ。


「清吉。飯場はしばらく俺が見る。おまえは行け」


「でも、粥が」


「粥くらい俺でもよそえる」


「火は」


「消さねえ」


「水は」


「煮る」


「椀は」


「湯にくぐらせる」


「捕虜は」


「縄を見てから水をやる。味方が先。分かったから、さっさと行け」


 そこまで言われて、ようやく俺は頭を下げた。


「お願いします」


「飯炊きが飯場を離れる時に、そんな顔をするな」


「どんな顔ですか」


「母親が子を置いていくみたいな顔だ」


 かやがまた笑った。


「似合う」


「似合わない」


「いや、似合うよ。飯場の母ちゃん」


「やめてくれ」


 そう言いながらも、少しだけ気が抜けた。


 飯場を離れるのが怖かったのだと、その時初めて気づいた。


 鍋の前にいれば、何をすればいいか分かる。


 米を見る。


 水を見る。


 火を見る。


 人の腹を見る。


 だが、信長様の前では何を見ればいいのか分からない。


 俺は手を井戸水で洗い、着物についた米粒を払った。払っても、爪の間の米は取れない。手のひらは赤く、ところどころ熱で痛んでいた。


「その手で行くのか」


 かやが言う。


「汚いかな」


「いや」


 かやは少しだけ目を細めた。


「飯炊きの手だなって思っただけ」


 返す言葉が見つからなかった。


 俺は小さく頷き、弥助に案内されて飯場を離れた。


 陣の空気は、昨日とは違っていた。


 勝ち戦の熱は残っている。だが、その下に疲労が沈んでいた。兵たちは笑っているが、座り込む者も多い。泥の上に槍を横たえ、眠り込んでいる者もいる。


 通り過ぎるたびに、何人かが俺を見た。


「清吉だ」


「握り飯の」


「昨日の粥、助かった」


「おい清吉、今度はもう少し味噌濃くしてくれ」


「米を寄こせばな」


 思わずそう返すと、周りで笑いが起きた。


 自分でも驚いた。


 昨日までなら、声をかけられても俯くだけだった。


 俺は少し、変わっているのかもしれない。


 それがいいことなのかどうかは、まだ分からなかった。


 信長様は、昨日と同じように簡素な幕の内にいた。


 ただし、空気はさらに慌ただしい。伝令がひっきりなしに出入りし、武将らしき者たちが低い声で報告している。今川の残兵、捕虜、首実検、戦後処理、鳴海、大高、清洲。聞き慣れない地名や言葉が飛び交い、俺の頭では追いつかなかった。


 弥助が膝をつく。


「清吉を連れて参りました」


「入れ」


 信長様の声がした。


 俺は腹に力を入れた。


 五郎兵衛に言われたことを思い出す。


 腹が抜けると、声も抜ける。


 俺は幕の中へ入り、深く頭を下げた。


「清吉にございます」


「顔を上げろ」


「はい」


 恐る恐る顔を上げる。


 信長様は地図の前に座っていた。昨日より疲れているはずなのに、目だけはまるで眠っていない。


 怖い目だ。


 だが、不思議と昨日ほど膝は震えなかった。


「火は消しておらぬな」


 最初の問いがそれだったので、俺は少しだけ息をしやすくなった。


「はい。弥助殿とかやが見ております」


「かや?」


「川筋の荷運びの娘です。桶や竹皮を集めてくれました」


「使えるか」


「はい」


「そうか」


 信長様は短く頷いた。


 それだけだった。


 けれど、その一言だけで、かやという名が信長様の中に置かれたのだと思うと、不思議な気分になった。


「清吉」


「はい」


「清洲へ来い」


 あまりに急な言葉で、俺はまばたきをした。


「……清洲、でございますか」


「そうだ」


「俺が、ですか」


「他に誰がいる」


 昨日から同じような返しをされている気がする。


 俺は慌てて頭を下げた。


「失礼いたしました」


「清洲の兵糧場を見よ」


「兵糧場……」


「米、味噌、塩、薪、荷駄、人足。戦に出す前の腹だ」


 信長様は地図の上に置かれた小石を指で弾いた。


「昨日、おまえは飯場を見た。水が腐り、味噌が悪くなり、兵が腹を壊すと言ったな」


「はい」


「あれは飯場だけの話か」


 俺は答えに詰まった。


 昨日までは、飯場が悪いのだと思っていた。


 水の扱いが悪い。


 火が弱い。


 味噌の保存が悪い。


 飯を作る者が雑だ。


 だが、本当にそれだけか。


 そもそも、なぜ悪い味噌が飯場に来る。


 なぜ濁った水を使わざるを得ない。


 なぜ釜が足りない。


 なぜ竹皮が足りない。


 なぜ米の量と兵の数が合わない。


 飯場は最後の場所だ。


 そこに来るまでに、米も味噌も水も、人の手をいくつも通っている。


 俺は喉を鳴らした。


「……飯場だけでは、ないと思います」


「なぜ」


「飯場に来た時点で、もう悪くなっているものがありました。水も、味噌も、米も。飯を炊く者の手だけでは、直しきれないことがあります」


「では、どこを見る」


 また、試されている。


 俺は手を握った。


「集めるところ。しまうところ。運ぶところ。数えるところ。渡すところ……だと思います」


 言いながら、自分の中で道がつながっていく気がした。


 米は田から来る。


 年貢として集められ、俵に詰められ、蔵に入る。


 蔵から出され、荷として運ばれ、飯場に届く。


 どこかで湿れば腐る。


 どこかで抜かれれば足りなくなる。


 どこかで数を誤れば、兵の腹に穴が空く。


 信長様は口元をわずかに上げた。


「やはり腹で考えるか」


「それしか分かりません」


「それでよい」


 信長様は立ち上がった。


 周囲の者たちが一瞬、空気を変える。


「清吉。清洲へ行き、兵糧蔵を見よ。何が腐り、何が足りず、何が無駄か。おまえの目で見て申せ」


「俺の目で……」


「帳面を読めとは言わぬ。米の匂いを嗅げ。味噌の色を見ろ。水の桶を見ろ。鼠の跡を見ろ。人の手の汚さを見ろ」


 その言葉に、背筋が冷えた。


 信長様は、俺が字をろくに読めぬことをもう見抜いているのだろうか。


 いや、見抜いているのだろう。


 その上で、帳面ではなく、俺の目で見ろと言っている。


「しかし、俺はただの足軽で」


「昨日もそう言ったな」


「……はい」


「ただの足軽が、昨日は飯場を動かした」


「それは、皆が手伝ってくれたからです」


「なら、清洲でも手伝わせろ」


「誰に」


「必要な者に」


 信長様は当たり前のように言った。


 その当たり前が、俺には怖い。


 必要なら人を動かす。


 必要なら物を動かす。


 俺には、そんなことをする身分も度胸もない。


「清吉」


 信長様の声が少し低くなった。


「身分がなければ飯は腐らぬのか」


「……いえ」


「遠慮すれば鼠は米を食わぬのか」


「いえ」


「おまえが縮こまれば、兵の腹は満ちるのか」


「……満ちません」


「なら、縮むな」


 胸を真っ直ぐ突かれたようだった。


 俺は頭を下げた。


「承知いたしました」


「返事はよい。見てこい」


「はい」


 信長様は、そこで少しだけ声を和らげた。


「母と妹がいると言ったな」


「はい」


「清洲へ移るなら、いずれ呼び寄せることも考えよ。だが今はまだ早い。まず、おまえが立て」


 母と妹。


 その言葉が出た瞬間、胸の奥が揺れた。


 俺は、戦が終わったら村へ戻るつもりだった。


 少しでも銭か米を持ち帰り、母に粥を炊き、妹に腹いっぱい食わせる。


 それだけを考えて足軽になった。


 清洲へ行く。


 兵糧蔵を見る。


 信長様の命で。


 それは、俺の考えていた道とはまるで違う。


 けれど、もしそこで働ければ。


 もし米を得られる立場になれば。


 母と妹を、飢えから少し遠ざけられるかもしれない。


 そう思った瞬間、怖さとは別の熱が腹の底に灯った。


「清吉」


「はい」


「腹に力が入ったな」


 信長様が笑った。


 俺は顔が熱くなる。


 本当にこの方は、人の腹まで見ているのではないか。


「下がれ。半刻のうちに支度せよ。五郎兵衛を付ける。かやという娘も使いたければ連れていけ」


「かやも、ですか」


「荷を見られる者は要る」


「……はい」


「弥助には飯場を任せる」


 もう全て決まっている。


 俺が迷う前に、信長様の中では人の配置が済んでいた。


 俺は深く頭を下げた。


「かしこまりました」


 幕を出ると、外の空気が妙に薄く感じた。


 雨は上がっていた。


 雲はまだ厚いが、ところどころに明るい筋が見える。泥の匂いは変わらない。だが、昨日より少しだけ、風が動いている気がした。


 弥助が待っていた。


「何だった」


「清洲へ行けと」


「そうか」


 驚かないのか。


 俺が顔を見ると、弥助は肩をすくめた。


「昨日のうちから、そうなる気はしていた」


「俺はしてません」


「おまえは自分のことだけ鈍いな」


「よく言われます」


「誰に」


「今日は、弥助殿に」


 弥助は一瞬黙り、それから低く笑った。


「言うようになった」


「すみません」


「謝るな」


 飯場へ戻ると、かやが椀を洗っていた。


 俺を見るなり、眉を上げる。


「首、まだあるね」


「ある」


「今度は何?」


「清洲へ行く」


「へえ」


 かやは椀を洗う手を止めなかった。


「出世?」


「分からない」


「左遷?」


「それも分からない」


「じゃあ何」


「兵糧場を見ろって」


 かやの手が止まった。


「兵糧場?」


「米とか、味噌とか、塩とか、蔵とか、運ぶところとか」


「飯場じゃなくて、その前か」


「たぶん」


 かやは少し考える顔をした。


 それから、にやりと笑った。


「面白そうだね」


「怖いよ」


「怖いのは、だいたい面白いものだよ」


「かやは強いな」


「強いんじゃない。荷を運ぶ者は、行けと言われたら行くだけ」


「信長様が、かやも連れていけと」


「は?」


 今度こそ、かやは完全に手を止めた。


「何であたし?」


「荷を見られる者が要るって」


「……ふうん」


 かやは少しだけ目を細めた。


 嬉しいのか、警戒しているのか、よく分からない顔だった。


「行くのか」


「上様の命なら、断れないでしょ」


「ごめん」


「何で謝る」


「巻き込んだ」


「あんた、何でも自分のせいにしすぎ」


 かやは濡れた椀を伏せた。


「清洲か。大きい蔵があるんだろうね」


「俺は行ったことない」


「あたしは近くまでならある。荷の出入りが多い。たぶん、飯場よりずっと面倒だよ」


「だろうな」


「顔に出てる」


「また腹?」


「今日は背中にも出てる」


 そんな話をしていると、五郎兵衛がやってきた。


 いつの間に聞いたのか、槍を担ぎ、旅支度のような格好をしている。


「清吉、行くぞ」


「もうですか」


「半刻のうちだろ」


「はい」


「なら、今から支度してちょうどだ」


 五郎兵衛は飯場を見回した。


「弥助、ここは任せる」


「あんたに言われるまでもない」


「清吉が心配して、何度も戻ってくるかもしれんぞ」


「縄で縛って連れていけ」


「それもそうだな」


「やめてください」


 俺が言うと、三人が笑った。


 不思議だった。


 昨日まで、俺は飯場の隅で笑われる側だった。


 今は、少しだけ違う。


 笑われているのは同じかもしれないが、その笑いの温度が違った。


 支度といっても、俺の持ち物など多くない。


 替えの着物一枚。


 母が持たせてくれた小さな布袋。


 中には干した大根の欠片が少しと、擦り切れたお守りが入っている。


 母が縫ったものだ。


 俺はそれを懐に入れた。


 村へ戻れないことを思うと、胸が痛んだ。


 母は心配しているだろう。


 妹は、俺が持ち帰る米を待っているかもしれない。


 清洲へ行くことを、どう伝えればいいのか。


 そもそも伝える暇はあるのか。


「清吉」


 五郎兵衛が声をかける。


「母親のことか」


「……はい」


「清洲へ着いたら、便りを出せるか聞け」


「字が」


「書ける者に頼めばいい」


「頼めるでしょうか」


「頼め。飯を食わせてやれば、だいたいの奴は一筆くらい書く」


 雑な理屈だった。


 だが、少し救われた。


「はい」


 飯場を離れる前、俺は鍋を見た。


 弥助が火の前に立っている。


 かやの代わりに、若い足軽が水桶を運んでいる。


 椀は湯にくぐらされている。


 粥は薄いが、まだ湯気を立てている。


 火は消えていない。


 それを見て、ようやく足が動いた。


 清洲への道は、泥と疲労の道だった。


 勝った翌日だからといって、道が乾くわけではない。むしろ兵や荷駄が行き交ったせいで、街道はぐちゃぐちゃになっていた。


 俵を積んだ荷車。


 負傷者を乗せた戸板。


 捕虜を連れた足軽。


 戦利品を運ぶ者。


 命令を持って走る伝令。


 その間を、俺たちは歩いた。


 五郎兵衛は慣れた足取りで進む。


 かやは荷の流れを見ながら歩く。


 俺だけが、何度も足を取られた。


「清吉、足元」


「分かってる」


「分かってる奴は三度も同じ泥にはまらない」


「泥が多すぎる」


「言い訳が下手」


 かやは容赦ない。


 だが、時々さりげなく手を貸してくれた。


 五郎兵衛はそんな俺たちを見て、面白そうに笑っている。


「若いな」


「五郎兵衛殿、何がですか」


「全部だ」


「雑ですね」


「年を取ると、細かいことは面倒になる」


 そう言いながら、五郎兵衛の目は道の先を見ていた。


 途中、焼けた小屋を見た。


 畑の端で、座り込んでいる女も見た。


 子供が、割れた桶を抱えていた。


 勝った後の道は、勝鬨だけではできていない。


 俺は歩きながら、何度も飯のことを考えた。


 この村の者は、今夜何を食うのか。


 捕虜は、どこで水を飲むのか。


 負傷者は、清洲まで腹がもつのか。


 考え始めるときりがない。


 だが、考えずにはいられなかった。


 やがて、清洲の城下が見えてきた。


 俺は思わず足を止めた。


 大きい。


 村とは違う。


 人の声が幾重にも重なり、荷が行き交い、商人が声を上げ、武士が馬で通る。城の周りには蔵らしき建物があり、道端には米俵が積まれていた。


 飯場とは比べものにならない量の米。


 味噌樽。


 塩俵。


 薪。


 縄。


 桶。


 人。


 人。


 人。


 俺は圧倒された。


「ここが、清洲……」


「口開いてるよ」


 かやに言われ、慌てて閉じる。


 五郎兵衛が笑った。


「驚くのはまだ早い。兵糧場はもっと腹が膨れるぞ」


 その言葉どおり、案内された兵糧場は、俺の想像を超えていた。


 蔵が並んでいる。


 米俵が山になっている。


 味噌樽がいくつも置かれている。


 塩の袋、干し菜、薪、縄、竹皮、荷車。


 これだけあれば、どれだけの飯が炊けるのだろう。


 最初はそう思った。


 胸が高鳴りかけた。


 だが、すぐに鼻が違うものを拾った。


 湿った臭い。


 米の甘い匂いではない。


 古い水を吸った藁の臭い。


 鼠の臭い。


 味噌の酸が強くなりすぎた臭い。


 俺は一歩、蔵の中へ入った。


 床に近い米俵の底が、少し黒ずんでいる。


 俵の端に小さな穴がある。


 鼠だ。


 壁際の味噌樽の蓋が、きちんと閉まっていない。


 塩袋の一つは、口の縄が緩んでいる。


 帳面を持った男が何かを数えているが、その横で人足が俵を乱雑に積み替えている。


 積み方が悪い。


 下の俵が潰れている。


 湿気が逃げない。


 俺は思わず呟いた。


「……まずい」


 かやが横を見る。


「何が」


「多いのに、悪くなる」


「米が?」


「米も、味噌も。置き方が悪い。風が通ってない。下の俵が湿ってる。鼠もいる」


 五郎兵衛の顔から笑いが消えた。


「分かるか」


「匂いがします」


「匂い?」


「腐る前の匂いです」


 かやが蔵の奥へ目を向けた。


「それだけじゃないかもね」


「何が」


「あの男」


 かやの視線の先に、兵糧場の役人らしき男がいた。


 腹の出た中年男で、帳面を抱えている。身なりは悪くない。だが、人足たちに向ける目が冷たく、どこか落ち着きがない。


 その男の背後で、若い小者が味噌樽の一つを外へ運び出そうとしていた。


 俺は首を傾げた。


「あの樽、どこへ?」


「さあね」


 かやの声が低くなる。


「でも、出すにしては帳面を見てない」


 俺には帳面は読めない。


 だが、今のかやの言葉で、腹の底が冷えた。


 信長様の言葉を思い出す。


 何が腐り、何が足りず、何が無駄か。


 おまえの目で見て申せ。


 俺はもう一度、蔵を見た。


 山のような米。


 しかし底は湿っている。


 大量の味噌。


 しかし蓋は緩い。


 多くの人足。


 しかし動きは乱れている。


 帳面。


 だが、実際の俵と合っているのかは分からない。


 そして、外へ運ばれる樽。


 俺の背中に、冷たいものが走った。


 戦場の飯場だけじゃない。


 織田家の腹は、ここから始まっている。


 ここが腐れば、飯場でどれほど火を焚いても、兵の腹は守れない。


 俺は爪の間に残った米粒を見た。


 昨日握った飯の欠片だ。


 それを親指で落としながら、息を吸う。


 怖い。


 だが、見てしまった。


 見てしまった以上、見なかったことにはできない。


 俺は小さく呟いた。


「……織田家の腹が、少し腐りかけてる」


 かやが俺を見た。


 五郎兵衛も、黙って俺を見ている。


 蔵の奥では、役人の男がこちらに気づき、嫌な顔をした。


「何者だ、おまえたち」


 その声を聞きながら、俺は思った。


 桶狭間は終わった。


 けれど、俺の戦は、たぶんここから始まる。

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