第八話 清洲兵糧蔵の腐った腹
兵糧蔵には、戦場とは別の臭いがあった。
血の臭いではない。
泥の臭いでもない。
汗と雨に濡れた草鞋の臭いでもない。
もっと鈍く、もっと奥に沈む臭いだ。
湿った藁。
古い木。
鼠。
蓋の甘い味噌樽。
人の手が何度も触れた縄。
そして、米がほんの少しずつ悪くなり始める時の、甘さの腐ったような匂い。
俺は蔵の入口で立ち止まった。
目の前には、米俵が山のように積まれている。
普通なら、それだけで安心するはずだった。
これだけ米があれば、どれだけの兵に飯を食わせられるのだろう。どれだけの粥が炊けるだろう。どれだけの握り飯を作れるだろう。
そう考えて、胸が膨らむはずだった。
だが、俺の腹の底は冷えていた。
米が多い。
それなのに、怖い。
多いからこそ、悪くなった時の怖さが大きい。
「何者だ、おまえたち」
蔵の奥から声が飛んだ。
腹の出た中年男が、帳面を抱えてこちらへ歩いてくる。髷はきちんと結ってあり、着物も俺たちよりずっとましなものを着ている。足元も泥だらけではない。
いかにも、蔵の中にいる側の人間だった。
男は俺たちを見るなり、露骨に顔をしかめた。
「ここは足軽風情が勝手に入る場所ではない」
俺は反射的に頭を下げた。
「す、すみません」
言ってから、しまったと思った。
謝る場面ではない。
俺は信長様に命じられて来たのだ。
だが、相手の声が強いと、身体が勝手に縮む。
横で、かやが小さく舌打ちした。
五郎兵衛が一歩前に出る。
「上様の命で来た」
その一言で、男の眉がぴくりと動いた。
「上様?」
「この清吉が、兵糧場を見るよう命じられている」
「清吉?」
男は俺を見た。
頭の先から足元まで、値踏みするように。
泥のついた着物。
赤く腫れた手。
爪の間の米粒。
どこからどう見ても、立派な役人ではない。
ただの飯炊き足軽だ。
男の口元に、薄い笑いが浮かんだ。
「これはこれは。桶狭間で握り飯を作ったという、噂の飯炊きか」
噂になっているのか。
俺は少し驚いた。
同時に、嫌な汗が背中を伝う。
褒めている声ではなかった。
「名は」
五郎兵衛が聞く。
男は胸を張った。
「赤塚善右衛門。この清洲兵糧蔵の差配を任されている」
善右衛門。
声に覚えておこうと思った。
こういう男の名は、間違えてはいけない気がした。
「それで、飯炊きが何を見るというのだ」
善右衛門は帳面で自分の手のひらを軽く叩いた。
「米の数なら帳面にある。味噌樽の数も、塩の数も、人足の割り振りも、すべてこちらで把握している。戦場の鍋前とは違うのだぞ」
鍋前。
その言い方に、飯場を少し馬鹿にした響きがあった。
胸の奥がちくりとした。
だが、怒ってはいけない。
俺はまだ、この蔵のことを何も知らない。
まず見なければならない。
俺は頭を下げたまま言った。
「帳面は、俺にはよく読めません」
善右衛門の目が細くなる。
かやが横で小さく息を吐いた。
たぶん、そんなことを馬鹿正直に言うなと思ったのだろう。
でも、読めないものは読めない。
「ですので、米を見ます。味噌を見ます。桶と縄と、俵の積み方を見ます」
善右衛門は一瞬、黙った。
それから声を上げて笑った。
「ははは! 米を見る? 味噌を見る? まるで女房の台所ではないか」
蔵の中にいた人足たちが、ちらりとこちらを見た。
笑う者もいれば、目を伏せる者もいる。
俺は顔が熱くなるのを感じた。
まただ。
飯。
台所。
女房仕事。
戦場でも、何度も言われた。
だが、桶狭間で兵は飯を持って走った。
腹がもったと五郎兵衛は言った。
戻ってきた兵は粥をすすった。
信長様は、火を消すなと言った。
だから、ここで縮むわけにはいかなかった。
「台所が腐れば、兵の腹も腐ります」
俺は言った。
声は震えたが、消えなかった。
善右衛門の笑いが止まる。
五郎兵衛が、ほんの少しだけ口元を動かした。
かやは腕を組み、面白そうに俺を見ている。
「それに」
俺は蔵の中を見回した。
「こちらの米俵、下が湿っています」
善右衛門の顔が動いた。
「何?」
「あの下の段です。藁の色が黒くなっています。床から湿気を吸っていると思います」
「戦の後で雨が続いた。少しの湿りなど当然だ」
「少しならいいです。でも、積み方が詰まりすぎています。風が通っていません。下の俵から悪くなります」
「知ったような口を」
善右衛門の声に苛立ちが混じった。
俺の喉が詰まる。
だが、鼻は嘘をつかない。
俺は一歩、米俵のほうへ進んだ。
「触ってもよろしいですか」
「ならぬ」
即答だった。
俺は足を止めた。
「なぜですか」
「兵糧蔵の米に、どこの馬の骨とも分からぬ足軽が勝手に触れるなど許されぬ」
「上様の命です」
五郎兵衛が低く言った。
善右衛門は五郎兵衛を睨んだ。
「上様の命であろうと、蔵には蔵の決まりがある」
空気が重くなる。
人足たちが手を止めた。
蔵の入口にいた若い小者も、運びかけていた味噌樽をそっと地面に置いた。
その樽が気になった。
さっきから、どうしてあれだけ外へ出そうとしていたのか。
しかも、帳面を確認していない。
俺は善右衛門ではなく、その小者へ目を向けた。
小者は俺と目が合うと、慌てて逸らした。
かやもそれに気づいたらしい。
彼女の目が細くなった。
「善右衛門殿」
俺は言った。
「今、外へ出そうとしていた味噌樽は、どちらへ運ぶものですか」
善右衛門の顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬だ。
だが、見えた。
「それは別の飯場へ回す分だ」
「どこの飯場ですか」
「貴様に言う必要はない」
「数は帳面に?」
「くどい」
善右衛門の声が強くなる。
俺は口を閉じた。
怖い。
踏み込んではいけない場所に足を置いた気がした。
昨日の戦場より、この蔵のほうが怖い。
槍も刀も向けられていないのに、背中に冷たいものが走る。
その時、かやがふらりと歩き出した。
「おい、娘。どこへ行く」
善右衛門が咎める。
かやは素知らぬ顔で味噌樽のそばへ寄った。
「いや、荷が傾いてるからさ。運ぶなら縄を締め直したほうがいいよ」
「触るな」
「触ってないよ」
そう言いながら、かやは樽の周りを一回りした。
そして、何気ない声で言った。
「変だね」
「何がだ」
「この樽だけ、縄が新しい」
善右衛門の眉が動いた。
かやは続ける。
「他の樽は蔵の中にずっとあった臭いがする。湿気と味噌と木の臭い。でもこれは、縄だけ外の臭いだ。ついさっき締めたんじゃない?」
俺は樽を見た。
確かに、縄の色が少し違う。
新しい。
それに、蓋の縁にこびりついた味噌の跡が妙に少ない。
まるで、一度開けて詰め直したような。
「かや」
俺は小声で聞いた。
「荷運びでは、よくあるのか」
「あるね。中身を入れ替えた時とか」
善右衛門が怒鳴った。
「言いがかりだ!」
声が蔵に響く。
人足たちが肩を震わせた。
「たかが荷運びの娘と飯炊きが、兵糧方に難癖をつけるか!」
俺は思わず後ずさった。
だが、五郎兵衛が俺の背後に立った。
逃げ道を塞ぐように。
いや、支えるように。
「清吉」
五郎兵衛が低く言う。
「見ろ」
「……はい」
「縮むな」
「はい」
俺は息を吸った。
腹に力を入れる。
五郎兵衛の言葉。
信長様の言葉。
縮むな。
俺は米俵へ近づいた。
「まず、米を見ます」
「許さぬと言った!」
「上様に、俺の目で見て申せと言われました」
「だから帳面を――」
「帳面では飯は炊けません」
言い切った瞬間、蔵が静まり返った。
自分でも、そこまで強く言うつもりはなかった。
だが、言葉は出てしまった。
俺は続けた。
「帳面に百俵とあっても、湿っていれば使えません。鼠に食われていれば足りません。味噌樽の数が合っていても、中身が悪ければ兵の腹を壊します」
善右衛門の顔が赤くなっていく。
「貴様……」
「俺は字が読めません。だから、米を見ます。匂いを嗅ぎます。手で確かめます。間違っていたら、間違っていたと申します」
手が震える。
でも、止まらなかった。
「ただ、見ずに戻ることはできません」
蔵の中に、雨上がりの湿った風が少しだけ入った。
誰もすぐには動かなかった。
やがて、五郎兵衛が米俵へ近づいた。
「触るぞ」
善右衛門が止めるより早く、五郎兵衛は下段の俵に手を置いた。
そして顔をしかめた。
「湿ってるな」
俺も近づき、手で触れた。
藁が冷たい。
表面だけではない。
底のほうが湿気を吸っている。
少し押すと、嫌な柔らかさがあった。
「この段は、上げたほうがいいです」
俺は言った。
「上の俵を一度下ろして、下に木をかませて、床から離したほうがいい。風を通さないと、このまま悪くなります」
「そんな手間をかけられるか!」
善右衛門が叫ぶ。
「戦の後で人手が足りぬ。これから各所に米を出さねばならん。貴様の思いつきで蔵をひっくり返せるか!」
「ひっくり返すのではありません。悪くなる前に動かすんです」
「同じことだ!」
「悪くなってからでは、もっと手間がかかります」
俺は米俵から手を離し、味噌樽へ向かった。
蓋が甘い樽がある。
縁に白いものが浮いている。
味噌は生きている。
だからこそ、放っておけば悪くなる。
母はよく、味噌樽の蓋を丁寧に見ていた。
重しの置き方ひとつで、味が変わると言っていた。
「この樽も、蓋を直したほうがいいです」
「味噌まで触る気か」
「匂いだけでも」
「ならぬ」
善右衛門は俺の前に立ちはだかった。
近くで見ると、額に汗が浮いている。
怒りだけではない。
焦りだ。
俺はその顔を見て、腹の底がさらに冷えた。
この人は、単に面子を潰されたくないだけなのか。
それとも、本当に見られたくないものがあるのか。
その時、蔵の外から声がした。
「何の騒ぎだ」
振り返ると、弥助が立っていた。
清洲まで来たのかと思ったが、違う。後続の荷を運んできたらしい。数人の小者を連れて、汗を拭っている。
「弥助殿」
「おう、清吉。さっそく揉めてるな」
「揉めたくはないんです」
「おまえが揉めたくなくても、飯が絡むと揉めるんだな」
弥助はそう言って蔵の中を見た。
そして、善右衛門に頭を下げるでもなく、無礼になりすぎない程度に声を低くした。
「上様より、清吉の見分を助けるよう申しつかっております」
初耳だった。
俺は弥助を見る。
弥助は目だけで、黙っていろと合図した。
善右衛門の顔がさらに険しくなる。
「小者頭まで飯炊きに肩入れか」
「飯炊きに肩入れしているのではなく、上様の命を通しているだけです」
弥助は淡々と言った。
「善右衛門殿。見せて困るものがないなら、見せれば済む話では」
善右衛門は黙った。
黙ったが、その沈黙が答えのように思えた。
かやが小さく言った。
「清吉、あの樽」
例の新しい縄の味噌樽。
小者が、じりじりと後ろへ下がっている。
俺はその樽に近づいた。
「開けます」
「待て!」
善右衛門が叫ぶ。
だが、弥助がその前に立った。
五郎兵衛も半歩動く。
かやが樽の縄に手をかけた。
「こういうのは、荷運びのほうが早い」
かやは器用に縄を解いた。
蓋をずらす。
味噌の匂いが立つ。
だが、妙だった。
上のほうは普通の味噌だ。
しかし、深さがない。
かやが木の棒を差し込む。
すぐに底へ当たった。
「浅い」
俺は樽を覗き込んだ。
味噌は上面だけ。
下には、丸めた藁と布が詰められていた。
中身を抜かれている。
蔵の中が、完全に静まり返った。
善右衛門の顔から血の気が引いた。
小者が逃げようとした。
「捕まえろ!」
弥助の声で、若い足軽たちが動いた。
小者は蔵の入口で取り押さえられる。
味噌樽の蓋が、床に転がった。
乾いた音がした。
俺は樽の中を見たまま、しばらく動けなかった。
腹の底に、怒りとも悲しみともつかないものが落ちていく。
桶狭間の飯場で、俺は腐った味噌を選り分けた。
足りない味噌をどうにか伸ばした。
塩を節約し、握り飯を小さくした。
怪我人には薄い粥を出した。
捕虜に飲ませる水一口で、味方に怒鳴られた。
その裏で。
この蔵では。
味噌が抜かれ、藁を詰められていた。
俺は善右衛門を見た。
「……これを、飯場へ送るつもりだったんですか」
声が低くなった。
自分の声ではないみたいだった。
善右衛門は口を開いたが、言葉が出ない。
「これを送られた飯場では、上だけ味噌を使って、途中から足りなくなる。足りない分を水で伸ばす。薄い汁になる。兵は腹がもたない」
俺の手が震えた。
恐怖ではなく、怒りで。
「それでも帳面では、味噌樽一つですか」
善右衛門は答えなかった。
答えられなかった。
弥助が小者を押さえたまま、低く言った。
「善右衛門殿。これは上様に報告せねばならん」
「待て」
ようやく善右衛門が声を出した。
先ほどまでの威勢は消えていた。
「待て。これは何かの手違いだ。小者が勝手に」
「小者が勝手に、味噌を抜いて藁を詰めて、縄を締め直して、帳面を通さず外へ出すのですか」
かやが冷たく言った。
「ずいぶん器用な小者だね」
五郎兵衛が片目を細める。
「清吉」
「はい」
「見るものが増えたな」
「……はい」
増えた。
湿った米。
鼠の穴。
緩い蓋。
そして、中身を抜かれた味噌樽。
これはただの保存の悪さではない。
人の腹を食い物にしている者がいる。
俺は改めて蔵を見回した。
山のような米俵。
並ぶ味噌樽。
帳面を抱える善右衛門。
顔を伏せる人足たち。
どれが本物で、どれが抜かれているのか。
どこまで腐っているのか。
俺にはまだ分からない。
だが、一つだけ分かった。
ここは飯場より、ずっと面倒な戦場だ。
槍で突いてくる敵はいない。
だが、兵の腹を空にする敵がいる。
その敵は、味方の顔をして蔵の中にいる。
俺は赤く腫れた自分の手を見た。
昨日、熱い飯を握った手だ。
その手を強く握る。
「弥助殿」
「何だ」
「米を全部見ることはできますか」
「全部か」
「少なくとも下段と、湿っているところ。味噌樽も、縄の新しいものから開けたいです。塩も、袋の重さを確かめたい」
弥助が笑った。
「飯炊き小僧が、兵糧蔵をひっくり返す気になったか」
「ひっくり返したいわけではありません」
俺は善右衛門を見た。
「兵に食わせる前に、腐ったところを見つけたいだけです」
蔵の外から、雨上がりの光が差し込んだ。
米俵の山の影が、床に長く伸びている。
その影が、まるで大きな腹の中のように見えた。
織田家の腹。
その腹の奥に、腐り始めたものがある。
俺はもう、それを見てしまった。
なら、火を消すわけにはいかない。
鍋の前で覚えたことは、蔵でも同じだ。
悪くなる前に見つける。
足りなくなる前に数える。
腹を壊す前に止める。
俺の戦は、やはりここから始まるのだと思った。




