第六話 勝ち戦の後に残るもの
勝った、という声は、しばらく陣のあちこちで跳ね回っていた。
今川義元を討ち取った。
あの大軍を退けた。
上様が勝った。
織田が勝った。
言葉だけを聞けば、空まで晴れそうなものだった。
だが、雨はまだ降っていた。
弱くなったり、強くなったりしながら、泥の上に、血の上に、割れた竹皮の上に、同じように落ち続けていた。
「清吉、粥が煮えた」
かやの声で、俺は我に返った。
鍋の中では、薄い粥がぽこぽこと泡を立てている。米は少ない。味噌も薄い。塩も控えめだ。
それでも、湯気は立つ。
熱いものがある。
それだけで、人は少しだけ戻ってこられる。
「木椀、足りる?」
「足りない。割れてるやつもある」
「使えるものは湯にくぐらせてください。割れがひどいものは駄目」
「この期に及んで細かいね」
「この期だから細かくする」
「はいはい」
かやは口では面倒そうに言いながら、ちゃんと木椀を選り分けてくれた。
俺は鍋をかき混ぜながら、飯場の外へ目を向ける。
戻ってくる兵の数が増えていた。
勝ったはずなのに、誰も物語の中の勝ち武者みたいな顔はしていない。
泥だらけ。
息も絶え絶え。
目の焦点が合わない者。
笑いながら泣いている者。
槍を杖代わりにして歩く者。
肩を貸されて戻ってくる者。
誰かの名を呼び続ける者。
勝ったのだ。
勝ったはずなのだ。
なのに飯場へ近づいてくる顔は、腹を空かせた人間の顔だった。
「粥です! 熱いので、少しずつ!」
俺は声を張った。
「怪我をしている人を先に! 腹の悪い人は薄いものを! 水は煮たものから渡してください!」
「清吉、こいつ肩をやられてる!」
「布を!」
「もうない!」
「着物の裾を裂いてください!」
「誰のだよ!」
「俺のでいい!」
自分で言って、すぐ裾を掴んだ。
だが、俺が裂くより早く、かやが自分の腰布の端を短刀で切った。
「清吉の裾なんか短すぎて足りないよ」
「いや、でも」
「いいから使え」
差し出された布を受け取る。
泥と雨で少し湿っているが、何もないよりずっといい。
「ありがとうございます」
「礼はあと。次」
次。
次。
次。
勝ち戦の後には、次が多すぎた。
水を求める者。
粥を求める者。
座る場所を求める者。
名前を呼ぶ者。
立ち上がろうとして倒れる者。
俺はただ動いた。
木椀に粥をよそう。
火を守る。
水を煮る。
怪我人の口元へ椀を運ぶ。
熱すぎれば冷ます。
飲み込めない者には、水だけを少し含ませる。
それは医者の仕事ではない。
俺には傷の治し方など分からない。
けれど、腹に何かを入れれば、目が少し戻ることがある。
人の声に反応することがある。
それだけを頼りに、俺は粥を配り続けた。
「清吉」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、五郎兵衛が立っていた。
蓑は破れ、左の頬に血がついている。だが、足で立っている。
「五郎兵衛殿!」
「そんな顔するな。死んでねえ」
「怪我は」
「かすり傷だ。年寄りは逃げ足だけは速い」
冗談めかして言うが、息は荒かった。
俺は粥をよそった。
「食べてください」
「敵を討ったあとに粥か」
「腹に収まります」
「だろうな」
五郎兵衛は椀を受け取り、ゆっくりすすった。
目を閉じる。
しばらく黙る。
「……戻った気がする」
「どこからですか」
「戦の中からだ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
五郎兵衛は二口、三口と粥をすすり、椀を空にした。
「清吉」
「はい」
「今日、走れた」
俺は息を止めた。
「途中で、おまえの握り飯を食った。雨で手は震えるし、泥で足は重いし、喉はからからだったが、食ったら足が戻った」
「……よかったです」
「礼は言わんぞ」
「はい」
「だが、覚えておけ。おまえの飯で生きた奴はいる」
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
勝ったからではない。
褒められたからでもない。
ただ、あの握り飯が、本当に誰かの足になったのだと分かったからだ。
五郎兵衛は空になった椀を返し、飯場の端へ腰を下ろした。
「少し休む。あとでまた働かせろ」
「休んでください」
「命令するようになったな」
「すみません」
「謝るな」
五郎兵衛は片目を細めて笑った。
その笑いを見て、俺も少しだけ笑えた。
だが、その穏やかな一瞬はすぐに崩れた。
「おい、そこの飯!」
荒い声が飛んだ。
見ると、織田の足軽が二人、泥だらけの男を引きずるように連れてきていた。
男は鎧の形が少し違う。
今川方の兵だ。
片腕を押さえ、顔は青白い。唇は乾ききっていた。
「こいつにも水をくれ」
そう言ったのは、織田の足軽のほうだった。
俺は迷わず竹筒を取った。
だが、横から別の男が怒鳴った。
「敵にやる水なんかあるか!」
飯場が静まった。
怒鳴った男は、勝ち戦の興奮がまだ抜けていない顔をしていた。目が血走り、手には抜き身ではないが、刀の柄を握っている。
「そいつは今川だぞ。さっきまで俺たちを殺そうとしてた奴だ」
織田の足軽が言い返す。
「もう捕まってる。腕もやってる」
「だから何だ。水も飯も味方に回せ」
男の言っていることは、間違いではないのかもしれない。
水も飯も足りない。
味噌も米も減っている。
味方の怪我人もいる。
なのに、敵に食わせるのか。
そう問われたら、俺は立派な理屈を返せない。
ただ、目の前の今川兵は唇を震わせていた。
喉が鳴っている。
水を欲しがる人間の顔だった。
俺は竹筒を持ったまま、足が動いた。
「清吉」
弥助の声がした。
いつの間にか近くにいた。
腕を組み、俺を見ている。
止めるのか。
そう思った。
だが、弥助は何も言わなかった。
ただ見ていた。
俺は今川兵の前に膝をついた。
「少しずつ飲んでください」
竹筒を口元へ持っていく。
今川兵は最初、俺を疑うように見た。
それから、水の匂いに耐えられなくなったように、口をつけた。
「一気に飲まないで」
言葉が通じているのか分からない。
だが、俺の手で竹筒を支え、少しずつ飲ませた。
喉が動く。
乾いた唇に水が戻る。
今川兵の目から、涙のようなものが一筋落ちた。雨かもしれない。涙かもしれない。
「敵に水をやりやがった」
さっきの男が低く言った。
俺は立ち上がった。
膝が震えている。
怖い。
だが、口は動いた。
「喉が渇いた人間は、敵でも味方でも死にます」
「死なせりゃいいだろうが」
「死なせたら、恨みだけが残ります」
「何だと?」
言ってから、自分でも驚いた。
そんなことを考えていたのか、俺は。
いや、考えていたというより、勝手に口から出た。
母の村で、飢えた旅人に粥を出した日のことを思い出したのだ。
あの時、母は言った。
『腹を空かせたまま追い返すと、人は鬼になるよ』
戦場では、そんな甘いことは通じないのかもしれない。
だが、腹を空かせた人間の目は、どこでも同じだった。
「味方の分を奪ってまで食わせる気はありません」
俺は言った。
「でも、鍋に残った薄い粥を一口飲ませるだけで、死なずに済む者がいるなら……俺は食わせたいです」
「おまえ、何様だ」
男が詰め寄る。
俺は後ずさりしそうになった。
その前に、弥助が間へ入った。
「やめろ」
「弥助殿、でもこいつは」
「やめろと言った」
弥助の声は静かだった。
怒鳴るより怖い声だった。
「清吉は飯場を任されてる。飯場で誰に何を食わせるかは、今はこいつが決める」
俺は耳を疑った。
弥助が、俺を庇っている。
男も信じられないような顔をした。
「飯炊き小僧にですか」
「殿が拾った飯炊き小僧だ」
その一言で、男は黙った。
信長様の名は、やはり重い。
弥助は俺をちらりと見た。
「清吉」
「はい」
「敵に食わせるなら、味方を先にしろ。順を間違えるな」
「……はい」
「それと、食わせた敵が暴れたら、おまえが困る。縛るものは縛れ」
「はい」
「甘いだけでは飯場は守れねえ」
「はい」
厳しい言葉だった。
だが、否定ではなかった。
俺は深く頭を下げた。
その時だった。
飯場の外から、ざわめきが近づいてきた。
最初はまた怪我人かと思った。
だが、空気が違う。
兵たちが一斉に姿勢を正す。
弥助が背筋を伸ばす。
五郎兵衛も、立ち上がろうとした。
俺は振り返った。
織田信長様が、そこにいた。
雨に濡れたまま、少数の供を連れて、飯場の前に立っている。
戦の後とは思えないほど、目が鋭かった。
だが、その着物も、足元も、泥で汚れている。
遠い場所にいる殿様ではなく、同じ雨の中を歩いてきた人間に見えた。
飯場にいた者たちが一斉に頭を下げる。
俺も慌てて膝をついた。
「清吉」
信長様の声が落ちた。
「は、はい」
「まだ火を焚いておるか」
「はい。戻った者に、粥を」
「敵にも食わせていたな」
胸が凍った。
見られていた。
俺は地面に額をつけそうになった。
「申し訳ございません」
「なぜ謝る」
「勝手をいたしました」
「なぜ食わせた」
声は冷たくない。
だが、逃げ道もない。
俺は顔を上げられないまま答えた。
「喉が渇いておりました」
「敵だぞ」
「はい」
「先ほどまで、こちらを殺そうとしていた」
「はい」
「それでも食わせるか」
飯場の空気が張りつめる。
俺は唇を噛んだ。
正しい答えなど分からない。
けれど、嘘を言っても、この方には見抜かれる気がした。
「……腹が減った人間は、敵でも味方でも死にます」
声が震えた。
「ですが、死なずに済んだ者は、明日には捕虜として働けるかもしれません。村へ帰れば、織田は水も与えぬ鬼だと言わずに済むかもしれません。勝った後に人が飢えれば、また敵になります」
自分で言いながら、怖くなった。
俺は何を言っているのだ。
ただの足軽が、信長様に向かって、勝った後の話をしている。
膝が泥に沈む。
指先が冷える。
信長様はしばらく黙っていた。
雨の音だけが響く。
やがて、信長様が小さく笑った。
「勝った後を見ているのか」
俺は顔を上げた。
信長様は、俺を見ていた。
戦の勝利に酔うでもなく、敵に情けをかけたことを怒るでもなく、ただ面白いものを見る目で。
「槍を持つ者は敵を見る。首を見る。手柄を見る」
信長様は飯場の鍋へ視線を移した。
「おまえは腹を見る。勝つ前も、勝った後も」
俺は何も言えなかった。
「清吉」
「はい」
「飯を炊け」
「……はい」
「味方を先にせよ。だが、捕らえた者にも死なぬ程度には食わせろ。死体は飯を食わぬ。だが、生きた捕虜は働く。村に返せば噂も運ぶ」
信長様の声には、情けだけではない冷たさもあった。
生かすことすら、戦のうち。
その考えに、俺は背筋が寒くなった。
けれど、同時に分かった。
この方は、勝った後の腹まで戦として見ている。
俺がぼんやり感じたことを、もっと大きく、もっと冷たく、もっと遠くまで見ている。
「清吉」
「はい」
「おまえ、飯だけ炊いておればよいと思うな」
その言葉に、俺は息を止めた。
どういう意味か分からない。
飯だけ炊くな。
なら、俺に何をしろというのか。
信長様は、それ以上説明しなかった。
ただ、周囲へ声を飛ばした。
「負傷者を分けよ。動ける者、動けぬ者、捕虜、村の者。飯も水も無駄にするな。清吉の指図を聞け」
飯場がざわめいた。
清吉の指図。
俺の?
「上様」
弥助が一歩前に出る。
「清吉一人では手が足りませぬ」
「なら手を付けろ」
「はっ」
信長様は短く頷き、踵を返した。
去り際、もう一度だけ俺を見た。
「火を消すな」
「はい」
俺は泥の上に両手をつき、深く頭を下げた。
信長様の足音が遠ざかる。
飯場に、しばらく誰も声を出さなかった。
最初に動いたのは、かやだった。
「聞いたね」
かやは桶を担ぎ直した。
「清吉の指図を聞け、だってさ」
「……やめてくれ」
「何を」
「そんな顔で見るな」
「どんな顔?」
「面白がってる顔」
「面白いだろ。昨日まで泥に転んでた飯炊き小僧が、今日は飯場で威張るんだから」
「威張らない」
「威張れ。今はそのほうが早い」
かやはそう言って、周囲に声を張った。
「聞いた通り! 怪我人はこっち! 捕虜はあっち! 水は煮たものから! 勝手に桶へ手を突っ込むな、清吉が腹で怒るぞ!」
「腹で怒るって何だ!」
思わず言い返すと、飯場に笑いが起きた。
さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどける。
弥助が腕を組んで俺を見た。
「清吉」
「はい」
「指図しろ。殿の命だ」
俺は息を吸った。
怖い。
逃げたい。
だが、鍋の火はまだ燃えている。
腹を空かせた人間が目の前にいる。
なら、やるしかない。
「動ける人は薪を。水を汲む人は、必ず煮る桶と汲んだ桶を分けてください。怪我人には薄い粥を先に。捕虜は縄を確認してから、水を少しずつ。村の人が来たら追い返さないでください。子供と年寄りがいたら先に――」
「村の者までか」
弥助が眉をひそめる。
「戦場の近くで食い物を失った村が出ます。放っておくと、夜に盗みに来ます」
言ってから、俺は自分の言葉に驚いた。
何を偉そうに。
だが、弥助は少し考えたあと頷いた。
「分かった。だが量は見ろ」
「はい」
「全部配るなよ」
「はい」
「おまえは放っておくと全部配りそうだからな」
かやが横で笑った。
「それはありそう」
「ありません」
「ある顔してる」
「どんな顔だよ」
「腹に出てる」
「だから腹に出すな」
そんなやり取りをしながらも、手は止まらなかった。
勝ち戦の後の飯場は、日が暮れるまで動き続けた。
負傷者。
捕虜。
荷運び。
村人。
伝令。
泣きながら仲間を探す足軽。
誰かの名を呼び続ける若者。
戦利品の話で浮かれる者。
黙って粥だけをすすり、空になった椀を抱えて動かない者。
人間は、勝っても負けても腹が減る。
その当たり前のことが、これほど重いとは思わなかった。
夕暮れ前、雨がようやく弱まった。
雲の隙間から、薄い光が落ちた。
泥の上に、湯気が白く立つ。
俺は鍋の前に座り込みそうになったが、かやに肩を叩かれた。
「座るなら、火から離れて。鍋に落ちるよ」
「落ちない」
「今のあんたなら落ちる」
「……そうかも」
俺は少し離れた木箱に腰を下ろした。
腕が重い。
手のひらが痛い。
足も腰も、自分のものではないみたいだった。
それでも、火は消えていない。
鍋にはまだ少し粥が残っている。
それだけで、胸のどこかが落ち着いた。
五郎兵衛が隣に腰を下ろした。
「清吉」
「はい」
「おまえ、面倒なところに踏み込んだな」
「踏み込んだつもりはないんです」
「だろうな。おまえは鍋を見てたら、いつの間にか戦の後始末まで見ていた」
「俺は飯しか分かりません」
「飯が分かれば、人が分かることもある」
五郎兵衛は空を見上げた。
「今日、勝った。だが、勝った後に腹を減らした奴を放っておけば、次の敵になる。殿はそこを見ておられる」
「信長様は、怖い方ですね」
「今さらか」
「今さらです」
五郎兵衛は笑った。
「だが、怖い方だからこそ、人が見えぬものを見る」
俺は信長様の言葉を思い出す。
飯だけ炊いておればよいと思うな。
その意味は、まだ分からない。
分からないが、今日の飯場で何かが変わったことだけは分かった。
俺はもう、ただ鍋の前で言われた飯を炊くだけでは済まないのかもしれない。
それが嬉しいのか、恐ろしいのか、今はまだ分からなかった。
日が沈みかけた頃、かやが小さな握り飯を一つ持ってきた。
「ほら」
「何?」
「あんたの分」
「残ってたのか」
「隠してた」
「駄目だろ」
「倒れたら明日の飯が止まるって、誰かが言ってた」
それは五郎兵衛の言葉だった。
俺は握り飯を受け取った。
冷えている。
少し固い。
中の味噌も片寄っている。
形も悪い。
たぶん、俺が慌てて握ったものだ。
かじると、しょっぱかった。
「……しょっぱい」
「走るためなんだろ」
「今日はもう走りたくない」
「じゃあ、生きるため」
かやはそう言った。
俺は返事ができなかった。
冷えた握り飯を噛みながら、遠くの空を見る。
雨は上がりかけている。
けれど、泥の匂いも、血の匂いも、味噌の匂いも、まだ消えていない。
桶狭間は終わった。
そう誰もが言う。
だが俺には、終わったようには思えなかった。
勝った後にも、腹は減る。
勝った後にも、火は要る。
勝った後にも、人は生きていかなければならない。
俺は握り飯を飲み込み、痛む手を見た。
爪の間には、まだ米粒が残っていた。




