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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十七話 出る前に乱される飯

 戦場へ向かう飯は、道に出てから狙われる。


 そう思っていた。


 川道。

 逃げ道。

 前進飯場。

 村の水場。

 茶屋裏の荷台。

 栗の木の休み場。


 敵は、そういう外の場所で飯を狙ってくる。


 白い粉を混ぜる。

 偽の紙を撒く。

 川へ妙な実を流す。

 逃げ道に倒木を置く。

 偽の変更を伝える。

 兵の文句を煽る。


 だから俺たちは、外を見る目を増やした。


 水を見る。

 火を見る。

 泥を見る。

 荷を見る。

 村を見る。

 人を見る。

 粉を見る。


 だが、その朝、俺は思い知った。


 飯は、蔵を出る前にも狙われる。


 清洲蔵の中で、すでに戦は始まっていた。


「清吉!」


 かやの声が飛んだ。


 まだ夜明け前だった。


 蔵の中には、朝の支度のための薄い明かりだけが灯っている。


 俺は握り飯用の米を冷ましていた。


 今日の荷は、前進飯場へ出すものと、表道の中継へ回すもの、逃げ道の修復組へ送るものに分かれている。


 昨日の文句を受けて、握り飯の包みも少し変えた。


 兵用は厚包みを増やす。

 人足用は小さめで柔らかく。

 味噌玉は兵用と人足用を分ける。

 椀が熱いという文句が出たので、布の小片を添える。


 面倒だ。


 だが、その面倒が飯を止めない。


 そう思っていた矢先だった。


「結びが違う!」


 かやが、味噌玉の包みを一つ掲げていた。


 俺は駆け寄った。


「何が?」


「今日の折りは左一回。これは右一回」


 胸の奥が冷えた。


 右一回は昨日の折りだ。


 今日は左一回。


 右端一折りの包みが、今日の味噌玉の中に紛れている。


「昨日の残りか?」


 俺が言うと、かやはすぐ首を振った。


「昨日の残りは別にまとめた。これは今日の籠に入ってた」


 佐助が味噌玉を受け取らず、布の上に置かせた。


 匂いを見る。


 顔が険しくなる。


「味噌は似ています。でも、少し違います」


「偽物か」


「断定できません。けれど、清洲の味噌玉とは香りの立ち方が違います。干し菜も、うちのものじゃないかもしれません」


 清洲蔵の中に、偽の味噌玉。


 外ではなく、出る前の蔵。


 腹が冷たいまま、熱くなった。


 かやが短く言う。


「全部止める」


「全部?」


「今日の味噌玉、全部確認する。出す前でよかった」


 出す前でよかった。


 そうだ。


 道に出てから見つかれば、もっと危なかった。


 だが、止めれば出立が遅れる。


 兵が待つ。

 人足が待つ。

 前進飯場の火の時刻がずれる。

 村との約束にも響く。


 敵は、それを狙ったのかもしれない。


 偽物を食わせるためだけではない。


 確認させて、出立前に遅らせる。


「伊三郎!」


 俺が呼ぶより早く、伊三郎は帳面を抱えて来ていた。


「味噌玉を全数確認します。今日の分、昨日の残り、包み直しの分を分けてください」


「出立は?」


「遅れます」


 伊三郎はきっぱり言った。


「しかし、このまま出せばもっと危険です」


 作兵衛も人足の列からやってきた。


「人足は待たせる。ただし、背負わせたまま待たせるな。荷を下ろさせる」


「頼む」


「腹起こし粥は?」


「待機用に出す」


「なら人足は荒れねえ」


 すぐに動きが変わった。


 出立前の列を止める。

 人足に荷を下ろさせる。

 兵には、まだ配る前の握り飯を出さない。

 味噌玉の籠を全部戻す。

 昨日の残りと今日の分を完全に分ける。

 佐助が匂いを見る。

 かやが折りを見る。

 伊三郎が数を見る。

 俺が味見用の湯を用意する。


 清洲蔵の朝が、一気にざわついた。


 そして、ざわつきはすぐ文句になった。


「また遅れるのかよ」


「今日は前進飯場へ早く行くんじゃなかったのか」


「味噌玉一つで何してんだ」


「清洲式は本当に面倒だな」


 昨日聞いたばかりの文句が、もう蔵の中で出ている。


 敵が狙うには、十分な火種だった。


 権六が兵の列へ飛び込んだ。


「文句は俺に言え!」


「もう言ってる!」


「なら順番に言え! 味噌玉に偽物が入ったかもしれねえ。腹壊して進めなくなるのと、少し待つのと、どっちがいい!」


「少しじゃ済まねえだろ!」


「じゃあ、そこも文句として残す! 清吉に言う!」


「何でも残せばいいと思うな!」


「残さねえ文句は腐るんだよ!」


 権六の声は大きい。


 うるさい。


 だが、助かった。


 文句を正面から受けてくれる者がいるだけで、蔵の中の焦げつき方が違う。


 作兵衛は人足たちに言っていた。


「荷を背負ったまま待つな。下ろせ。座る奴は米俵に座るな。背当てを外して肩を見ろ」


「出る前から休みか?」


「待つ時の休みは仕事だ。背を無駄に削るな」


 人足たちは不満そうだったが、荷を下ろした。


 これも、人足約定帳がなければできなかったかもしれない。


 待つ時間にも役がある。


 ただ立たせておけば、人は疲れる。


 疲れた腹には、また紙が入る。


 佐助が味噌玉を一つずつ確認していく。


 顔色は悪い。


 だが、手は止まらない。


「これも違います」


「これも右折り」


「これは包みは左ですが、結びが違います」


 偽物は一つではなかった。


 全部で七つ。


 数は少ない。


 だが、十分に怖い。


 味噌玉の籠の中へ、偽の味噌玉が七つ。


 もしそのまま前進飯場へ行っていたら。


 誰かが食べて腹を壊したかもしれない。


 あるいは、味が違うと兵が騒ぎ、清洲式の信用が落ちたかもしれない。


 何より、出立前の確認に時間を使わせる。


 敵の狙いが見えてきた。


「誰が入れた」


 兵の一人が言った。


「蔵の中に入った奴だろ」


「人足か?」


「いや、味噌玉を作ってた奴じゃないのか」


 空気が刺々しくなる。


 まずい。


 出立前に、味方同士が疑い始めている。


 俺は声を上げた。


「決めつけない!」


 思ったより大きい声が出た。


 蔵が一瞬静まる。


「まだ、誰が入れたかは分かりません。分かっているのは、偽物らしき味噌玉が七つあること。出る前に見つかったこと。だから、全部確認すること。それだけです」


 自分で言いながら、五郎兵衛殿の言葉を思い出した。


 見ろ。

 焼くな。


 今まさに、それだった。


「味噌玉を作った者、人足、兵、蔵番、全部の流れを見ます。でも、今ここで誰かを犯人扱いすれば、敵の思うつぼです。まず飯を守ります」


 兵たちは黙った。


 権六が横から言った。


「そういうことだ。犯人探しの文句は後にしろ。今の文句は『腹を壊したくねえ』で統一だ」


「勝手に統一するな」


 誰かが言い、少しだけ笑いが起きた。


 助かった。


 笑いが一つ入るだけで、空気の焦げが少し取れる。


 伊三郎が帳面を見ていた。


「味噌玉の保管場所へ入った者を確認します」


「誰が入った?」


「佐助、かや、味噌玉作りの女二人、蔵番、そして夜明け前に薪を運んだ者が一人」


「薪?」


「今朝、火を早く起こすために薪を追加しています」


 薪。


 昨日から気になる言葉だ。


 奥の村では薪が銭だった。


 清洲蔵では火の支度。


 薪を運ぶ者なら、蔵の奥へ入れる。


「その薪運びは?」


 作兵衛が聞く。


 蔵番が答えた。


「いつもの者ではありません。いつもの薪運びが腹を下したとかで、代わりの者が来ました」


 腹が冷えた。


 いつもの者が腹を下す。


 代わりが来る。


 出立前の蔵に入る。


 味噌玉へ近づける。


 偶然にしては、嫌すぎる。


「その代わりの者は?」


「薪を置いて、すぐ出ました」


 弥助殿の配下へ知らせが走った。


 俺は深追いしない。


 今は味噌玉だ。


 出立前の混乱を収めること。


 飯を守ること。


 佐助が偽の味噌玉を一つ湯に溶いた。


 直接飲まない。


 匂いを見る。


「……苦い匂いがあります。粉ほどではありません。でも、腹に良くないものが混じっているかもしれません」


「食わせない」


 俺は即座に言った。


「偽の味噌玉は全部隔離。今日の味噌玉は、佐助が見たものだけにする」


 伊三郎が言う。


「数が足りません」


「握り飯を増やす。味噌玉は兵全員ではなく、先組と人足へ優先。後組は前進飯場で湯と味噌を別にする」


「火を使うことになります」


「村に知らせる。小鍋一つ分だけ。火は増やさない。水も増やさない。足りない分は握り飯でつなぐ」


 また、予定が変わる。


 だが、これは正規の変更だ。


 偽の変更ではない。


 清洲で決め、帳面に残し、村へ伝える。


「報告札を出す」


 俺は言った。


「前進飯場へ。味噌玉不足。小鍋一つで味噌湯準備。水量は約束内。火は増やさない。握り飯増」


 伊三郎がすぐ書く。


 若い使いが走る。


 次に、人足へ待機用の粥を出す。


 出立前に待たせている。


 腹を空かせたままでは文句が腐る。


 少しだけでも入れる。


「出る前に食わせるのか」


 人足の一人が聞く。


 作兵衛が答える。


「待った分だ。食え。背中を空にして怒るな」


 兵にも、少量の湯を出した。


 味噌玉はまだ出さない。


 偽物の確認が終わるまで待つ。


 権六が文句を拾う。


「待たせるなら湯だけでも助かる」


「味噌がないと腹が寂しい」


「犯人を早く捕まえろ」


「今日の握り飯は増えるのか」


 全部、伊三郎の横へ運ばれる。


 文句も情報だ。


 その時、弥助殿が戻ってきた。


「代わりの薪運びは見つかっていない。だが、いつもの薪運びは本当に腹を下している」


「粉ですか」


 佐助が聞く。


「医者が見ている。今のところ命に別状はない。ただ、昨夜、酒を飲んだ後に腹を壊したらしい」


「酒……」


 敵は、出立前の薪運びを入れ替えるために、いつもの者の腹を狙ったのかもしれない。


 また腹だ。


 兵の腹。

 人足の腹。

 村の腹。

 薪運びの腹。


 どこまで狙うのか。


 弥助殿は俺を見た。


「出立は?」


「遅れます。でも、止めません。味噌玉は確認したものだけ。足りない分は握り飯と前進飯場の小鍋で補います。人足は待機粥を出しました」


「よし」


「薪運びの出入りも帳面に入れます」


 伊三郎が言うと、弥助殿は頷いた。


「入れろ。出立前の蔵に入る者は、飯場の一部だ」


 出立前の蔵に入る者は、飯場の一部。


 確かにそうだ。


 薪運びも、蔵番も、握り飯を包む者も、味噌玉を丸める者も。


 蔵の中の全員が、飯の道だった。


 昼前近くになって、ようやく荷が出た。


 予定より遅い。


 だが、味噌玉の偽物は除かれた。


 人足は荷を背負ったまま待たされなかった。


 兵の文句も拾った。


 前進飯場へ変更も送った。


 出る前に乱された飯は、どうにか形を取り戻した。


 清洲蔵の入口で、かやが言った。


「今日は、蔵の中が戦場だったね」


「本当に」


「出る前に乱されると、道に出るより怖い」


「うん」


 道なら、見える。


 川なら喜助が見る。

 逃げ道なら作兵衛とかやが見る。

 村なら老人が見る。

 でも、蔵の中は味方の場所だと思っていた。


 そこを狙われた。


 その事実が重かった。


 夕方、出立した荷は無事に前進飯場へ届いた。


 遅れたが、届いた。


 前進飯場では小鍋一つ分の味噌湯を作り、握り飯で補った。


 村との約束は守った。


 水量も超えなかった。


 兵は文句を言ったが、腹を壊した者はいない。


 人足も無事。


 偽の味噌玉は、弥助殿の配下が預かった。


 清洲蔵では、夜に全員で報告をまとめた。


 伊三郎の新しい項目が増えた。


 出立前確認。


 味噌玉保管。

 薪運び出入り。

 代役確認。

 待機人足の荷下ろし。

 出立遅延時の湯と粥。

 兵文句対応。

 偽味噌玉隔離。


 俺はそれを見て、思わず息を吐いた。


「また増えた」


「増えました」


 伊三郎は淡々と言う。


「ですが、今日増えなければ、明日また同じところを狙われます」


 その通りだ。


 飯は、道に出てからだけではない。


 蔵を出る前から守らなければならない。


 夜の粥は、少し薄かった。


 皆、疲れている。


 胃に重いものを入れたくない。


 佐助がそう言って、味噌を控えめにした。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、出る前に疲れた味だな」


「うまいのか」


「疲れてる時にはちょうどいい」


 作兵衛も頷く。


「待たされた腹には、濃すぎないほうがいい」


 かやが椀を見て言った。


「今日の飯は、蔵の腹を守った味」


「蔵にも腹があるのか」


「あるでしょ。今日、痛かったじゃん」


 俺は笑えなかった。


 確かに、痛かった。


 清洲蔵の腹が。


 味方の場所だと思っていたところに、敵の手が入った。


 だが、見つけた。


 出る前に止めた。


 遅れたが、飯は出た。


 なら、負けではない。


 俺は粥をすすった。


 薄い味噌が、疲れた腹に落ちる。


 明日から、蔵の中も見る。


 出立前も、飯の戦だ。

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