第五十六話 文句も、先に炊いておく
味噌玉に、印がついた。
といっても、墨で大きく書くわけではない。
竹皮の端を折る。
今日は右端を一度。
明日は左端を一度。
明後日は右端を二度。
それに、結びの向きと受け取り言葉を合わせる。
味。
包み。
折り。
受け取り。
伊三郎は、それを四つの印で帳面に書いた。
「これで偽の味噌玉は入りにくくなります」
「入りにくくなるだけか」
「完全には防げません」
伊三郎は、いつも通り正直だった。
「ですから、味見役も置きます」
味見役。
また新しい役ができた。
兵側は権六。
人足側は作兵衛。
味噌そのものは佐助。
包みと折りはかや。
受け取りと記録は伊三郎。
俺は、全体の腹を見る。
こうして並べると、味噌玉一つを兵の腹へ入れるだけで、ずいぶん大ごとになった気がする。
だが、偽印、白い粉、噂紙、偽の変更指示まで出た後だ。
もう「ただの味噌玉」では済まない。
敵は形を真似てくる。
なら、こちらは形だけでなく、味と腹で見分ける。
佐助は、朝から味噌玉を作っていた。
味噌に干し菜を混ぜ、少しだけ塩を調え、丸める。
大きすぎると溶けにくい。
小さすぎると数え間違える。
乾きすぎると湯に残る。
柔らかすぎると包みにくい。
その加減を、佐助は指先で見ている。
「これくらいがいいと思います」
佐助は、小さな味噌玉を俺に見せた。
丸いが、完全な丸ではない。
少し平たい。
「平たいのか」
「はい。丸すぎると竹皮の中で転がります。少し平たいほうが、包みの向きが分かります」
かやが覗き込んだ。
「いいね。包みの折りも合わせやすい」
「味は?」
権六が早速手を出そうとして、佐助に止められた。
「湯に溶いてからです」
「味見役だぞ」
「だから、ちゃんと味見してください」
佐助が少しだけ強く言った。
権六は面白そうに笑う。
「佐助、言うようになったな」
佐助は一瞬うつむきかけたが、すぐ顔を上げた。
「味見役が勝手に食べたら、数が合わなくなります」
「そりゃそうだ」
権六は素直に引っ込んだ。
こういう時、意外と聞き分けがいい。
湯に溶いた味噌玉を、三人で見る。
佐助。
権六。
作兵衛。
俺も少し飲む。
味噌の香りが立つ。
干し菜の細い味が混じる。
粥ほど腹に残るわけではないが、握り飯と合わせるにはちょうどいい。
権六は椀をすすって、眉間にしわを寄せた。
「昨日より溶けやすい。味は少し軽い」
「軽い?」
「兵にはもう少し塩がほしい奴もいる。でも、歩きながらならこれでいい。濃すぎると水が欲しくなる」
作兵衛も飲んだ。
「人足にはこれでいい。肩に荷がある時、塩が強すぎると喉が渇く。水場が少ない日は困る」
佐助が頷き、帳面へ向かう伊三郎へ言った。
「水場が少ない日は、塩控えめ。水が取れる日は少し強めでも大丈夫です」
伊三郎が書く。
味噌玉一つにも、水場の事情が入る。
飯は、本当にどこまでもつながる。
「清吉」
かやが味噌玉の包みを並べながら言った。
「今日の折りは右一回。結びは前進飯場用の小結び。受け取り言葉は?」
俺は一瞬考えた。
前回は「ずらし飯」と「味噌玉」で簡単すぎた。
難しすぎると現場が忘れる。
簡単すぎると敵に漏れる。
「表は『朝の水』。返しは『右折り』」
かやが少し笑った。
「まあまあ」
「まあまあか」
「清吉にしては、まとも」
「褒めてないな」
伊三郎はすぐ書いた。
「本日の味噌玉。表『朝の水』、返し『右折り』。右端一折り」
「敵に聞かれたら終わりだろ」
権六が言うと、伊三郎は答えた。
「だから、受け取り役を絞ります。誰でも答えない。聞かれても、兵は知らなくてよい」
「俺は?」
「権六は味見役なので知っています。ただし、言いふらさないでください」
「俺を何だと思ってる」
全員が一瞬黙った。
権六は唇を尖らせた。
「信用がないな」
「文句役としては信用してる」
俺が言うと、権六はなぜか納得した。
「ならいい」
準備は進んだ。
味噌玉は右端を一折りした竹皮に包む。
握り飯は、兵用と人足用で形を変える。
兵用は腰に差しやすい平包みと、長く持つ厚包みを混ぜる。
人足用は柔らかめで、喉に詰まりにくいよう少し小さめ。
前進飯場では湯だけを沸かす。
火は小さい。
水も少ない。
村との約束は守る。
敵に読まれにくく、味方が迷いすぎない形。
それが今日のずらし飯だった。
だが、敵は今度、別の場所に火をつけてきた。
兵の文句である。
昼前、前進飯場から戻った使いが、妙な話を持ってきた。
「兵の間で、変な噂が出ています」
「また紙か?」
俺が聞くと、使いは首を振った。
「紙ではありません。口です」
「何と」
「清洲式の飯は、面倒で遅い。普通に米を炊けば早いのに、村だの水だの包みだのと言って、兵を待たせる。敵より先に腹が焦れる、という話です」
俺は黙った。
胸の奥が、変なふうに熱くなる。
その文句は、まったくの嘘ではない。
清洲式は面倒だ。
実際、遅い時もある。
火を小さくする。
水を制限する。
村に写しを見せる。
味噌玉の折りを見る。
合言葉を確認する。
荷の結びを確認する。
人足の背を見て、休みを入れる。
普通に炊けば早い。
そう思う兵がいても不思議ではない。
だからこそ厄介だった。
噂は、ほんの少し本当の顔をしている。
「誰が言っていた」
伊三郎が聞く。
「分かりません。ただ、前進飯場へ行った兵の中に、声の大きい者がいて……権六殿が今、押さえています」
権六が押さえている。
それを聞いて少しだけ安心した。
同時に、不安にもなった。
文句役が押さえきれないほどなら、現場の腹はかなり揺れている。
「清吉」
かやが言った。
「これは、ちゃんと聞いたほうがいい」
「怒るな、ってことか」
「うん。怒ったら負け。面倒で遅いのは、本当でもあるから」
「そうだな」
胸が少し痛い。
自分たちが作ってきたものを「面倒で遅い」と言われるのは嫌だ。
でも、それを言わせないようにすれば、文句は紙になる。
腹の中で腐る。
「前進飯場へ行く」
俺は言った。
「清洲で受ける役は?」
伊三郎が聞く。
「今日は、これが一番の火だ。現場で聞く。清洲は伊三郎に任せる」
伊三郎は少し考え、頷いた。
「分かりました。ですが、走らないでください」
「分かってる」
「怒らないでください」
「分かってる」
「顔に出ます」
「それはどうしようもない」
かやが小さく笑った。
「じゃあ、顔は出してもいいから、口は焦がさない」
それで行くことにした。
前進飯場へ向かう途中、俺はずっと考えていた。
面倒で遅い。
その文句にどう返すか。
早くするために、村の水を勝手に使うか。
火を大きくして、桑の葉に灰を飛ばすか。
荷の確認を省いて、偽の味噌玉を入れられるか。
人足の休みを削って、次の日に倒れさせるか。
それは違う。
でも、兵の腹が焦れるのも本当だ。
待たされる兵は、不安になる。
飯が遅いと、戦そのものが遅れているように感じる。
敵に向かう前に、腹の中が苛立つ。
その苛立ちに、敵は火をつけた。
前進飯場に着くと、空気はいつもよりざらついていた。
村の老人は、少し離れて見ている。
桑畑の女もいる。
兵たちは味噌玉湯を受け取っているが、何人かが不満そうな顔をしていた。
権六が真ん中に立っていた。
「清吉が来たぞ。文句がある奴は言え」
いきなりだった。
逃げ場がない。
兵の一人が前へ出た。
若い男だ。
顔には苛立ちがある。
「面倒なんだよ」
彼は言った。
「飯食うのに、何でいちいち折りだの言葉だの村の水だの言わなきゃならねえんだ。戦に行く前から待たされて、腹が立つ」
周囲の兵が黙る。
俺は深く息を吸った。
怒るな。
口を焦がすな。
「遅く感じるのは、本当だと思う」
俺は言った。
若い兵は少し驚いた顔をした。
「実際、前より確認が増えています。火も大きくできない。水も勝手に使えない。味噌玉も折りを見る。面倒です」
「なら」
「でも、その面倒を省いたら、飯が早くなる代わりに、どこかで止まります」
俺は村の水場を指した。
「水を勝手に使えば、村は次から水を貸してくれません。火を大きくすれば、桑の葉に灰が飛びます。味噌玉を確認しなければ、偽物が入るかもしれません。人足を休ませなければ、明日の荷が止まります」
兵は黙っている。
「早い飯と、止まらない飯は違います」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
だが、腹から出た。
「俺たちが作っているのは、ただ早い飯ではありません。止まらない飯です。戦う前に腹を壊さない飯。村を敵にしない飯。人足が明日も運べる飯。敵に偽物を入れられない飯です」
若い兵は唇を噛んだ。
「でも、腹は減る」
「はい」
俺は頷いた。
「だから、その文句は正しいです。待たせすぎているなら、直します。味噌玉だけでは足りないなら、握り飯の数を変えます。湯がぬるいなら、火の使い方を考えます。文句は言ってください。ただ、面倒を全部捨てろと言われても、それはできません」
権六が横で腕を組んでいた。
いつもなら茶々を入れるのに、黙っている。
若い兵はしばらくして、椀を見た。
「味噌玉は……悪くねえ」
「ありがとうございます」
「でも、握り飯が冷たい」
「それは直します。厚包みを増やします。あと、食べる直前まで竹皮の中で冷えにくい包みを試します」
「本当に?」
「帳面に残します」
伊三郎はいない。
だが、俺は小帳面に書いた。
兵不満。
飯が面倒で遅い。
握り飯冷たい。
味噌玉は悪くない。
厚包み増。
若い兵が、その下手な印を見て少し笑った。
「それで分かるのか」
「清洲に、分かる形に直してくれる人がいます」
村の老人が、少し離れた場所でふっと笑った。
たぶん、以前自分が言ったことを思い出したのだろう。
その時、権六が声を上げた。
「他に文句ある奴!」
数人が手を挙げた。
「味噌玉湯、椀が熱い」
「受け取る場所が狭い」
「握り飯の包みがほどきにくい」
「順番待ちが分かりにくい」
出る。
出る。
文句が出る。
だが、不思議と場は荒れなかった。
言っていいと分かると、怒鳴り声ではなくなる。
俺は一つずつ聞いた。
権六が横で整理する。
「椀が熱い。これは布をつけろ」
「受け取り場所が狭い。兵を二列にするな、一列で流せ」
「包みがほどきにくい。かや案件」
「順番待ちは、俺が立つ」
「全部おまえが仕切るのか」
「文句役だからな」
兵たちが笑った。
さっきまでのざらつきが、少しだけ和らいだ。
村の老人が近づいてきた。
「兵も面倒だな」
「すみません」
「いや、うちも同じだ。水番を待つ時、文句が出る。言わせずにいると揉める」
「村でも?」
「人が集まれば、どこでもだ」
老人は兵たちを見た。
「ただ、桑を汚されたら怒る」
「はい。そこは守ります」
「ならいい」
その言葉も、兵たちに聞こえた。
兵の一人がぼそりと言った。
「桑は怖いな」
権六がすかさず返す。
「桑が米になるからな」
もはや合言葉のようになっている。
前進飯場から戻る頃には、腹の重さは少し変わっていた。
文句は消えていない。
むしろ増えた。
だが、形になった。
形になれば直せる。
敵は、「清洲式は面倒で遅い」という不満に火をつけた。
こちらは、その火を消すのではなく、鍋の火に変えた。
文句を聞いて、改善に回す。
それが今日の飯だった。
清洲へ戻ると、伊三郎が待っていた。
「どうでしたか」
「文句がたくさん出た」
「よいことです」
「本当に?」
「出ない文句のほうが危険です」
伊三郎は小帳面を受け取り、すぐ清書を始めた。
兵文句帳。
また帳面が増えるのかと思ったら、伊三郎は首を横に振った。
「既存の兵文句欄を拡張します」
「結局増えるんだな」
「増えます」
かやも戻ってきて、包みの文句を聞いた。
「ほどきにくい? じゃあ、折りは残して、開け口だけ変える」
「偽物対策は?」
「折りを変えずに開け口を作る。できる」
佐助は味噌玉の味を調整する。
「兵用は少しだけ塩を強くします。ただし、水場が少ない日は控えます」
作兵衛は人足側の意見を加える。
「人足は今の薄めでいい。兵用と混ぜるな」
権六は満足そうに言った。
「文句が育ってきたな」
「育てるな」
「育てねえと腐るぞ」
それもそうかもしれない。
夜、皆で味噌玉湯と握り飯を食べた。
握り飯は、厚包みを試している。
少し温かさが残る。
味噌玉湯は、兵用に少し塩を強めたものと、人足用の薄めのものを分けた。
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、文句を炊いた味だね」
「嫌な味だな」
「でも、ちゃんと炊けば食べられる」
俺は笑った。
確かに。
文句も、生のままだと腹を壊す。
でも、聞いて、分けて、火を入れれば、飯の一部になる。
早い飯と、止まらない飯は違う。
今日、自分で言ったその言葉が、まだ胸の中に残っていた。
清洲式は面倒だ。
遅い時もある。
でも、その面倒が、村を守り、人足を守り、兵の腹を守る。
敵はそこを「遅い」と煽ってくる。
なら、こちらは文句を先に炊いておく。
腹が焦げる前に。




