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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十五話 偽のずらし飯

味噌玉は、思ったより評判がよかった。


 最初に湯へ落とした時、俺は少し不安だった。


 味噌は味噌樽に入っているもの。

 味噌竹筒に詰めるもの。

 小皿で溶いて、鍋に入れるもの。


 そう思っていた。


 それを小さく丸める。


 干し菜を細かく刻んで混ぜ、少しだけ塩を調え、竹皮で一つずつ包む。


 湯があれば溶ける。

 鍋がなくても椀で飲める。

 匂いは味噌汁より漏れにくい。

 握り飯だけで喉が詰まりそうな時、腹へ落ちやすい。


 権六は、味噌玉を湯に溶いた椀をすすって、真面目な顔で言った。


「これは文句が減る」


「文句役がそれでいいのか」


「文句が減ったら、もっと細かい文句が聞こえる」


「嫌な進歩だな」


「大事だぞ。大きな文句に隠れて、小さい文句が聞こえなくなるからな」


 悔しいが、その通りだった。


 粥が少ない、味が薄い、飯が遅い。


 そういう大きな文句があると、荷の結びが当たるとか、握り飯が冷たいとか、湯が足りないとか、そういう小さな文句が隠れる。


 そして小さな文句のほうが、後で大きく腐ることがある。


 味噌玉は、その小さな文句を少し減らした。


 佐助は嬉しそうだった。


 普段、あまり胸を張るほうではないのに、この時ばかりは味噌玉の包みを見て、少しだけ背筋が伸びていた。


「佐助、いい顔」


 かやが言うと、佐助は慌てて俯いた。


「そんなことは」


「ある。味噌玉職人の顔」


「職人なんて」


「清洲式味噌玉役」


「それは……少し恥ずかしいです」


 佐助は耳まで赤くした。


 だが、嫌そうではなかった。


 味噌と粉を見てきた佐助が、今は味噌で兵の腹を守るものを作っている。


 それだけで、俺は少し胸が温かくなった。


 ずらし飯の二度目の試しは、味噌玉を組み込んで行われた。


 清洲で握り飯を作る。

 味噌玉を小包みにする。

 前進飯場では火を小さくし、湯だけを沸かす。

 村の水は少量。

 兵には握り飯と味噌玉湯。

 人足には少し柔らかい握り飯と、薄めの味噌玉湯。


 火を大きくしない。

 煙を少なくする。

 敵に飯場の動きを読ませない。


 そのための運用だった。


 前進飯場の村にも、事前に知らせた。


 水は少なく済む。

 灰も少ない。

 火は湯を沸かすだけ。

 飯の匂いは薄いが、飯を出さないわけではない。


 村の老人は、写しを読み、ふんと鼻を鳴らしたらしい。


「飯場なのに飯を炊かぬ日があるとは、面倒な連中だ」


 若い男がそう伝えてくれた。


 だが、最後に老人はこうも言ったという。


「水を使わぬなら、悪い話ではない」


 面倒だが、悪くない。


 最近、そんな評価が増えてきた。


 清洲式には、ちょうどいいのかもしれない。


 その朝、俺は清洲蔵で三か所の運用を受ける役だった。


 かやは表道荷。

 佐助は前進飯場で味噌玉の溶け具合を見る。

 作兵衛は人足の早出・遅出を調整。

 伊三郎は清洲で俺の横。

 権六は兵の文句役として前進飯場へ行く。


 俺は行かない。


 まだ慣れない。


 行きたい。


 でも、行かない。


 清洲で受けて返す。


 腹まとめ役の仕事だ。


「清吉」


 伊三郎が言った。


「今日の変則は、こちらで決めたものだけです。現場で勝手に変えないことを徹底してください」


「分かってる」


「敵が偽の指示を出す可能性があります」


 その言葉に、俺は手を止めた。


「偽の指示?」


「はい。こちらがずらし飯を始めた以上、『予定変更』と言えば荷を動かせると思われる危険があります」


 腹が冷えた。


 変則は、敵に読まれにくくするためのものだ。


 だが、変則が増えれば、味方も「変更」に慣れる。


 そこへ偽の変更を入れられたら。


 荷が別の場所へ行く。


 味噌玉が届かない。

 握り飯が違う組へ渡る。

 村との約束が崩れる。

 兵が飯を待つ。

 人足が無駄に歩く。


 偽のずらし飯。


 嫌な言葉が浮かんだ。


「変更は、誰が決める?」


 俺が聞くと、伊三郎はすぐ答えた。


「今日の分は、清洲の帳面にあるものだけ。現場変更は、赤札と理由がある場合に限ります。さらに、受け取り言葉を二つにします」


「二つ?」


「表の合言葉と、返し言葉です」


 また難しくなった。


 だが、必要だ。


「たとえば?」


「今日の表は『ずらし飯』。返しは『味噌玉』」


「まんまだな」


「覚えやすさ優先です」


 確かに覚えやすい。


 敵に聞かれれば危ないが、現場で忘れるよりましだ。


「変更を伝える者は、表の言葉だけでなく返しも言えなければ通さない」


「そうです」


「分かった」


 この時、もっと重く受け止めておくべきだったのかもしれない。


 いや、受け止めていた。


 それでも敵は、その少し先を突いてきた。


 昼前、最初の使いが前進飯場から戻った。


 荷札は、荷。


「前進飯場、味噌玉は好評。湯で溶けます。ただ、湯が冷めると溶け残りが出ます。佐助殿より、味噌玉は小さめが良いとのこと」


「よし」


 俺は少しほっとした。


 味噌玉は使える。


 次に、表道から使いが来た。


 今度は赤札ではない。


 だが、顔がこわばっていた。


「どうした」


「途中で、予定変更の知らせが来ました」


 俺と伊三郎が同時に顔を上げた。


「誰から」


「清洲からの使いと名乗る男です。味噌玉の荷を、前進飯場ではなく茶屋裏へ回せと」


「合言葉は」


 伊三郎が鋭く聞く。


「表は『ずらし飯』と言いました」


「返しは」


「……言えませんでした」


 背中が冷えた。


 来た。


 偽の指示。


「荷は?」


「かや殿が止めました。返しが言えないなら動かさないと。男は逃げました」


 息が漏れた。


 かやが止めた。


 助かった。


「味噌玉は?」


「無事です。表道を進んでいます」


「かやは?」


「男を追わず、荷を守れと」


 正しい。


 追いたくなる。


 俺も現場にいたら走り出しかけたかもしれない。


 だが、荷を守るのが先だ。


 俺は小帳面に書いた。


 偽変更。

 表のみ知る。返し言えず。

 茶屋裏へ誘導。

 かや止める。

 男逃亡。


 伊三郎はすでに別帳へ写していた。


「敵は表の合言葉を聞いています」


「どこで漏れた」


「現場か、兵の会話か、あるいは最初から簡単すぎました」


 俺は唇を噛んだ。


 覚えやすい言葉は、漏れやすい。


 だが、難しくすれば味方が忘れる。


 この加減が難しい。


 その直後、茶屋から別の知らせが来た。


 茶屋の女からだった。


 権六ではない。


 村の若い男でもない。


 茶屋の女が、自分の店の小僧を走らせてきた。


「茶屋裏に、荷を待つふりをした男が二人いたそうです。味噌の匂いがする荷が来るのを待っていたようだと」


「味噌玉を狙っていたのか」


「たぶん」


 もし偽指示に従って茶屋裏へ回していたら、味噌玉は奪われたか、粉を混ぜられたか、噂紙を入れられたかもしれない。


 腹が冷たくなる。


 敵は、ずらし飯を読んだだけではない。


 ずらし飯の変更そのものを偽ってきた。


 伊三郎が低く言った。


「変則と混乱は違います」


 俺は頷いた。


「うん」


 この言葉は、今日の芯になる。


 変則は、こちらが決めてずらすこと。


 混乱は、敵にずらされること。


 似ているが、まったく違う。


 俺は弥助殿へ報告を出した。


 偽変更の男。

 茶屋裏の待ち伏せ。

 表の合言葉漏れ。

 返し言葉で阻止。


 同時に、すぐ対応を決める。


「今日の変更は、これ以上しない」


 俺は言った。


「今出ている荷は、予定通り進める。追加変更は赤札があっても、一度清洲へ戻して確認。現場独断で茶屋裏へ回さない」


「赤札でも?」


 蔵の者が聞く。


「赤札でも。今日、敵は変更を狙っている。動かすより、止めるほうを優先する」


 伊三郎が頷く。


「記録します。偽変更発生時は、追加変更停止」


 かやから戻った報告には、短い言葉が添えられていた。


「清吉、走るな。荷は無事」


 読まれすぎている。


 だが、ありがたかった。


 前進飯場では、味噌玉が無事に届いた。


 佐助が小さめに割って湯へ入れたところ、溶け残りも少なかったという。


 兵の反応は悪くない。


 権六の文句はこうだった。


「味噌玉はいい。だが、椀が足りないと揉める」


 また新しい問題だ。


 味噌玉は椀が要る。


 握り飯だけなら手で食える。


 味噌玉湯には椀が要る。


 椀を誰が持つか、どこで洗うか、水を使うか。


 また飯場の腹が広がる。


 俺は小帳面に書いた。


 味噌玉、椀必要。

 椀洗い水注意。

 村水使いすぎるな。


 夕方、かやが戻ってきた。


 泥は少ないが、顔は険しい。


「男は逃げた。茶屋裏の二人も、弥助殿の配下が行った時には消えてた」


「荷は?」


「無事。味噌玉も無事。けど、危なかった」


「ありがとう」


「礼より、返し言葉をもう少し考えて。『味噌玉』は簡単すぎる」


「伊三郎とも話す」


「あと、現場で変更を受ける人を絞る。誰でも聞けると危ない」


 その通りだ。


 ずらし飯は、味方全員が何となく知っているだけでは危ない。


 誰が変更を聞くか。

 誰が止めるか。

 誰が清洲へ戻すか。


 決めなければならない。


 佐助も戻ってきた。


 少し疲れているが、味噌玉の包みを大事そうに持っている。


「味噌玉、小さくすると溶けやすいです。でも、小さすぎると兵が二つ三つ欲しがります」


「配る数が増える」


「はい。数え間違いが起きます」


 味噌玉が成功すれば、今度は数の問題。


 飯はどこまでも面倒だ。


 作兵衛は言った。


「人足には味噌玉はいい。ただし、熱湯を急いで飲ませると舌を焼く。歩き出す前に少し冷ます時間がいる」


「時間か」


「そうだ。ずらし飯でも、人の口の熱さはずらせねえ」


 変な言い方だが、本当にそうだ。


 敵に読まれないように時間をずらしても、熱いものを飲める温度までは変えられない。


 人の身体には、ずらせないところがある。


 夜、報告会は長くなった。


 伊三郎は新しい項目を作った。


 変則飯場帳。


 その中に、さらに項目が増える。


 正規変更。

 偽変更。

 変更受け取り役。

 返し言葉。

 追加変更停止。

 味噌玉椀管理。

 椀洗い水。

 味噌玉数。


 俺は頭が痛くなった。


「伊三郎」


「はい」


「帳面で飯が埋まる」


「帳面がないと飯が迷います」


「それは分かるけど」


「変則をするなら、変則を縛る帳面が必要です」


 伊三郎はきっぱり言った。


「縛らない変則は、ただの混乱です」


 今日の言葉がまた出た。


 変則と混乱は違う。


 その違いは、帳面と約束と受け取り役が作る。


 信長様へ簡単な報告を上げると、返ってきた言葉は短かった。


「敵は変則を真似た。なら、次は真似できぬところを作れ」


 真似できぬところ。


 それは何だろう。


 合言葉を難しくすることだけでは足りない。


 返し言葉も漏れる。


 荷の形も見られる。


 味噌玉も覚えられる。


 では、敵が真似できないものは何か。


 俺は粥をすすりながら考えた。


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、偽物に誘われなかった味だね」


「怖い味だ」


「でも、無事だった」


「うん」


 佐助が味噌玉湯を見ながら言った。


「味噌玉も、偽物を作られるかもしれません」


 俺は顔を上げた。


 そうだ。


 敵は偽印を作った。


 噂紙を作った。


 偽の変更を出した。


 なら、偽の味噌玉もあり得る。


 作兵衛が低く言った。


「じゃあ、味噌玉にも印がいるな」


 かやが頷く。


「包み方も。結び方も」


 伊三郎は筆を取る。


 また増える。


 でも、必要だ。


 権六が味噌玉湯をすすりながら言った。


「真似できねえものって、味じゃねえの?」


「味?」


「清吉たちの味噌玉は、ちゃんと腹に落ちる。偽物は、たぶん腹が嫌がる。兵に分かるかは知らんけど」


 佐助が真剣な顔になった。


「味を、確認する役が必要かもしれません」


「毒見か?」


「毒見ではなく、味見です。清洲式の味と違うかどうか」


 清洲式の味。


 また新しいものが出てきた。


 敵が真似できないもの。


 それは、もしかすると味だけではない。


 村との約束。

 人足の背を見た重さ。

 佐助が選ぶ味噌。

 かやの包み方。

 伊三郎の帳面。

 作兵衛の「隠すな」という言葉。

 権六の文句。


 それら全部が混じったもの。


 敵は形を真似できる。


 紙も真似できる。

 印も真似できる。

 変更も真似できる。


 でも、腹に落ちるまでの全部は、簡単には真似できない。


 俺は椀を見た。


「明日から、味噌玉の味見役を決める」


 俺は言った。


「佐助だけではなく、兵と人足にも一人ずつ。いつもの味と違うと思ったら止める」


 権六がにやりと笑った。


「文句役の出番だな」


「おまえは兵側」


 作兵衛が言う。


「人足側は俺が見る」


 かやが味噌玉の包みを手に取る。


「包みも変える。偽が入っても分かるように、竹皮の端を少し折る。日ごとに折り方を変える」


 伊三郎が書く。


「味噌玉確認。味、包み、折り、受け取り」


 また帳面が厚くなる。


 だが、今日ばかりはそれが心強かった。


 偽のずらし飯は、荷を逸らそうとした。


 だが、かやが止めた。


 返し言葉が守った。


 茶屋の女が知らせた。


 味噌玉は届いた。


 飯は、偽物に誘われなかった。


 明日からは、もっと面倒になる。


 でも、面倒な飯ほど敵は真似しにくい。


 俺は味噌玉湯をすすった。


 少し溶け残りがある。


 佐助がすぐ気づいて言った。


「次は、もう少し細かくします」


「頼む」


 変則と混乱は違う。


 偽物と本物も、腹で見分けられるようにしなければならない。


 美濃攻略の前に、飯の戦はどんどん細かくなっていく。


 でも、その細かさが、たぶん清洲式の強さになる。

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