表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/160

第五十四話 読まれる飯は、狙われる

 三方向からの揺さぶりを乗り切った翌日、清洲蔵には妙な静けさがあった。


 勝った、という空気ではない。


 負けなかった、という空気だ。


 川道は止めた。

 逃げ道も止めた。

 前進飯場は小さくした。

 表道に荷を寄せ、握り飯でつなぎ、村との約束を守った。


 飯は止まらなかった。


 だが、敵もこちらを見ている。


 それがはっきりした。


 川道には水面を汚す袋。

 逃げ道には倒木と穴。

 前進飯場には噂紙。


 どれも、こちらが大事にしている場所だった。


 つまり、敵は分かっている。


 清洲式が何を大事にしているか。


 水。

 道。

 村の信用。

 人足の背。

 荷の流れ。


 敵はそこを見て、そこを狙った。


 俺は朝から、粥の鍋を見ながら落ち着かなかった。


 米は煮えている。


 湯気も立っている。


 味噌も悪くない。


 なのに、鍋の中まで敵に覗かれているような気がした。


「清吉」


 かやが言った。


「鍋を睨んでも敵は出てこないよ」


「出てきたら困る」


「出てきたら煮る?」


「やめろ。飯がまずくなる」


 かやは笑ったが、すぐに表情を引き締めた。


「でも、昨日は読まれてたね」


「うん」


「川道、逃げ道、前進飯場。全部、こっちが使うって分かってる場所だった」


「使う場所は、敵にも分かる」


「だから、次はずらすしかない」


「ずらす?」


 かやは荷の縄を指で引いた。


「時間。場所。荷の形。全部、いつも通りにしない」


 その時、弥助殿が蔵へ入ってきた。


「かやの言う通りだ」


 俺たちは振り返った。


 弥助殿はいつものように短く言う。


「上様がお呼びだ。清吉、かや、伊三郎、佐助、作兵衛。来い」


 まただ。


 この呼び出しは、たいてい腹が重くなる。


 俺は火を落とし、鍋を佐助に任せた。


 信長様の部屋へ入ると、地図の上に昨日の三方向の札が置かれていた。


 川。

 山。

 紙。


 その三つの札が、まるでこちらを責めているように見えた。


「面を上げよ」


 信長様は言った。


「敵は清洲式を学んでいる」


 いきなりだった。


 だが、誰も驚かなかった。


 もう腹では分かっていた。


「昨日、敵は三つの糸を引いた。川道、逃げ道、前進飯場。こちらが大事にしている場所だ」


「はい」


 俺は答えた。


「つまり、こちらの飯の型が見えている」


 信長様は地図を指で叩いた。


「型は強い。だが、読まれれば狙われる」


 胸に刺さった。


 清洲式は、型を作ってきた。


 水を見る。

 火を見る。

 泥を見る。

 荷を見る。

 村を見る。

 人を見る。

 粉を見る。


 帳面を作る。

 荷を分ける。

 飯場を小さくする。

 約束を写す。

 人足の負担を記す。


 それで強くなった。


 でも、その型を敵が覚えれば、次はそこを狙われる。


「では、どうする」


 信長様は俺を見た。


 すぐに答えられなかった。


 型を変える?


 でも、型を捨てれば混乱する。


 前進飯場の約束を変えすぎれば村が怒る。


 荷の結びを変えすぎれば現場が迷う。


 人足の役を変えすぎれば背が潰れる。


 飯場は、遊びではない。


「型は捨てられません」


 俺は言った。


「捨てれば、こちらが先に壊れます」


 信長様は黙っている。


「でも、全部を同じ時、同じ場所、同じ荷で動かすと読まれます。だから……」


 かやが続きを引き取った。


「ずらします」


 信長様の目がかやへ動く。


「何をだ」


「時間、場所、荷の形です」


 かやは地図の上に小石を三つ置いた。


「前進飯場は朝に火を使うと決めています。でも、毎回同じ時刻に荷が着くと読まれます。だから、飯場で炊く日と、清洲で握り飯を作って持ち込む日を混ぜる」


 次に、前進飯場の村の少し手前に小石を置く。


「場所も、飯場そのものだけに集中させない。村の外れの栗の木、茶屋手前の待避場所、川道の荷置き場。小さな受け渡し場所を作る。ただし、火は焚かない。荷も長く置かない」


 さらに、荷の形を示すように縄を置く。


「荷も変える。味噌樽だけでなく竹筒、竹筒だけでなく味噌を溶いた濃い汁を小壺で運ぶ日も作る。米俵だけでなく握り飯、平袋、粥米。敵が『今日は味噌樽を狙えばいい』と思えないようにする」


 俺はかやを見た。


 すごい。


 だが、同時に怖い。


「混乱しないか」


 俺が聞くと、かやは頷いた。


「する。だから全部を毎回変えない。変える場所を決める」


 伊三郎がすぐに筆を取った。


「変則飯場、ですね」


「また名前がついた」


 俺が呟くと、伊三郎は平然と答えた。


「名前がないと運用できません」


 信長様は、面白そうに目を細めた。


「変則飯場か」


「はい」


 伊三郎が続ける。


「基本の型は残します。水、火、泥、荷、村、人、粉。約束も守ります。そのうえで、敵に読まれやすい部分――到着時刻、荷の外見、受け渡し場所――だけを変えます」


「帳面で管理できるか」


「できます。ただし、変える日と変えない日を明確にしないと、味方が混乱します」


「合言葉は?」


「必要です」


 伊三郎は俺を見た。


 嫌な予感がした。


「清吉、変則飯場用の言葉が要ります」


「俺が?」


「清吉の言葉は現場が覚えやすいので」


「変な言葉だからだろ」


「はい」


 否定しなかった。


 作兵衛が腕を組んで言う。


「人足には分かりやすいほうがいい。難しい言葉だと背中に入らねえ」


 背中に入る言葉。


 もう何でも背中になってきた。


 俺は少し考えた。


 火を使わず握り飯で通す日。

 荷の形を変える日。

 飯場を小さく見せる日。

 受け渡しを手前で済ませる日。


「……ずらし飯」


 口から出た。


 部屋が一瞬静かになる。


 かやが肩を震わせた。


 笑っている。


「清吉らしい」


「今のなしで」


 伊三郎はもう書いていた。


「ずらし飯。覚えやすいです」


「嫌だ」


「使います」


 信長様が低く笑った。


「ずらし飯か。よい。敵の腹をずらせ」


 もう決まってしまった。


 俺は諦めた。


 佐助が静かに手を挙げた。


「味噌を変則にするなら、注意が必要です」


「申せ」


 信長様が言う。


「味噌を溶いた濃い汁で運ぶ場合、傷みやすいです。長く置けません。夏場なら特に危ない。今はまだよいですが、時間を決めないと危険です」


「どれくらいだ」


「半日以内。できれば朝に作って昼前に使い切る。残りは捨てるか、火を通し直す必要があります」


 捨てる。


 飯炊きとしては嫌な言葉だ。


 だが、傷んだ味噌汁を出せば腹を壊す。


「もったいないが、腹を壊すよりいい」


 俺が言うと、佐助は頷いた。


「はい。濃い汁は、ずらし飯の日だけ。常用はしないほうがいいです」


 作兵衛が言った。


「人足側も同じだ。毎日時間をずらされると、身体が持たん。早出の日、遅出の日を帳面に残してくれ」


「分かりました」


 伊三郎が書く。


 変則飯場は、敵を惑わす。


 だが、味方を壊してはいけない。


 ずらすのは、敵に読まれる部分だけ。


 守るのは、村との約束、人足の背、飯の安全。


 信長様は満足そうに頷いた。


「よい。明日、試せ」


「明日ですか」


 思わず声が出た。


 信長様は当然のように言う。


「敵は待たぬ」


 そうだ。


 敵も清洲式を学んでいる。


 こちらが迷っている間に、また川へ袋を流し、逃げ道へ穴を掘り、村へ紙を撒く。


 だから、明日。


 清洲蔵へ戻ると、すぐ準備が始まった。


 伊三郎が変則飯場帳を作る。


 かやが荷の形を三種類からさらに分ける。


 佐助が濃い味噌汁用の小壺を確認する。


 作兵衛が早出組と遅出組の人足を選ぶ。


 俺は、ずらし飯の手順を考えた。


 明日の試しは、前進飯場を狙わせないためのものだ。


 いつもなら、清洲から米と味噌が表道を通り、前進飯場で小鍋を使う。


 明日は違う。


 一、清洲で握り飯を多めに作る。

 二、前進飯場では火を焚かない時間を作る。

 三、味噌は樽ではなく、小壺の濃い味噌汁として一部だけ運ぶ。

 四、受け渡しは村の手前、栗の木ではなく、茶屋側の待避場所で行う。

 五、村には先に知らせる。火を使わない分、水も減ると伝える。


 火を使わない飯場。


 それは飯場なのか、少し悩む。


 だが、兵の腹が戻れば飯場だ。


 火を焚かずに飯場を通す日があってもいい。


「清吉」


 かやが言った。


「顔が火を使わない鍋」


「もう何でもありだな」


「だって、火を使わない飯場を考えてる顔だから」


「火がないと不安なんだ」


「でも、敵は煙を見る。火を焚かない日があると、敵は迷う」


 煙。


 飯場の印。


 味方には安心。


 敵には目印。


 火を焚かないことも、守りになる。


 佐助は小壺に味噌を溶いていた。


 濃い。


 香りが強い。


「これ、匂いで分からないか」


 俺が聞くと、佐助は頷いた。


「分かります。だから、二重に包みます。でも、完全には隠せません。長く隠すと傷みます」


「運ぶ人は?」


「匂いがつくので、いつもの味噌運びと違う人にすると、逆に怪しまれるかもしれません」


 かやが言った。


「なら、味噌運びはいつもの人。ただし、外見は水壺に見せる」


「水壺?」


「敵が見ても、味噌樽じゃないと思う。中身は濃い味噌汁」


「水と思われて狙われないか」


「狙われるかも。でも味噌樽よりは読みにくい」


 何をしても危険は残る。


 だから、全部を守るのではなく、狙いをずらす。


 ずらし飯。


 変な名だが、少し腹に落ちてきた。


 翌朝、清洲蔵はいつもと違う動き方をした。


 火は早く入れた。


 だが、前進飯場へ送る小鍋は出さない。


 握り飯を多く作る。


 竹皮で包むが、いつもの形ではなく、平たい包みにする。


 兵が腰に差しやすい形だ。


 味噌は小壺に濃く溶く。


 外から見ると水壺に見えるよう、布で巻く。


 人足は早出組と遅出組に分かれる。


 作兵衛が言う。


「早出は荷が軽い。遅出は重いが距離は短い。間違えるな」


 権六は兵に説明していた。


「今日は火を見ても飯が出ない時がある! 握り飯を先に食え! 文句は俺に言え!」


「火があるのに飯がないのか?」


「敵に読ませないためだ!」


「敵より俺たちが迷うぞ!」


「だから俺が説明してるんだろ!」


 権六の声は大きい。


 だが、こういう時には役に立つ。


 迷いを文句にして、先に吐かせる。


 前進飯場の村へは、先に若い男が走った。


 約束の写しに、今日の変更を書いて持たせる。


 今日は水をほとんど使わない。

 火は使うが、飯を炊く火ではなく湯を少し沸かすだけ。

 灰は少量。

 荷は少なめ。

 受け渡しの一部は村手前で行う。


 村に黙って変則をすれば、約束を破ったと思われる。


 敵に読まれないようにして、村にも隠さない。


 この加減が難しい。


 昼前、最初の報告が来た。


 前進飯場からではない。


 茶屋手前の待避場所からだった。


 荷札は、荷。


「受け渡し成功。握り飯は兵五十へ渡りました。ただ、兵から『飯場に行かないのか』と不満あり。権六殿が対応中」


 権六、働いている。


「不満は記録。握り飯の形は?」


「腰に差しやすいと好評です。ただ、平たい分、冷めやすい」


 冷めやすい。


 次の改善だ。


「平たい握り飯は、早く食う組向き。長く持つ組には厚めに戻す」


 伊三郎が記す。


 次に前進飯場から報告。


 火。


「村の老人、今日は煙が少ないと確認。水もほとんど使っていません。ただ、飯場なのに飯の匂いが薄いと不思議がっています」


 飯場なのに飯の匂いが薄い。


 それも狙いではある。


 だが、村が不安になるかもしれない。


「村には説明する。今日は敵に煙を読ませない日。水を節約する日。飯は清洲から持ってきたと」


 伊三郎が頷く。


「約束写しに追記します」


 最後に、少し遅れて佐助から報告が来た。


 濃い味噌汁の小壺。


 問題あり。


「匂いが漏れました。布を二重にしても、歩くうちに温まって匂いが強くなります」


「傷んだ?」


「傷んではいません。ただ、敵にも分かるかもしれません」


 失敗だ。


 いや、完全な失敗ではない。


 試して分かった。


 濃い味噌汁は、長く運ぶには向かない。


 使うなら本当に短距離。


 もしくは、匂いがしても構わない囮として。


「濃い汁は短距離だけ。今日の分は昼前に使い切る。残りは火を通す。次からは、味噌をそのまま小分けに戻す」


 俺は言った。


 佐助はほっとしたように頷いた。


「それがいいと思います」


 ずらし飯の初日は、半分成功、半分失敗だった。


 握り飯の受け渡しは使える。

 火を使わない前進飯場は、敵に読まれにくいかもしれない。

 村への説明は必要。

 濃い味噌汁の小壺は匂いが漏れる。

 平たい握り飯は冷めやすい。

 兵は慣れていないので文句が出る。


 夕方、信長様への簡単な報告に呼ばれた。


「ずらし飯はどうだ」


 信長様が聞いた。


 その名を上様の口から聞くと、やはり少し恥ずかしい。


「使えます。ただし、全部をずらすと味方が迷います」


「何が使える」


「握り飯の受け渡し場所をずらすこと。火を使わない飯場にすること。荷を少なく見せること」


「使えぬものは」


「濃い味噌汁の小壺は、匂いが漏れます。短距離なら使えますが、長くは向きません。平たい握り飯は冷めやすいです」


 信長様は頷いた。


「よい。失敗も飯の地図だ」


 飯場可否帳と同じだ。


 使えないものも残す。


 それが次に効く。


「敵は読めなくなるか」


 信長様が聞いた。


「少しは。でも、続ければまた読まれます」


「なら、またずらせ」


「はい」


「型を持て。だが、型に寝るな」


 型に寝るな。


 また難しい言葉だ。


 でも、腹に残った。


 型は必要だ。


 だが、その型の上で眠れば、敵に布団ごと斬られる。


 清洲蔵へ戻ると、皆が待っていた。


 権六が真っ先に言う。


「兵の文句、多いぞ」


「聞く」


「飯場に行ったのに飯の匂いが薄いと落ち着かねえ。握り飯は腰に差しやすいが冷たい。平たいと腹に入った気がしない。味噌汁はほしい」


「多いな」


「仕事だからな」


 文句は全部、伊三郎が書いた。


 かやは握り飯の形を変える案を出す。


「平たいのと厚いのを混ぜる。早く食う組は平たい。後で食う組は厚い」


 佐助は味噌の案を出す。


「味噌汁ではなく、味噌玉にします。味噌に干し菜を混ぜて小さく丸める。湯があればすぐ溶けます。匂いも汁より抑えられます」


「味噌玉」


 俺は目を開いた。


「それはいい」


「ただ、乾きすぎると溶けにくいです」


「試そう」


 作兵衛は人足側の話をする。


「早出と遅出は使える。ただし、遅出の奴が『俺たちは重い荷だけか』と不満を言った。次は交代制にしろ」


「分かった」


 ずらすと、不満もずれる。


 そこも見なければならない。


 夜、試しに味噌玉を湯に溶いた。


 小さな椀に、味噌の香りがふっと立つ。


 汁で運ぶより、匂いが抑えられる。


 湯があれば、すぐ飲める。


 佐助が少し得意そうにしていた。


「これは使えるかもしれない」


 俺が言うと、佐助は嬉しそうに頷いた。


「はい」


 かやが椀をすすり、言った。


「今日の飯は、ずれた味だね」


「名前がひどい」


「でも、悪くないでしょ」


「うん。悪くない」


 権六が横から言う。


「味噌玉はいい。握り飯だけだと喉が文句を言う」


「喉まで文句を言うのか」


「言う。喉も腹の入口だ」


 また変な言葉だ。


 でも、伊三郎が書いている。


 清洲蔵の夜は、少し遅くまで続いた。


 握り飯の形。

 味噌玉。

 火を使わない飯場。

 早出と遅出の交代。

 荷の外見を変える日。

 村へ隠さず、敵には読ませない方法。


 面倒だ。


 だが、敵がこちらを読んでくるなら、こちらも動くしかない。


 読まれる飯は、狙われる。


 なら、読ませない。


 ただし、味方の腹は迷わせすぎない。


 俺は味噌玉を溶いた椀を見た。


 小さな丸い味噌が、湯の中でほどけていく。


 形を変えても、腹に落ちれば飯になる。


 清洲式も、そうでなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ