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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十三話 飯場は一つでは守れない

同じ朝に、三つの飯場から札が来た。


 それだけで、俺の腹は音を立てて沈みそうになった。


 川道からは、水札。

 逃げ道からは、赤札。

 前進飯場からは、紙札。


 札は軽い。


 薄い木片だ。


 だが、そこに刻まれた印ひとつで、清洲蔵の空気は変わる。


 水。

 危険。

 紙。


 飯の敵が、三方向から同時に顔を出した。


「清吉」


 伊三郎が帳面を開いたまま、俺を見た。


「順に受けます」


「順に、か」


「同時には書けません」


「飯も同時には炊けない」


「はい。だから順番を決めます」


 伊三郎の声は落ち着いている。


 その落ち着きがありがたかった。


 俺はまず、水札を持った使いへ向いた。


「川道から。何があった」


 使いは息を整えながら答えた。


「喜助殿より。川は昨日より重い。水面に油のようなものが浮いている場所あり。舟は出せるが、味噌と塩は渡すなと」


「油?」


 佐助が顔を上げた。


「油なら、水に匂いが出ます。飯には使えません」


「川に油を流されたのか?」


 権六が横から言った。


 俺はすぐには答えなかった。


 見たものだけ。


 油のようなもの。


 まだ油とは決まっていない。


 だが、川道の味噌と塩は止められた。


 喜助が止めたなら、止めるべきだ。


「川道の荷は渡さない。喜助さんの判断を優先。味噌と塩は表道へ回す」


 俺は言った。


 かやがすぐに荷台へ向かう。


「表道へ回すなら、結びを変える。川道結びのままだと受け取りで混乱する」


「時間は?」


「かかる。でも、混ざるよりまし」


 その通りだ。


 急いで混ぜれば、後で止まる。


「かや、頼む。佐助、川道へ行く味噌は一度戻して確認。油の匂いが移っていないか見て」


「はい」


 佐助は小皿と布を手に取った。


 次は赤札。


 逃げ道から戻った使いは、肩で息をしていた。


「倒木の場所に、また手が入りました。昨夜のうちに、道の脇へ穴が掘られています。草で隠してありました。人足が一人、踏みかけましたが、作兵衛殿が止めました」


「怪我は?」


「ありません」


 俺は息を吐いた。


 怪我なし。


 まずそこだ。


 だが、穴。


 倒木だけではなく、足を取る穴。


 敵は逃げ道を本気で見ている。


「逃げ道は今日使わない」


 俺は言った。


 使いが驚いた顔をした。


「ですが、荷は」


「逃げ道を使って人足が落ちたら、明日の飯が止まる。今日は使わない。逃げ道荷は前進飯場手前で待機。作兵衛には、穴を埋めるより先に、穴の場所を記して戻るよう伝えて」


 五郎兵衛殿が近くで頷いた。


「よし。焦って埋めると、別の穴を見落とす」


「はい」


「ただし、見張りは残せ。敵が様子を見に戻るかもしれん」


 俺は使いへ伝えた。


「作兵衛へ。人足を穴掘りに使いすぎない。見張りを置く。背当てと水を送る。飯は濃いめ」


「承知しました」


 最後は紙札だった。


 前進飯場から来たのは、村の若い男だった。


 以前、鍬を持って俺たちを睨んでいた男だ。


 今は息を切らしている。


 手には、折り畳まれた紙。


「清吉、これだ」


「どこに?」


「桑畑の端。朝、水番の娘が見つけた」


 伊三郎が紙を受け取り、開く。


 俺には読めない。


 だが、伊三郎の顔が険しくなった。


「何と?」


 俺が聞くと、伊三郎は読み上げた。


「織田は村を信用していない。前進飯場を大きくするため、近く兵を置く。水番は形だけ。いずれ井戸も桑も取り上げる」


 村の若い男が、俺を真っ直ぐ見た。


「爺さんは、まず清吉に見せろと言った」


 胸が熱くなった。


 怒鳴り込まず、燃やさず、まず持ってきてくれた。


 前なら違ったかもしれない。


 飯場を続けた日々が、ここで少し効いている。


「ありがとう」


 俺は頭を下げた。


「すぐ返事を持たせる。いや、返事だけじゃ駄目だ。今日の前進飯場の荷を減らす」


「減らす?」


「紙は、飯場を大きくすると言っている。なら、今日は目に見えて小さくする。使う水も、いつもより少なくする。粥は減るが、握り飯で補う。村の前で、約束の写しも読み上げる」


 若い男は目を瞬いた。


「そこまで?」


「紙に返事するには、見せるしかない」


 伊三郎が頷いた。


「約束の写しに、今日の変更を追記します。水量減、荷量減、火床一つのみ」


「頼む」


 かやが戻ってきた。


「川道荷の表道回し、準備できる。でも、荷が増えるから表道が重くなる」


「表道で待避時間が増えるな」


「うん。茶屋の手前で詰まる」


 水札、赤札、紙札。


 三つを受けただけで、飯の網が一気に重くなった。


 川道は使えない。

 逃げ道も危ない。

 前進飯場は噂で揺れている。


 残るのは表道。


 だが、表道に全部を乗せれば、田の間の道が詰まる。


 詰まれば兵が広がる。


 畦を踏む。


 村が怒る。


 噂が本当になる。


 全部つながっている。


「表道荷を二つに分ける」


 俺は言った。


「一度に出さない。先に味噌と塩。米は遅らせる。前進飯場では、粥を少なくして握り飯でつなぐ。握り飯は清洲から多めに出す」


「握り飯の竹皮は?」


 かやが聞く。


「川道から戻した竹皮は使えるか、佐助に確認してから。駄目なら清洲予備を使う」


「予備が減る」


「減らす。でも、濡れた竹皮で包んで腹を壊すよりいい」


 かやは短く頷いた。


 こういう時、かやは迷わない。


 迷うところと、迷わないところがはっきりしている。


 俺は蔵の中へ声をかけた。


「握り飯を増やします。塩は少し強め。でも、兵用と人足用を分ける。人足用は硬くしすぎない。背負って食べる者が喉を詰まらせないように」


 権六が兵のほうへ走る。


「今日は握り飯が増えるぞ! 文句は俺に言え!」


「何で先に文句を集めるんだ」


 俺が言うと、権六は振り返った。


「先に集めれば、後で散らばらねえ」


 その理屈は、妙に正しい。


 清洲蔵は一気に動き出した。


 川道へ行くはずだった味噌竹筒を戻す。

 佐助が匂いを見る。

 かやが結びを表道用へ変える。

 人足が握り飯用の米を冷ます。

 俺は塩の量を見る。

 伊三郎は札と帳面を行き来する。


 その途中で、弥助殿が入ってきた。


「三方向か」


「はい」


「敵も面倒なことを覚えたな」


「こちらが面倒になったからですか」


「そうだろうな」


 弥助殿は淡々と言った。


「飯の網が見えたから、糸を三本まとめて引いてきた」


 糸を三本。


 川道。

 逃げ道。

 噂紙。


「どうする」


 弥助殿が聞く。


 試すような声ではない。


 必要だから聞いている声だった。


「切れそうな糸には無理に荷をかけません。川道は止めます。逃げ道も今日は止めます。前進飯場は小さくします。表道に寄せますが、一度に載せません。清洲からの握り飯でつなぎます」


「敵に、川道と逃げ道を止められたと見えるぞ」


「はい」


「よいのか」


 よくはない。


 だが、無理をすればもっと悪い。


「止められたのではなく、止めたと見せます」


 俺は言った。


 自分で言って、少し腹が震えた。


「喜助さんの判断で川道を止める。作兵衛の判断で逃げ道を止める。前進飯場は村との約束で小さくする。全部、こちらの決めたこととして帳面に残します」


 弥助殿の目が少し動いた。


「敵に押されて止まったのではない、と」


「はい。危ない飯は出さない。危ない道は使わない。危ない噂には、小さくすることで返す。それが清洲式です」


 言い切った。


 腹はまだ震えている。


 でも、言った。


 弥助殿は短く笑った。


「腹まとめ役らしくなってきたな」


「やめてください」


「褒めている」


「余計にやめてください」


 弥助殿はすぐ真顔に戻った。


「では、その形で動け。俺は川道へ兵を少し回す。油のようなものを見た者を探す。逃げ道には五郎兵衛殿が行く。清吉、おまえは清洲で受けろ」


「はい」


 行きたい。


 でも、今日は行かない。


 昨日と同じだ。


 清洲で受け、返す。


 それが、複数飯場を動かす役だ。


 午前のうちに、前進飯場へ向けた小荷が出た。


 いつもより少ない。


 見て分かるほど少ない。


 村へ見せるためでもある。


 握り飯は別に包む。


 これは村の水を使わず清洲で作ったものだ。


 前進飯場では温めない。


 火を小さくするためだ。


 使いの若い男に、伊三郎が追記した写しを持たせた。


「水量減、荷量減、火床一。今日の噂への返答として、清洲側から申し出る」


 若い男は写しを受け取った。


「爺さんに渡す」


「お願いします」


 男は少し迷ってから言った。


「清吉」


「何でしょう」


「あの紙、見た時、少し腹が立った。でも、前なら爺さんも怒鳴っていたと思う。今日はまず見せろと言った」


「ありがたいです」


「礼はいい。次に約束破ったら怒鳴る」


「はい」


 それでいい。


 怒鳴る相手が分かっているだけ、噂よりずっといい。


 昼前、川道から佐助が戻ってきた。


 顔色は悪いが、目はしっかりしている。


「油のようなものは、油ではありませんでした」


「違うのか」


「たぶん、潰した木の実か何かです。水面に膜が張っていました。でも、匂いが少し強くて、飯には使いたくありません」


「誰かが流した?」


「分かりません。ただ、自然に落ちた量ではないと思います」


 弥助殿の配下が続ける。


「川上に、小さな袋が引っかかっていました。中に潰れた実の残りが」


 敵の仕業だ。


 川を毒にするほどではない。


 だが、川道の信用を揺らすには十分。


 喜助が止めてくれてよかった。


「川道は今日いっぱい止める。明朝、喜助さんにもう一度見てもらう。水は飯に使わない。舟だけなら?」


「喜助殿は、荷を減らせば舟は出せると。ただ、味噌と塩は嫌だと」


「なら、今日は人だけ。荷は渡さない」


 伊三郎が記す。


 川道、水膜。荷止め。人のみ可。


 午後に入る前、逃げ道からも知らせが来た。


 五郎兵衛殿の使いだ。


「穴と倒木、合わせて三か所。敵の手です。ただし、作兵衛殿が荷を待機場所に下ろしていたため、人足の負担は軽く済みました。今日は道を開けず、印をつけて戻るとのこと」


「開けない?」


「はい。五郎兵衛殿より、敵が見ている可能性があるため、道を開けたように見せない、と」


 なるほど。


 敵は、逃げ道を塞いだ後、こちらがどう動くか見ているかもしれない。


 すぐ開ければ、逃げ道の重要性を教えることになる。


 今日は使わない。


 印だけつける。


 後で別の時に直す。


「分かった。逃げ道荷は戻す。人足には濃い粥。今日は無理に働かせない」


 作兵衛が戻った時、泥だらけだった。


「道は開けてない」


「聞いた」


「人足は無事だ」


「よかった」


「だが、腹は荒れてる。敵に道をいじられると、背中より腹に来る」


「粥を出す」


「濃いやつな」


「分かってる」


 濃い粥をよそいながら、俺は思った。


 敵は、こちらの道だけでなく、人足の腹も揺らしている。


 自分たちの道が狙われた。


 それは不安になる。


 だから飯で戻す。


 腹から戻す。


 夕方、前進飯場から若い男が戻ってきた。


 表情は悪くない。


「爺さんが言ってた。今日は紙より荷が少なかったって」


「怒っていましたか」


「いや。笑ってた」


「笑ってた?」


「紙は飯場を大きくすると言った。清洲は小さくした。なら、紙が嘘だって」


 胸の奥が熱くなった。


 前進飯場は揺れなかった。


 いや、揺れたが、折れなかった。


「水は?」


「少なく済んだ。火も一つ。灰も飛んでない」


「兵は?」


「握り飯で文句を言ってたけど、権六って人が『今日は紙に勝つ飯だ』って言ってた」


 権六。


 また勝手に変な名前をつけている。


 でも、悪くない。


 紙に勝つ飯。


 今日の握り飯は、まさにそれだった。


 夜、三方向の報告をまとめた。


 川道は、木の実の膜で荷止め。

 逃げ道は、穴と倒木で使用中止。

 前進飯場は、噂紙に対して荷と水と火を小さくすることで対応。

 表道に荷を寄せたが、分割して出したため畦被害なし。

 人足の怪我なし。

 飯は止まらず。


 伊三郎が最後に書いた。


「三方向揺さぶり。飯場連動により切断なし」


「切断なし?」


「飯の網が切れなかったということです」


 昨日も似たことを言った。


 でも、今日はさらに強く感じた。


 敵は三本の糸を引いた。


 川。

 山。

 紙。


 こちらは、その三本を無理に守らず、使わない糸を使わないと決めた。


 残った糸に荷を分け、握り飯でつなぎ、帳面で返した。


 飯場は一つでは守れない。


 一つの飯場を守るには、別の飯場、別の道、別の帳面、別の人の腹が要る。


 夜、皆で粥を食べた。


 今日は二種類あった。


 逃げ道の人足用に濃い粥。


 前進飯場から戻った者には、軽い粥。


 同じ鍋で同じものを出すのではなく、腹に合わせて変える。


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、三本の糸の味だね」


「うまいのか、それ」


「絡まってるけど切れてない味」


 権六が横から言う。


「俺は紙に勝つ飯のほうがいい」


「勝手に名付けるな」


「いいだろ。今日の握り飯は、噂に勝ったんだから」


 作兵衛が濃い粥をすすりながら言った。


「逃げ道は勝ったとは言えねえ。今日は使わなかった」


「使わねえで守ったんだろ」


 権六が言う。


 珍しく良いことを言った。


 作兵衛は少し笑った。


「そうだな。使わねえで守った」


 俺は粥をすすった。


 腹に落ちる。


 今日は、走らなかった。


 川にも行かなかった。

 逃げ道にも行かなかった。

 前進飯場にも行かなかった。


 でも、三つの飯場が動き、止まり、つながった。


 清洲で受けて、返した。


 腹まとめ役という変な役の意味が、また少しだけ分かった。


 美濃攻略は、まだ遠い。


 だが、敵はもう飯の網を揺さぶっている。


 なら、こちらも網を強くする。


 一つの火ではなく、いくつもの火で。

 一つの鍋ではなく、いくつもの鍋で。

 一人の腹ではなく、皆の腹で。


 飯場は一つでは守れない。


 そのことを、今日の粥は教えてくれた。

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