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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十二話 美濃を攻める前に、腹を攻める

 美濃攻略兵糧組。


 その名がついた翌朝、清洲蔵の中は、いつもより少しだけよそよそしかった。


 米俵は同じ場所にある。

 味噌樽も同じ匂いをしている。

 竹皮も縄も塩袋も、昨日と大きく変わらない。


 なのに、蔵に入った瞬間、空気が違った。


 皆が俺を見る。


 かやも見る。

 佐助も見る。

 作兵衛も見る。

 伊三郎は見ないふりをして帳面を開いているが、たぶん見ている。

 権六に至っては、入口で腕を組んで待っていた。


「美濃道兵糧組、腹まとめ役殿」


「やめろ」


「似合ってるぞ」


「似合いたくない」


 権六は楽しそうだった。


 俺は全然楽しくない。


 昨日、信長様から命じられた。


 美濃道兵糧組の取りまとめ。


 伊三郎は帳面をまとめる。

 かやは荷をまとめる。

 作兵衛は人足をまとめる。

 佐助は味噌と粉を見る。

 権六は文句を言う。


 では、俺は何をするのか。


 腹をまとめる。


 そう言われた。


 意味は、何となく分かる。


 水、火、泥、荷、村、人、粉。

 飯場可否帳、噂紙帳、人足約定帳。

 表道、川道、逃げ道。

 前進飯場、使わぬ場所、条件付きの場所。

 兵の文句、村の暦、人足の背、船頭の川。


 それらを、飯になる形にする。


 でも、分かることとできることは別だ。


 腹は、朝から米俵十俵分くらい重かった。


「清吉」


 かやが荷台の上から声をかけた。


「顔が新任役人」


「やめてくれ」


「すごく嫌そうな新任役人」


「だからやめてくれ」


 かやは笑いながら、縄を締めた。


「でも、今日は本当に役人みたいなことするよ」


「何を?」


「割り振り」


 その言葉だけで、また腹が重くなる。


 伊三郎が帳面を持って近づいてきた。


「本日から、美濃攻略準備に向けた兵糧運用の割り振りを作ります」


「早いな」


「昨日のうちに必要になりました」


「寝たか」


「少し」


「それはもう聞いた」


 伊三郎は真顔のまま帳面を開いた。


「まず、清洲蔵を三つに分けます」


「蔵を?」


「実際に壁を作るわけではありません。役割です。ひとつ、通常蔵。ふたつ、美濃道送り蔵。みっつ、前進飯場控え蔵」


「名前だけで腹が重い」


「必要です」


 またそれだ。


 必要なら仕方ない。


 伊三郎は続けた。


「通常蔵は清洲の備えを崩さないため。美濃道送り蔵は表道・川道・逃げ道へ出す荷。前進飯場控え蔵は、村との約束に合わせた小荷を作る場所です」


「一緒に置くと?」


「混ざります」


 即答だった。


「そして、混ざれば飯は腐ります」


 その言葉は強かった。


 米そのものが腐るという意味だけではない。


 約束が腐る。

 荷が腐る。

 道が腐る。


 そういう意味だと、今なら分かる。


「分けよう」


 俺は言った。


「ただし、清洲の備えは削りすぎない。美濃道ばかり見て、清洲の腹が空いたら駄目だ」


 伊三郎の筆が動いた。


「清洲の腹を空かせない」


「それも書くのか」


「重要です」


 まあ、重要だ。


 かやが荷の前で手を叩いた。


「じゃあ、荷も色分けじゃなく結び分けする。通常蔵は普通結び。美濃道送りは二重結び。前進飯場控えは小結び。逃げ道用は背結び」


「多い」


「多いけど、見れば分かる」


「俺にも?」


「清吉にも」


 それはありがたい。


 佐助も味噌樽の前で言った。


「味噌も分けます。清洲用、美濃道用、前進飯場用、逃げ道用」


「味噌まで四つか」


「はい。清洲用は日常の味。美濃道用は塩気が安定したもの。前進飯場用は少量で伸びるもの。逃げ道用は竹筒に詰めても崩れにくいもの」


「崩れにくい味噌?」


「あります。柔らかすぎると竹筒の中で寄ります。硬すぎると溶けにくいです」


 味噌にも性格がある。


 佐助が言うと、本当にそう思えてくる。


 作兵衛は人足たちの前に立っていた。


「今日から、人足も分ける。荷車押し、背負い、川道補助、水汲み、予備。自分の役を聞いてから荷を持て。勝手に『俺は背負える』とか言うな」


 人足の一人が笑った。


「作兵衛、偉くなったな」


「偉くねえ。背中が少し詳しいだけだ」


「背中役か」


「背中役でいい」


 作兵衛は笑わなかった。


 でも、人足たちは笑った。


 その笑いで、少し空気がほぐれる。


 美濃攻略準備。


 言葉だけなら大きい。


 だが、始まるのは結局こういうことだ。


 米を分ける。

 味噌を分ける。

 荷を分ける。

 人を分ける。

 帳面を分ける。


 分けて、つなぐ。


 それが飯の網になる。


 昼前、信長様から最初の指示が来た。


 美濃道沿いの三か所で、同時に小さな飯場確認を行う。


 一つ目は、前進飯場の村。

 二つ目は、渡し場の川道。

 三つ目は、逃げ道の倒木が置かれた場所。


 同時に。


 俺の腹が嫌な音を立てた気がした。


「同時、ですか」


 弥助殿は頷いた。


「美濃攻略となれば、飯場は一つずつ順番には動かぬ。同時に動く。今のうちに試す」


「俺は三か所に行けません」


「だから試す」


 弥助殿の言葉は短い。


 だが、いつも通り逃げ道を塞いでくる。


 俺がいない場所でも動くようにしなければならない。


 それは分かっている。


 分かっているが、怖い。


「前進飯場は伊三郎」


 俺は言った。


 伊三郎が頷く。


「行きます」


「渡し場は佐助と喜助さん。味噌と川を見てもらう。かやは?」


「逃げ道」


 かやが即答した。


「倒木場所と荷の戻し方を見る。作兵衛もこっち」


「俺も逃げ道だな」


 作兵衛が頷く。


「人足が待つ場所を作らねえと」


「では、俺は?」


 自分で聞いて、少し情けなくなった。


 かやが言った。


「清吉は、清洲で三つの報告を受ける」


「現場へ行かないのか」


「行きたいでしょ」


「行きたい」


「でも、腹まとめ役なら、全部の腹を清洲で受けるのも仕事」


 痛いところを突かれた。


 俺は現場へ行けば安心する。


 鍋を見て、火を見て、水を見て、荷を見ていれば落ち着く。


 だが、美濃攻略準備では、それでは足りない。


 清洲にいて、三か所の飯場から来る報告を受け、次の荷を決める。


 それが必要になる。


 嫌だ。


 でも、やるしかない。


「分かった」


 俺は小さく息を吐いた。


「俺は清洲で受ける。三か所からの報告を聞いて、次の荷を決める」


 伊三郎が言った。


「そのために、報告札を使います」


「報告札?」


 伊三郎は木札を三種類出した。


 水。

 火。

 荷。


 さらに、赤い小札。


 危険。


「現場から戻る者が長い説明をできない時、まず札を出します。水に問題があれば水札。火なら火札。荷なら荷札。危険なら赤札。清吉はそれを見て、何を優先するか決めます」


「俺が?」


「はい」


 腹がまた重くなる。


 でも、これは分かりやすい。


 字が苦手な俺にも分かる。


「いい。使おう」


 同時飯場確認は、午後から始まった。


 清洲蔵から三方向へ荷が出る。


 前進飯場へは、小鍋と味噌竹筒、約束の写し。

 渡し場へは、川道用の味噌と塩、濡れ防止の竹皮。

 逃げ道へは、背負い荷、背当て予備、倒木処理用の濃い粥材料。


 俺は清洲蔵に残った。


 鍋の前に立っていないと落ち着かないので、人足用粥を少し炊きながら待つ。


 これは待機組用だ。


 何かあった時、すぐ動ける人足へ食わせる。


 待つ人にも飯が要る。


 それを忘れないためでもあった。


 最初に戻ってきたのは、渡し場からの使いだった。


 佐助の印がついた小札を持っている。


 水札と荷札。


「川ですか?」


 使いは息を整えながら答えた。


「川は軽い。ですが、荷置き場に旅人が座っていました。喜助殿が怒鳴ってどかしました。佐助殿より、荷置きの線をもっと見やすくしろとのことです」


 水は問題なし。


 荷置きに問題。


 旅人が座る。


 前にも喜助が言っていた。


 線を引いたが、まだ弱いらしい。


「荷置き縄を太くする。木札を立てる。旅人用の腰掛けを別にする」


 俺は言った。


 近くにいた蔵の者がすぐ動く。


 自分で言ってから、少し驚いた。


 決めた。


 俺が。


 小さなことだ。


 でも、これが清洲で受けるということなのかもしれない。


 次に戻ってきたのは、前進飯場からの使いだった。


 火札。


 俺の腹が跳ねる。


「桑か?」


「はい。風が急に変わりました。伊三郎殿が火を予定より早く落としました。粥は少なめ。兵には握り飯で補いました。村の老人は納得しています」


 よかった。


 火は守った。


 だが、粥が少なめ。


 次の荷では握り飯を増やす必要がある。


「前進飯場行きの次荷に、握り飯を増やす。味噌粥用の米は減らす。火が使えない時のために、冷めても食える塩握りを多めに」


 俺は言った。


 また一つ、決めた。


 最後に、逃げ道からの使いが戻ってきた。


 赤札だった。


 蔵の空気が固まる。


「何が」


 俺の声が少し上ずった。


「倒木の先に、もう一本ありました。切り口あり。かや殿と作兵衛殿が確認中。人足は荷を下ろせる場所へ移動。怪我はありません。ただ、道を開けるには時間がかかります」


 敵は一か所ではなく、二か所に倒木を置いていた。


 腹が冷える。


 だが、怪我はない。


 荷も下ろせている。


 待機場所は機能した。


「逃げ道荷は戻すな。待機場所で保持。清洲から倒木処理用の濃い粥と水を出す。背当て予備も追加。人足を増やしすぎない。疲れた者と交代する予備を二人」


 言い切ってから、息を吸った。


 赤札を見ると走り出したくなる。


 でも、清洲に残ると決めた。


 ここで走れば、次の荷が止まる。


 俺は鍋の火を強くした。


 倒木処理用の濃い粥を作る。


 味噌を少し強める。


 塩も少し。


 干し菜を細かく。


 人足が木を動かす飯だ。


 腕と背中に入る飯。


 蔵の者たちが動く。


 人足が食べる分を竹皮で包む。


 水筒を用意する。


 背当てを二つ。


 縄と小さな斧。


 清洲から、逃げ道へ荷が出る。


 俺はそれを見送った。


 行きたい。


 でも、行かない。


 行かないことも、今日の俺の仕事だった。


 夕方、三組が戻った。


 前進飯場は約束を守った。

 渡し場は荷置き縄を太くする必要あり。

 逃げ道の倒木は二本。一本は処理、もう一本は明日に回す。怪我なし。荷の損失なし。


 かやは泥だらけだった。


「清吉、清洲でちゃんと受けた?」


「受けた」


「顔は?」


「たぶん焦げてた」


「でも走ってこなかった」


「走りたかった」


「走らなかったなら合格」


 作兵衛も疲れた顔で粥を受け取った。


「濃い粥、効いた」


「木は動いたか」


「一本はな。もう一本は明日だ。無理にやると背が折れる」


「明日にしよう」


「そう言えるようになったな」


 作兵衛が少し笑った。


 以前の俺なら、今日中に全部やりたくなっていたかもしれない。


 でも、無理にやって人足が潰れれば、明日の飯が止まる。


 明日に回すことも、飯を守ることだ。


 夜、三か所の報告を伊三郎がまとめた。


 俺は隣で聞いた。


 現場に行っていないのに、三つの場所の様子が少し分かる。


 札と報告と帳面のおかげだ。


 これもまた、飯の網なのだろう。


 清洲で受け、現場へ返す。


 飯場が増えれば、この形が必要になる。


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、清洲で待った味だね」


「苦い味だ」


「でも、必要な味」


「うん」


 俺は粥をすすった。


 今日は少し濃い。


 倒木処理用の残りだからだ。


 背中に効く味がした。


 美濃攻略準備は、まだ始まったばかりだ。


 軍が大きく動く前に、飯がいくつもの場所で同時に動かなければならない。


 俺は全部の鍋の前には立てない。


 全部の水場にも行けない。


 全部の人足の肩も見られない。


 でも、報告を受け、次の飯を決めることはできる。


 腹まとめ役。


 変な役だ。


 でも、今日少しだけ、その意味が分かった気がした。


 美濃を攻める前に、腹を攻める。


 敵の腹ではない。


 こちらの腹を整えるのだ。


 米と味噌と人と村と帳面の腹を。


 そこが整えば、軍は動く。


 そこが乱れれば、戦う前に負ける。


 俺は椀を置き、清洲蔵の奥に並んだ帳面を見た。


 紙と米俵が、同じくらい重く見えた。

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