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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第五十一話 飯が動けば、国境も動く

百五十人を動かした翌朝、清洲蔵は妙に静かだった。


 疲れているのだ。


 米俵も、人足も、兵も、帳面も、たぶん鍋まで疲れている。


 昨日は、戦らしい戦はなかった。


 敵の小勢を遠くに見た。

 逃げ道に倒木を置かれた。

 川道の竹皮が遅れた。

 前進飯場の火は、村との約束で半刻早く落とした。


 だが、飯は止まらなかった。


 兵百五十は、美濃側の境目まで足を伸ばした。


 腹を壊した者はいない。

 米を失ったわけでもない。

 味噌も濡れていない。

 人足の怪我は軽い擦り傷だけ。

 村の桑も汚していない。

 水場も荒らしていない。


 それだけ並べれば成功だ。


 だが、蔵の空気は浮かれていなかった。


 成功したからこそ、次が来る。


 皆、それを腹で分かっていた。


「清吉」


 作兵衛が、昨日使った背当てを並べながら言った。


「倒木をどける組には、濃いめの粥を出すんだろ」


「ああ。権六にも言われた」


「あいつ、最近ちゃんと文句を言うな」


「前から文句はちゃんと言ってた」


「役に立つようになった」


 権六が聞いたら怒るだろう。


 だが、否定はできない。


 文句も、拾い方次第で飯の一部になる。


 作兵衛は背当ての紐を見て、顔をしかめた。


「ここが切れかけてる。逃げ道荷を戻した時だな」


「直せるか」


「直す。だが、次は予備の背当ても荷に入れろ。背当てが切れると、人足の肩が切れる」


 俺は小帳面を出しかけて、止めた。


 もう覚えた。


 背当ての予備。


 これは忘れない。


 それでも、伊三郎には報告しなければならない。


 帳面に残らなければ、次に別の者が忘れる。


 伊三郎は、蔵の奥で昨日の記録をまとめていた。


 顔色が少し悪い。


 たぶん、あまり寝ていない。


「伊三郎」


「はい」


「寝たか」


「少し」


「少し、は寝てない人の言い方だ」


「清吉も同じ顔です」


「俺は鍋の前で少し寝かけた」


「それは危ないので寝たに数えません」


 かやが横から笑った。


「二人とも寝不足の顔。米俵なら湿気てる」


「湿気た米扱いは嫌だな」


 俺が言うと、伊三郎は真面目に頷いた。


「湿気た米は早めに使えばまだ救えます。つまり、私たちも早めに休む必要があります」


「自分で言うなら休め」


「報告が終わったら」


 その報告が、今日の大仕事だ。


 信長様へ、昨日の百五十人行動の結果を上げる。


 飯の網は切れなかった。


 だが、どこが緩んだか、どこを狙われたか、どこを直すべきか。


 全部、言わなければならない。


 成功だけを言えば、次に失敗する。


 飯場の報告は、うまくいった話より、危なかった話のほうが大事だ。


 佐助は、昨日戻った味噌竹筒を一つずつ確認していた。


「川道の味噌は大丈夫です。逃げ道から戻した竹筒は、少し匂いが強くなっています」


「傷んだか?」


「傷んではいません。ただ、山道で揺れたせいで中が少し寄っています。次は詰め方を変えたほうがいいかもしれません」


「味噌も揺れるのか」


「揺れます。味噌も荷ですから」


 味噌も荷。


 当たり前なのに、佐助が言うと妙に重く聞こえる。


 かやが竹筒を受け取って振らずに傾けた。


「中に空きがあるんだ。少し詰めすぎないと動く。でも詰めすぎると開けにくい」


「難しいな」


「難しいよ。だから飯は面倒」


 かやは平然と言う。


 面倒。


 最近、この言葉が悪口ではなくなってきた。


 面倒なものほど、敵は破りにくい。


 信長様の言葉が腹に残っている。


 昼前、俺たちは呼び出された。


 信長様の部屋には、昨日より多くの者がいた。


 弥助殿。

 五郎兵衛殿。

 坂井蔵人殿。

 兵を率いた武士。

 伊三郎。

 かや。

 佐助。

 作兵衛。

 そして、なぜか権六もいた。


 権六は部屋の端で妙に背筋を伸ばしている。


 俺と目が合うと、小さく口だけで言った。


 ――文句役。


 この場で名乗るな。


 俺は必死に顔を引き締めた。


「清吉」


 信長様が言った。


「昨日の飯は、止まったか」


「止まりませんでした」


「遅れたか」


「遅れました」


 部屋の空気が少し動いた。


 俺は続けた。


「表道で商人荷車二台を待避させ、川道では竹皮が遅れ、逃げ道は倒木で一時止まりました。前進飯場では村との約束で火を半刻早く落としました。予定より遅れています」


 信長様は頷いた。


「だが、兵は進んだ」


「はい」


「腹を壊した者は」


「いません」


「米を失ったか」


「失っていません」


「村を怒らせたか」


「前進飯場の村との約束は守りました。桑に灰は飛んでいません。水場も荒らしていません」


「人足は」


 作兵衛が一歩前に出た。


「擦り傷二人。背当ての紐切れかけが一つ。荷は失っていません。倒木をどける組には、次から濃いめの粥と背当ての予備が要ります」


 信長様は作兵衛を見る。


「倒木は敵か」


 五郎兵衛殿が答えた。


「切り口あり。自然ではありません。こちらの逃げ道を見ていた者がいると考えられます」


「飯の網を切りに来たか」


「はい」


 信長様は地図の逃げ道に小さな黒石を置いた。


「では、逃げ道は敵にも見えた」


 その言葉で、俺の腹が重くなる。


 使える道は、敵にも見える。


 使えない場所も、敵の紙になる。


 飯場が形になるほど、狙われる。


「どう直す」


 信長様が聞いた。


 かやが前へ出た。


「逃げ道は一本にしないほうがいいです。今の道は背負い荷なら使えますが、倒木で止まりました。もう一つ、短い避け道を作るか、倒木が置かれやすい場所の手前に荷の一時置き場を作る必要があります」


「一時置き場?」


「はい。逃げ道が塞がれた時、荷を背負ったまま待つと人足が潰れます。荷を下ろせる場所が必要です。ただし、湿気と敵の目に注意します」


 作兵衛が補う。


「人足は、荷を背負って立ち止まるのが一番きついです。進むより、待つほうが背に来る」


 信長様は地図を見たまま頷いた。


「待つ場所も飯の道か」


「はい」


 作兵衛の声は、以前より堂々としていた。


 信長様は伊三郎へ目を向けた。


「帳面にはどう残す」


 伊三郎はすぐ答えた。


「逃げ道帳に、通過道だけでなく待機場所を加えます。荷を下ろせる場所、下ろしてはいけない場所、倒木を置かれやすい場所を分けます。また、倒木処理用の道具と飯を別に記します」


「倒木処理用の飯」


 信長様の口元がわずかに動いた。


「清洲式は、何でも飯にするな」


 部屋に小さな笑いが起きた。


 俺は少し顔が熱くなった。


「上様、倒木をどける者も腹が減ります」


 俺が言うと、信長様は笑いを消さずに頷いた。


「それでよい」


 それでよい。


 この一言が、どれほど腹に効くか。


 信長様は、昨日の境目の石を指した。


「敵はこちらの足を見た」


「はい」


 兵を率いた武士が答える。


「敵は十数。こちらを見て引きました。こちらが百五十を動かしたことは、美濃側へ伝わるでしょう」


「伝わればよい」


 信長様は言った。


「清洲から飯を運べる。途中で腹を起こせる。村を荒らさず兵を進める。逃げ道が切られても止まらぬ。それを敵に見せた」


 俺は地図を見た。


 昨日、俺たちが見たのは、問題だらけの道だった。


 信長様が見ているのは、その問題を抱えたまま動いた足だった。


 同じ出来事なのに、見え方が違う。


 どちらも本当なのだと思う。


「清吉」


「はい」


「昨日の飯は、戦わずに何を取った」


 難しい問いだった。


 戦っていない。


 城を取ったわけでもない。


 敵を討ち取ったわけでもない。


 では、何を取ったのか。


 俺は少し考えた。


「道の信用、でしょうか」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 信長様は黙っている。


 俺は続けた。


「兵が進めること。村との約束を守れること。人足が倒れず戻れること。敵が逃げ道を切っても、飯が止まらなかったこと。それを、こちらも敵も見ました。だから……道の信用を取ったのだと思います」


 部屋が静かになった。


 伊三郎の筆が走る音だけがした。


 また書いている。


 信長様は、少しだけ目を細めた。


「道の信用か」


「はい」


「悪くない」


 その一言で、腹の奥が温かくなった。


 信長様は地図の上に、新しい石を置いた。


 前進飯場の先。

 奥の村は避ける。

 別の山裾を回り、敵の物見がいた境目へ近づく線。


「これより、美濃道輸送網を正式に軍の備えに組み込む」


 部屋の空気が変わった。


 正式に。


 清洲式が、軍の備えになる。


 蔵の中で米を見ていた俺には、重すぎる言葉だった。


「清洲蔵は、ただの蔵ではない。美濃へ向かう足の腹だ」


 信長様は言った。


「前進飯場は継続。村との約束を守れ。奥の村は飯場不可。ただし噂防ぎの連絡地とする。逃げ道は修正。川道は喜助の判断を重く見る。人足約定帳は続ける。噂紙帳も続ける」


 命が次々に降りてくる。


 だが、不思議と前ほど腹が潰れなかった。


 なぜなら、もう形があるからだ。


 帳面がある。

 人がいる。

 役がある。

 村との約束がある。

 文句役までいる。


 全部を一人で抱えなくていい。


「そして」


 信長様の声が少し低くなった。


「次は、より大きく動かす」


 やはり来た。


 腹がまた重くなる。


「美濃攻略の準備に入る。まだ本攻めではない。だが、城を取る前に、飯の道を取る」


 城を取る前に、飯の道を取る。


 俺は息を呑んだ。


 これまでの見分、輸送、前進飯場、噂紙、逃げ道。


 すべてが、次の大きな戦の準備だった。


 いや、分かっていたはずだ。


 美濃道を見ていたのだから。


 でも、信長様の口から「美濃攻略」と聞くと、腹に落ちる重さが違う。


「清吉」


「はい」


「おまえには、美濃道兵糧組の取りまとめを命じる」


 しばらく、言葉の意味が分からなかった。


 美濃道兵糧組。


 取りまとめ。


 俺が?


「上様、俺は飯炊きです」


 思わず言った。


 信長様は少し笑った。


「知っている」


「帳面は伊三郎のほうが」


「伊三郎は帳面をまとめる」


「荷はかやが」


「かやは荷をまとめる」


「人足は作兵衛が」


「作兵衛は人足をまとめる」


「味噌と粉は佐助が」


「佐助は味噌と粉を見る」


「では、俺は」


「腹をまとめる」


 部屋が静まった。


 腹をまとめる。


 また、ものすごく変な役が来た。


 だが、誰も笑わなかった。


 信長様は真っ直ぐ俺を見ていた。


「飯場は米だけでは動かぬ。帳面だけでも、荷だけでも、人足だけでも、村だけでも動かぬ。それらを腹へ落とす者が要る。おまえがやれ」


 逃げたい。


 そう思った。


 でも、以前のように後ろへ下がる感じではなかった。


 怖い。


 重い。


 だが、一人ではない。


 そのことを、俺の腹はもう知っている。


 俺は頭を下げた。


「承知しました」


 声は震えた。


 でも、出た。


 信長様は頷いた。


「よい」


 会議が終わると、廊下へ出た途端、膝が少し抜けそうになった。


 かやがすぐに袖を掴む。


「腹まとめ役」


「言うな」


「すごい役だね」


「何をすればいいんだ」


「今までやってきたことじゃない?」


 伊三郎が静かに言う。


「水、火、泥、荷、村、人、粉。使う場所、条件付きの場所、使わぬ場所。噂、約束、人足、川、逃げ道。全部を見て、飯になる形にする」


「多い」


「多いですね」


「伊三郎、少しは励ましてくれ」


「一人ではありません」


 それだけだった。


 だが、それで十分だった。


 佐助も言った。


「味噌と粉は、俺が見ます」


 作兵衛が肩を鳴らす。


「人足の背は俺が見る」


 かやが笑った。


「荷はあたしが見る。清吉は顔に出してくれればいいよ」


「最後だけおかしい」


 権六が廊下の端から言った。


「文句は俺が言う」


「おまえもいるのか」


「腹役だからな」


 皆が笑った。


 俺も、少し笑った。


 重い役をもらった直後なのに、笑えた。


 それがありがたかった。


 清洲蔵へ戻ると、蔵の者たちが待っていた。


 作兵衛が先に言った。


「美濃道兵糧組になるぞ」


 人足たちがざわつく。


 かやが荷の区分を直し始める。


 伊三郎は新しい帳面の表紙を書き始める。


 佐助は味噌竹筒をまた確認する。


 権六は兵のほうへ戻って、何やら大げさに話している。


 清洲蔵が動き始めた。


 まだ、正式な美濃攻略は始まっていない。


 だが、その前に飯が動く。


 米が動く。

 味噌が動く。

 帳面が動く。

 人足が動く。

 村との約束が動く。


 そして、俺の腹も動く。


 夕方、皆で食べた粥は、昨日より少し濃かった。


 倒木をどける組にも出すため、味噌を少し強めにしてある。


 作兵衛がすすって言った。


「これなら木も動く」


「木は腹で動かないだろ」


「人が動かす。人は腹で動く」


 その通りだ。


 かやが椀を掲げるようにして言った。


「今日の飯は、美濃へ続く味だね」


 俺は湯気を見た。


 清洲の水。

 清洲の米。

 清洲の味噌。


 でも、その湯気の向こうには、美濃道が見えた。


 表道。

 川道。

 逃げ道。

 前進飯場。

 桑の村。

 薪の村。

 喜助の渡し。

 作兵衛の背。

 伊三郎の帳面。

 佐助の鼻。

 かやの縄。


 全部が、美濃へ続いている。


 俺は粥をすすった。


 熱い。


 腹に落ちる。


 怖い。


 でも、もう清洲蔵の中だけを見ているわけにはいかない。


 城を取る前に、飯の道を取る。


 その道の入口に、俺たちは立っていた。

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