第五十話 飯の網は、切れなかった
軍が動く時、最初に聞こえるのは鬨の声だと思っていた。
槍が鳴り、馬が嘶き、武士たちが大声を上げて、土煙を巻き上げながら進む。
俺が昔、遠くから見ていた戦の気配は、そういうものだった。
けれど、この朝に最初に聞こえたのは、違った。
米袋を背負う縄の軋む音。
荷車の車輪が、まだ湿った土を踏む音。
水桶の中で、水が小さく揺れる音。
味噌竹筒を包んだ布を、かやがぎゅっと締め直す音。
伊三郎が帳面の頁をめくる音。
佐助が小皿を置く音。
作兵衛が人足の背当てを叩く音。
軍が動く前に、飯が動く。
信長様の言葉が、朝靄の中で形になっていた。
兵は百五十。
大軍ではない。
だが、清洲式の飯の網を使って、初めて美濃側の境目へ足を見せる小軍行動だ。
俺たちは、三組に分けた。
先組五十。
中組五十。
後組五十。
前進飯場では、一度に五十人分までしか出さない。村との約束がある。火は小さく、昼前には落とす。水は小鍋二つ分まで。
百五十を一度に食わせようとすれば、村の水を奪い、桑に灰を飛ばし、約束を破る。
だから、分ける。
何度も学んだことだ。
米も、味噌も、荷も、火も、人も、兵も。
止めないために、分ける。
「清吉」
作兵衛が人足たちの列を見ながら言った。
「背負いは予定通り。茂平は逃げ道荷じゃなく、表道の軽荷に回した」
「疑ってるからか」
「いや。今日は落ち着かねえ顔をしてる。山道に入れると、自分で自分を疑って足を滑らせる」
作兵衛の目は、人足の背だけでなく腹も見ていた。
「本人には?」
「言った。今日は軽荷で、確実に運べって」
「怒らなかったか」
「少しな。でも、納得した」
茂平を見ると、彼は荷車の横で竹皮束を確認していた。
こちらに気づくと、小さく頭を下げる。
前ほど目は泳いでいない。
まだ完全に信用されたわけではない。
だが、彼は逃げずに荷の列へ戻った。
それでいい。
飯の道は、一度疑った人間をすぐ捨てる道ではない。
見て、役を変え、記録に残して、次を見る。
面倒だが、それしかない。
かやが表道荷の縄を見た。
「清吉、表道の竹皮はこれでいい。川道の味噌はもう出た。逃げ道の背負い荷も少し遅れて出る」
「奥の村の黒印は?」
「つけた。大荷は絶対に入れない。逃げ道荷も奥へは回さない」
黒印。
飯場不可の印。
使わぬ場所も、飯の地図になる。
あの奥の村で炊かなかった飯が、今日は荷を止める印になっている。
不思議だった。
空鍋ではない。
炊かなかったことも、今の飯を守っている。
前進飯場へ先に向かう組には、伊三郎がついた。
今日は俺も後から前進飯場へ入るが、最初の受け取りと村への約束確認は伊三郎が行う。
「清吉」
伊三郎が帳面を抱えて言った。
「前進飯場では、私が写しを村へ見せます。火の時刻、水量、灰、干し菜交換、すべて確認します」
「頼む」
「清吉がいなくても動く形にするためです」
「分かってる」
「少し寂しそうですね」
「顔に出てるか」
「出ています」
伊三郎は珍しく、少しだけ笑った。
「でも、それでいいと思います。清吉がいないと動かない飯場では、遠くへ行けません」
「うん」
寂しさはある。
だが、それより大事なことがある。
飯は俺の手だけで炊けるものではない。
遠くへ行くほど、いろんな手が必要になる。
その手が自分で動けるようにすることも、清洲式なのだ。
佐助が粉見の道具を二つに分けた。
「前進飯場用と、先組用です。怪しい薬や紙は、飯場の外で見ます。味噌竹筒も、着いたらすぐ確認します」
「無理するなよ」
「言います。具合が悪くなったら」
佐助は俺が言う前に答えた。
少し頼もしくなった。
権六は兵の列の中で、相変わらず声が大きい。
「前進飯場では火が小さい! 待つ! 水は勝手に飲みに行くな! 桑に灰を飛ばすな! 文句は俺に言え!」
「何で権六に言うんだよ」
「俺が聞いて、清吉に盛って伝える!」
「盛るな!」
兵たちが笑う。
緊張した朝に、その笑いはありがたかった。
ただし、笑いだけでは進めない。
俺は鍋の前で、最後の腹起こし粥をよそった。
百五十人を動かす朝だ。
全員に大量には出せない。
腹を起こす程度。
味噌控えめ、塩少し。
人足用は別に、少しやわらかく。
権六がすすり、いつものように顔をしかめた。
「今日は薄い」
「分かってる」
「だが、歩くにはいい」
「文句か褒め言葉か」
「両方だ」
それでいい。
腹が動けばいい。
やがて、兵の列が動き始めた。
槍の音より先に、荷車が軋んだ。
軍が動く。
飯が先に動いた。
表道の最初の難所は、田の間の細道だった。
ここではすれ違わない。
待避場所は茶屋の手前。
それを何度も決めた。
先組が進む。
荷車が一台ずつ通る。
兵は広がらない。
田の畦を踏まない。
前なら、ここで誰かが「急げ」と言ったかもしれない。
だが今日は、五郎兵衛殿が静かに見ているだけで、兵たちは広がらなかった。
権六が後ろから言う。
「畦を踏むなよ。米が減るぞ」
「分かってるよ」
「分かってない奴ほど、分かってるって言うんだ」
「それ喜助の口癖だろ」
船頭の言葉まで兵の中に混じっている。
それも、飯の網だ。
茶屋の女は、腕を組んで見ていた。
「今日は多いね」
「百五十です。ただ、茶屋の水は使いません」
「裏の井戸も?」
「今日は使いません。清洲から持ちました」
「ならいい」
茶屋の女は、少しだけ表情を緩めた。
「紙は出てないよ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。出たら邪魔だからね」
邪魔。
でも、紙を見つけたら知らせてくれる。
それだけで十分だった。
表道は予定より少し遅れた。
理由は、商人の荷車が二台続けて来たためだ。
こちらは待避場所で止まった。
兵から軽い文句が出たが、権六がまとめて受けた。
「待つのも仕事だ」
「腹が減る」
「減った腹に飯を入れるからうまいんだよ」
「理屈が雑だな」
笑いが起きる。
だが、時間は少し失われた。
俺は小帳面に書く。
表道、商人荷車二。
待避で遅れ。
畦被害なし。
遅れは悪い。
だが、畦を踏まなかった。
それも記録だ。
川道からの知らせが来たのは、前進飯場へ向かう途中だった。
喜助の渡しで、川が予想より早く重くなったという。
味噌竹筒と塩は先に渡した。
だが、竹皮の一部を止めた。
無理に渡せば濡れると喜助が判断したらしい。
「竹皮が遅れる」
俺が呟くと、かやがすぐに答えた。
「前進飯場には予備がある。今日の分なら足りる。ただし、雨用は少ない」
「雨は?」
空を見る。
今のところ晴れ。
だが、山のほうに雲がある。
かやは眉を寄せた。
「夕方までに戻せればいい。長引くと危ない」
川道が少し欠けた。
だが、全部は止まらない。
これが網だ。
一つの糸が緩んでも、別の糸で支える。
前進飯場の村に着いた時、伊三郎はすでに老人と話をしていた。
写しを広げ、今日の火の時刻と水量を確認している。
老人は俺を見るなり言った。
「今日は風が早い。昼前より早く火を落とせ」
「どれくらい早く?」
「半刻」
厳しい。
百五十のうち、ここで五十を食わせるだけでも時間が必要だ。
半刻早く火を落とすなら、さらに急ぐ必要がある。
だが、火を大きくしてはいけない。
「分かりました。小鍋を二つ使います。火は大きくしません」
「桑は汚すな」
「はい」
伊三郎がすぐに帳面へ記した。
今日の火、半刻早く落とす。
兵の先組五十が飯場へ入る。
水汲みは二人。
祠の前は通らない。
人足は栗の木下で休ませる。
灰桶を置く。
佐助が味噌を確認する。
「粉なし。味噌は少し強めてもいいです。今日は水が冷たくありません」
「昨日より?」
「はい。朝冷えが弱いです」
水は時で変わる。
それを佐助が見ている。
俺は小鍋に米を入れ、火を見た。
小さい火。
でも、確かな火。
兵五十の粥を炊く。
火を大きくしたくなる。
だが、我慢する。
火が大きければ早い。
でも、桑の葉を汚す。
早さだけを見れば飯場は壊れる。
「清吉」
伊三郎が小声で言った。
「時間が厳しいです」
「分かってる」
「粥を薄くしすぎると、兵が持ちません」
「分かってる」
「火を大きくすると約束を破ります」
「それも分かってる」
俺は鍋の中を見た。
米の開き具合。
湯の量。
味噌を入れる時。
薄くしすぎず、重くしすぎず。
ここで出すのは、腹いっぱいにする飯ではない。
足を戻す飯だ。
清洲から持たせた握り飯と合わせて、兵を先へ送る飯。
「粥は少なめにして、握り飯を一つ足す」
俺は言った。
「ここで全部を粥に頼らない。清洲からの握り飯を使う」
伊三郎が頷いた。
「飯を合わせるのですね」
「うん。火を守るために」
先組五十には、少なめの粥と握り飯を一つ配った。
兵の一人が言う。
「粥、少なくないか」
権六が即座に答えた。
「火を半刻早く落とす。桑のためだ。握り飯食え」
「また桑か」
「桑が米になるんだよ。覚えろ」
兵は苦笑しながら握り飯を食べた。
文句はある。
だが、止まらない。
老人がそれを見ていた。
桑畑の女も見ていた。
火は約束通り、半刻早く落とした。
灰を集める。
村の灰捨て場へ持っていく。
水場を泥にしない。
兵五十は先へ進む。
中組五十は前進飯場には入らず、少し手前で握り飯を食わせる。
後組五十はさらに遅れて進む。
その時だった。
前方から、見張りの兵が戻ってきた。
「敵影あり!」
空気が凍った。
「数は」
五郎兵衛殿が聞く。
「十数。こちらを見て、すぐ引いたようです」
敵は早い。
こちらの動きを、思ったより早く見つけている。
美濃側の小勢か。
ただの物見か。
分からない。
だが、敵に足を見せるという目的は、すでに半分達したとも言える。
問題は、ここからだ。
敵が引いただけならいい。
だが、こちらの飯の網を見て、どこを狙うか考えるかもしれない。
川道か。
表道か。
前進飯場か。
人足か。
その直後、逃げ道側からも知らせが来た。
「山道に倒木!」
かやの顔が変わった。
「自然?」
「分からない。細い木が二本、道を塞いでいます。切り口あり」
切り口。
自然ではない。
敵が逃げ道を塞ごうとした。
網の一つを切りに来たのだ。
俺の腹が冷えた。
逃げ道荷には、予備の味噌と塩、背戻し粥用の米が少しある。
そこが止まると、人足が苦しくなる。
だが、ここで全体を止めるわけにはいかない。
かやがすぐに言った。
「逃げ道荷は一度戻す。倒木をどけるのに人を使いすぎると、背が潰れる。予備荷は表道へ回せる?」
作兵衛が答える。
「回せる。ただし少し遅れる。人足二人を外して、水汲み役と交代させる」
「水汲みは?」
「前進飯場はもう火を落とした。今は水汲み少なくていい」
役を組み替える。
人足約定帳で決めたことが、今生きる。
誰が背負えるか。
誰が水汲みか。
誰が予備か。
それが分かっているから、すぐ組み替えられる。
「清吉」
かやが見る。
「逃げ道荷の味噌が遅れる。先組はもう進んだ。中組には表道の味噌で足りる?」
「足りる。後組には清洲からの握り飯を多めに使う。背戻し粥は戻った荷を待って少量だけ」
「よし」
俺は伊三郎へ言う。
「記録。逃げ道、切り口あり倒木。逃げ道荷一時戻し。人足役組み替え。水汲み役から背負いへ二人。後組は握り飯多め」
「書いています」
伊三郎の筆はもう動いていた。
敵は早く反応した。
逃げ道を切りに来た。
だが、飯の網は一本ではない。
逃げ道が塞がれても、表道と前進飯場と清洲の握り飯で支える。
川道の竹皮が遅れても、前進飯場の予備で支える。
火を早く落としても、握り飯で支える。
全部が不完全だ。
でも、支え合えば止まらない。
兵百五十は、予定より少し遅れながらも境目近くまで進んだ。
敵の小勢は、こちらの先組を遠くから見て、さらに引いたという。
戦にはならなかった。
槍を交えることもなかった。
だが、こちらの足は見せた。
前進飯場で腹を戻し、握り飯でつなぎ、人足の背を守りながら、兵が境目まで届いた。
それが重要だった。
帰り道は、さらに気を使った。
兵は疲れている。
人足も疲れている。
逃げ道の倒木は、弥助殿の配下と作兵衛たちが確認し、完全にどけるのは翌日に回すことになった。
無理にどければ、人足の背が潰れる。
今日は、戻ることが先だ。
前進飯場に戻ると、村の老人が待っていた。
「敵が出たと聞いた」
「物見のようです。戦にはなっていません」
「火は落としたな」
「はい。約束通り」
老人は桑畑を見た。
「灰は飛んでいない」
「はい」
「なら、今日はそれでいい」
敵が出ても、老人がまず火と灰を見たことに、俺は少し救われた。
この村にとって、守るべきものは変わらない。
それをこちらも守った。
だから、飯場は続けられる。
清洲へ戻ったのは、日が落ちる少し前だった。
兵も人足も疲れていた。
だが、飯は止まらなかった。
腹を壊した者はいない。
人足の怪我は軽い擦り傷が二人。
倒木で逃げ道は一時塞がれたが、荷は失っていない。
川道の竹皮は遅れたが、濡れていない。
前進飯場の火は約束通り落とした。
噂紙は新たに出ていない。
伊三郎は報告を書きながら、目の下に疲れを浮かべていた。
「清吉」
「何」
「飯の網は、切れませんでしたね」
俺はしばらく黙った。
その言葉が、腹に落ちるまで少し時間がかかった。
切れなかった。
完璧ではない。
遅れた。
揺れた。
倒木で塞がれた。
川で止まった。
火も早く落とした。
だが、切れなかった。
「うん」
俺は頷いた。
「切れなかった」
夜、皆で粥を食べた。
今日の粥は、残り物を合わせたものだった。
表道の米。
川道の味噌。
前進飯場の干し菜。
逃げ道から戻した塩。
清洲の水。
少し味がばらついている。
でも、腹に落ちた。
権六が言った。
「今日の飯は、敵に見せる味だな」
「うまいのか?」
「まあまあだ」
「文句は」
「逃げ道の倒木をどける奴らにも、明日は少し濃い飯を出してやれ。あれは腹が減る」
「分かった」
作兵衛も頷いた。
「倒木をどける飯か。また増えるな」
かやが笑った。
「清洲式、もう何でも飯になるね」
「本当に」
俺は椀を見た。
米と味噌と水。
そこに、表道、川道、逃げ道、前進飯場、人足約定、噂紙帳、飯場可否帳、村の約束、喜助の川、作兵衛の背、佐助の鼻、伊三郎の字、かやの縄が混じっている。
戦はなかった。
だが、飯の戦はあった。
敵は逃げ道を切りに来た。
こちらは網で支えた。
軍が動いた。
飯が止まらなかった。
それだけで、今日の粥は十分に重かった。




