第四十八話 使わぬ場所も、飯の地図になる
飯を炊かなかった日のほうが、腹に残ることもある。
奥の村から清洲へ戻る道で、俺はずっとそのことを考えていた。
水は少ない。
薪は村の銭。
道は狭い。
荷車は入れない。
背負い荷でも休む場所が足りない。
井戸は浅い。
飯場には向かない。
つまり、使えない。
前なら、そう聞けば失敗だと思ったかもしれない。
せっかく奥まで来たのに。
噂より先に行けと言われたのに。
飯場を置けなかった。
火も焚けなかった。
粥も炊けなかった。
でも、今は少し違う。
使えないと分かった。
無理に置けば村を壊すと分かった。
敵の噂を本当にしてしまう場所だと分かった。
それなら、使わないことも飯を守ることになる。
それを腹で理解するまでに、ずいぶんかかった気がする。
「清吉」
かやが横から言った。
「また難しい顔」
「今日は何俵だ」
「俵じゃないね。空の鍋を背負ってる顔」
「空鍋はやめろ」
「でも、今日は炊かなかったから」
「炊かなかったけど、意味はあった」
「うん。だから、空鍋だけど焦げてない顔」
分かるような、分からないような。
でも、かやの言葉には不思議と腹へ落ちるものがある。
作兵衛は代筆男を縛った縄を見ながら歩いていた。
代筆男は、弥助殿の配下に挟まれている。
顔にはもう、村人の前で見せていた柔らかい笑みはない。
ただ、悔しさと焦りが浮いている。
村人に捕まえられたのが、こたえたのかもしれない。
自分が撒いた噂で村を動かすつもりだったのだろう。
だが最後に、薪を崩したことで村の怒りを買った。
あれは大きかった。
奥の村にとって薪は銭だ。
銭を崩した者を、村が許すはずがない。
俺たちは水も薪も使わなかった。
代筆男は薪を崩した。
それだけで、村の腹はどちらへ怒ればよいかを見たのだと思う。
佐助は代筆男の小箱を、直接触らないよう布で包んで持っていた。
「粉はありそうか」
俺が聞くと、佐助は小さく頷いた。
「匂いがあります。ただ、藤助の粉とは少し違うかもしれません。墨と薬草の匂いが混じっています」
「墨?」
「紙を書く人だからかもしれません」
紙と粉。
字と毒。
嫌な組み合わせだ。
「噂も粉も、同じ箱から出るのか」
俺が言うと、佐助は少し考えてから答えた。
「腹を壊す粉と、信用を壊す紙ですね」
その言葉に、俺は背筋が少し冷えた。
佐助も、ずいぶん鋭いことを言うようになった。
清洲へ戻る頃には、日が傾いていた。
伊三郎は蔵の前で待っていた。
俺たちの顔を見るなり、何も聞く前に帳面を開く。
「飯場は置けませんでしたね」
「どうして分かる」
「清吉の顔です」
「もう嫌だ」
皆が少し笑った。
笑った後で、俺は真面目に答えた。
「奥の村は、飯場に向きません。水が少ない。薪は村の銭です。道も狭い。荷車不可。背負い荷でも休み場が足りません。無理に置けば、噂の通りになってしまいます」
伊三郎の筆が止まった。
「噂の通りに?」
「水を奪う。薪を奪う。山の者を人足にして捨てる。そう書かれていました。もし無理に飯場を置けば、敵の噂が本当になった」
伊三郎は静かに頷いた。
「なら、不採用です」
「不採用?」
「はい。飯場候補として、不採用と帳面に残します」
不採用。
その響きに、少し胸が痛んだ。
だが、伊三郎は淡々としていた。
「使えない場所を使えないと残すのは、使える場所を残すのと同じくらい重要です」
「同じくらい?」
「はい。後の者が知らずに使えば、同じ失敗をします。敵が噂を仕掛けた場所なら、なおさらです」
かやが頷いた。
「不採用の地図がないと、また誰かが『ここ広そうだ』って言い出すよ」
「そうだな」
作兵衛も言った。
「水が少ねえ村へ大釜持っていく奴が出る。薪をただで拾って怒らせる奴も出る。書いとけ」
不採用帳。
また帳面が増える。
けれど、今回は俺も文句を言わなかった。
伊三郎は新しい頁を開いた。
「では、奥村飯場候補。不採用。理由を順に」
俺は話し始めた。
村の手前の道。
雨の日は山水で川になる。
休み場が少ない。
沢の水は細く、飲み水程度。
薪は村の銭。
井戸は浅い。
荷車は村へ入れない。
水も薪も持ち込む必要あり。
飯場としては不向き。
ただし、見分は可能。
村の者は、勝手に使わない者なら話を聞く。
伊三郎は筆を走らせた。
「重要なのは最後ですね」
「最後?」
「飯場不可。ただし、敵の噂に取られ切ったわけではない」
確かに。
奥の村は飯場にはならない。
だが、敵のものにもならなかった。
それは大きい。
かやが代筆男の落とした紙束を広げた。
「これも見て。村ごとに噂の内容が変えてある」
紙束には、いくつもの書き付けがあった。
俺には読めない。
だが、伊三郎が読み上げる。
「桑の村向け。織田の飯場は桑を枯らす。奥村向け。織田は薪を奪う。人足向け。織田は背を壊して捨てる。渡し場向け。織田は川を戦に使い、船を沈める……」
部屋が静まり返った。
敵は、ただ悪口を撒いていたのではない。
場所ごと、人ごとに、腹の弱いところを突いていた。
桑の村には桑。
薪の村には薪。
人足には背と銭。
船頭には川。
こちらが土地の腹を見ようとしているのと同じように、敵も土地の腹を見ていた。
その事実が、何より怖かった。
「相手も、飯の道を見ている」
俺が呟くと、五郎兵衛殿が言った。
「そうだ。だから遅れるな」
遅れるな。
噂より先に行けと言われた意味が、ようやく分かった気がした。
ただ早く走ることではない。
敵がその土地の不安を紙にする前に、こちらがその不安を聞き、帳面にし、約束にする。
それが、噂より先に行くということなのだ。
その夜、代筆男は弥助殿の配下に引き渡された。
彼の名は、宗次郎と名乗ったらしい。
本名かどうかは分からない。
ただ、紙を書く腕は確かだった。
村人に読ませる紙。
人足に渡す紙。
荷に紛れ込ませる紙。
それぞれ、相手に合わせて字の大きさや言葉を変えていた。
伊三郎はその話を聞くと、眉をひそめた。
「字を、毒に使う者ですね」
静かな怒りがあった。
帳面を守る者として、許せないのだろう。
「伊三郎」
「はい」
「字は怖いな」
「はい」
伊三郎はすぐ頷いた。
「ですが、字は守ることもできます」
「約束の写しみたいに」
「はい。不採用帳も、噂紙帳も、人足約定帳も」
伊三郎は帳面の山を見た。
「字で毒を撒く者がいるなら、こちらは字で飯を守ります」
その言葉は、伊三郎にしか言えないものだった。
俺は字が苦手だ。
だが、字が飯の道になることは、もう知っている。
翌朝、信長様への報告に呼ばれた。
俺、かや、伊三郎、佐助、作兵衛、五郎兵衛殿、弥助殿。
部屋へ入ると、信長様はすでに地図の前にいた。
清洲から美濃道、前進飯場の村、奥の村。
石が置かれている。
奥の村の石には、赤い印がついていた。
不採用。
俺たちは頭を下げる。
「面を上げよ」
信長様はすぐに言った。
「奥の村、使えぬか」
「はい」
俺は答えた。
「水が少なく、薪は村の銭です。道も狭く、荷車は入りません。無理に使えば、敵の噂を本当にしてしまいます」
信長様は頷いた。
「なら、使うな」
短かった。
だが、その短さに救われた気がした。
「失敗ではないのですか」
俺が聞くと、信長様は少し目を細めた。
「使えぬ場所を使わずに済んだ。どこが失敗だ」
胸の奥が熱くなった。
そう言ってもらえるとは思っていなかった。
信長様は地図の上に、さらに小さな黒石を置いた。
「この印を、使わぬ場所の印にせよ」
「地図に残すのですか」
「当然だ」
信長様は言った。
「勝つための地図は、進む道だけでは足りぬ。進まぬ道も要る。飯場にする場所だけでは足りぬ。飯場にしない場所も要る」
進まぬ道。
飯場にしない場所。
その二つが、地図に入る。
「清吉」
「はい」
「これからは、飯場候補を三つに分けよ。使う場所。条件付きで使う場所。使わぬ場所」
伊三郎の筆がすぐ走る。
使う場所。
条件付き。
使わぬ場所。
分かりやすい。
腹にも落ちる。
「使わぬ場所にも、理由を書け」
「はい」
「水か、薪か、村か、敵か、人足か。理由が分かれば、別の策に使える」
「別の策?」
「飯場にはせぬが、噂を防ぐ場所にはなる。村の腹を見ておけば、敵に取られぬ。奥の村は飯場にせぬ。だが、噂を撒かせぬよう話を通す価値はある」
なるほど。
使わない場所でも、捨てるわけではない。
飯場にはしない。
でも、敵の噂に取られないようにする。
それも輸送網の一部だ。
信長様は代筆男の紙束を見た。
「敵は、こちらの弱い腹へ紙を差し込んできた」
「はい」
「なら、こちらは先に腹を聞け。紙より先に、帳面を置け」
紙より先に、帳面を置け。
伊三郎の目が少しだけ鋭くなった。
これは彼の戦だ。
「伊三郎」
「はい」
「噂紙帳を広げよ。村ごと、人ごと、道ごとに、どんな噂が効きやすいか残せ」
「承知しました」
「かや」
「はい」
「荷に紙を紛れさせぬ仕組みを作れ。荷を置く台、茶屋裏、休み場。死角を潰せ」
「はい」
「作兵衛」
「はっ」
「人足へ、紙を受け取ったら出せと言い続けろ。出した者をすぐ罰するな。隠したくなるようにするな」
「承知しました」
「佐助」
「はい」
「粉だけでなく、紙を包む竹皮の匂いも見ろ。荷の中に紛れた紙は、飯の匂いをまとっている」
「はい」
佐助は緊張しながらも頷いた。
信長様は最後に俺を見た。
「清吉」
「はい」
「おまえは、使わぬ場所を恐れるな」
「使わぬ場所を……」
「飯を炊かなかったからといって、負けではない。炊かぬと決めた飯場は、炊いた飯場と同じだけ兵を救うことがある」
その言葉で、胸の奥につかえていたものが少し溶けた。
奥の村で飯を炊かなかった。
でも、それでよかった。
信長様の言葉で、ようやく腹の底からそう思えた。
「承知しました」
俺は頭を下げた。
会議の後、清洲蔵へ戻ると、伊三郎は早速、新しい帳面を作り始めた。
表紙には、俺にも少し読める字があった。
「飯場……」
「飯場可否帳です」
「かひ?」
「使えるか、使えないかの帳面です」
なるほど。
飯場可否帳。
また一つ、清洲式に帳面が増えた。
中は三つに分けられた。
使用可。
条件付き。
不採用。
不採用の欄には、奥の村が最初に入る。
水少。薪は銭。道狭し。荷車不可。村の腹、噂に揺れるが話は可能。飯場不可。ただし噂防ぎの連絡地。
不採用なのに、たくさん書くことがある。
かやは荷置きの死角を潰すため、茶屋裏に置く仮の荷台の形を考えていた。
「荷を置く台は、壁にぴったりつけない。裏に手を入れられないようにする。紙を差し込まれないよう、下も塞ぐ」
「そこまで?」
「紙一枚で揉めたでしょ」
「そうだな」
作兵衛は人足たちへ、紙を受け取った時の流れを説明していた。
「まず出す。誰からか、どこでか言う。出した奴をすぐ殴るな。隠したら後で揉める。出せば帳面に残る」
茂平もその輪の中にいた。
彼は少し居心地悪そうだったが、逃げていない。
「俺みたいに後で言うと、余計に面倒になる」
そう自分で言った。
人足たちが少し笑う。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
佐助は噂紙に残った匂いを見ていた。
「清洲の味噌の匂いが移った紙と、村の薪の匂いが移った紙があります。紙がどこを通ったか、少しは分かるかもしれません」
「紙にも道があるのか」
「あると思います」
紙の道。
飯の道を守るには、敵の紙の道も見る必要がある。
本当に、清洲式はどこまで広がるのだろう。
夜、蔵の外で粥を食べた。
今日は、あえて奥の村の薪は使っていない。
清洲の薪。
清洲の水。
清洲の味噌。
だが、俺の頭には奥の村の薪の匂いが残っていた。
かやが言った。
「今日の飯は、炊かなかった飯場の味だね」
「それ、味がないんじゃないか」
「あるよ。炊かなかったから守れた味」
俺は椀を見た。
湯気が立っている。
そこに、奥の村の井戸の浅さや、薪を守る村人の怒りが重なる。
飯場にしない場所。
使わぬ場所。
それも地図になる。
飯を炊く場所だけを知っていては足りない。
炊かない場所を知ることで、飯は守れる。
俺は粥をすすった。
腹に落ちる。
今日は少し静かな味だった。
でも、悪くなかった。




