第四十七話 奥の飯場へ、噂より先に
人足約定帳は、思ったより早く効いた。
もちろん、帳面一冊で人の不安が消えるわけではない。
作兵衛の肩の痛みが翌朝きれいに消えるわけでもないし、茂平が一晩で皆から信用され直すわけでもない。銭の不安も、怪我の怖さも、敵に襲われるかもしれないという嫌な想像も、米俵のように一つの場所へまとめて片づけることはできない。
それでも、変わったことはあった。
「今日の荷、俺は平袋二つまででいいんだな」
「おう。逃げ道じゃなく表道だから二つ。山道へ入るなら一つ半だ」
「支払いは?」
「夕方に伊三郎殿の前で印をつける」
「怪我したら?」
「まず作兵衛に言え。隠して歩くな。荷を組み替える」
人足たちが、出立前にそんな話をしている。
それだけで、空気が違う。
前は、何となく背負い、何となく休み、何となく銭を待っていた。
今は違う。
何をどれだけ背負うか。
どこで休むか。
水は誰が汲むか。
怪しい薬や紙を渡されたら誰に言うか。
支払いはどこで記すか。
全部が完全に決まったわけではない。
でも、聞ける。
聞いていい空気ができた。
それは、粥の味を少し変えるくらいには大きかった。
「清吉」
作兵衛が声をかけてきた。
「茂平、今日は来てる」
「来たのか」
「ああ。自分からだ」
少し離れた場所に、茂平がいた。
相変わらず痩せた顔で、目は落ち着かない。
だが、逃げるような背中ではなかった。
彼は俺に気づくと、ぎこちなく頭を下げた。
「今日、荷を運ばせてもらえるなら……運ぶ」
「無理にとは言わない」
「無理じゃない。ただ、今度は何か渡されたらすぐ言う」
その声は小さかった。
でも、前より芯があった。
「帳面に残します」
伊三郎が横から言った。
茂平は苦笑した。
「それ、怖いな」
「怖いほうがよい時もあります」
「そうだな。俺には、そのほうがいい」
茂平はそう言って、背当てを受け取った。
疑いが消えたわけではない。
だが、彼をただ遠ざければ終わる話でもなかった。
紙を渡された者を全員切れば、次に紙を渡された者は隠す。
隠せば、紙は腹の中で腐る。
申し出れば残す。
それが必要だった。
今日の前進飯場運用は、八日目。
五十人規模の小型飯場は続いている。
村の老人は、毎朝のように水番と風のことを教えてくれるようになった。桑畑の女たちは、干し菜を塩と交換しに来る日を決めた。若い男たちは、まだ完全に柔らかくはないが、兵が約束を破りそうになると、こちらへ先に声をかけるようになった。
見張っているのだ。
だが、見張られていることが、今は少しだけありがたかった。
その村で火を使わせてもらう以上、見られていて当然だ。
見られて守る飯場。
それが、小型前進飯場の形になりつつあった。
けれど、敵はそこで止まってはくれなかった。
昼前、弥助殿の配下が清洲蔵へ駆け込んできた。
「代筆男の足取りが出ました」
蔵の空気が変わった。
茶屋裏で茂平に紙を渡した、若い薬売り風の男。
薬売りではなく、旅の代筆屋。
字を書ける者。
噂紙を撒き、人足の不安を煽り、荷の流れに紙を差し込んだ疑いがある男だ。
「どこに?」
俺が聞くと、配下は地図を指した。
「前進飯場のさらに北です。別の荷隊に紛れ、奥の村へ向かったようです」
「奥の村……」
かやが小さく呟いた。
地図の上では、前進飯場の村からさらに美濃側へ進んだ場所に、小さな印があった。
道は細い。
川からも少し離れている。
山際に近い。
だが、そこを押さえれば、さらに前へ兵を出す時の休み場になるかもしれない。
伊三郎が低く言った。
「奥の飯場候補ですね」
奥の飯場。
その言葉だけで、腹がまた重くなる。
前進飯場だけでも、桑、蚕、水番、噂紙、人足、粉で頭がいっぱいなのだ。
そのさらに奥。
美濃側へ近づく場所。
敵の目も近い。
噂も先に届いているかもしれない。
信長様からの命は、すぐに来た。
「噂より先に行け」
その一言だった。
正確には、弥助殿が少し噛み砕いて伝えてくれた。
「代筆男を追う。ただし、捕物だけではない。奥の村へ噂が先に入れば、次の飯場候補は使えなくなる。清吉、かや、佐助、作兵衛。おまえらは奥の村の腹を見ろ。飯場にできるか、噂がどこまで入っているか、確かめる」
「前進飯場は?」
「続ける。止めるな」
「俺たちが抜けても?」
「だから仕組みにしたんだろう」
弥助殿の言葉は短い。
だが、痛いところを突いてくる。
そうだ。
俺がいなくても飯場が動くようにしてきた。
水、火、泥、荷、村、人、粉。
約束の写し。
村暦。
人足約定帳。
権六の文句役。
作兵衛の背。
かやの荷。
伊三郎の帳面。
佐助の粉見。
全部が、俺一人の手を離れて少しずつ動き始めている。
なら、俺が奥へ行っている間も、前進飯場は止めてはいけない。
止めれば、噂に負ける。
「前進飯場は誰が見る?」
俺が聞くと、伊三郎が答えた。
「今日は私が行きます」
「伊三郎が?」
「帳面を現地で見る必要があります。清吉が奥へ行くなら、前進飯場の約束が守られているか、私が見ます」
「大丈夫か」
「清吉より火には触りません」
「それは不安材料なのか安心材料なのか」
かやが笑った。
「伊三郎なら、約束を破る兵を帳面で殴りそう」
「殴りません」
伊三郎は真面目に言った。
「ただ、記録します」
それはそれで怖い。
前進飯場には、伊三郎と権六、そして村と慣れた人足を残すことになった。
作兵衛は奥へ行く。
人足約定帳の話を、奥の荷運びにも聞くためだ。
佐助も行く。
代筆男が薬売り風の格好をしていたなら、また粉や薬を使うかもしれない。
かやも当然、行く。
奥の飯場候補は山際に近い。荷の目が要る。
俺も行く。
飯場の腹を見るために。
出立前、前進飯場の村へ寄った。
老人に、今日の運用を伊三郎が見ること、俺たちは奥へ向かうことを伝える。
老人は眉を寄せた。
「奥へ行くのか」
「はい。噂を撒く者が向かったかもしれません」
「奥の村は、ここと違う」
「どう違いますか」
「水が少ない。畑も狭い。山の者が多い。疑い深い」
十分すぎるほど嫌な情報だった。
だが、聞けてよかった。
「何か気をつけることは」
老人は少し考えた。
「向こうでは、薪を勝手に拾うな」
「ここでも拾いません」
「違う。あっちは薪が銭だ。山から下ろして売る。落ち枝でも勝手に拾えば怒る」
薪が銭。
候補一の村では桑が銭だった。
奥の村では薪が銭になる。
土地ごとに腹が違う。
「分かりました。薪は持っていきます。使うなら買うか、許しを得ます」
「それから、あの村の井戸は浅い。水を濁すな」
「はい」
「代筆屋みたいな若い男なら、昨日の夕方、奥へ向かう道で見たという者がいた」
「本当ですか」
「戻る道では見ていない」
つまり、まだ奥にいる可能性がある。
腹が冷えた。
老人は最後に言った。
「清吉」
「はい」
「噂に腹を立てすぎるな。怒った兵は、村には皆同じに見える」
俺は頭を下げた。
「覚えておきます」
前進飯場を出て、奥へ向かう道に入った。
道はすぐ細くなった。
表道ではない。
荷車は通れなくはないが、かなり厳しい。
山際の道と畑の間を縫うように進む。
かやが先頭で地面を見た。
「ここ、雨の日は駄目だね」
「泥?」
「うん。山から水が下りる。道が川になる」
作兵衛が背負い荷を少し直した。
「荷車より背負いだな。だが距離がある」
「休み場は?」
俺が聞くと、作兵衛は周囲を見た。
「今のところ、少ない。座れる石もない。背を下ろす場所がほしい」
小帳面に書く。
奥道。
雨天不可。
山水で道川。
背負い中心。
休み場少。
少し進むと、小さな沢があった。
水は細い。
清いが、少ない。
佐助が水を見て言う。
「飲めそうですが、粥には量が足りません」
「小鍋一つ分?」
「ぎりぎりです。五十人分は無理です」
また水が少ない。
奥へ行くほど、飯場は小さくしなければならないのかもしれない。
俺は水の印に小さくばつをつけた。
水少。
飲み水程度。
飯場不可。
さらに進むと、道の脇に薪の束が積んであった。
老人の言葉を思い出す。
薪が銭。
俺は近づきすぎないようにした。
かやも荷を止める。
「触らない」
「もちろん」
作兵衛が周囲を見て言った。
「薪の持ち主がいるはずだ」
その通り、少しして山のほうから男が下りてきた。
背に薪を負っている。
年は四十ほど。
顔が日に焼け、目が鋭い。
「何してる」
第一声から硬かった。
俺は頭を下げる。
「清洲の飯炊き、清吉です。奥の村へ向かう道と水場を見ています。薪には触っていません」
男は薪の束を見た。
確かに触っていない。
そこを確認して、少しだけ顔の強張りが変わった。
「飯炊きが何で薪を見る」
「飯には火が要ります。でも、薪がこちらの銭だと聞きました。勝手に使わないために見ています」
男は俺をしばらく見た。
「誰に聞いた」
「手前の村の老人に」
「あの爺か」
知り合いらしい。
男は少し鼻を鳴らした。
「なら、少しは話が早い。奥の村で火を使うなら、薪は買え。拾うな。山の落ち枝にも持ち主がある」
「分かりました」
「分かってない奴ほど、分かったと言う」
前にも似たようなことを言われた気がする。
俺は正直に言った。
「まだ分かっていません。だから、教えてください」
男は少しだけ目を細めた。
かやが横で小さく笑いそうになっている。
男は薪を下ろした。
「奥の村へ行くなら、沢の手前で荷を止めるな。あそこは道が狭い。止まるなら、杉の切り株のところだ」
「水は?」
「村の井戸は浅い。飯場に使うほどは出ん。粥を炊くなら、水を持ち込め」
水を持ち込む。
それは重い。
だが、使えない水を無理に使うよりましだ。
「薪は買えるのですか」
「量による。小鍋なら売る。大釜なら嫌がられる」
「小鍋です」
「なら話はできる」
話はできる。
今日、何度も聞いてきた言葉に似ていた。
使える、ではない。
話はできる。
飯場はそこから始まる。
男は最後に、俺たちを見て言った。
「昨日、若い字書きが奥へ行った。村の入口で紙を読んでやっていた」
「紙を?」
「知らん。だが、村の者がざわついていた」
間に合わなかったかもしれない。
噂はもう奥の村へ入っている。
俺たちは急いだ。
だが、走らなかった。
走れば荷が乱れる。
怒った兵に見える。
老人の言葉を思い出す。
怒った兵は、村には皆同じに見える。
奥の村は、山の影に隠れるようにあった。
家は少ない。
畑も狭い。
薪の束が家々の脇に積まれている。
水場らしき井戸は、村の中央に一つ。
その周りに、数人の村人が集まっていた。
そして、その中心に若い男がいた。
薄い笑み。
旅の書き付け道具。
小さな箱。
腰に紙束。
代筆男だ。
男は村人たちに何かを読み上げていた。
俺たちに気づくと、声を止めた。
村人たちが一斉にこちらを見る。
その目は、硬い。
すでに噂が入っている目だった。
「織田の飯場だ」
誰かが言った。
代筆男が、柔らかく笑った。
「ほら、噂を確かめに来たようですよ」
その声は、親切そうだった。
だが、腹に冷たいものが走った。
この男は、村人の前で俺たちを待っていた。
噂の場を作って。
弥助殿の配下が前へ出ようとしたが、五郎兵衛殿が止めた。
俺は深く息を吸った。
噂より先には来られなかった。
なら、ここから飯場で返すしかない。
俺は一歩前へ出た。
「清洲の飯炊き、清吉です」
声は少し震えた。
でも、続けた。
「飯場を置くためではなく、まず水と火と道を見に来ました。勝手に井戸は使いません。薪も拾いません」
代筆男が笑う。
「そう言ってから、使うのでしょう」
村人の何人かがざわついた。
俺は男ではなく、村人へ向いた。
「使えるかどうかも、まだ分かりません。水が少なければ使いません。薪が銭なら買うか、持ち込みます。話ができないなら、飯場にはしません」
「では帰れ」
村の男が言った。
「はい。見せてもらえないなら帰ります」
村人たちが少し驚いた。
代筆男の笑みが、わずかに薄くなる。
俺は続けた。
「ただ、一つだけ。噂にあるように、勝手に水を毒にしたり、薪を奪ったりするつもりはありません。もし見るだけでも許されるなら、村の人に見てもらいながら見ます」
沈黙。
かやが小声で言った。
「清吉、焦げてない」
「焦げそう」
「まだ大丈夫」
村の奥から、年配の女が出てきた。
この村のまとめ役だろうか。
背は曲がっているが、目が強い。
「飯炊き」
「はい」
「水を見て、少ないと言ったら本当に使わず帰るか」
「帰ります」
「薪を買えと言ったら」
「買います。買えないなら使いません」
「飯場にできぬと言われたら」
「しません」
女は代筆男を見た。
「この人は、織田の飯場は必ず村を奪うと言った」
代筆男はにこやかに言う。
「ご用心を申し上げただけです」
女は俺を見た。
「なら、見せてやる。だが、井戸には触るな。薪にも触るな。火は焚くな」
「はい」
飯場の見分で、火を焚けない。
水も使えない。
薪にも触れない。
だが、見せてもらえる。
それだけで今は十分だった。
俺たちは、村人たちに見られながら井戸を見た。
確かに浅い。
水量は少ない。
大人数の飯場には向かない。
小鍋一つでも、毎日は厳しいかもしれない。
「これは、飯場には向きません」
俺ははっきり言った。
村人がざわつく。
代筆男が少し目を細めた。
「織田の者が、使えないと言うのか」
女が聞いた。
「はい。飲み水として村のために残すべきです。飯に使うなら、水を持ち込む必要があります」
薪も見た。
積まれた薪は乾いている。
良い薪だ。
だが、売るためのもの。
「薪は、勝手に使えません。使うなら買う必要があります。飯場用に大量に使うのは、村の商いを削ります」
作兵衛が人足の休み場を見た。
「休める場所はあるが、荷を下ろす板がいる。地面が斜めだ」
かやが道を見る。
「荷車は奥まで入れない。村の手前で下ろすしかない。でも、村の手前は道が狭い。待たせる場所がない」
佐助が周囲の匂いを見た。
「味噌や粉の荷を隠せる場所はありますが、湿気が強いです。長く置くと悪くなります」
結果は、はっきりしていた。
奥の村は、飯場に向かない。
少なくとも、今の清洲式で前進飯場を置く場所ではない。
俺は村の女へ頭を下げた。
「ここに飯場は置きません」
代筆男の顔が、今度こそわずかに崩れた。
村人たちもざわめく。
「置かない?」
女が聞く。
「はい。水が少なく、薪は村の銭で、道も狭い。無理に置けば、村が困ります」
「では何をしに来た」
「それを知りに来ました」
女はじっと俺を見た。
やがて、ふっと息を吐いた。
「変な飯炊きだ」
美濃道の奥でも、やはりそう言われるらしい。
その時、代筆男がそっと後ろへ下がった。
逃げる気配。
五郎兵衛殿が動いた。
弥助殿の配下も続く。
男は走り出した。
だが、村の薪束の間で足を取られた。
かやが短く叫んだ。
「そこ、薪!」
男は薪を崩し、転びかける。
村の男が怒鳴った。
「薪を崩すな!」
次の瞬間、村の男たちが代筆男を押さえた。
織田の兵ではなく、村人が。
代筆男はもがいたが、五郎兵衛殿が腕を取ると動けなくなった。
紙束が地面に落ちる。
その中には、噂紙の続きがあった。
織田は奥の村の水を奪う。
薪をただで持っていく。
山の者を人足にして捨てる。
まさに、この村用の噂だった。
女は紙を見て、静かに怒った。
「薪を勝手に崩したのは、おまえだ」
代筆男は何も言えなかった。
俺はその場で、深く息を吐いた。
飯場は置けなかった。
だが、それでよかった。
ここに無理に飯場を置けば、代筆男の噂は本物になっていた。
使えない場所を、使わない。
それも清洲式だ。
帰り際、年配の女が言った。
「飯炊き」
「清吉です」
「清吉。飯場は置かせん。だが、水が要るか要らんかを見に来るなら、また来い」
「いいのですか」
「勝手に使わぬ者なら、見せるだけはできる」
十分だった。
奥の村は飯場にはならない。
だが、敵の噂に完全に取られることも防げた。
清洲へ戻る道で、かやが言った。
「今日の飯は、置かない味だね」
「まだ食べてない」
「でも、そういう日」
「うん」
飯場を作る話なのに、作らないことが成果になる。
前なら分からなかった。
でも、今は少し分かる。
飯場は、置けばいいものではない。
置かない判断も、飯を守る。
清洲へ戻ったら、伊三郎はきっと帳面に書くのだろう。
奥の村。
水少。
薪は銭。
道狭い。
飯場不可。
ただし見分可能。
噂男捕縛。
村人、薪を守るため協力。
そして、たぶん俺の言葉も書く。
使えない場所を、使わない。
それも清洲式だ、と。
腹は疲れていた。
でも、妙に静かだった。
飯を炊かなかった日なのに、飯の道を一つ守れた気がした。




