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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第四十六話 人足の不安も、飯の道だった

茶屋の裏で茂平に紙を渡した若い男は、その日のうちに姿を消していた。


 弥助殿の配下が茶屋へ向かった時には、もういない。


 茶屋の女は、腕を組んで不機嫌そうに言ったらしい。


「薬売りか紙売りか知らないけどね、昼前に団子を一つ買って、裏の台で荷を直して、それから北へ行ったよ。妙に愛想がよかったから、逆に覚えてる」


 妙に愛想がいい。


 それは怖い。


 藤助の時もそうだった。


 毒のある粉や紙を持つ者ほど、表の顔は柔らかいのかもしれない。


 俺は、清洲蔵の隅で茂平の話を何度も思い返していた。


 織田の荷を運ぶと、村に恨まれるぞ。

 人足は使い捨てだ。

 嫌になったら、この紙を村に置け。


 紙を渡された茂平は、それを置かなかった。


 川のほうへ捨てたと言った。


 だが、荷を置いた隙に別の紙を入れられたかもしれない。


 それが本当かどうか、まだ分からない。


 けれど一つだけ、はっきりしたことがある。


 敵は、人足の不安を知っている。


 使い捨て。


 その言葉は、米俵より重い。


 背中に荷を載せられ、肩を痛め、足をひねり、怪我をすれば次の荷から外される。

 外されれば銭が入らない。

 銭がなければ米を買えない。

 米がなければ腹が減る。


 人足の不安も、飯の道なのだ。


「清吉」


 作兵衛が蔵へ入ってきた。


 肩には背当てをかけている。


 それが、最近の彼の印みたいになっていた。


「茂平は?」


「弥助殿のところで話を聞かれてる。縛られてはいねえ。ただ、勝手には帰れない」


「そうか」


「悪い奴かどうかは、まだ分からん」


 作兵衛は米俵の上に腰を下ろしかけて、すぐ立ち上がった。


「悪い。癖だ」


「座ってもいい」


「米俵に座ると、おまえが嫌な顔をする」


「そんなに顔に出るか」


「出る」


 もう全員がそれを言う。


 諦めるしかない。


 作兵衛は床に腰を下ろした。


「清吉。茂平みたいな奴は、他にもいる」


「紙を渡された人が?」


「それもあるかもしれん。でも、そうじゃない。不安を持ってる奴だ」


 俺は黙った。


 作兵衛の声は、いつもより低かった。


「荷を運ぶ人足は、戦が近づくと仕事が増える。銭も入る。だが、怪我も増える。道で敵に襲われるかもしれん。荷が消えれば疑われる。腹を壊せば使えないと見られる。疲れても、米は待ってくれない」


「うん」


「そこへ『おまえらは使い捨てだ』って紙を入れられたら、腹に残る」


 腹に残る。


 それは、悪い飯と同じだ。


 食ってしまうと、中でじわじわ効く。


「どうすればいい」


 俺が聞くと、作兵衛は少し困った顔をした。


「全部はどうにもならん。人足の不安なんて、今日できたもんじゃねえからな」


「でも、何かはできる」


「ああ。少なくとも、怪我した時どうするか、休みはどうするか、銭はいつ払われるか。それが分かるだけでも違う」


 怪我。

 休み。

 銭。


 また、飯から遠そうな言葉が出てきた。


 でも、今なら分かる。


 それらが曖昧なら、人足の腹は揺れる。


 腹が揺れれば、紙が入り込む。


 紙が入り込めば、飯の道が腐る。


 伊三郎が横から言った。


「帳面にしましょう」


 すでに筆を持っている。


 この人は、問題が出るとすぐ帳面にする。


 少し怖いが、今は頼もしい。


「何の帳面だ」


 作兵衛が聞く。


「人足約定帳」


「約定?」


「約束です。怪我をした時、休む時、荷を失った時、支払い、食事。決めて残す必要があります」


「そんなものまで帳面にするのか」


 作兵衛は苦笑した。


 だが、嫌そうではなかった。


「飯が止まらないためです」


 伊三郎は言った。


「人足が不安で離れれば、飯は止まります。疑いが広がれば、飯は止まります。なら、そこも兵糧です」


 兵糧。


 米でも味噌でもない。


 でも、兵糧。


 俺は小さく頷いた。


「作ろう」


 その日の昼前、俺たちは弥助殿の許可を得て、人足たちを蔵の外へ集めた。


 作兵衛が声をかけた。


 清洲の人足、途中で雇われる者、背負い荷を担当する者、荷車を押す者。


 全員ではない。


 まず、よく関わる者だけだ。


 茂平もいた。


 まだ顔色は悪い。


 だが、逃げてはいなかった。


 人足たちは不安そうだった。


 呼び出されたのだから当然だ。


 中には、茂平のことをちらちら見る者もいる。


 紙を受け取った男。


 そう見ているのだろう。


 このままだと、茂平一人に全部の疑いが集まる。


 それも危ない。


 敵は、そういう割れ目を喜ぶ。


 作兵衛が前に立った。


「今日集めたのは、犯人探しのためじゃねえ」


 最初にそう言った。


 ざわつきが少し収まる。


「紙を渡した奴は、俺たちの不安を使った。使い捨てだと言った。怪我したら捨てられる、銭も曖昧だ、飯も出ない、そう思わせようとした」


 人足たちは黙っている。


 作兵衛は続けた。


「なら、そこを曖昧にしない。清吉と伊三郎が帳面にする。俺たちも口を出す」


 俺に視線が集まった。


 腹が重くなる。


 俺は一歩前へ出た。


「俺は、人足の仕事を全部分かっているわけではありません」


 正直に言った。


「昨日の逃げ道でも、作兵衛に言われるまで、背負い荷の痛みをちゃんと分かっていませんでした。でも、飯は人足の背で動きます。人足の腹が不安なら、飯の道も不安になります。だから、聞かせてください」


 人足の一人が言った。


「聞いて、何が変わる」


 もっともだ。


「すぐ全部は変わりません。でも、帳面に残れば、次の荷の形や休み場は変えられます。怪我をした時の扱いも、上へ伝えられます。書かれていないことは、なかったことにされます」


 最後の言葉は、少し強く出た。


 伊三郎が俺を見た。


 だが、止めなかった。


 茂平が小さく言った。


「本当に、書くのか」


「書く」


 伊三郎が答えた。


「ただし、嘘は書けません。見たこと、聞いたこと、決まったことを書く」


「俺が紙を受け取ったことも?」


「書きます」


 茂平の顔が曇る。


 伊三郎は続けた。


「それと、紙を置かなかったと申したこと。茶屋の裏で荷を離れたこと。薬売り風の若い男に声をかけられたこと。全部書きます」


「全部か」


「都合よく消すと、後で疑いになります」


 茂平はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「なら、書いてくれ」


 その言葉で、少しだけ場が動いた。


 人足たちが一人ずつ話し始めた。


「背負い荷は、一度下ろすと持ち上げる時が一番きつい」


「休み場に腰掛ける石があると助かる。地面に座ると立つのがきつい」


「水を飲ませてもらえる場所が分かってると、余計な薬なんか買わなくて済む」


「銭は、日ごとがいい。まとめて後だと不安だ」


「怪我した日に半分でも出るのか、出ないのか。それが分からないと怖い」


「荷を失くした時、全部こっちのせいにされるのが一番嫌だ」


 次々に出る。


 俺は聞くだけで精一杯だった。


 伊三郎の筆は走り続ける。


 かやは荷の話になると横から確認する。


「背負い袋の結びは外側が痛い?」


「外側というか、肩の少し後ろ」


「なら、結びを下へ逃がす」


「でも下すぎると腰に当たる」


「じゃあ背当てに溝を作る」


 作兵衛は人足の話をまとめる。


「休みは短くてもいい。だが場所を決めろ。水場と休み場が別なら、先に言え」


「怪我した奴の荷は、誰が引き継ぐか決めておけ」


「銭は、誰が払うかはっきりさせろ。『後で』が一番腹に悪い」


 後で。


 たしかに、腹に悪い言葉だ。


 飯も後で、銭も後で、休みも後で。


 それが続けば、人は怪しい薬や紙に手を伸ばす。


 俺は、今まで人足用の粥を作ったことで少し安心していた。


 でも、それだけでは足りなかった。


 腹に入る飯は必要だ。


 だが、腹に残る不安も減らさなければならない。


 そうでなければ、敵の紙はまた入る。


 昼過ぎ、弥助殿が来た。


 人足たちの話を聞き、しばらく黙っていた。


 それから伊三郎の帳面を見た。


「面倒なことになっているな」


 いつもの短い言葉だ。


 だが、否定ではなかった。


 作兵衛が一歩前へ出る。


「面倒でも、決めておいたほうがいい。決まってねえところに紙を差し込まれる」


 弥助殿は作兵衛を見た。


「人足がそう言うなら、そうなのだろう」


 そして俺へ向いた。


「清吉。まとめろ。上様へ上げる」


「はい」


「ただし、すべて望み通りにはならん」


「分かっています」


「怪我した時の銭、休み、支払い。これは兵糧方だけでは決められん。だが、前進飯場と美濃道輸送に関わる範囲なら、決められるものもある」


「それで十分です」


「十分ではないだろう」


 弥助殿は少しだけ笑った。


「だが、始めるにはそれでいい」


 始める。


 また始まりだ。


 清洲式は、何度始まるのだろう。


 米を守るところから始まり、味噌を守り、荷を分け、道を見て、粉を見て、村の暦を聞き、噂紙を拾い、今度は人足の怪我と銭だ。


 遠くまで来たようで、やっていることはずっと同じなのかもしれない。


 飯を止めないために、腹を見る。


 その腹が、だんだん広がっているだけだ。


 夕方、茶屋裏の調べから知らせが戻った。


 薬売り風の若い男は、茶屋で紙を売った形跡はない。


 だが、茶屋の女が顔を覚えていた。


「紙売りじゃなくて、筆を持ってたよ。旅の書き付けを代筆するって言ってた」


 代筆。


 俺にはよく分からなかったが、伊三郎はすぐ反応した。


「字を書ける者です」


「噂紙を書いた本人か」


「可能性はあります」


 若い男は、北へ向かったらしい。


 ただし、途中で別の荷隊に紛れた可能性がある。


 荷隊。


 また、荷に紛れる。


 弥助殿は配下を出したが、深追いはしないと言った。


「また逃げられるかもしれません」


 俺が言うと、弥助殿は答えた。


「逃げるなら、逃げる先を見ればいい。奴は紙を撒くために人の不安を探す。次も同じところを狙う」


「人足」


「か、村だ」


 なら、こちらはそこを固めるしかない。


 その日の夜、人足約定帳の最初の案ができた。


 伊三郎が読み上げる。


「一、人足には出発前または休み場で人足用粥を出す。二、背負い荷は重さを記し、道ごとに上限を決める。三、休み場を事前に知らせる。四、水汲み役と米背負い役を分ける。五、怪我をした者はすぐ申し出る。隠した者を責めるのではなく、荷の組み替えを先に行う。六、支払いは日ごと、または区切りごとに記録を残す。七、怪しい薬・紙を渡された者は申し出る。申し出た者をすぐ犯人扱いしない」


 人足たちは真剣に聞いていた。


 作兵衛が腕を組んで頷く。


「全部守れるかは別だ。だが、書かれたなら聞ける」


 茂平が小さく言った。


「俺が最初に言えばよかった」


 作兵衛は彼を見た。


「次に言えばいい」


 茂平は顔を上げた。


「次?」


「おまえが次に紙を渡されたら、すぐ出せ。そうすりゃ帳面に『茂平、すぐ出した』って残る」


 茂平はしばらく黙り、それから少しだけ笑った。


「それなら、残してほしいな」


 その笑いで、場の空気が少し緩んだ。


 完全に疑いが消えたわけではない。


 でも、焼かずに済んだ。


 人の腹は、米のように簡単には選別できない。


 ばつ印をつければ終わるわけではない。


 見て、聞いて、残して、次の行動を見る。


 面倒だ。


 だが、それが飯の道を守る。


 夜、蔵の外で粥を食べた。


 今日の粥は、人足用のものに少し干し菜を足した。


 塩は控えめ。


 味噌は腹に残る程度。


 作兵衛がすすって言った。


「今日の飯は、銭の味がするな」


「それはうまいのか?」


「悪くねえ。腹の不安が少し減る味だ」


 かやが笑った。


「じゃあ、今日の飯は約定の味だね」


「また難しい味が増えた」


 俺は粥をすすった。


 確かに、今日の粥は少し重い。


 でも、その重さは嫌ではなかった。


 怪我。

 休み。

 支払い。

 紙を渡された時の扱い。


 それらを帳面にしただけで、全部が解決するわけではない。


 だが、何も書かれていない腹よりはましだ。


 敵は紙を差し込んだ。


 なら、こちらは約束を差し込む。


 人の腹に、不安ではなく、少しでも形のあるものを残す。


 それも、飯を運ぶ道なのだと思った。

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