表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/160

第四十五話 荷に紛れた紙

前進飯場が、七日続いた。


 七日。


 数字にすれば、それだけだ。


 だが俺には、米俵を七つ積み上げたような重さがあった。


 一日目、火を小さくした。

 二日目、朝の水に合わせて味噌を少し変えた。

 三日目、風が変わり、予備火床へ鍋を移した。

 四日目、人足を狙う噂紙が出た。

 五日目、村の女たちが干し菜を塩と交換してくれた。

 六日目、老人のほうから水番を教えてくれた。

 七日目、兵が自分から「今日は火を落とす時刻が早いんだろ」と言った。


 それは小さな変化だった。


 でも、飯場では小さな変化が大きい。


 兵が村の約束を覚える。

 人足が背当ての位置を自分で直す。

 村人が水番を先に教える。

 女たちが干し菜を持ってくる。

 権六が文句を言う前に、兵へ理由を説明する。


 前進飯場は、少しずつ村の中で浮かなくなってきた。


 まだ馴染んではいない。


 ただ、毎朝置かれる石のように、「そこにあるもの」として見られ始めていた。


 だからこそ、八日目の朝、伊三郎が噂紙を並べた時、俺は腹の底が冷えた。


「この紙、外の行商が持ち込んだものだけではないかもしれません」


 伊三郎は静かに言った。


 清洲蔵の隅。


 米俵を少しどかして作った帳面台の上に、噂紙が七枚並んでいる。


 織田の飯場は水を毒にする。

 桑を枯らす。

 村の米を奪う。

 人足を使い潰す。

 村を兵の盾にする。


 書かれていることは似ている。


 字は下手だ。


 少なくとも、上手く見せようとはしていない。


 だが、伊三郎はそこを見ていたのではなかった。


「紙の折り方が同じです」


「折り方?」


 俺には、ただの紙に見える。


 伊三郎は一枚を指で示した。


「ここです。四つ折りにしてから、端を少し内側へ入れています。荷札や小さな覚書を濡らさないように、荷の中へ差し込む時の折り方です」


 かやがすぐに顔を上げた。


「荷の中へ?」


「はい」


 伊三郎はもう一枚を示す。


「それと、紙にわずかに味噌の匂いが移っています。佐助」


 佐助が紙へ顔を近づけようとして、すぐに自分で止まった。


 直接嗅がない癖がついている。


 布に少し移してから、遠くで匂いを見る。


「……味噌です。でも、清洲蔵の味噌に近い」


「村の味噌ではない?」


「違うと思います。村で交換した干し菜の匂いではありません。清洲の強い味噌に近いです」


 清洲の味噌。


 俺は紙を見た。


 腹が重くなる。


 噂紙が、敵の行商だけでなく、こちらの荷に紛れて運ばれた可能性。


「外から撒かれたんじゃないのか」


 作兵衛が低く言った。


「外からもあるでしょう」


 伊三郎は答えた。


「ですが、少なくともこの二枚は、前進飯場へ向かう荷の中に入っていた可能性があります」


 かやの目が鋭くなる。


「どこで見つかった紙?」


「一枚は栗の木の下。人足休み場。もう一枚は、干し菜交換の日に荷置きの近くで村の子が拾っています」


「荷置きの近く……」


 かやは唇を結んだ。


 荷の近くに噂紙が落ちていた。


 それはつまり、誰かが荷を扱う時に落としたか、わざと置いたか。


 村人かもしれない。


 兵かもしれない。


 人足かもしれない。


 荷を運んだ誰かかもしれない。


 疑いが、一気に内側へ向いた。


 嫌だった。


 粉よりも嫌かもしれない。


 外から来た敵なら、止めればいい。


 右足の藤七や薬売り藤助なら、捕まえればいい。


 だが、荷に紛れている者がいるなら。


 清洲から飯を運ぶ列の中に、誰かが紙を入れているなら。


 味方の腹を疑わなければならない。


「清吉」


 五郎兵衛殿が言った。


「顔が焦げてるぞ」


「……嫌です」


「何が」


「味方を疑うのは」


「疑わずに飯が腐るほうが嫌だろう」


 それはそうだ。


 だが、簡単には頷けなかった。


 作兵衛の背。

 権六の文句。

 佐助の味噌。

 かやの荷。

 伊三郎の帳面。

 人足たちの粥。

 兵たちの腹。


 全部が、ようやく少しずつつながってきた。


 そこへ「内側にいるかもしれない」と言われると、胸の中の米俵が崩れるようだった。


「疑うと、空気が悪くなります」


 俺は言った。


「人足も兵も、村も。誰が紙を入れたか探すと、皆が互いを見るようになる」


「見ることと、焦がすことは違う」


 五郎兵衛殿の声は静かだった。


「見ろ。だが、いきなり焼くな」


 見ろ。

 焼くな。


 それしかない。


 伊三郎も頷いた。


「まずは流れを見ましょう。どの荷が、誰の手を通ったか。噂紙が出た日の荷と人を照合します」


「帳面で分かるか」


「完全には。でも、清洲式の荷は印と結びがあります。誰が受け取ったかも残っています」


 帳面が、ここでまた役に立つ。


 もし記録がなければ、全部が疑いになる。


 だが記録があれば、少なくとも流れは追える。


「かや」


 伊三郎が言った。


「荷の結びで、違和感はありましたか」


 かやは少し考えた。


「六日目の隠し荷の竹皮束。結びが少し甘かった。でも、運んだ人足が慣れてなかったからだと思ってた」


「誰が運びましたか」


「清洲の人足じゃない。途中で雇った地元の荷運び。名前は……」


「茂平です」


 作兵衛が言った。


「表道の茶屋近くで時々荷を運ぶ男だ。悪い噂は聞かねえが、銭に困ってるとは聞いた」


 茂平。


 俺はその名前を聞いても、すぐ顔が浮かばなかった。


 それがまた不安だった。


 こちらの荷に関わる人間を、全部覚えきれていない。


 飯場が広がるほど、人が増える。


 人が増えれば、腹が見えない場所も増える。


「茂平を捕まえるのか」


 権六が横から言った。


 いつの間にか近くにいた。


 この男は、文句の匂いを嗅ぎつけるのが早い。


 五郎兵衛殿が首を横に振る。


「まだ捕まえん。話を聞く」


「逃げたら?」


「逃げるなら、逃げる前の腹を見る」


 また難しい言い方だ。


 だが、五郎兵衛殿らしい。


 弥助殿へ報告が上がり、その日の前進飯場運用は予定通り続けることになった。


 止めない。


 噂紙が出ても、飯場を止めれば敵の思うつぼだ。


 ただし、今日から荷の流れをさらに細かく見る。


 噂紙を探すために全員を怒鳴りつけるのではない。


 荷を出す時に、紙が紛れていないか見る。

 荷を受ける時に、結びを見る。

 人足に粥を出す時、変な紙を見た者がいないか聞く。

 村に、紙を拾ったら隠さず渡してもらう。


 そして、茂平にも話を聞く。


 前進飯場へ向かう道中、俺はいつもより荷を見た。


 かやはもっと見ていた。


 結び。

 竹皮の向き。

 荷札の位置。

 縄の擦れ。

 誰がどこで触ったか。


「清吉」


「何」


「見すぎると、逆に相手が固くなる」


「どうすれば」


「普段通り見る。変なことだけ覚える」


「普段通りが難しい」


「だからあたしが見る」


 頼もしい。


 だが、全部任せるわけにはいかない。


 小型前進飯場に着くと、村の老人がいつもの場所にいた。


 今日も手には写し。


 約束の写しを、何度も読んだのだろう。端が少し柔らかくなっていた。


「清吉」


「はい」


「また紙が出たと聞いた」


 早い。


 噂紙の噂もまた早い。


「はい。清洲で調べています」


「村の者を疑うのか」


 鋭い問いだった。


 俺はすぐには答えなかった。


 ここで「疑っていません」と言えば、嘘になる。


 すべての可能性を見る必要がある。


 だが「疑っています」と言えば、村は硬くなる。


「村の方だけを疑うつもりはありません」


 俺は言った。


「清洲からの荷、人足、兵、村の道、全部の流れを見ます。紙がどこから来たかを知りたいです」


 老人は俺をじっと見た。


「全部疑うのか」


「全部見る、です」


 少し強く言った。


「疑って決めつけるのではなく、見ます。見たことは帳面に残します」


 老人はしばらく黙っていた。


 そして、若い男を呼んだ。


「昨日、栗の木の下で紙を拾ったのは誰だ」


「太郎です」


「呼べ」


 出てきたのは、十歳くらいの子供だった。


 手を土で汚している。


 目が大きい。


 俺はしゃがんで目線を合わせた。


「紙を拾った場所、教えてくれるか」


 子供は老人の顔を見た。


 老人が頷く。


 子供は俺を栗の木の下へ案内した。


「ここ」


 栗の木の根元。


 人足が休む場所の少し外。


 荷を下ろす板の近くではない。


 だが、人足が背当てを直す時に座る場所だ。


「誰かが置いたのを見た?」


 子供は首を振った。


「朝にはなかった。昼のあと、あった」


「昼のあと」


 その時間帯は、人足用の粥を出した後だ。


 人足が休み、兵も一部が通った。


 村の子供も近くにいた。


 人が多い時間。


「ありがとう」


 俺は小さな干し菜を一つ渡そうとして、手を止めた。


 勝手に物を渡すのはよくない。


 老人を見る。


 老人は少し考えてから頷いた。


 俺は干し菜を渡した。


「見つけたら、また教えてくれ」


 子供は頷いた。


 飯場へ戻ると、作兵衛が人足たちに話をしていた。


「紙を見つけたら隠すな。おまえらが疑われるからじゃねえ。隠すと、紙を書いた奴が笑うからだ」


 人足の一人が言った。


「俺たちが疑われるのは嫌だ」


「嫌なら出せ。出せば帳面に残る。隠せば腹に残る」


 作兵衛の言葉は、今日も強い。


 背を使う者の声だからだ。


 その中に、茂平がいた。


 痩せた男だった。


 年は三十前後。


 目が泳いでいるというほどではないが、落ち着かない。


 作兵衛が俺を見た。


 この男だ、という目だった。


 俺はすぐ問い詰めたくなる気持ちを抑えた。


 焼くな。


 見ろ。


「茂平さん」


 俺は声をかけた。


「昨日、竹皮束を運びましたか」


 茂平はびくりとした。


「運んだ」


「結びが少し甘かったそうです。どこかで結び直しましたか」


「……途中で一度」


「どこで?」


「茶屋の裏だ。縄が緩んだから」


「誰かに触られましたか」


「いや」


 答えが早い。


 少し早すぎる。


 かやが横で黙って見ている。


「その時、荷を置きましたか」


「置いた」


「何の上に?」


「茶屋の横の台」


 かやが小さく息を吐いた。


「茶屋の横の台は、旅人も使う」


 茂平の顔がさらにこわばった。


「俺は、何も入れてない」


 まだ誰も入れたとは言っていない。


 俺はゆっくり言った。


「入れたかどうかではなく、誰かが近づいたかを知りたいです」


 茂平は唇を噛んだ。


「薬売りみたいな男がいた」


 周囲の空気が変わった。


 薬売り。


 藤助は捕まっている。


 だが、薬売り風の男は他にもいるのか。


「藤助では?」


 佐助が聞くと、茂平は首を横に振った。


「違う。もっと若い。薬売りというか、紙を売るような……いや、よく分からん。小箱を持ってた」


 小箱。


 まただ。


「なぜ言わなかった」


 作兵衛が低く言うと、茂平は顔を歪めた。


「俺が疑われると思った。荷を置いたのは俺だから」


 その声には、怯えがあった。


 悪事をした怯えか。

 疑われる怯えか。


 まだ分からない。


「言えば、帳面に残します」


 俺は言った。


「言わなければ、分からないまま疑いが残ります」


「……すまねえ」


 茂平は肩を落とした。


「銭に困ってるんだろ」


 作兵衛が言った。


 茂平は黙った。


「誰かに頼まれたか」


「頼まれてない。ただ、茶屋の裏で声はかけられた」


「何と」


「織田の荷を運ぶと、村に恨まれるぞって。人足は使い捨てだって。もし嫌になったら、この紙を村に置けって」


 俺の腹が冷えた。


 紙を渡されていた。


「置いたのか」


 茂平は首を振った。


「怖くて捨てた。川のほうへ。でも……荷の中に入れられたかどうかは分からん。俺が台を離れた時があった」


 完全な潔白とは言えない。


 だが、少なくとも紙を受け取った事実を隠していた。


 それが疑いを生んだ。


「その紙は?」


「捨てた。すまねえ」


 弥助殿の配下が茂平を下がらせ、茶屋へ確認に向かうことになった。


 俺はその場で大きく息を吐いた。


 かやが小声で言う。


「清吉、よく焦がさなかったね」


「焦げかけた」


「見えてた」


「見えてたのか」


「顔が」


 また顔だ。


 でも、今日は顔に出ても仕方ない。


 飯場の中に、紙が入りかけていた。


 しかも、人足の不安を使って。


 使い捨て。


 その言葉は、人足の腹に刺さる。


 だからこそ敵は使う。


 この日の飯場は、予定より少し遅れた。


 茂平の話を聞き、荷を見直し、茶屋へ確認を出したからだ。


 だが、火は約束通り昼前に落とした。


 水も増やさなかった。


 灰も持ち帰った。


 噂紙の話で揺れても、飯場の約束は守る。


 それが一番大事だった。


 村の老人は、帰り際に言った。


「今日は、村よりそちらの腹が荒れていたな」


「はい」


「それでも火は時間で落とした」


「約束なので」


「なら、まだ見てやる」


 その言葉は、今日の粥より腹に染みた。


 清洲へ戻ると、伊三郎は茂平の話を帳面に残した。


 茶屋の裏。

 薬売り風の若い男。

 小箱。

 紙を渡す。

 人足の不安を煽る。

 茂平、隠す。

 荷台から離れた時間あり。


 そして、伊三郎は言った。


「内通者というより、内側へ差し込まれた不安ですね」


「どういうことだ」


「茂平が敵とは限りません。ただ、敵は茂平の不安を使った。人足が使い捨てにされるかもしれないという不安を」


 俺は黙った。


 確かに。


 敵は、人の腹の弱いところへ紙を差し込む。


 粉と同じだ。


 ほんの少しで、味を変える。


「なら、人足の不安も見ないと駄目だ」


 作兵衛が言った。


「背当てと粥だけじゃ足りねえ。銭のこと、休みのこと、怪我した時のこと。そこを放っておくと、また紙を差し込まれる」


 人足の銭。

 休み。

 怪我。


 また飯から遠いようで、飯の道に近い話が出た。


 でも、もう驚かなかった。


 人足が不安で動けなくなれば、飯は止まる。


 なら、それも兵糧だ。


 夜、粥を食べながら、かやが言った。


「今日の飯は、紙を燃やさなかった味だね」


「燃やしたかった」


「うん。でも燃やす前に読んだ」


「俺は読めないけど」


「読んでもらって、見た」


 そうだ。


 読めなくても、見た。


 疑った。

 でも、焼かなかった。

 茂平の話を聞いた。

 不安が差し込まれていたことを知った。


 味方の腹を疑うのは怖い。


 だが、見なければ、敵の紙が腹の中で膨らむ。


 俺は粥をすすった。


 今日は少し苦い気がした。


 でも、飲み込んだ。


 清洲式は、米と味噌だけではもう足りない。


 人の不安も見なければならない。


 飯場が前へ出るほど、人の腹の奥にも踏み込む。


 怖い。


 だが、そこを見なければ、飯は届かない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ