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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第四十四話 約束は、一度守っただけでは飯にならない

 噂の紙は、粥より薄い紙だった。


 だが、腹には重かった。


 織田の飯場は水を毒にする。

 桑を枯らす。

 村の米を奪う。

 兵のために村を盾にする。


 伊三郎が読み上げた時、蔵の中にいた者たちは誰もすぐには喋らなかった。


 嘘だ。


 そんなことはしていない。


 そう言うのは簡単だ。


 だが、その紙を拾った村人にとっては、嘘かどうかなど最初から分からない。


 実際に飯場は村の水を使う。

 火を焚けば灰が出る。

 兵が来れば村の道を通る。

 米も味噌も動く。


 噂は、まったく何もないところから生まれたものではない。


 ほんの少しだけ本当の形を借りて、そこへ毒を塗ったものだ。


 だから厄介だった。


 白い粉と同じだ。


 良い味噌の顔をして、腹へ悪いものを入れようとする。


 噂も、同じ顔をしていた。


「紙は何枚ありましたか」


 伊三郎が聞くと、弥助殿の配下が答えた。


「村から預かった分で四枚。道端で見つけたものが一枚。茶屋の裏にも一枚あったそうです」


「同じ字ですか」


「たぶん、同じだ」


 俺には読めない。


 だから紙を見ても、字の癖までは分からない。


 伊三郎は紙を並べ、じっと見ていた。


「墨の濃さが違います。まとめて書いたのではなく、何度かに分けている。紙は安いものですが、村の普段使いではなさそうです」


「村の者ではない?」


 俺が聞くと、伊三郎はすぐには頷かなかった。


「断定はできません。ただ、村の中だけで回した紙ではなく、外から持ち込まれた可能性が高いです」


 見たものだけ。


 決めつけない。


 その癖が、伊三郎にも俺にも染みついてきている。


 かやは紙ではなく、紙を包んでいた竹皮の切れ端を見ていた。


「これ、前に見た薄竹皮とは違う」


「分かるのか」


「うん。印写しに使う薄いのじゃない。安い包み用。旅人が小物を包む時によく使う」


「旅人?」


「旅人か、行商か。少なくとも村の台所で使う感じじゃない」


 また、外からの匂い。


 藤七。

 藤助。

 白い粉。

 偽印。

 そして、噂の紙。


 敵は、飯そのものを壊せなければ、飯場を囲む人の腹を狙う。


 佐助は紙から少し離れていた。


 粉ではない。


 だが、彼は嫌そうな顔をしていた。


「佐助?」


「はい」


「どうした」


「これも、粉みたいだと思って」


 俺は紙を見た。


 佐助は続けた。


「味噌に混ぜる粉は、匂いを変えます。これは、村の人の見方を変えるんですよね」


「うん」


「なら、飯場に入れる前に止めないと」


 佐助の言葉は静かだった。


 でも、芯があった。


 以前は、悪い粉の話になると俯いていた佐助が、今は噂の紙を見て「止める」と言っている。


 それだけでも、この蔵の火は少し強くなったのかもしれない。


 信長様への報告は、すでに弥助殿が上げていた。


 返ってきた命は短かった。


「飯場を続けろ」


 それだけだった。


 いや、正確にはもう少しある。


「噂に返事をするな。飯場で返せ。約束を守り続けろ。紙を撒く者は探せ。だが、村を疑って壊すな」


 飯場で返せ。


 それが信長様の答えだった。


 文を出して噂を否定するのではない。


 怒鳴って黙らせるのでもない。


 村の前で、約束通りに飯を炊く。


 水を汲む量を守る。

 火を使う時間を守る。

 灰を持ち帰る。

 桑の葉を汚さない。

 人足を休ませる。

 粉を入れさせない。

 飯場を小さいままにする。


 それを一日ではなく、続ける。


 正直、派手な策より難しいと思った。


 一日なら、気を張ればできる。


 三日、五日、十日となれば、気の緩みが出る。


 兵が水を余分に飲みたがる日もある。

 人足が疲れて休み場を広げたがる日もある。

 火が弱くて粥が遅れ、兵から文句が出る日もある。

 雨で灰が散りやすい日もある。


 噂を消すには、その全部で約束を守らなければならない。


 飯場は、嘘を一度防いだだけでは信用されない。


 約束は、一度守っただけでは飯にならない。


 そう思った。


 翌日から、小型前進飯場の継続運用が始まった。


 一日目と同じく、五十人規模。


 ただし、毎日同じ兵ではない。


 交代で兵を通し、人足も替える。


 飯場を使う者が変わっても約束が守れるかを見るためだ。


 それは、思っていた以上に大変だった。


 二日目の朝、最初に問題を起こしたのは、若い兵だった。


 水汲みは二人までと決めているのに、喉が渇いたと言って湧き水へ直接向かおうとした。


「待て」


 俺が止める前に、権六が腕を掴んだ。


「水汲みは二人までだ」


「何でだよ。水くらいいいだろ」


「よくねえ。ここは村の水だ」


「兵が水飲んで何が悪い」


「悪いかどうかは、おまえの喉じゃなくて村が決めるんだよ」


 権六の言葉に、若い兵は黙った。


 俺も少し驚いた。


 権六は文句役だ。


 だが、いつの間にか約束を兵の側へ伝える役にもなっている。


 村の若い男が、それを見ていた。


 昨日、鍬を持っていた男だ。


 彼は何も言わなかった。


 だが、その目は前より少しだけ険しくなかった。


 二日目の粥は、少し薄かった。


 原因は、水を増やしすぎたことではない。


 味噌を控えすぎたのだ。


 佐助がすぐ気づいた。


「清吉、今日は水が昨日より冷たいです。味噌を控えすぎると、腹に残りません」


「気温か?」


「たぶん。朝が冷えました」


 同じ湧き水でも、日によって違う。


 昨日と同じでは駄目なのだ。


 味噌をほんの少し足す。


 塩は増やさない。


 兵に出す前に、作兵衛にも味見してもらった。


「人足には、これでいい。兵には少し薄いかもな」


 権六にも渡す。


「兵には?」


「少し薄い。でも今日は朝が冷えてるから、熱けりゃ文句は半分で済む」


「半分か」


「全然ないとは言わねえ」


 正直で助かる。


 村の老人にも少し渡す。


 老人はすすり、言った。


「昨日より、味が丸い」


「悪いですか」


「いや。朝の水だ」


 朝の水。


 また新しい言葉だ。


 水は場所だけでなく、時でも変わる。


 村の暦だけでは足りない。


 水の時も見なければならない。


 伊三郎がいたら喜んで帳面に書いただろう。


 俺は小帳面に慌てて印をつけた。


 朝冷え。

 水冷たい。

 味噌少し増。

 朝の水。


 三日目は、風が問題になった。


 昼前に風が変わるはずだったのに、朝から山のほうから下りてきた。


 火床の煙が、わずかに桑畑のほうへ流れかける。


 かやが最初に気づいた。


「火を落として」


「まだ炊けてない」


「落として。煙が行く」


 俺は一瞬迷った。


 兵五十人分の粥がまだ半分しか炊けていない。


 火を落とせば遅れる。


 兵は待つ。


 文句が出る。


 だが、煙が桑へ行けば約束を破る。


「火を落とします」


 俺は言った。


 火を弱めるどころではなく、一度落とす。


 鍋を移す。


 かやが別の位置を指す。


「昨日決めた予備火床。小さいけど、風は逃げる」


 予備火床。


 作っておいてよかった。


 一日目、かやが「火は一つだけだと怖い」と言って、村の許可を得て小さな予備を作っていたのだ。


 そこへ鍋を移す。


 時間はかかった。


 兵から不満も出た。


 権六が大声で言った。


「桑のためだ! 待て!」


「俺たちは蚕かよ」


 誰かがぼやいた。


「蚕が銭になって、銭が米になるんだよ!」


 権六が言い返した。


 俺は思わず笑いそうになった。


 村の老人も、少しだけ口元を動かしていた。


 兵が村の理屈を口にした。


 それは、小さいが大きなことだった。


 粥は遅れた。


 だが、桑の葉は汚さなかった。


 三日目の記録には、そう書いた。


 四日目、噂の紙がまた見つかった。


 今度は村の井戸近くではなく、栗の木の下だった。


 人足の休み場だ。


 紙には、こう書かれていたらしい。


 織田は人足を使い潰す。

 背を壊して捨てる。

 米だけ奪い、人には飯を出さない。


 読んだ作兵衛の顔が、静かに怒った。


「俺たちの背まで使ってきやがった」


 その声は低かった。


 俺は紙を見つめた。


 敵は見ている。


 人足用の粥を出していることも、背当てを作っていることも知っているのかもしれない。


 だからこそ、そこを噂で壊しに来た。


 村の者だけでなく、人足の腹にも疑いを入れる。


 作兵衛は人足たちを集めた。


「この紙を見た者はいるか」


 二人が頷いた。


 不安そうな顔だった。


 作兵衛は自分の背当てを外し、肩を見せた。


 赤みはまだ薄く残っている。


「俺の背は使われてる。確かに痛い。だが、帳面にも残ってる。背当ても直してる。粥も出てる。使い潰すつもりなら、こんな面倒はしねえ」


 人足たちは黙って聞いていた。


 作兵衛は紙を握った。


「不満があるなら、紙に聞くな。俺に言え。清吉に言え。かやに言え。伊三郎の帳面に残せ。紙の向こうの奴は、おまえらの背を見てねえ」


 その言葉は、俺よりずっと届いた。


 人足たちの顔から、少しだけ不安が消える。


 俺は胸が熱くなった。


 人足の噂は、人足が返す。


 それが一番強い。


 その日の人足用粥は、少し味噌を濃くした。


 作兵衛が言ったのだ。


「今日は腹に力を入れたい。少し濃くていい」


 佐助と相談し、塩は増やさず、味噌だけほんの少し強める。


 人足たちは黙ってすすった。


 一人が言った。


「紙より、こっちのほうが信用できるな」


 俺はその言葉を、一生忘れない気がした。


 五日目、村の女たちが飯場へ近づいてきた。


 桑畑を見ていた女を先頭に、三人。


 手には、小さな籠。


 中には、干した菜と、少しの豆が入っていた。


「これは?」


 俺が聞くと、女は言った。


「粥に入れれば腹持ちがいい。桑に灰を飛ばさないでくれたから」


「いただいていいのですか」


「売るんだよ」


 女はきっぱり言った。


「ただで渡すと、次もただだと思われる。少しでいい。銭か、塩と交換」


 俺は慌ててかやを見た。


 かやはすぐ頷いた。


「塩なら少し出せる。帳面に残そう」


「勝手に決めていいのか」


「少量なら交換用に持ってる。村の物をただで取らないため」


 かやは準備していたのだ。


 村との取引。


 これも飯場の一部。


 女たちの干し菜を、塩と交換する。


 伊三郎の写しに、交換量も書く。


 村の女は満足そうに頷いた。


「これならいい」


 その日の粥には、村の干し菜を少し入れた。


 香りが変わった。


 兵たちが「うまい」と言った。


 人足たちもよく食べた。


 村の女たちは、少し離れてそれを見ていた。


 噂の紙ではなく、粥の湯気を見ている。


 その光景を見た時、俺はようやく少し息ができた。


 信頼というものは、一気に生まれない。


 一日目は「噂よりはまし」。


 二日目は「朝の水」。


 三日目は「桑のために火を落とした」。


 四日目は「紙より粥」。


 五日目は「塩と干し菜の交換」。


 小さすぎる。


 でも、その小ささが飯場なのだ。


 大きな声で噂を否定するより、毎日小さく約束を守る。


 そのほうが、腹に残る。


 清洲へ戻るたび、俺たちは伊三郎へ報告した。


 伊三郎の帳面は、ものすごい速さで埋まっていった。


「村暦に、交換の日も追加します」


「交換の日?」


「村の女たちが干し菜を持ってくる可能性があります。塩との交換量を決めておかないと、後で揉めます」


「なるほど」


「それと、噂紙帳も分けます」


「また帳面」


「噂も兵糧の敵ですから」


 噂紙帳。


 名前だけで腹が重い。


 だが、必要だ。


 どこに落ちていたか。

 誰が見つけたか。

 何が書いてあったか。

 その日に何をして噂へ返したか。


 全部残す。


 紙の毒には、帳面と粥で返す。


 六日目の朝、村の老人が飯場へ来て言った。


「清吉」


「はい」


「今日の風は早く変わる。火はもっと早く落とせ」


「分かりました」


「それから、水番は昨日と違う家だ。水を汲む前に、あそこの娘に声をかけろ」


「はい」


 老人のほうから教えてくれた。


 俺はそれに気づいて、胸の奥が熱くなった。


 最初は、こちらが聞かなければ教えてくれなかった。


 今は、先に言ってくれる。


 完全な信用ではないかもしれない。


 だが、飯場を村の暦の中へ入れ始めてくれている。


 その日の昼前、火を落とした後、老人がぽつりと言った。


「小さい飯場なら、しばらくは置いてもよい」


 俺は思わず顔を上げた。


「本当ですか」


「大きくするな」


「はい」


「桑を汚すな」


「はい」


「水番を飛ばすな」


「はい」


「人足を栗の木より奥へ入れるな」


「はい」


「噂の紙が出たら、隠すな」


「はい」


 条件だらけだ。


 でも、許しだった。


 条件のある許し。


 それこそ、前進飯場に必要なものだった。


 清洲へ戻り、信長様へ報告が上げられた。


 返ってきた言葉は短かった。


「よし。続けよ」


 それだけ。


 だが、俺たちは皆、少しだけ笑った。


 続けよ。


 それは、一度の成功ではなく、続けることが認められたということだ。


 夜、清洲蔵の外で食べた粥には、村から交換した干し菜を少し入れた。


 清洲の水で炊いたのに、あの村の匂いがした。


「今日の飯は、約束が続いた味だね」


 かやが言った。


「うん」


 俺は素直に頷いた。


 約束は、一度守っただけでは飯にならない。


 何度も守って、ようやく腹に落ちる。


 噂はまだ消えていない。


 紙を撒く者も、まだ見つかっていない。


 でも、村は見ている。


 兵も見ている。


 人足も見ている。


 帳面も残っている。


 そして、粥は毎日腹に落ちている。


 その積み重ねだけが、噂に勝つ道なのだと思った。

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