第四十三話 噂は、煙より早く流れる
小型前進飯場を初めて動かす朝、俺は火打ち石を握ったまま、しばらく動けなかった。
火をつけるのが怖い。
そんなことを思ったのは、飯炊きになって初めてかもしれない。
火は飯を作る。
水を煮る。
米を粥にする。
味噌の匂いを立てる。
冷えた腹を温める。
だが、あの村では火が桑の葉を汚す。
灰が飛べば、蚕が食う葉に混じる。
蚕がやられれば、絹が減る。
絹が減れば、銭が減る。
銭が減れば、米が買えない。
村の老人が言った言葉が、ずっと腹に残っていた。
だから今日は、いつもの飯場よりも火が重い。
「清吉」
かやが横から声をかけた。
「火打ち石、砕く気?」
「そんなに握ってたか」
「うん。火をつける前に石が死ぬ」
「石は死なないだろ」
「清吉なら殺せそう」
ひどい言い方だが、少しだけ肩の力が抜けた。
今日は、小型前進飯場の初運用だ。
兵は五十人。
人足は六人。
荷は少量。
村との約束通り、火を使うのは朝から昼前まで。
水は小鍋二つ分まで。
井戸ではなく、林奥の湧き水を使う。
水汲みは二人まで。
祠の前を通らない。
桑畑へ煙を流さない。
灰は村の灰捨て場へ持っていく。
飯場は小さいまま。
大きくする時は先に言う。
約束は、伊三郎の帳面にも残した。
村の老人にも見せた。
俺の下手な印では不安だったので、伊三郎が清書した写しを一枚作ってくれた。村に預ける分だ。
「帳面は、こちらだけが持つと疑われます」
伊三郎はそう言った。
「村にも写しを渡すのか」
「はい。約束は、相手も見られる形にしたほうがよいです」
その言葉を聞いた時、俺は少し驚いた。
帳面は蔵を守るものだと思っていた。
でも、約束を守るためのものでもある。
疑いを減らすためのものでもある。
飯場に米と味噌が必要なように、村との間には帳面が必要なのだ。
伊三郎は今日、清洲に残る。
だから小さな写しを俺に持たせた。
村に着いたら、まず老人へ見せる。
勝手に火を起こさない。
勝手に水を汲まない。
勝手に荷を広げない。
俺たちは、清洲式を持っていく。
だが、村の腹の上で火を焚く。
それを忘れてはいけない。
佐助は味噌の竹筒を確認していた。
「今日の味噌は控えめに使ってください。この水ならよく伸びます」
「分かった」
「粉見の道具もあります。飯場の外に置きます」
「うん」
佐助の声は落ち着いていた。
薬売り藤助が捕らえられ、危険な粉は押さえた。
だが、粉の心配が消えたわけではない。
敵は一度、飯の顔を変えようとした。
なら、またやるかもしれない。
作兵衛は人足六人に背当てをつけさせていた。
「今日は距離は短い。だが、飯場に入る前に一度栗の木で休む。背中を見せろ。痛みを隠すな」
人足の一人が笑った。
「痛い痛いって言ったら、帳面に残るのか?」
「残る」
作兵衛が即答した。
「恥ずかしいな」
「隠して潰れたほうが恥ずかしい」
その言葉に、人足たちは黙った。
俺は小さく頷いた。
人足の背を守る言葉は、俺より作兵衛のほうが届く。
同じ背で米を運ぶ者の言葉だからだ。
五郎兵衛殿は、兵五十人の様子を見ていた。
権六もいる。
またいる。
「権六、今日は正式な試験じゃないぞ」
俺が言うと、権六は当然の顔で答えた。
「正式な初運用だろ。文句役がいないと困る」
「誰も呼んでない」
「五郎兵衛殿に呼ばれた」
俺が五郎兵衛殿を見ると、五郎兵衛殿は涼しい顔をしていた。
「文句は早めに拾え。噂よりは役に立つ」
「噂?」
俺は聞き返した。
五郎兵衛殿は少し目を細めた。
「道中で聞いた。村のほうに、妙な話が流れている」
「妙な話?」
「織田の飯場が水を奪う。桑を枯らす。村の米を勝手に買い叩く。そんな話だ」
腹が冷えた。
噂。
粉の次は、噂か。
飯場を壊すのに、粉は要らない。
村の腹に疑いを入れればいい。
水を奪う。
桑を枯らす。
米を買い叩く。
そんな噂が流れれば、村は飯場を拒む。
水を貸さない。
火を焚かせない。
人足を出さない。
道を教えない。
飯は止まる。
「誰が流したか分かりますか」
「まだ分からん」
五郎兵衛殿は言った。
「だが、今日の飯場で雑をすれば、噂は本物になる」
それが一番怖い。
噂は嘘でも、こちらが一つ約束を破れば、嘘は本当に近づく。
だから今日は、いつも以上に慎重にしなければならない。
俺は火打ち石を懐に入れた。
「行きます」
清洲を出た時、空はよく晴れていた。
風は弱い。
だが、村に近づくほど、俺の腹は重くなった。
村の入口には、老人が立っていた。
その隣に、若い男が二人。
女たちも、桑畑のそばでこちらを見ている。
歓迎ではない。
警戒だ。
前より硬い。
やはり、噂が届いているのかもしれない。
俺はまず老人の前に出て、頭を下げた。
「清吉です。今日は約束通り、小型飯場の初運用に参りました」
伊三郎の写しを差し出す。
老人は受け取り、若い男に読ませた。
若い男は声に出して読んだ。
「火は朝から昼前まで。水は小鍋二つ分まで。祠の前を通らない。桑畑へ煙を流さない。灰は村の灰捨て場へ。飯場は小さいまま。大きくする時は先に言う」
村人たちが聞いている。
俺はその場で言った。
「この通りにします。もし違ったら、その場で止めてください」
老人は俺を見た。
「噂を聞いた」
来た。
俺は腹に力を入れた。
「どのような」
「織田の飯場は、水を奪う。桑を枯らす。村を兵の盾にする。そう言って回る者がいた」
村を兵の盾にする。
その言葉は重かった。
前進飯場を置くということは、村を危険に近づけることでもある。
それは嘘と言い切れない部分がある。
だからこそ、きつい。
「盾にするつもりはありません」
俺は言った。
だが、それだけでは弱い。
「でも、飯場を置けば、村に迷惑も危険も近づきます。それは嘘ではありません。だから、小さくします。火も水も、村の決めた範囲で使います。敵が近い時は、村へ先に知らせます。荷を逃がす道も、村道を塞がないようにします」
老人は黙っていた。
周りの村人たちも黙っている。
俺は続けた。
「もし約束を破れば、飯場は畳みます。帳面にそう残してもいいです」
かやが少し驚いた顔をした。
でも、止めなかった。
老人は俺をじっと見ていた。
「自分で言うのか」
「言わないと、信用されないと思いました」
「飯場を畳めと言ったら、本当に畳むのか」
怖い問いだ。
俺一人で決められることではない。
だが、ここで曖昧にすれば、噂に負ける。
「俺の判断で畳める範囲なら畳みます。上へ報告が必要な時は、すぐ清洲へ戻して報告します。無理に続けません」
老人は若い男と顔を見合わせた。
しばらくして、言った。
「見ている」
「はい」
「噂が嘘か、本当か」
「はい」
それで十分だった。
今日の飯場は、村に見られながら始まる。
まず、人足を村の外れの栗の木の下で休ませた。
約束通り、枝は折らない。
荷を下ろす時も、根を傷めないよう板を敷く。
作兵衛が人足の肩を確認する。
「痛みは?」
「今は大丈夫」
「背当てずれた奴は?」
「こっち少し」
作兵衛が直す。
村の若い男がそれを見ていた。
「人足までそんなに見るのか」
「人足が潰れたら、米は動きません」
俺が答えると、若い男は少しだけ頷いた。
次に水。
水汲みは二人まで。
湧き水へ行く道は、祠の前を通らず横道を使う。
水を汲む足場に石を置く。
泥を作らない。
こぼした水は、流れへ戻さず下へ逃がす。
村の女が見ていた。
「そこまでしなくても」
「最初にやっておかないと、人数が増えた時に乱れます」
「増やす気かい」
声が少し鋭くなる。
俺はすぐ首を横に振った。
「勝手には増やしません。今日は五十人分までです」
「そうだったね」
彼女は写しの板を見る。
約束がそこにある。
帳面の写しが、俺より先に答えてくれた気がした。
火は、低地の火床で起こした。
石は村から借りたもの。
灰受けの桶も用意した。
火は小さく。
煙の向きをかやが見ている。
「今は大丈夫。桑畑へ行ってない」
「午後は?」
「風が変わる前に落とす」
俺は頷いた。
佐助が味噌を確認する。
「粉なし。味噌は控えめで」
「分かった」
小鍋に米を入れ、水を注ぐ。
火が入る。
湯気が立つ。
この瞬間が、今日は特に怖かった。
村人たちが見ている。
兵たちが腹を空かせている。
人足が肩を休めている。
噂が、村の腹に残っている。
この粥が失敗すれば、噂は強くなる。
俺は鍋から目を離さなかった。
「清吉」
権六が近づいてきた。
「兵のほう、腹が鳴ってる」
「もう少し待て」
「待つのはいいが、何を待ってるか言ったほうがいい」
「何を?」
「村との約束だよ。火を小さくしてるから時間がかかるって言えば、兵も文句を間違えない」
俺は目を瞬いた。
文句を間違えない。
権六らしい言い方だ。
でも、その通りだ。
兵は遅いと文句を言う。
理由が分からなければ、飯場の手際が悪いと思う。
理由が分かれば、村との約束を守っていると分かる。
俺は兵たちへ声をかけた。
「今日は村との約束で、火を小さくしています。桑畑へ灰を飛ばさないためです。いつもより少し待ってください」
兵たちがざわついた。
「桑?」
「蚕のやつか」
「灰が飛ぶと困るらしいぞ」
「じゃあ仕方ねえな」
文句は出た。
だが、尖ってはいない。
権六が小声で言った。
「ほらな」
「ありがとう」
「文句役を大事にしろよ」
「してる」
兵にも理由を伝える。
これも必要だ。
飯場は村だけでなく、兵にも見られている。
粥が炊けた。
味噌は控えめ。
塩少し。
干し菜を細かく。
まず、人足に少量。
次に兵。
そして、村の老人と若い男、桑畑の女にも椀を渡す。
老人はすすり、黙った。
若い男は眉を寄せた。
「薄い」
「道で食う飯です」
俺が言うと、老人が言った。
「いや、今日はこれでいい。煙が少ない分、味も軽い」
煙が少ない分、味も軽い。
そんな見方があるのか。
村の人は、味だけでなく煙も飯に入れている。
俺は小帳面に書きたくなったが、手が味噌で濡れていたので我慢した。
桑畑の女は、粥よりも空を見ていた。
「灰は飛んでない」
その一言で、俺は胸を撫で下ろした。
飯がうまいと言われるより、今日はそれが大事だった。
兵たちも粥を食べた。
五十人分。
小鍋二つで回すには、少し時間がかかる。
だが、火を大きくしない。
水も増やさない。
約束を守る。
途中、兵の一人が井戸代わりに湧き水へ勝手に行きかけた。
権六が首根っこを掴んだ。
「水汲みは二人までだろ。勝手に行くな」
「喉が渇いたんだよ」
「俺も渇いてる。並べ」
権六が止めたことに、俺は少し驚いた。
文句役が、今日は約束を守る役にもなっている。
村の若い男がそれを見ていた。
何も言わない。
だが、目が少しだけ変わった。
昼前、火を落とした。
まだ少し炊けそうだった。
兵にも、もう少し食わせたい気持ちはあった。
だが、約束は昼前まで。
午後の風が変わる前に火を落とす。
灰を集める。
村の灰捨て場へ持っていく。
水場の石を戻す。
泥を広げていないか見る。
荷をまとめる。
飯場は小さいまま。
大きくしない。
老人はその一つ一つを見ていた。
最後に、俺は帳面の写しを老人へ示した。
「今日は、この通りにできたと思います。足りないところがあれば言ってください」
老人は写しを見た。
次に桑畑の女を見た。
女は頷いた。
「灰は飛んでない」
若い男も言った。
「水場も荒れてない」
老人はようやく、少しだけ息を吐いた。
「噂よりは、ましだった」
まし。
それは褒め言葉ではない。
でも、今日の俺には十分だった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ一日だ」
「はい」
「次も同じにできるかを見る」
「はい」
村の腹は、まだ完全には開いていない。
だが、噂だけで閉じ切ることは防げた。
それだけで、この初運用は意味があった。
帰り支度をしていると、村の子供が近づいてきた。
手に、小さな紙片を持っている。
「これ、朝、道に落ちてた」
かやが受け取る。
紙には、下手な字で何か書かれていた。
俺には読めない。
若い男が覗き込み、顔をしかめた。
「織田の飯場は水を毒にする、って書いてある」
空気が冷えた。
噂は、口だけではなかった。
紙で撒かれていた。
水を毒にする。
白い粉の策が失敗したから、今度は噂で水を毒にするのか。
俺の腹が熱くなりかけた。
焦がすな。
俺は紙片を見た。
「これは、清洲へ持ち帰って調べます」
老人が言った。
「村にも何枚かあった」
「見せてもらえますか」
「後で持たせる」
老人の声は硬い。
だが、こちらへ向けた怒りではなかった。
噂を流した者への怒りも混じっていた。
「今日、見ていただいてよかったです」
俺は言った。
「もし見ていなければ、この紙を信じたかもしれません」
老人は黙った。
しばらくして、低く言った。
「だから、次も見てやる」
胸の奥が熱くなった。
見られることは、怖い。
だが、見られることが守りにもなる。
清洲へ戻る道で、皆あまり喋らなかった。
初運用はうまくいった。
五十人に飯は出せた。
火も約束通り落とした。
灰も飛ばさなかった。
水場も荒らさなかった。
人足も潰れなかった。
だが、噂の紙が出た。
敵は、飯場そのものを壊せなくても、村の腹を狙っている。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が待っていた。
俺たちは報告した。
火を小さくしたこと。
兵に理由を伝えたこと。
権六が水場へ行く兵を止めたこと。
灰が飛ばなかったこと。
村の評価が「噂よりはまし」だったこと。
噂の紙が見つかったこと。
伊三郎は紙片を見て、表情を険しくした。
「これは、飯場を直接壊す策ではなく、村との約束を壊す策ですね」
「うん」
「なら、約束の写しを村に渡したのは正解でした」
「写しがなければ危なかった?」
「はい。噂と約束がぶつかった時、形あるものが必要です」
帳面が噂に勝つ。
いや、勝つまではいかない。
だが、支える。
伊三郎の帳面は、また一つ役を増やした。
夜、粥を食べながら、かやが言った。
「今日の飯は、噂に負けなかった味だね」
「まだ勝ってない」
「うん。負けなかった」
それなら合っている。
俺は粥をすすった。
味噌は少し控えめ。
あの村の飯場を思い出す味だった。
噂は煙より早く流れる。
だが、飯の湯気も、ちゃんと届けば人の腹に残る。
今日、村の人は見ていた。
灰が飛ばなかったことを。
水場が荒れなかったことを。
兵が約束を守ったことを。
飯場が小さいままだったことを。
噂を消すには、言葉だけでは足りない。
飯場を見せるしかない。
約束を守り続けるしかない。
面倒だ。
本当に面倒だ。
でも、面倒だからこそ、敵は簡単に真似できない。
小型前進飯場の初日は、どうにか終わった。
火は消えなかった。
桑の葉も汚さなかった。
そして、噂にも、まだ負けていない。




