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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第四十二話 桑の葉を汚さない飯場

信長様は、迷わなかった。


 俺たちが二つの前進飯場候補を報告すると、地図の上に置かれた石をしばらく見ていた。


 一つ目。


 村の近く。

 水は良いが量は少ない。

 桑畑へ灰が飛ぶと困る。

 村の暦に合わせなければ使えない。

 荷を多くは置けない。

 逃げ道は弱い。


 二つ目。


 渡しの向こう岸に近い林。

 広い。

 水もある。

 荷も置きやすい。

 だが、人の腹が見えない。

 焚き火跡があり、薄竹皮も落ちていた。

 敵が見ていた可能性がある。


 俺なら、迷ったと思う。


 いや、迷うどころか、どちらも嫌だと言ったかもしれない。


 だが、信長様は指先で二つ目の石を少し横へ退けた。


「こちらは、使いたくなる場所だ」


 そう言った。


 そして一つ目の石を指で押さえた。


「使えるようにする場所は、こちらだ」


 俺は息を止めた。


「村のほうですか」


「そうだ」


 信長様は短く答えた。


「面倒では?」


 思わず言ってしまった。


 信長様の目が俺に向く。


 怒ってはいない。


 ただ、こちらの腹を見ている目だった。


「面倒だからよい」


「面倒だから、ですか」


「誰でも使いたくなる場所は、敵も使いたくなる。誰にも話を通さず置ける場所は、誰にも守られぬ。面倒な場所は、面倒を越えた者だけが使える」


 その言葉は、腹に重く落ちた。


 面倒を越えた者だけが使える。


 候補一の村は、たしかに面倒だ。


 桑畑。

 灰。

 蚕。

 水量。

 祠。

 村の暦。

 逃げ道の弱さ。


 だが、そこには人がいる。


 怒る人がいる。

 条件を出す人がいる。

 見ている人がいる。

 そして、話せば少しずつ腹を見せてくれる人がいる。


 候補二には、それがなかった。


 広くて便利で、だからこそ怖かった。


「前進飯場は候補一に置く」


 信長様は言った。


「ただし、大きく置くな」


「小さく、ですか」


「小型だ。米を積み上げるな。味噌を置きすぎるな。火を大きくするな。村の腹より大きくするな」


 村の腹より大きくするな。


 また変な、でも分かる言葉だった。


 俺は頭を下げた。


「承知しました」


「清吉」


「はい」


「村の暦を聞け」


「暦、ですか」


「桑の葉、蚕、畑、水番。村には村の時がある。その時を踏めば、飯場は嫌われる」


 信長様は地図を叩いた。


「飯場は、米だけで建たぬ。土地の時で建つ」


 土地の時。


 俺はまた小帳面を開きたくなった。


 だが、信長様の前なのでこらえた。


 伊三郎なら間違いなく書いている。


 実際、横で筆が走る音がした。


 やっぱり書いていた。


「蔵人」


「はっ」


 坂井蔵人殿が頭を下げる。


「村への口は、おまえが整えよ。ただし、押しつけるな。水と桑のことは村の者に従え」


「承知しました」


「弥助」


「はっ」


「見張りは置け。だが、兵を見せびらかすな。村が怯える」


「はっ」


「かや」


「はい」


「荷は小さく作れ。逃がしやすく、隠しやすく、村の邪魔にならぬように」


「はい」


「作兵衛」


「はっ」


「人足の背を削りすぎるな。前進飯場は、置くより続けるほうが難しい」


「承知しました」


 作兵衛の声は、以前よりずっと力があった。


 人足の背も、上様の前で役として認められている。


 そのことが、俺には少し嬉しかった。


 最後に、信長様は俺を見た。


「清吉」


「はい」


「飯場を設計しろ」


 設計。


 また難しい言葉だ。


「俺が、ですか」


「おまえが腹を見る。かやが荷を見る。伊三郎が帳面にする。佐助が味噌と粉を見る。作兵衛が背を見る。蔵人が村と話す。弥助が守る。合わせて作れ」


 合わせて作れ。


 それなら、少し腹に収まる。


 俺一人で飯場を作るのではない。


 皆で腹を合わせる。


「作ります」


 俺は答えた。


 信長様はわずかに笑った。


「三日で形にせよ」


 腹が落ちかけた。


 三日。


 短い。


 短すぎる。


 かやが横で小さく息を吐いた。


 伊三郎の筆が一瞬止まった。


 作兵衛は「ああ、またか」という顔をした。


 信長様は気にしていない。


「大きな飯場ではない。小さな火を前へ置くのだ。三日で足りる」


 足りると言われたら、足りる形を考えるしかない。


 清洲蔵へ戻ると、すぐに皆が集まった。


 伊三郎が帳面を広げる。


「前進飯場設計項目を整理します」


「もう項目があるのか」


「今作ります」


 伊三郎は筆を構えた。


「一、水。二、火。三、泥。四、荷。五、村。六、人。七、粉。加えて、残す、隠す、逃がす。さらに、村暦」


「村暦」


 俺は繰り返した。


「はい。桑、蚕、畑、水番、祭日、薪取りの日。村が嫌がる日と、使いやすい日を聞く必要があります」


 村暦。


 また新しい帳面が増えそうだ。


 でも必要だ。


 桑の葉を汚す日を避ける。

 蚕に葉をやる日を避ける。

 水番の日を確認する。

 畑の作業を邪魔しない。

 祠に関わる日を避ける。


 飯場は、村の暦の中に置くものなのだ。


「かや、荷はどうする」


 俺が聞くと、かやはすでに竹皮を広げていた。


「小型前進飯場なら、置く荷を三つに分ける」


「また三つか」


「三つは便利」


 かやは指を折る。


「一つ、すぐ使う荷。米、味噌、塩、干し菜、薪少し。これは飯場の近く。ただし量は少なく」


「二つ目は?」


「隠し荷。予備の味噌、塩、竹皮、水こし布。林の縁に置く。でも湿気があるから米は置きすぎない」


「三つ目」


「逃がし荷。最初から背負える形。平袋米、竹筒味噌、塩小袋。危なくなったら作兵衛たちが持って逃がす」


 作兵衛が頷く。


「逃がし荷は、最初から背負えるようにしておけ。後で詰め替える時間はない」


「背当ては?」


「飯場に置く。人足が替わるなら背当ても替えられるように」


 かやと作兵衛の話は早い。


 荷の形と背中の痛みが、ちゃんとつながっている。


 佐助は味噌竹筒を確認しながら言った。


「隠し荷の味噌は、匂いを抑えたほうがいいです。でも完全に密封すると、悪くなった時に分かりにくい」


「どうする」


「少量ずつ。大きな樽ではなく、竹筒を複数。日ごとに開けて確認します」


「粉対策は?」


「味噌置き場と薬や旅商人を近づけない。粉見の小皿と水は常に置く。怪しい粉は飯場の外で見る。飯場内で開けない」


 伊三郎が書く。


 粉は飯場外。


 味噌日ごと確認。


 隠し荷、竹筒複数。


 俺は火のことを考えた。


 候補地では、火を低地に置かなければ桑畑へ灰が飛ぶ。


 だが低地は雨の日に泥になる。


 火を置く場所が限られる。


「火床を作る必要がある」


 俺は言った。


「火床?」


 かやが聞く。


「地面に直接火を置くと、灰が散る。泥にもなる。石を組んで、小さな火床を作る。灰を受ける穴ではなく、灰を集める皿か土囲い。終わったら灰を村の灰捨て場へ」


 佐助が頷いた。


「灰を埋めないんですね」


「村長がそう言った。畑に変な灰が混じると困る」


 作兵衛が言う。


「石は現地のものを勝手に使うと怒られるかもしれん」


「石も借りるのか」


「村の石垣から持ってくる奴がいる。あれは駄目だ」


 また一つ。


 石も勝手に使わない。


 飯場は本当に、何でも勝手にはできない。


 俺は頭を抱えたくなった。


「清吉、顔」


 かやが言った。


「何俵?」


「村ごと背負ってる」


「いい傾向」


「どこが」


「前は米俵だけだったから」


 そう言われると、少しだけ笑えた。


 翌日、俺たちは候補一の村へ向かった。


 坂井蔵人殿の使いが先に話を通してくれていたが、村の老人は簡単には頷かなかった。


 当然だ。


 前進飯場を置くということは、前より長く、前より深く村に関わるということだ。


 老人は、村の端で俺たちを待っていた。


「三日で作ると聞いた」


「形だけです」


 俺は頭を下げた。


「小型です。大きくしません。村の暦を聞いて、それに合わせます」


「村の暦?」


「桑、蚕、畑、水番、祠の日。飯場を使ってはいけない日を教えてください」


 老人は俺をじっと見た。


「兵が、村の暦を聞くのか」


「飯場を置くなら、聞かなければいけないと思いました」


「誰に言われた」


「上様にも言われました。でも、ここで飯を炊くのは俺たちなので、俺たちが聞きたいです」


 老人はしばらく黙っていた。


 そして、家のほうへ声をかけた。


「おい、暦板を持ってこい」


 暦板。


 出てきたのは、木の板だった。


 墨で印がつけられている。


 俺には読めない。


 だが、老人が指で示してくれた。


「この三日は桑を取る。火の煙は困る。この日は蚕に葉をやる。灰は絶対に困る。水番はこの家、この家、この家。勝手に汲めば揉める。祠の掃除は月の初め。そこへ兵を近づけるな」


 俺は必死で小帳面に印をつけた。


 伊三郎がいれば。


 何度そう思ったか分からない。


 だが、今は俺が聞くしかない。


「水は、一日にどれくらいなら使えますか」


 老人は少し驚いた顔をした。


「量を聞くのか」


「はい。使いすぎると困るので」


 老人は若い村人を呼んだ。


 昨日、鍬を持っていた男だ。


「おまえ、答えろ」


 若い男は少し考えた。


「小鍋二つ分なら、毎日でもどうにか。大釜なら日を選ぶ。雨の少ない日は駄目だ」


「では、小鍋二つを基本にします」


「兵は何人食う」


「小型飯場なので、一度に五十人分まで。多い時は清洲から持ってくる飯と合わせます」


「五十なら、まあ……」


 若い男は老人を見た。


 老人は頷かなかったが、否定もしなかった。


 それは前進だった。


 火の場所を決める。


 低地のうち、桑畑へ煙が流れにくい場所。


 かやが風を見る。


「ここなら、午前は大丈夫。午後は風が変わるかも」


 老人が頷く。


「午後は山から風が下りる。煙が戻る日がある」


「なら、火を使うのは朝から昼前まで。午後は火を落とすか、小さくする」


 俺は言った。


「夜は?」


 作兵衛が聞く。


 老人の顔が硬くなる。


「夜火は困る。山の獣が動く。あと、村の者が不安がる」


 夜火不可。


 前進飯場としては痛い。


 だが、村が嫌がるなら無理はできない。


「夜に火を使うなら、事前に知らせます。それ以外は使いません」


 老人は少しだけ頷いた。


「それなら話はできる」


 荷置き場は、林の縁にした。


 ただし祠から離す。


 湿気があるので、米は置きすぎない。


 竹皮と塩は高い位置。

 味噌は竹筒に分けて、木箱に入れる。

 水こし布は吊るして乾かす。

 粉見の道具は飯場の外、見張りの近く。


 逃がし荷は、村の外へ向かう道に近い場所に置く。


 ただし、村道を塞がない。


 かやが縄で区切る。


「ここから内は飯場荷。村の人が見るなら外から。触る時は声をかける。こっちが村の道。塞がない」


 若い村人がそれを見て言った。


「そこまで分けるのか」


「分けないと、後で疑い合う」


 かやの言葉に、若者は黙った。


 疑い合うのは、村も嫌なのだろう。


 昼前、小さな火床を作った。


 石は村から借りた。


 勝手に拾わない。


 火床の周りに土を盛り、灰が散らないようにする。


 灰は布を敷いた桶に集める。


 使い終わった灰は、村の灰捨て場へ持っていく。


「ここまでやるとはな」


 老人が呟いた。


「足りませんか」


「いや。面倒な連中だと思っただけだ」


「すみません」


「謝るな。面倒なほうが、まだましだ」


 面倒なほうが、まだまし。


 信長様の言葉と重なる。


 面倒だからよい。


 面倒を越えた者だけが使える。


 この村の飯場は、まさにそういう場所だった。


 試しに、小鍋一つ分の粥を炊いた。


 村の水。


 清洲の米。


 佐助が選んだ味噌。


 味噌は控えめ。


 火は小さく。


 灰を飛ばさない。


 湯気は上がるが、煙は少ない。


 老人と若者、そして桑畑を見ていた女にも少し渡した。


 女は粥をすすり、言った。


「煙は少ないね」


 俺は胸をなで下ろした。


 味より先に煙を見られた。


 この村では、それが大事なのだ。


「桑に灰は飛んでいませんか」


「今のところは」


 今のところ。


 やはり完全な許しではない。


 でも、少しずつだ。


 作兵衛は人足用の粥を試した。


「ここへ荷を置くなら、人足は村の外で一度休ませたほうがいい。飯場の中で休ませると邪魔になる」


「休み場は?」


 俺が聞くと、若い村人が言った。


「村の外れに大きな栗の木がある。そこなら畑の邪魔にはならん」


「使っていいのですか」


「木の下だけなら。ただし枝を折るな」


 また条件。


 だが、使える場所が増えた。


 人足休み場。

 栗の木下。

 枝折るな。


 小帳面に書く。


 午後になる前に、火を落とした。


 灰を集める。


 灰捨て場へ持っていく。


 水場を泥にしないよう、石の上だけを使う。


 荷を一度置き、すぐ撤収する。


 今日は設計の試しだ。


 本格運用ではない。


 それでも、汗をかいた。


 神経も使った。


 村の目が、ずっとこちらを見ている。


 敵より先に、村に見られている。


 でも、それが悪いことではないと分かってきた。


 村が見ているから、こちらも雑にできない。


 雑にしなければ、少しずつ信用が残る。


 帰り際、老人が言った。


「飯炊き」


「清吉です」


「清吉。使うなら、小さいままにしろ」


 俺は頭を下げた。


「はい」


「大きくしたくなったら、先に言え。勝手に大きくするな」


「約束します」


「約束は帳面に書け」


 驚いた。


 老人の口から帳面が出た。


 俺はすぐ小帳面を開いた。


「書きます」


 下手な字と印で書く。


 小さいまま。

 大きくする時は先に言う。


 老人は俺の下手な印を見て、ふっと笑った。


「本当に絵だな」


「清洲で直します」


「ならいい」


 清洲へ戻ると、伊三郎が待っていた。


 俺は小帳面を差し出した。


「多い」


「いつものことです」


 伊三郎は中を見て、すぐに顔を引き締めた。


「村暦が取れたのですね」


「桑の日、蚕の日、水番、祠の掃除、夜火不可。火は朝から昼前。午後は風に注意。小鍋二つ分まで。五十人分が目安。大きくする時は先に言う。約束は帳面に残す」


 伊三郎の筆が走る。


 かやが荷置きの線を説明する。


 作兵衛が人足休み場を話す。


 佐助が味噌と水の具合を話す。


 皆の言葉が、前進飯場の形になっていく。


 夜、清洲蔵の外で粥を食べた。


 今日の粥は、村の水ではなく清洲の水だ。


 でも、俺の舌にはあの村の水の柔らかさと、桑畑の匂いが残っていた。


「今日の飯は、桑の葉を汚さない味だね」


 かやが言った。


「長いな」


「でも、そうでしょ」


「うん」


 俺は頷いた。


 前進飯場は、ただ前へ出るだけでは作れない。


 小さくする勇気がいる。


 村の暦を聞く根気がいる。


 火を弱くする我慢がいる。


 灰を持ち帰る手間がいる。


 大きくしたくなった時に、先に言う約束がいる。


 飯場は、誰かの腹の上に建つ。


 なら、その腹を汚してはいけない。


 清洲式はまた少し、面倒になった。


 だが、その面倒の中にしか、前へ進む道はないのだと思った。

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