第四十一話 前進飯場は、誰の腹の上に建つ
前進飯場の候補地へ向かう朝、清洲蔵の空気は妙に静かだった。
荷は多くない。
米は試し用の小袋がいくつか。
味噌は竹筒と小樽を一つずつ。
塩。
干し菜。
竹皮。
水こし布。
軽い鍋。
火打ち。
背当て。
粉見の小皿。
本格的に飯場を置くわけではない。
今日は見分だ。
前進飯場をどこに置けるか、候補地を二つ見る。
それだけのはずだった。
それだけなのに、蔵の者たちは言葉少なだった。
理由は分かる。
前進飯場。
清洲から出した飯を途中で受け、さらに前へ出すための場所。
信長様は「米と水と火と人で守る城」と言った。
城。
その言葉が、皆の腹に残っている。
ただの炊き出し場ではない。
ただの仮飯場でもない。
そこに米を置く。
味噌を置く。
塩を置く。
火の支度を置く。
人を置く。
敵に近づく。
村に近づく。
美濃に近づく。
飯場が前へ出るということは、飯が狙われる場所も前へ出るということだ。
「清吉」
佐助が粉見の道具を小袋に入れながら言った。
「今日も行きます」
「無理しなくていい」
「無理じゃありません」
佐助は、最近この言い方をするようになった。
まだ顔は少し青い。
白い粉の匂いを思い出すのだろう。
だが、目は逃げていない。
「前進飯場を置くなら、粉を入れられそうな場所を先に見たいです。水場、味噌置き場、人足の休み場。薬売りが入り込むなら、そういうところです」
佐助の声は静かだった。
以前の彼なら、自分の知っている悪いことを口にするたびに肩を縮めていた。今も苦しさはあるはずだ。けれど、その知識を役に変えようとしている。
俺は頷いた。
「頼む」
「はい」
かやは荷を見ていた。
今日の荷は、実際に候補地へ置いた時の形を見るために、三種類に分かれている。
平地用。
川近く用。
山際用。
「前進飯場って言っても、場所で荷の置き方が違うからね」
かやは縄を締めながら言った。
「平地なら広げられる。川近くなら濡れ対策。山際なら獣と枝と泥。あと、人の目」
「人の目?」
「前へ出る飯場は目立つ。村人にも敵にも、味噌の匂いにも」
「味噌の匂いは目じゃないだろ」
「敵には目みたいなものだよ」
それは分かる。
味噌の匂いは、味方にとっては飯の匂い。
敵にとっては、そこに飯場があるという知らせ。
匂いも、煙も、人の動きも、すべて飯場の旗になる。
見せたい時もある。
隠したい時もある。
難しい。
伊三郎は、今日も清洲に残る。
だが、出発前に俺へ小帳面を渡しながら、いつもより長く説明した。
「前進飯場候補を見る時は、七つの目に加えて三つ見てください」
「また増えるのか」
「はい」
伊三郎は当然のように言った。
「一つ、残せるか。二つ、隠せるか。三つ、逃がせるか」
「残す、隠す、逃がす」
「前進飯場は荷を一時的に置く場所です。だから、米や味噌を残せるか。敵の目から隠せるか。危なくなった時に逃がせるか。この三つが必要です」
俺は小帳面を見る。
水、火、泥、荷、村、人、粉。
それだけでも多いのに、残す、隠す、逃がす。
腹が重い。
「顔が増えたね」
かやが横から言った。
「顔が増えるって何だ」
「七つの目と三つの腹を背負った顔」
「もう人間の顔じゃないな」
作兵衛が笑った。
彼も同行する。
人足の背を見るためだ。
今日の候補地は、美濃側へ近い。
もし前進飯場を置くなら、人足の負担は今までより大きくなる。清洲から運んで終わりではない。前進飯場に置き、そこからさらに前へ出す。
人足の背は、二度使われる。
作兵衛はそれをよく分かっていた。
「背を二度使うなら、飯も二度いる」
彼はそう言った。
「人足用の粥を、前進飯場にも置く。これは忘れるな」
「忘れない」
「忘れたら背中で文句言う」
「背中で?」
「背中は口より正直だ」
これも帳面に残りそうな言葉だ。
出発前に、弥助殿が短く指示した。
「今日は深追いしない。候補地を見る。村人と話す。水を見る。敵影があれば報告。追うな」
俺のほうを見て言った。
「特に清吉」
「分かっています」
「分かっている顔ではあるが、念のためだ」
「俺はそんなに走り出しそうですか」
かや、五郎兵衛殿、作兵衛が同時に頷いた。
佐助まで少し頷きかけて、慌てて止めた。
俺は何も言えなかった。
清洲を出て、表道を進む。
茶屋の女に挨拶をし、田の間の道では荷車を一台ずつ通す。渡し場へ向かう分岐では、喜助の舟が見えた。
喜助はこちらを見て、片手を上げただけだった。
それだけで、今日は川が使えそうかどうか少し安心する。
船頭が味方になるというのは、こういうことなのだろう。
最初の候補地は、社裏の湧き水よりさらに北、少し開けた林の脇だった。
近くに小さな村がある。
村というより、家が十数軒まとまった集落だ。
畑があり、細い水路があり、林の中に古い祠が見える。
水場は、林の奥の湧き水。
水量は多くないが、きれいだと聞いている。
地面は少し高く、雨が降っても全部が泥にはならなそうだった。
一見、良さそうに見えた。
俺はすぐに小帳面を出そうとして、五郎兵衛殿に咳払いされた。
「早い」
「まだですか」
「まず、人を見る」
人。
村人たちが、畑の手を止めてこちらを見ている。
警戒。
それも、社裏の村とは違う警戒だ。
こちらを知らない。
飯場の試しも見ていない。
清洲式という言葉も、たぶん知らない。
俺たちにとっては候補地でも、彼らにとってはいつもの畑と水場だ。
村の男が一人、こちらへ近づいてきた。
年は三十過ぎくらい。
手に鍬を持っている。
武器ではないが、手放してはいない。
「何の用だ」
声は硬い。
弥助殿の部下が名乗ろうとしたが、俺は一歩前に出た。
「清洲の飯炊き、清吉です。美濃道へ運ぶ飯の水場と休み場を見に来ました」
男は眉を寄せた。
「飯炊きが、何で兵を連れてくる」
「飯を運ぶには、米だけでなく水と火と道が要ります。勝手には使いません。まず見せていただきたいです」
「見て、使うんだろ」
「使えるか分かりません。使うなら、話を通します」
男は俺をしばらく見ていた。
それから、かやの荷を見た。
「荷は少ないな」
「今日は見分です」
かやが答える。
「本当に置かないのか」
「今日は置かない。置いた時に困ることを見に来た」
男は少し不審そうな顔をしたが、鍬を下ろした。
「村長を呼ぶ」
すぐに、白髪交じりの老人が出てきた。
背は低いが、目が鋭い。
「兵の飯場を置きたいと?」
「候補地として見たいだけです」
俺は頭を下げた。
「今日は水を少し見るだけです。火も試すなら小さく。灰は持ち帰ります」
老人は鼻を鳴らした。
「前に通った兵は、そう言って畑の端で火を使った。風で灰が飛んで、桑の葉が汚れた」
まただ。
前に通った兵。
その記憶が、あちこちの村の腹に残っている。
俺たちがやっていなくても、村人にとっては「兵」だ。
同じ腹の中に入れられる。
「今日は、風を見ます」
俺は言った。
「灰が飛ぶ向きも。桑の葉があるなら、そこへ煙が行かない場所を選びます」
老人の目が少し動いた。
「桑を知っているのか」
「詳しくはありません。でも、葉が汚れると困ることは分かります」
「蚕が食う」
「はい」
「蚕がやられれば、絹が減る。絹が減れば、銭が減る。銭が減れば、米が買えぬ」
老人の言葉は、まるで飯の道のようにつながっていた。
桑の葉から、蚕、絹、銭、米。
村の腹だ。
俺は深く頷いた。
「見ます。桑の葉に灰を飛ばさない場所を」
老人はようやく、林の奥を指した。
「水はあっちだ。だが、祠の前を通るな。横道を使え」
また祠。
飯場に向く場所には、どうしてこう祠や地蔵や社があるのだろう。
いや、逆なのかもしれない。
水が良く、人が休める場所だから、祠が置かれるのだ。
人の腹が集まる場所に、祈るものも置かれる。
そう考えると、飯場と祠が近いのは当然だった。
林の奥の水は、社裏の湧き水ほど強くはないが、澄んでいた。
冷たい。
量は少なめ。
五十人なら使える。
二百人は厳しい。
前進飯場として荷を少し置くなら、使えなくはない。
だが、大きな飯場には向かない。
「水は良い。でも量が少ない」
俺は小帳面に印をつける。
水良し。
量少。
大人数不可。
小飯場向き。
佐助が水で味噌を少し溶いた。
「この水なら、味噌は控えめでいいです。社裏に近いです。でも、量が少ないので、粥を多く作るなら別水が必要です」
「別水は?」
村の男が、少し離れた水路を指した。
「田の水ならある」
「それは使いません」
俺はすぐに言った。
男が少し驚いた顔をした。
「なぜ」
「田の水を使いすぎると、村が困ります。粥に使うなら、別に許しを得て、量を決めないと」
老人が俺を見た。
「少しは分かっているようだな」
少し。
それで十分だ。
完璧に信じてもらう必要はない。
最初は少しでいい。
火の場所を見る。
林の脇は、風が桑畑のほうへ抜けることが分かった。
つまり、ここで火を焚くと灰が桑の葉へ行く。
駄目だ。
少し離れた低い場所なら、風は川筋へ逃げる。
ただし、そこは雨の日に泥になる。
かやが足で地面を踏んだ。
「晴れなら使える。雨なら駄目。荷置きは林の縁。火は低地。でも泥対策が必要」
作兵衛が背負い荷を下ろして、周囲を見る。
「背負いなら入れる。荷車は村の道を塞ぐ」
「荷車を入れるなら?」
「村の外で下ろして、背負いに替えるしかねえ」
前進飯場として使うなら、ここは小荷向きだ。
米俵を大量に置く場所ではない。
味噌と塩、干し菜、竹皮、少量の米。
そして、人足用の粥。
「残せるか」
俺は伊三郎の言葉を思い出した。
残す、隠す、逃がす。
残せるか。
林の縁なら、少しの荷は隠せる。
しかし湿気がある。
味噌はいいが、米は長く置きたくない。
隠せるか。
林の中は隠せる。
だが、祠に近づきすぎると村が怒る。
逃がせるか。
村の外へ戻る道は一本。
狭い。
敵に塞がれたら、荷は逃げにくい。
俺は小帳面に書いた。
前進飯場候補一。
小荷向き。
水良し量少。
火は低地、雨不可。
桑畑へ灰注意。
林に隠せるが湿気あり。
逃げ道弱い。
村、条件厳しめ。
老人が俺の手元を覗いた。
「絵か?」
「字が苦手なので」
「それで忘れぬのか」
「清洲に、ちゃんと帳面にしてくれる者がいます」
老人は少しだけ笑った。
「変な飯炊きだな」
また言われた。
美濃道では、これはもう挨拶のようなものかもしれない。
俺たちは小さな粥を炊いた。
試しだ。
火は低地で小さく。
灰は布で受け、後で持ち帰る。
村人たちが遠巻きに見ている。
桑畑へ煙が行かないよう、かやが風を見て何度も場所を直した。
「この飯場は、火が難しい」
かやが言った。
「水はいいけど」
「火が桑に嫌われる」
俺は頷いた。
水が良くても、火が悪ければ飯場には向かない。
また一つ、腹に落ちる。
粥は悪くなかった。
水が良いので、味噌は少なめで済む。
老人にも少し渡す。
老人は一口すすり、言った。
「薄い」
「兵には薄いですか」
「いや、村の飯より薄い。だが、道で食うならこれでよいかもしれん」
「なぜですか」
「腹が重くならん」
村の老人も、道の飯を分かっている。
俺は少し驚いた。
老人は続けた。
「昔、荷を背負って隣村へ通った。濃い飯を食うと坂で腹が暴れる」
作兵衛が頷いた。
「分かる」
老人と作兵衛が、妙に通じ合った顔をした。
人足と村人の腹がつながった瞬間だった。
最初の候補地を離れる時、老人は言った。
「使うなら、先に来い。桑の時期は駄目な日がある」
「駄目な日?」
「蚕に葉をやる日だ。灰も煙も困る」
「分かりました」
前進飯場候補一。
使える日と使えない日がある。
村の暦を見る必要。
これも大事だ。
次の候補地は、渡し場の向こう岸に近い林の脇だった。
そこへ向かうには喜助の渡しを使う。
喜助は俺たちを見ると、すぐ言った。
「今日は川が軽い。ただし昼過ぎから風が変わる」
「渡れるのは今のうちですか」
「ああ。帰りが遅れるな」
俺はかやを見る。
かやも頷いた。
「候補地を見る時間を短くしよう。帰りの川が重くなる前に戻る」
渡しの船に乗る時、俺はもう立ち上がらなかった。
味噌樽に手を伸ばしそうにもならない。
少しは成長している。
喜助が横目で見て言った。
「今日は静かだな」
「前に怒られたので」
「怒ったんじゃない。川に沈めたくなかっただけだ」
「それは怒るより怖いです」
喜助は少し笑った。
向こう岸に着くと、空気が変わった。
まだ完全な美濃ではない。
だが、清洲側とは違う緊張がある。
川を背にする。
それだけで、腹が落ち着かない。
もし川が使えなくなれば、戻れない。
前進飯場の候補地は、林の脇にあった。
広さはある。
荷も置ける。
水は近くの小川。
火を使う場所もある。
一見、先ほどの候補地より良い。
だが、俺はすぐに嫌な感じがした。
静かすぎる。
村が遠い。
人の目が少ない。
見張りを置かなければ、敵が近づきやすい。
「隠せるけど、守りにくい」
かやが言った。
同じことを感じていたらしい。
「残せる?」
俺が聞く。
「残せる。米も味噌も置ける。木陰もある。でも」
「でも?」
「誰の腹の上に置くのか分からない」
かやの言葉に、俺は周囲を見た。
村がない。
茶屋もない。
船頭の目も届きにくい。
地元の腹が見えない場所。
それは自由に見える。
だが、逆に危ない。
誰が見ているか分からない。
誰に話を通せばいいか分からない。
飯場は土地の腹の上に建つ。
だが、ここはその腹が見えない。
五郎兵衛殿が低く言った。
「敵が見るには、いい場所だな」
背中が冷えた。
佐助が粉見の道具を持ったまま、林の奥を見ている。
「匂いがします」
「粉か?」
「粉ではありません。古い味噌……いや、干した魚かもしれません。でも、人がいた匂いです」
人がいた匂い。
俺には分からない。
だが、佐助の鼻は味噌と腐りに敏い。
かやが荷を置かず、手で合図した。
「ここでは荷を広げないほうがいい」
「同感だ」
五郎兵衛殿が槍を持ち直す。
弥助殿の部下が林を調べに行った。
しばらくして戻ってきた。
「焚き火の跡があります。新しい。二、三日前かと」
焚き火跡。
誰かがここを使っていた。
旅人か、商人か、間者か。
分からない。
見たものだけ。
俺は小帳面に書く。
候補二。
広い。水あり。荷置き可。
村遠い。人の腹見えず。
林に焚き火跡。
敵目注意。
荷広げず。
佐助が焚き火跡の近くで何かを見つけた。
小さな竹皮の切れ端。
前に盗まれたものと似ている。
かやが拾って見た。
「薄竹皮。印写しに使えるやつ」
腹が冷えた。
ここは、すでに敵が見ていた可能性がある。
前進飯場の候補に良さそうな場所を、敵もそう見ていた。
「ここは危ない」
俺は言った。
「飯場には向きそうに見える。でも、敵もそう思う場所です」
五郎兵衛殿が頷いた。
「よし。戻る」
「火は試さないのですか」
「試す前に帰る判断も、見分だ」
その言葉は大事だった。
何でも試せばいいわけではない。
危ない場所では、荷を広げない。
火を焚かない。
飯場にしない。
やらない判断も、飯を守ることだ。
帰りの渡しは、喜助の言った通り風が変わり始めていた。
川は少し重くなっている。
舟は揺れた。
俺は静かに座った。
川の上で、候補二の林を振り返る。
広くて、使いやすそうで、人目が少ない場所。
便利な場所ほど、敵も見る。
それを覚えた。
清洲へ戻る頃には、日が傾いていた。
伊三郎が待っていた。
「どうでしたか」
俺は答えた。
「一つ目は、小さく使える。水は良いが量が少ない。桑畑と村の暦に注意。二つ目は、広いが危ない。人の腹が見えない。敵の跡がある」
伊三郎はすぐに筆を取った。
「一つずつ」
報告は長くなった。
桑の葉。
灰。
蚕。
村の暦。
小荷向きの前進飯場。
林に隠せるが湿気あり。
逃げ道が弱い。
渡しの向こう岸の林。
焚き火跡。
薄竹皮。
敵目注意。
試さず撤収。
伊三郎は最後に言った。
「前進飯場は、置ける場所と置きたくなる場所が違いますね」
「どういう意味だ」
「候補二は置きたくなる場所。でも危ない。候補一は面倒ですが、村と話ができます」
なるほど。
置きたくなる場所。
置ける場所。
そして、置いてよい場所。
全部違う。
「飯場は、誰の腹の上に建つか」
俺は呟いた。
伊三郎の筆が動く。
「それも書くのか」
「重要です」
もう止めなかった。
夜、粥を食べながら、俺は一つ目の村の老人の言葉を思い出していた。
桑の葉。
蚕。
絹。
銭。
米。
村の腹は、そうやってつながっている。
前進飯場を置くなら、その上に乗る。
なら、見なければならない。
水だけではない。
火だけでもない。
村の暦、人の仕事、敵の目。
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、桑の葉の味?」
「粥に桑の葉は入ってない」
「でも、そういう味だったでしょ」
「うん」
俺は頷いた。
前進飯場は、米と水と火と人で守る城だ。
だが、その城は、誰かの腹の上に建つ。
それを忘れたら、飯場は城ではなく、ただの迷惑になる。
今日、それを腹で覚えた。




