第四十話 前へ出る飯場
三つの道を使った輸送の翌朝、清洲蔵の前には、いつもより多くのものが並んでいた。
米俵。
味噌樽。
竹皮。
小釜。
背負い袋。
背当て。
水こし布。
薬包を調べるための小皿。
そして、伊三郎の帳面。
ただの荷ではない。
昨日、表道、川道、逃げ道を通ったものたちだ。
泥のついた車輪。
川の湿りを含んだ縄。
山道の枝で擦れた背負い袋。
少し味噌が滲んだ竹筒。
作兵衛の肩に跡を残した背当て。
それらは全部、昨日の道の記憶を持っている。
俺は一つずつ見ていた。
川道の味噌小樽は無事。
塩袋も濡れていない。
逃げ道用の竹筒味噌は、節から少し漏れた。
背当ては使えるが、長い道では改良が必要。
水汲みは、米を背負う者とは分ける。
薬売りの粉は、別に包んで弥助殿が管理している。
昨日の輸送は成功した。
少なくとも、飯は届いた。
兵二百と人足二十に粥を回せた。表道が詰まり、川道が米を渡せず、逃げ道で人足が足をひねっても、飯場は止まらなかった。
でも、成功したと言い切るには、問題が多すぎた。
俺の腹は、朝からその問題でいっぱいだった。
「清吉」
伊三郎が帳面を抱えて近づいてきた。
「昨日のまとめです。上様への報告に使います」
「もうまとまったのか」
「夜のうちに」
「寝たのか?」
「少し」
それは寝ていない人の言い方だ。
俺が眉を寄せると、伊三郎は先に言った。
「清吉も似たような顔をしているので、お互い様です」
「俺は少し寝た」
「空鍋を混ぜる夢でも?」
「それはもう忘れてくれ」
かやが近くで笑った。
「忘れないよ。清洲式空鍋は伝説だから」
「伝説にするな」
そんな軽口を交わせるくらいには、皆、疲れていた。
疲れすぎると、人は少し笑うしかなくなる。
作兵衛は人足たちと背当てを見ていた。
「ここだ。ここがずれると肩に食い込む」
「藁をもっと平たくしたほうがいいな」
「布だけだと汗で滑る」
「竹筒味噌は横に逃がせ。背骨の真ん中に当てるな」
人足たちが自分の背を触りながら、あれこれ言っている。
昨日までなら、俺が「どうですか」と聞いていた。
今日は、人足たちが自分たちで直し方を話している。
それが嬉しかった。
人足負担帳は、ただ人を数えるためのものではない。
人足自身が、自分たちの背を飯の道として見るきっかけになっている。
佐助は味噌竹筒を開け、漏れた部分を確認していた。
「節に近いところが弱いです。竹筒に直接味噌を詰めるのではなく、薄い皮か油紙で先に包んでから入れるほうがいいと思います」
「油紙は数が足りない」
かやが言う。
「逃げ道用だけなら?」
「それなら足りるかも。全部じゃなくて、竹筒味噌だけ」
伊三郎が書く。
「逃げ道用竹筒味噌、内包み必要。油紙不足時は薄皮使用」
「また帳面が増えるな」
俺が言うと、伊三郎は平然と答えた。
「増えるのは、道が増えた証です」
そう言われると、文句が言いにくい。
弥助殿が蔵へ来たのは、昼前だった。
「清吉、かや、伊三郎、佐助、作兵衛。上様がお呼びだ」
「作兵衛もですか」
俺が聞くと、弥助殿は頷いた。
「人足の話がある。人足の口から聞きたいそうだ」
作兵衛は一瞬、目を丸くした。
「俺が上様の前へ?」
「そうだ」
「俺、着物がこれだぞ」
泥がついている。
肩には背当ての跡もある。
弥助殿は短く笑った。
「そのままでいい。綺麗な背中じゃ、昨日の道は話せねえ」
作兵衛は黙った。
それから、少しだけ背筋を伸ばした。
「分かった」
信長様の部屋へ向かう途中、作兵衛はいつになく静かだった。
「緊張してるか」
俺が聞くと、作兵衛は横目で俺を見た。
「緊張しねえ人足がいたら連れてこい」
「俺も毎回緊張する」
「おまえ、よくあの方の前で腹がどうこう言えるな」
「言いたくて言っているわけじゃない」
「でも言う」
「他の言葉が出ない」
作兵衛は少し笑った。
「それでいいんじゃねえか。おまえは飯炊きだしな」
そう言われると、腹が少し落ち着いた。
部屋に入ると、信長様は地図の前にいた。
美濃道の地図。
そこには、昨日使った三つの道が石で示されていた。
表道。
川道。
逃げ道。
さらに、社裏の湧き水、渡し場、茶屋、田の間の細道、山際の沢、岩場の休み場。
俺たちが歩いて見たものが、もう地図の上に乗っている。
その速さが怖い。
俺たちは頭を下げた。
「面を上げよ」
信長様の声は静かだった。
「昨日、飯は届いたか」
「届きました」
俺は答えた。
「止まらなかったか」
「止まりませんでした。表道で荷車を待たせ、川道では米を渡さず味噌と塩を二度に分け、逃げ道では人足が足をひねりましたが、飯場は動きました」
「つまり、問題は出た」
「はい」
「だが、飯は炊けた」
「はい」
信長様は頷いた。
「それでよい」
俺は少し驚いた。
「よい、のですか」
「問題の出ない道などない。問題が出ても飯が炊けるかを見るための実輸送だ」
確かにそうだ。
だが、俺は問題ばかりを見ていた。
表道は詰まった。
川道は米を渡せなかった。
逃げ道で足をひねった。
味噌竹筒は漏れた。
人足の粥もまだ調整がいる。
でも、それでも飯は炊けた。
それは、大きい。
信長様はかやを見た。
「荷の道はどうだ」
かやは地図の前へ進んだ。
「表道は使えます。でも、田の間の細道ですれ違いはできません。待避場所を決める必要があります。川道は喜助の判断に従えば使えます。ただし、川が重い日は米を渡さず、味噌と塩だけにしたほうがいいです。逃げ道は背負いなら抜けられます。でも、逃げ道用の荷を最初から別に作らないと無理です」
「表道の荷を逃げ道へ回すことは」
「できません。米俵も味噌樽も引っかかります。逃げ道用は、平袋と竹筒味噌です」
信長様は小さく頷いた。
「荷の形を道に合わせる」
「はい」
かやの声は、はっきりしていた。
最初の頃、荷運びの娘として見られていた彼女が、今は地図の前で堂々と道を語っている。
俺は少し誇らしかった。
次に伊三郎が帳面を開いた。
「昨日の輸送では、三道の役割が明確になりました。表道は主輸送、川道は味噌・塩・竹皮など軽量高価値の荷、逃げ道は非常時の小荷。各道に合わせた印、結び、受け取り言葉が必要です」
「受け取り言葉は決まったか」
信長様が聞く。
「試験的に、昨日は『腹起こし』を表道、『川味噌』を川道、『背戻し』を逃げ道にしました」
俺は少し顔が熱くなった。
俺の変な言葉がまた増えている。
信長様は俺を見た。
「背戻しとは何だ」
逃げたい。
だが、答えるしかない。
「背負い荷で疲れた人足の背と腹を戻す粥です。作兵衛が、濃い飯だときついと言ったので、味噌控えめ、塩少し、干し菜細かめにしました」
信長様は作兵衛を見た。
「作兵衛」
「はっ」
作兵衛の声が少し裏返った。
「背戻し粥は使えるか」
作兵衛は一瞬、俺を見た。
俺は小さく頷いた。
見たことを言えばいい。
作兵衛は腹に力を入れたように見えた。
「使えます。背負い荷の後、濃い飯は腹に重いです。薄すぎると力が出ません。昨日の粥は、肩が痛くても入りました」
「背当ては」
「ないよりずっといいです。ただ、藁が厚すぎると荷がずれます。布だけだと汗で滑ります。藁と布を平たくして、縄の当たる場所だけ厚くするのがいいです」
信長様はじっと聞いていた。
作兵衛の声は、最初よりしっかりしている。
「人足は、どれほど背負える」
「道によります。表道なら小袋二つ。逃げ道の山道なら、一人二つは短い距離だけです。長く歩くなら一つ半。水汲み役は別にしたほうがいいです。米を背負ったまま沢へ近づくと、滑ります」
「米を背負う者と水を汲む者を分ける」
「はい」
作兵衛は頭を下げた。
「人足は米を運びますが、水まで背負わせると潰れます」
部屋が静まった。
その言葉は、武士の言葉ではない。
人足の背から出た言葉だ。
信長様はしばらく作兵衛を見ていた。
「よく申した」
作兵衛の肩が、わずかに震えた。
「はっ」
信長様は弥助殿へ向いた。
「人足を米俵と同じに扱うな。荷を分けるなら、人も分けよ。米背負い、水汲み、火持ち、道開け。役を決める」
「承知しました」
弥助殿が頭を下げる。
人足の役が増える。
それは面倒だ。
だが、必要だ。
信長様は佐助へ視線を移した。
「粉は」
佐助はすぐに頭を下げた。
「薬売り藤助の粉は、三種に分けられます。危険なもの、通常の薬に近いもの、混ぜ物に使えるもの。全部を禁じると、必要な薬まで使えなくなります。ですが、飯場や人足荷に近づけるものは確認が必要です」
「見分けられる者は」
「今は、俺と……清吉が少し」
「少しです」
俺は正直に言った。
信長様の眉がわずかに動く。
「少しでは足りぬな」
「はい」
佐助が言った。
「なので、匂いだけでなく、水に溶いた時の変化も見ます。危険な粉は、鼻に刺さる匂いと、苦い匂いが強いです。水に溶くと、白く濁って底に少し残ります」
伊三郎が帳面を差し出した。
「粉見分けの手順として記しました。直接嗅がない。布に少量取る。水に溶く。飯場から離す。空腹の人足に飲ませない」
信長様は頷いた。
「粉見を正式に組み込め」
「はっ」
坂井蔵人殿が答えた。
粉見。
また新しい役だ。
佐助の顔が少し緊張する。
だが、逃げる顔ではなかった。
信長様は地図を見た。
「美濃道輸送網は、使える」
その一言で、俺の腹が一瞬軽くなった。
使える。
昨日の問題だらけの輸送でも、使えると言われた。
だが、次の言葉が来るのも分かっていた。
信長様は、そこで止まらない。
「だが、まだ浅い」
やはり。
腹がまた重くなる。
「清洲から美濃道の入口まで飯が届くことは分かった。次は、もう一歩奥へ出す」
地図の石が、さらに北へ動いた。
渡しの向こう。
表道の先。
山際を越えた先。
美濃側に近い場所だ。
「前進飯場を置く」
前進飯場。
その言葉だけで、部屋の空気が変わった。
俺は思わず聞き返した。
「前進飯場、ですか」
「そうだ。清洲から運ぶだけでは遅い。美濃道の途中に、前へ出た飯場を置く。そこに米、味噌、塩、薪、竹皮を少し置く。兵が動く時、清洲からすべて運ばず、そこで腹を起こし、足を戻す」
清洲蔵と前線の間に、飯場を置く。
それは、ただの仮飯場とは違う。
荷を少し置く。
火の支度を置く。
そこを拠点に、さらに前へ飯を出す。
飯場が前へ出る。
俺の腹が冷える。
飯場が前へ出るということは、敵にも近づくということだ。
粉を入れられるかもしれない。
火を消されるかもしれない。
村に嫌われるかもしれない。
荷を盗まれるかもしれない。
水を汚されるかもしれない。
「上様」
俺は声を出した。
「前進飯場は、敵にも狙われます」
「そうだ」
即答だった。
「だから、作る前におまえを呼んだ」
「場所は」
かやが地図を見る。
信長様は石を二つ置いた。
「候補は二つ。社裏の湧き水より北。もう一つは渡し場の向こう岸に近い林の脇」
「渡しの向こうは危ないです」
俺は言った。
「川で切られたら戻れません」
「だから候補だ」
信長様はかやを見る。
「荷の目で見ろ」
「はい」
次に俺を見る。
「飯の目で見ろ」
「はい」
伊三郎を見る。
「帳面の目で支えろ」
「はい」
佐助を見る。
「粉を見ろ」
「はい」
作兵衛を見る。
「人足の背を見ろ」
作兵衛は深く頭を下げた。
「はっ」
信長様は全員を見渡した。
「前進飯場は、小さな城だと思え。ただし石垣ではなく、米と水と火と人で守る城だ」
米と水と火と人で守る城。
その言葉が、胸に深く刺さった。
飯場は、城になるのか。
いや、城ほど強くはない。
だが、兵の腹を守る場所だ。
そこが落ちれば、兵の足が止まる。
信長様にとって、飯場はただの炊き出し場ではない。
軍の足を支える城なのだ。
「三日後、候補地を見に行く」
信長様は言った。
「清吉、準備せよ」
「はい」
「怖いか」
いつもの問い。
俺は少しだけ息を吸った。
「怖いです」
「よし」
「ですが」
俺は続けた。
「前進飯場を置くなら、村と船頭と人足に先に話を通したいです。そこを飛ばすと、飯場は立っても腹が立ちません」
信長様が少し目を細めた。
「腹が立たぬ、か」
しまった。
少し変な言い方になった。
でも、言いたいことは伝えるしかない。
「飯場は、米だけ置いても駄目です。水を貸してくれる村、渡してくれる船頭、背負う人足、見張る兵がいないと動きません。形だけ置いても、腹が通っていなければ使えません」
部屋が静かになった。
信長様はしばらく俺を見ていた。
そして、小さく笑った。
「よい。腹の通った飯場を作れ」
「はい」
会議が終わり、清洲蔵へ戻る道で、作兵衛が深く息を吐いた。
「上様の前で喋ると、背中より腹が疲れるな」
「分かる」
「でも、言ってよかった」
「何を」
「人足は水まで背負うと潰れるってやつだ。あれ、俺たちだけで愚痴ってても変わらなかった」
作兵衛は自分の肩を叩いた。
「帳面に残って、上様に届いた。変な話だ」
「変だけど、大事だ」
「ああ」
かやが前を歩きながら言った。
「次は前進飯場だよ。もっと変なことになる」
「変なことばかりだ」
「でも、ちょっと面白いでしょ」
俺はすぐには答えなかった。
怖い。
前進飯場なんて、聞くだけで胃が痛い。
でも、清洲から出た飯が、表道、川道、逃げ道を通って、一つの鍋になった。
その先に、もう一つ飯場を置く。
そこからさらに兵の足が伸びる。
そう考えると、胸の奥が少し熱くなる。
「面白いかは分からない」
俺は言った。
「でも、見たい」
かやは振り返り、にっと笑った。
「いい顔」
「何俵分?」
「今日は……前へ転がる米俵」
「それは危ない」
「転がる方向が合ってればいいんじゃない?」
合っているのかは分からない。
でも、前へは進んでいる。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎がすぐに新しい頁を開いた。
「前進飯場候補見分」
「また帳面か」
「もちろんです」
佐助は粉見の道具を整え始めた。
作兵衛は人足たちに声をかけ、背当てを直す相談を始めた。
かやは地図の上に荷の線を引いた。
俺は鍋の前に立った。
今日も粥を炊く。
前進飯場のことを考えながら。
米と水と火と人で守る城。
そんなものを本当に作れるのか、まだ分からない。
でも、腹の通った飯場を作れと言われた。
なら、まず飯を炊く。
腹に落ちるものを作る。
そこからしか、俺は始められない。
夜、皆で食べた粥は、いつもより少し濃かった。
疲れた身体に、味噌の匂いが深く落ちる。
作兵衛が言った。
「前進飯場にも、これを持っていけ」
「濃すぎないか」
「怖い場所なら、少し濃いほうがいい」
かやが頷く。
「腹に勇気を入れる味だね」
「また変な味が増えた」
俺は笑った。
でも、その言葉は嫌いではなかった。
腹に勇気を入れる味。
前進飯場には、きっと必要になる。




