第三十九話 人足の粥、兵の足
薬売り藤助が捕らえられた翌朝、清洲蔵では薬の話ばかりが出ていた。
「疲れが取れる薬だってよ」
「飲んだら腹を下すんじゃ、取れるのは疲れじゃなくて中身だな」
「笑えねえよ。俺、昨日あの薬売り見たぞ」
「本当に買わなくてよかったな」
人足たちは冗談めかして喋っていたが、その声にはどこか硬さがあった。
当然だ。
米俵を背負う者にとって、「疲れが取れる」という言葉は甘い。
肩が痛い。
腰が重い。
足が張る。
腹が空く。
でも荷は待ってくれない。
その時に、楽になる薬があると言われれば、手が伸びるかもしれない。
俺だって責められない。
だからこそ、先に飯を入れる。
怪しい薬ではなく、腹に収まる粥を。
その考えが、今朝から清洲式に正式に加わった。
伊三郎は新しい項目を帳面に書き入れていた。
「人足用疲れ戻し粥。背負い荷、川道、逃げ道使用時に支給。味噌控えめ、塩少量、干し菜細かく、米はよく煮る。空腹時の薬服用を避ける目的もあり」
「長いな」
俺が覗き込むと、伊三郎は顔を上げた。
「必要です」
「分かってる」
「それと、薬・粉の検査項目も加えます。薬売り、旅商人、粉薬、小箱、臭い消し、虫下し。飯場や人足荷へ近づけない」
「薬全部を止めるのか」
「いいえ。佐助が言ったように、普通の薬もあります。ですから、持ち込みは確認。怪しい粉は飯場から離す。薬を飲む時は空腹を避ける。これでどうでしょう」
「うん。全部悪いと決めつけるのは違う」
そう言うと、佐助が少しだけほっとした顔をした。
彼は朝から粉の小箱を何度も見分けていたせいで、顔色が悪い。
けれど、目は逃げていなかった。
「佐助」
「はい」
「今日の実輸送、粉の見分け役を頼む」
「はい」
「ただし、無理に嗅ぎすぎるな。布に取って、水に溶いて、遠くから見る」
「分かっています」
「あと、具合が悪くなったら言う」
「……言います」
少し間があった。
言わずに我慢するつもりだったのかもしれない。
危ない。
見分け役が倒れたら、粉に負ける。
人足だけではない。
佐助の腹も、清洲式の一部だ。
かやは外で荷を三つに分けていた。
表道用。
川道用。
逃げ道用。
表道用は、荷車で運べる形。
米俵、味噌小樽、小釜、竹皮、干し菜、塩。
川道用は、舟で渡しやすい形。
米は少なめ。味噌は転がらないよう小樽を低く固定。塩は上に置き、濡れないよう包む。竹皮は別束。小釜は舟底で動かないよう縄をかける。
逃げ道用は、背負い荷。
平たい米袋。竹筒味噌。塩小袋。干し菜。薄い竹皮。背当て。水こし布。軽い鍋。
同じ飯の材料なのに、道によって顔が違う。
「かや」
「何」
「すごいな」
「また真っ直ぐ言う」
「道ごとに荷の顔が違う」
「そりゃ違うよ。荷車に座れる荷と、舟で転がらない荷と、背中で暴れない荷は別物」
「背中で暴れる荷」
「あるよ。角が当たる、縄がずれる、片方だけ重い。そういう荷は背中で暴れる」
俺はすぐ小帳面に書こうとして、かやに手を押さえられた。
「それはあとで伊三郎に言う」
「忘れる」
「忘れない。背中で暴れる荷。ほら、変な言葉だから覚えたでしょ」
確かに覚えた。
作兵衛が来た。
今日は人足側のまとめ役として同行する。
肩には背当てをつけている。昨日、かやと人足たちが急いで作ったものだ。古い布と藁を平たく合わせ、縄が直接肩へ食い込まないようにしている。
「どうだ」
俺が聞くと、作兵衛は肩を回した。
「ないよりいい。だが、歩いてみねえと分からん」
「痛かったら」
「言う」
「本当か」
「人足負担帳に書かれるんだろ。隠しても無駄だ」
作兵衛は苦笑した。
帳面に書かれることを嫌がる者もいる。
だが、作兵衛は少し違う。
書かれるなら、次に直る。
そう分かってくれているのかもしれない。
今日の実輸送は、美濃道の手前にある仮飯場まで。
兵は二百。
人足は二十。
表道を主に使い、川道で一部を渡し、逃げ道用の背負い荷も少量だけ動かす。
全てを本番ほど大きくはしない。
だが、今まで見てきたものを初めて一つに組み合わせる。
人足用の粥も出す。
薬・粉の検査も行う。
表道、川道、逃げ道の荷を同時に動かす。
俺の腹は、朝から七俵どころではなかった。
「清吉、今日の顔は蔵ごと背負ってる」
かやが言った。
「さすがに重い」
「でも一人で背負わない」
「分かってる」
分かっている。
それでも、顔には出る。
出立前、信長様から短い言葉が届いた。
弥助殿がそれを伝えた。
「上様より。飯を止めるな。だが、道を荒らすな。人足を潰すな。粉を入れさせるな」
「全部ですね」
「全部だ」
弥助殿は少しだけ笑った。
「清吉。全部を一人でやるなよ」
「はい」
「返事だけはいい」
「行動も、少しは良くなったと思います」
「なら見せろ」
そう言われると、腹に力が入った。
出立前、兵には腹起こしの薄粥を配った。
人足には、少しだけ違う粥を出す。
人足用疲れ戻し粥。
背負い荷や荷車押しをする者に合わせ、味噌を控えめにして、塩を少し、干し菜を細かくしてある。腹を重くしないが、空にはしない。
作兵衛が一口すすって頷いた。
「これなら入る」
別の人足も言った。
「朝から濃い飯だと、荷を背負った時に腹が揺れるからな。これくらいでいい」
また一つ分かった。
人足の朝飯は、腹を満たしすぎてもいけない。
背負った時に腹が揺れる。
伊三郎がいたら喜んで書いたはずだ。
俺は小帳面の人の印に丸をつけた。
兵たちも薄粥を食べる。
権六もいた。
いつの間にか、こういう試験には必ずいる顔になっている。
「おい清吉」
「何だ」
「今日の粥、兵用と人足用で違うのか」
「少し」
「俺も人足用を飲んでみたい」
「何で」
「文句のため」
「堂々と言うな」
結局、少しだけ飲ませた。
権六は真面目に味を見て言った。
「兵には薄い。でも荷を背負うならこっちだな」
「分かるのか」
「俺も昔、米を担がされたことくらいある。腹に重い飯があると、背中の荷と喧嘩する」
腹の飯と背中の荷が喧嘩する。
また変な、だが分かる言葉だ。
小帳面に書いた。
人足飯、腹と荷が喧嘩しないように。
字は乱れた。
でも、意味は覚えた。
輸送隊は三つに分かれて動き出した。
表道隊。
米俵と主な味噌、小釜。兵の大半と荷車。
川道隊。
味噌と塩、竹皮の一部。渡しを使って向こう側の仮置きへ。
逃げ道隊。
作兵衛たちが背負う小荷。表道が詰まった時に別飯場へ回すための試し。
俺は最初、表道隊とともに進んだ。
表道は昨日見た通り、田の間の細道で詰まりかけた。
前から商人の荷車が来たのだ。
以前なら、そのまますれ違おうとして畦を踏んだかもしれない。
だが今日は、かやが先に決めていた。
「待避は茶屋の手前。ここではすれ違わない!」
荷車を止める。
商人に先へ行かせる。
少し待つ。
兵の中から不満が出た。
「止まるのかよ」
権六が言った。
「畦を踏んで村に嫌われるよりましだろ」
「権六が言うのか」
「俺は腹役だからな」
兵たちが笑った。
止まっても、空気が悪くなりすぎない。
権六の文句は、時々油のように働く。
田の間を無事抜けると、茶屋の裏井戸で水を確認した。
今日は使わない。
ただし、使う時の手順を再確認する。
茶屋の女は腕を組んで見ていた。
「今日は汲まないのかい」
「今日は水場確認だけです。使う時は声をかけます」
「ならいい。桶を勝手に汚さなきゃね」
これも一つの前進だ。
許されたわけではない。
条件ができた。
条件がある場所は、守れば使える。
昼前、川道隊から知らせが来た。
喜助の渡しは使えた。
ただし、川が少し重くなり、米は渡さず、味噌と塩だけ二度に分けて渡したという。
喜助の判断だった。
正しい。
米を無理に渡さなかった。
川道隊の塩は濡れていない。
味噌も無事。
俺は小帳面に水と荷の印をつけた。
川重め。
米渡さず。
味噌塩二度。
喜助判断よし。
午後に入る前、問題は逃げ道隊で起きた。
作兵衛たちが山際の逃げ道へ入った後、予定より戻りが遅れた。
俺は表道の仮飯場予定地で粥の準備をしていたが、腹が落ち着かない。
「清吉、鍋」
かやが言う。
「分かってる」
「目が山に行ってる」
「行ってる」
「鍋も見て」
俺は火を弱めた。
以前なら走り出していたかもしれない。
でも、逃げ道隊には護衛がついている。作兵衛もいる。五郎兵衛殿もそちらへ回っている。
俺が今ここで鍋を離れれば、表道隊の飯が止まる。
火を守る。
それが今の役だ。
しばらくして、五郎兵衛殿が戻ってきた。
作兵衛たちもいる。
全員、汗だくだった。
肩の背当てはずれていない。
だが、一人の人足が少し足を引きずっていた。
「何が」
俺が聞くと、作兵衛が答えた。
「沢の手前で滑った。荷は無事だが、足をひねった」
「水場か」
「水を汲む場所の泥だ。昨日より滑る」
逃げ道の沢。
水は良いが泥が深い場所だ。
昨日、荷を下ろすな、水汲み二人までと書いた。
今日はそれでも滑った。
「人足は?」
俺が聞くと、足をひねった男は苦笑した。
「歩ける。だが、荷は軽くしてくれ」
「すぐ下ろして休んでください」
俺は人足用の粥を少しよそった。
熱すぎないように冷ます。
男は受け取り、すすった。
「……うまいな」
「腹は大丈夫か」
「腹より足だ」
「足も飯の道です」
言ってから、自分で少し驚いた。
足も飯の道。
伊三郎がいなくても、俺の中で勝手に帳面に残る言葉が増えていく。
作兵衛が報告した。
「逃げ道用の背当ては使える。ただし、沢では荷を下ろしてから水を汲むんじゃなく、水汲み役だけ先に行かせたほうがいい。荷を背負ったまま沢へ近づくと危ない」
「水汲み専用を作る?」
「そうだ。軽い桶だけ持つ者。米を背負った奴に水まで汲ませるな」
また一つ増えた。
逃げ道水汲み役。
米を背負う者とは別。
人足の負担帳に必要だ。
俺は小帳面へ急いで書く。
沢、昨日より滑る。
水汲み専用。
荷背負い沢近づくな。
足ひねり一。
粥で休ませる。
その時、佐助が逃げ道荷の竹筒を見て言った。
「味噌が少し漏れています」
「え?」
竹筒の節から、ほんの少し味噌が滲んでいた。
皮巻きはしていた。
だが、山道で擦れたのだろう。
匂いが出ている。
「これでは敵に匂うか」
俺が聞くと、かやが頷いた。
「逃げ道では危ない。味噌竹筒はさらに外に炭の匂いか、乾いた草で包むほうがいいかも」
「味噌の匂いを隠す?」
「隠しすぎると、こっちも見失う。でも、背中から味噌が垂れるのは駄目」
佐助が考え込んだ。
「竹筒の中に直接味噌を入れるより、先に薄い皮で包んでから竹筒へ入れると漏れにくいかもしれません」
「試そう」
また改良だ。
逃げ道は、思った以上に人の背と荷を削る。
仮飯場では、表道隊と川道隊の荷を合わせて粥を炊いた。
米は表道。
味噌と塩は川道。
少量の逃げ道荷も合流。
初めて、三つの道の荷が一つの鍋へ入った。
粥が煮えるのを見ていると、不思議な気分だった。
違う道を通った米と味噌と塩が、同じ鍋で飯になる。
それが輸送網なのかもしれない。
点ではなく、線。
線ではなく、網。
どこかが少し遅れても、別の線が支える。
もちろん、まだ粗い。
沢で滑った。
味噌が漏れた。
川で米は渡せなかった。
表道はすれ違い待ちが出た。
問題だらけだ。
だが、飯は炊けた。
兵二百と人足二十に、粥が回った。
人足には、別に疲れ戻し粥を少し濃度を変えて出した。
作兵衛が見て、頷く。
「これなら午後も動ける」
足をひねった人足には、薄めにして出した。
彼はゆっくりすすりながら言った。
「薬より、こっちでいい」
その言葉が、今日一番胸に残った。
怪しい薬に手を出させないためには、こちらが先に飯を出す。
腹を守ることは、誘惑から守ることでもあるのだ。
夕方、清洲へ戻ると、伊三郎が待ち構えていた。
「報告を」
「多いぞ」
「多いほうがいいです」
俺は話し始めた。
表道のすれ違い待ち。
茶屋の井戸確認。
川道で喜助が米を止めたこと。
逃げ道の沢で滑ったこと。
水汲み専用役の必要。
味噌竹筒の漏れ。
背当ては有効。
人足用粥は有効。
怪しい薬への対策として、先に飯を出すこと。
伊三郎は書く。
かやが荷の話を補う。
作兵衛が肩と足の感想を言う。
佐助が味噌竹筒の改善案を出す。
権六が兵の文句を足す。
「兵用の握り飯、今日は少し小さい」
「それは逃げ道荷と合わせたから」
「次は大きさ揃えろ。文句が出る」
「分かった」
権六の文句も、今は立派な記録だ。
夜、皆で粥を食べた。
今日の粥は、三つの道の残りを合わせたものだった。
表道の米。
川道の味噌。
逃げ道の干し菜。
清洲の塩。
少し不揃いな味だった。
でも、悪くなかった。
「今日の飯は、網の味だね」
かやが言った。
「網?」
「表道、川道、逃げ道。三つが絡まってる」
「なるほど」
俺は椀を見た。
網の味。
変な言葉だが、今日はそれが合っていた。
飯の道は一本ではない。
一本が止まれば、別の一本が支える。
ただし、その網を支えるのは人の背であり、川であり、村であり、火であり、帳面だ。
敵は人足の腹を狙った。
こちらは人足の粥を作った。
敵は粉を混ぜようとした。
こちらは粉を見る目を増やした。
敵は道を止めようとする。
こちらは道を網にする。
腹はまだ怖い。
でも、今日、飯は届いた。
それだけは確かだった。




