第三十八話 人足の腹を狙う者
逃げ道を見た翌日、作兵衛の肩にはまだ赤い跡が残っていた。
朝、清洲蔵の前で会った時、本人は平気な顔をしていた。
「大げさに見るな。昨日の荷の跡だ」
「痛むか」
「痛むに決まってるだろ」
「なら休んだほうが」
「休むかどうかは、俺の腹と背中が決める」
そう言って、作兵衛は米俵を軽く叩いた。
だが、叩く手にいつもの力が少し足りない。
俺はそれを見逃せなかった。
人足の背は、米を運ぶ道だ。
その道が痛めば、飯は進まない。
昨日までは分かっていたつもりだった。
だが、作兵衛の肩の赤い縄跡を見た後では、その言葉の重さがまるで違った。
「清吉」
伊三郎が新しい帳面を抱えてやってきた。
「これが人足負担帳です」
「本当に作ったのか」
「必要ですから」
帳面の表紙には、相変わらず俺には難しい字が並んでいる。
伊三郎は中を開いて見せた。
「名前、背負える荷の目安、休み場までの距離、肩や腰の痛み、背当ての有無、食事の量。まずは分かる範囲で記します」
「人を米俵みたいに数えるのか」
思わずそう言ってしまった。
伊三郎は少しだけ眉を動かした。
「逆です。米俵のように扱わないために記すのです」
言われて、俺は黙った。
そうだ。
帳面に書くことは、冷たいことばかりではない。
書かなければ、次も同じ重さを同じ背に載せてしまう。
作兵衛がどこで肩を痛めたか。
どれくらい歩くと息が乱れたか。
どの袋の結びが背に食い込んだか。
どんな粥なら疲れた後に腹へ入るか。
書けば、次に少し直せる。
書かなければ、痛みはただ消えるのを待つだけになる。
「すまん」
俺が言うと、伊三郎は静かに首を横に振った。
「謝るより、見ましょう」
「はい」
最近、皆が俺の扱いを覚えすぎている。
謝りそうになると止められる。
そのたびに、少しだけ背筋が伸びる。
かやは逃げ道用の別荷を作っていた。
米を俵ではなく、平たい袋へ詰め直す。
味噌は小樽ではなく、竹筒へ。
塩は小袋。
干し菜は布包み。
竹皮は細長く束ねて、背中の横へ流す。
これまでの荷とはまるで違う。
「これ、飯の荷というより山仕事の荷だな」
俺が言うと、かやは頷いた。
「逃げ道は山の道だからね。表道の荷をそのまま持っていったら、枝に引っかかって終わり」
「味噌樽は?」
「無理。竹筒に分ける。割れにくいように布で巻く。あと、匂いが漏れすぎないようにする」
「匂い?」
「敵にも分かるでしょ。味噌の荷だって」
俺の腹が重くなった。
そうだ。
味噌の匂いは、兵にはありがたい。
だが、敵にも届く。
清洲式は敵にも匂った。
信長様の言葉ではないが、実際にそうなっている。
佐助が竹筒の味噌を確認していた。
「清吉、この竹筒は少し漏れます」
「どこから?」
「節のところです。匂いも出ます。逃げ道用なら、もう一枚薄い皮で巻いたほうがいいかもしれません」
かやがすぐに受け取って見た。
「確かに。これだと背中に味噌が染みる」
「背中に味噌は嫌だな」
作兵衛が横から言った。
「腹に入る前に背中が飯になる」
人足たちが笑った。
俺も笑いそうになったが、すぐ小帳面に書いた。
竹筒味噌、節から漏れ。
皮巻き必要。
背中に染みると匂いで見つかる。
書きながら、また一つ分かった。
逃げ道用の荷は、軽くするだけでは駄目だ。
匂いを抑える。
背に沿わせる。
枝に引っかからない。
漏れない。
休む時に下ろしやすい。
そして、疲れた人足が食える飯も持たせる。
人足は飯を運ぶ。
だが、人足も食わなければ歩けない。
当たり前のことなのに、昨日の作兵衛の肩を見るまで、俺は本当には分かっていなかった。
「清吉」
弥助殿が蔵へ入ってきた。
顔が硬い。
「渡し場から知らせが来た」
「喜助さんからですか」
「ああ。薬売り藤助らしき男が、また渡し場近くに出た」
蔵の空気が変わった。
薬売り藤助。
白い粉を持ち、右足の藤七とつながっていた男。
まだ捕まっていない。
「粉を持っていたのですか」
「そこまでは分からん。だが、今度は人足に声をかけていたらしい」
「人足に?」
俺は思わず作兵衛を見た。
作兵衛の顔も険しくなっている。
弥助殿は続けた。
「渡し場で荷を待っていた人足に、疲れが取れる薬を売っていたそうだ」
疲れが取れる薬。
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
昨日、逃げ道で作兵衛の肩が赤くなった。
背負い荷は人の背を削る。
その人足に、疲れが取れる薬。
もし、その薬に白い粉が混じっていたら。
もし、飲んだ人足が腹を壊したら。
もし、人足だけが動けなくなったら。
飯は止まる。
敵は、兵ではなく人足を狙い始めたのかもしれない。
「飯を運ぶ背を狙っている」
俺は呟いた。
弥助殿が頷く。
「その可能性がある」
作兵衛が低く言った。
「人足が潰れりゃ、米は歩かねえ」
「はい」
「清吉」
「何だ」
「行くぞ」
作兵衛は自分の肩を軽く回した。
「俺も行く。人足に売る薬なら、人足の顔で聞いたほうがいい」
「肩は」
「動く」
「でも」
「清吉」
作兵衛の目が鋭くなった。
「俺たちの背の話だ。俺たち抜きで決めるな」
その言葉は重かった。
人足の負担帳を作る。
逃げ道用の荷を作る。
人足を守る。
それを、人足抜きでやってはいけない。
「分かった。頼む」
「おう」
かやがすぐ荷を整えた。
「今日は渡し場まで。荷は軽く。見分用の逃げ道荷を一つ持つ。薬売りが人足を見てるなら、こっちの荷にも興味を持つかもしれない」
「囮にするのか」
俺は眉を寄せた。
また囮。
嫌な言葉だ。
かやは首を横に振った。
「見せ荷。囮ほどじゃない。でも、向こうが寄ってくるか見る」
「本物の米は?」
「少しだけ。食えるものを偽にするのは嫌でしょ」
かやは俺を見て言った。
見透かされている。
「うん。嫌だ」
「だから、ちゃんと食える荷。ただし量は少ない。薬売りが何を言うか見る」
五郎兵衛殿も同行することになった。
佐助も行く。
粉の匂いを見るためだ。
伊三郎は人足負担帳の写しを持たせてくれた。
「作兵衛の肩の状態も、今日の帰りに確認します」
「帳面がどんどん人の身体に近づいていくな」
「飯は身体に入りますから」
伊三郎は当然のように言った。
返す言葉がない。
俺たちは清洲を出て、渡し場へ向かった。
今日の道は、昨日より少し乾いている。
だが、俺の腹は重かった。
敵が米を狙うなら、米を見る。
味噌を狙うなら、味噌を見る。
粉を混ぜるなら、粉を見る。
だが、人足の疲れに入り込むなら。
どう見る?
疲れは見える。
肩の赤み。
歩幅。
息。
文句の量。
食欲。
だが、「疲れが取れる」と言われた人の心までは、簡単には見えない。
疲れている時、人は楽になりたい。
俺だってそうだ。
長く米を握った後、手が痛い時に「これを飲めば楽になる」と言われたら、心が揺れるかもしれない。
敵は、そこを狙う。
飯の道は、腹だけではなく、弱った心にも穴が開く。
渡し場に着くと、喜助がすでに待っていた。
「遅い」
「急いだつもりです」
「川は待つが、悪い奴は待たん」
喜助の言葉は相変わらず刺さる。
だが、今日はありがたかった。
「薬売りは?」
弥助殿の部下が聞くと、喜助は顎で茶屋の裏手を示した。
「あっちで人足相手に喋ってた。今は見えん。だが、まだ近くにいる」
「なぜ分かる」
「川を見てない奴の足跡がある」
俺には分からない。
だが、喜助には分かるらしい。
かやが小声で言った。
「船頭の目だね」
渡し場には、荷待ちの人足が数人いた。
清洲の者ではない。
地元の荷運びだろう。
そのうち一人が、腰に小さな紙包みを差していた。
作兵衛が自然な顔で近づく。
「今日は荷が多いのか」
人足は作兵衛を見た。
「ぼちぼちだ」
「肩、痛めてるな」
「見りゃ分かるか」
「同じ背中の者ならな」
作兵衛は腰を下ろした。
俺たちは少し離れて見ている。
いきなり武士連れで近づけば、相手は硬くなる。
作兵衛が聞く。
「その包み、何だ」
「薬だよ。疲れが抜けるって」
「誰から買った」
「旅の薬売り。藤助とか言ったかな」
藤助。
名前が出た。
俺は腹に力を入れた。
作兵衛は表情を変えずに言う。
「効いたか」
「まだ飲んでねえ。飯の後に飲めって言われた」
「見せてみろ」
「何だよ」
「俺も肩が痛い。よけりゃ買う」
人足は少し迷ったが、包みを出した。
作兵衛は受け取らず、俺を手招きした。
「清吉。飯の後に飲む薬だとよ」
俺は近づいた。
人足は警戒した顔になる。
「何だ、武士の手先か」
「飯炊きです」
「飯炊き?」
「人足の腹も見る役です」
「何だそりゃ」
もっともな反応だ。
俺は頭を下げた。
「その薬、少し見せてもらえませんか。最近、腹を壊す粉が出ています」
人足の顔が変わった。
「腹を壊す?」
「はい。疲れが取れると言われても、腹を壊せば荷は運べません」
人足は紙包みを見る。
不安が顔に出た。
「……見るだけだぞ」
「はい」
俺は直接触らず、布の上に少しだけ出してもらった。
白い粉。
鼻を近づけすぎない。
佐助を呼ぶ。
佐助は遠くから匂いを見た。
顔がこわばる。
「同じ系統です。ただ、昨日の粉より少し薬の匂いが強い。腹を動かす薬が混じっています」
「飲むと?」
「疲れが取れたように感じるかもしれません。でも、後で腹を下すかもしれない」
人足の顔が青くなった。
「俺に売った奴は、少し身体が軽くなるって」
佐助が苦い顔をした。
「一時的にそう感じるものもあります。でも、水を欲しがるし、腹を壊せば終わりです」
作兵衛が低く言った。
「人足を潰す薬か」
その一言で、周囲の人足たちがざわついた。
かやがすぐに声を抑える。
「騒がない。薬売りが近くにいるかもしれない」
弥助殿の部下が周囲へ散った。
五郎兵衛殿は、茶屋の裏手へ目を向けている。
「清吉」
「はい」
「薬を買った人足を集めろ。ただし、怒鳴るな。恥をかかせると隠す」
五郎兵衛殿の言葉に、俺は頷いた。
疲れが取れると言われて買った人を責めれば、他の人足は隠す。
隠されれば、誰が飲んだか分からない。
分からなければ、飯の道が崩れる。
俺は渡し場にいる人足たちへ声をかけた。
「疲れが取れる薬を買った人がいたら、見せてください。責めません。飲む前に見たいだけです。腹を壊す粉が混じっているかもしれません」
最初は誰も動かなかった。
作兵衛が自分の肩を見せた。
赤い縄跡。
「俺も昨日、肩をやった。楽になる薬があるなら欲しいと思う。だから責めねえ。だが、腹を壊す薬なら捨てる」
一人が、そっと包みを出した。
次にもう一人。
全部で四包。
佐助が見た。
三つは似た粉。
一つはただの乾いた生姜と塩のようなものだった。
全部が悪いわけではない。
そこがまた厄介だった。
「これは?」
人足が不安そうに聞く。
佐助は一つを指した。
「これはたぶん大丈夫です。身体を温めるものだと思います。ただ、水と一緒に。空腹では飲まないほうがいい」
「こっちは?」
「駄目です。腹を下す可能性があります」
俺は小帳面に書いた。
薬包四。
三、危険。
一、生姜塩系。
空腹不可。
薬売り藤助。
全部を一緒に悪としない。
それも大事だ。
薬そのものが悪いわけではない。
悪い使い方と、悪い混ぜ物が問題なのだ。
その時、茶屋の裏から声が上がった。
「いたぞ!」
弥助殿の部下の声。
すぐに足音が走る。
俺は動きかけた。
かやが即座に袖を掴む。
「清吉」
「分かってる」
「荷と人足」
「分かってる」
俺は動かなかった。
渡し場に残った人足たちは不安そうにしている。
薬を買った者は青い顔だ。
ここで俺が走れば、彼らは置き去りになる。
飯の道を守るなら、今はここだ。
佐助に頼んで、危険な粉と大丈夫そうな包みを分ける。
作兵衛に人足たちを座らせてもらう。
かやが荷置き場の線を見直す。
喜助は腕を組んで川を見ているが、目は茶屋の裏にも向いていた。
少しして、弥助殿の部下が戻ってきた。
男を一人連れている。
年は四十前後。
旅の薬売りの格好。
小箱をいくつも持っている。
藤助だ。
男は捕らえられても、妙に落ち着いていた。
「私は薬を売っただけでございます」
穏やかな声だった。
それが、かえって嫌だった。
「疲れた人足に、腹を下す粉を売ったのか」
作兵衛が低く言う。
藤助は薄く笑った。
「薬は使い方次第。疲れが取れると感じる者もおります」
「後で腹を壊せば荷は止まる」
「それは飲み方が悪いのでしょう」
俺の腹が熱くなった。
だが、焦がすな。
俺は粉の包みを見た。
「この粉、味噌にも混ぜましたか」
藤助の目が、初めてわずかに動いた。
「何のことやら」
「古い味噌の酸い匂いを殺す粉。兵の飯に混ぜれば腹を壊す粉。右足の藤七に渡しましたか」
藤助は笑ったままだ。
答えない。
佐助が小さく言った。
「清吉、その小箱」
藤助の荷の中に、見覚えのある小箱があった。
旅籠で見つけたものと同じ形。
佐助の顔色が悪い。
「同じです」
俺は弥助殿の部下を見た。
「証拠として、触らず包んでください」
藤助の笑みが少し消えた。
「飯炊き風情が」
その言葉に、作兵衛が一歩前へ出た。
「その飯炊き風情のおかげで、俺たちの腹は守られてるんだよ」
藤助は作兵衛を見た。
「人足が腹を語るか」
「人足が腹を壊したら、米は動かねえからな」
作兵衛の声は静かだった。
だが、強かった。
俺はその横顔を見て、胸が熱くなった。
人足自身が、自分たちの腹を飯の道として語っている。
それは、人足負担帳を作るより大きいことかもしれない。
藤助は縛られ、連れていかれた。
彼の小箱からは、白い粉、苦い匂いの粉、乾いた生姜、塩、薬草らしきものが出た。
全部を一緒にしない。
危険なものと、そうでないものを分ける。
佐助の目が必要だった。
その後、俺たちは人足たちへ薄い粥を炊いた。
急なことだったが、渡し場の水をこして煮て、味噌を少し強めにする。
薬を飲んでいないか確認し、空腹で変な粉を飲まないようにするためでもあった。
喜助がぼそりと言った。
「今日は薬より粥のほうが売れそうだな」
「売り物ではないです」
「なら、なおいい」
人足たちは黙って粥をすすった。
作兵衛も椀を持ち、肩を回しながら食べた。
「どうだ」
俺が聞くと、作兵衛は言った。
「薬よりいい」
「比べる相手が嫌だな」
「でも本当だ。腹が落ち着く」
俺は小帳面に書いた。
人足、薬より粥。
疲労時、薄粥有効。
怪しい薬売り注意。
人足へ先に飯。
そうだ。
人足が怪しい薬に手を出すのは、疲れて、腹が空いて、楽になりたいからだ。
なら、こちらが先に腹へ入れるものを用意する。
人足用の疲れ戻し粥。
濃すぎず、薄すぎず、塩を少し。
これも必要だ。
清洲へ戻る道で、作兵衛が言った。
「清吉」
「何だ」
「人足用の粥、悪くねえ」
「本当か」
「ああ。背中が痛い時に、濃い飯はきつい。あれくらいがいい」
「帳面に残す」
「残せ。人足は米を運ぶが、米だけじゃ動かねえ」
俺は頷いた。
今日、敵は人足を狙った。
疲れを狙い、肩の痛みを狙い、楽になりたい腹を狙った。
なら、こちらは人足の腹を先に見る。
兵だけではない。
飯を運ぶ者の飯を作る。
それも清洲式に入る。
蔵へ戻ると、伊三郎が待っていた。
報告を聞くうちに、彼の筆は止まらなくなった。
「人足用疲れ戻し粥」
「また名前がついた」
「必要です」
「薬売り対策も」
「もちろんです。渡し場、人足への薬売り禁止。薬を持ち込む者は確認。危険粉と通常薬を分ける。佐助の見分け必要」
佐助は少し疲れた顔をしていたが、しっかり頷いた。
「見ます」
夜、蔵の外で粥を食べた。
今日の粥は、人足用に調整したものだ。
味噌は控えめ。
塩を少し。
干し菜は細かく。
米はよく煮る。
作兵衛が言った。
「これなら、肩が痛くても入る」
かやが椀を見て言う。
「今日の飯は、背中を守る味だね」
「うん」
俺は頷いた。
人足の腹を狙う者がいた。
なら、人足の腹を守る飯を作る。
敵が狙う場所は、こちらが見落としていた場所だ。
そう思うと腹が冷える。
でも、見つけたなら、次は守れる。
俺は粥をすすった。
熱い。
腹に落ちる。
背中まで、少し温まる気がした。




