第三十七話 逃げ道は、人の背を削る
表道を見た翌朝、俺の小帳面は少し厚くなった気がした。
実際に紙が増えたわけではない。
けれど、そこに書かれた印の一つ一つが、米俵みたいに重くなっていた。
茶屋の桶水は、粥には向かない。
田の間の道は、荷車のすれ違い不可。
地蔵の前で火を使うな。
井戸の近くで米を洗うな。
灰は村の灰捨て場へ。
村の若者が荷に近づいたら、疑う前に線を引け。
粉はなし。だが油断するな。
表道は、まっすぐに見えて、腹の中にいくつも曲がり角を持っていた。
今日は川道と逃げ道を見る。
川道は、喜助の渡しを使う道。
水と船の腹を見る道だ。
逃げ道は、表道や川道が使えない時に、荷を別の飯場へ逃がすための道。
かやが地図の上で指した、山際を抜ける細い道だった。
荷車は通れない。
背負いなら通れる。
その言葉が、朝から俺の腹に引っかかっていた。
背負いなら通れる。
それは、誰かの背に米を載せるということだ。
米は歩かない。
味噌も歩かない。
人が背負えば歩く。
けれど、人の背にも腹がある。
背負わせすぎれば、飯を運ぶ者が先に潰れる。
かやが昨日言った言葉が、何度も戻ってきた。
「清吉、今日の顔は背負い荷だね」
荷を整えていたかやが言った。
「何俵分?」
「俵じゃない。背中に縄が食い込んでる顔」
「嫌な顔だな」
「実際、嫌でしょ」
「嫌だ」
俺は正直に答えた。
荷車なら、車輪が沈む。
舟なら、川に流される。
背負いなら、人の肩が沈む。
どれも飯の道だ。
だが、人の身体に直接乗る荷は、見ているだけで腹が重い。
今日の荷は、試しの背負い荷を含めている。
米を小袋に分けたもの。
味噌を竹筒に詰めたもの。
塩の小袋。
干し菜。
竹皮。
小釜ではなく、軽い鍋。
水こし布。
火打ち。
これを、人足三人と兵二人に背負わせる。
作兵衛も来ていた。
自分から志願したらしい。
「逃げ道を見るなら、背負ってみねえと分からんだろ」
作兵衛はそう言った。
軽く言うが、彼の背には米の小袋が二つ載っている。
「重くないか」
俺が聞くと、作兵衛は肩を回した。
「重いに決まってる」
「じゃあ減らすか」
「減らしたら試しにならん」
「でも」
「清吉」
作兵衛は俺を見た。
「見るんだろ。だったら、ちゃんと重いもんを背負わせろ。そのかわり、どこで休めるかも見ろ」
その言葉に、俺は黙った。
そうだ。
荷を軽くするだけでは、実際の道は見えない。
重い荷で試す。
でも、潰れるまで背負わせてはいけない。
休む場所を見る。
肩を替える場所を見る。
水を飲む場所を見る。
人足の腹を見る。
また、見るものが増えた。
伊三郎は小帳面に新しい印を足していた。
肩の印だ。
「今日は、人の項目を細かく見てください」
「人?」
「兵だけではなく、人足です。背負い荷なら、人足の疲れが兵糧そのものに関わります」
「分かった」
「肩の痛み、足の遅れ、休み場所、水の量、荷を下ろせる地面。できるだけ」
「伊三郎」
「はい」
「俺の頭にも限りがある」
「だから印にしました」
そう言って、彼は肩の印を指した。
確かに、分かりやすい。
肩。
水。
泥。
休み。
今日の小帳面は、ますます飯以外のものだらけだ。
だが、それが飯を運ぶということなのだろう。
佐助は今日は清洲に残る。
川道と逃げ道の見分なので、味噌の粉よりも荷と道が中心だからだ。
ただ、出る前に味噌の竹筒を渡してくれた。
「これ、昨日の井戸水で試した味噌より塩気が安定しているものです。山際の水は、たぶん冷たいと思うので」
「なぜ冷たいと?」
「山の水は、味噌が立ち方を変えます。昔、蔵へ運ばれてきた山村の味噌がそうでした」
「よく覚えているな」
「味噌だけは」
佐助は少し照れた。
その「味噌だけは」が、今では頼もしい。
俺たちは清洲を出た。
まず川道を見る。
喜助の渡し場へ向かう道だ。
川道は、表道より荷の流れが読みやすい。
渡しを使う者は限られる。
ただし、川が悪ければ一気に止まる。
そこが怖い。
渡し場に着くと、喜助はすでに舟のそばにいた。
「今日は渡すのか」
「少しだけ。あと、逃げ道を見る前に川道の荷置きを確認したいです」
「川は今日は軽い」
喜助は言った。
川にも軽い日がある。
俺は小帳面に水の印をつけた。
「軽い日は、どのくらい載せられますか」
「米四俵……と言いたいが、やめておけ。三俵で考えろ。川は急に重くなる」
「軽くても三俵」
「そうだ。余裕を残す奴だけが、川で長生きする」
余裕を残す。
これは飯にも通じる。
釜いっぱいに米を入れすぎれば、吹きこぼれる。
荷いっぱいに積めば、道で崩れる。
舟いっぱいに積めば、川に負ける。
俺は頷き、帳面に書いた。
川軽くても米三俵まで。
余裕を残す。
かやが渡し場の荷置き場を見ていた。
「ここ、荷を待たせるなら場所を分けたほうがいい。渡す荷、待つ荷、戻す荷」
「三つ?」
「うん。今は全部同じ場所に置かれがち。そうすると、間違う。偽印を入れられても気づきにくい」
喜助が鼻を鳴らした。
「前からごちゃごちゃしてるとは思ってた」
「言ってくれればいいのに」
かやが言うと、喜助は嫌そうな顔をした。
「誰が聞くんだ」
「今なら清吉が聞く」
「飯炊きが?」
「うん」
喜助は俺を見た。
「聞くのか」
「聞きます」
「なら、言う。荷を待たせる場所が悪い。舟に乗せる前の荷と、渡した後の空荷が混じる。あと、旅人が腰掛ける。邪魔だ」
また新しい腹が出た。
旅人の腰掛け。
荷置き場をただ空いている場所と思えば、人が座る。
そこに荷を置けば揉める。
「では、縄で区切ります」
俺は言った。
「荷の場所、旅人の場所、空荷の場所を分ける。喜助さんが怒鳴らなくても分かるように」
「俺は怒鳴ってない」
喜助が言うと、かやが小さく笑った。
「怒鳴ってるよ」
「川がうるさいからだ」
それは理由になるのだろうか。
俺たちは渡し場の地面に仮の線を引いた。
荷待ち。
舟待ち。
空荷。
人の休み。
かやが縄の張り方を考える。
「これなら、偽の荷が紛れた時も分かりやすい」
伊三郎がいたら喜んで帳面に書いただろう。
俺は代わりに必死で小帳面へ印をつけた。
川道は、これで少し見えた。
次は逃げ道だ。
渡し場から少し東へ戻り、山際へ向かう。
そこから細い道が伸びていた。
道というより、獣道に近い。
地元の者が薪や山菜を取りに使う道らしい。
荷車は絶対に無理だ。
作兵衛が道の入口で肩を鳴らした。
「ここを行くのか」
かやが頷く。
「背負いなら抜けられるはず」
「はず、か」
「だから今日見る」
俺たちは一列になった。
先頭はかや。
次に護衛。
作兵衛たち人足。
俺。
五郎兵衛殿が後ろ。
道に入ってすぐ、表道との違いが分かった。
狭い。
足元に根が出ている。
小石が転がる。
左右から枝が出て、荷に引っかかる。
背負いの米袋が枝に擦れ、作兵衛が舌打ちした。
「俵のままじゃ無理だな」
「小袋にしてよかった」
俺が言うと、作兵衛は首を横に振った。
「小袋でも、結びが外に出てると引っかかる。もっと平たくしねえと」
小帳面に荷の印。
小袋、結び外に出すな。
平たく背に沿わせる。
少し登ると、息が上がってきた。
俺は荷が軽いほうなのに、それでもきつい。
米を背負った作兵衛の呼吸は、もっと重い。
「休みますか」
俺が言うと、作兵衛は首を振った。
「まだ行ける」
だが、五郎兵衛殿が後ろから言った。
「止まれ」
「俺はまだ」
「おまえが行けるかじゃない。どこで休めるかを見るんだ」
作兵衛は口を閉じた。
確かにそうだ。
限界まで歩いてから休む場所を探しても遅い。
余裕のあるうちに、休める場所を見つけておく。
川と同じだ。
余裕を残す。
少し開けた場所があった。
大きな岩の横。
地面は固い。
荷を下ろせる。
ただ、水はない。
「ここは休み場にできる」
かやが言った。
「荷を下ろせる。でも水なし。長く休む場所じゃない」
俺は肩の印と水の印にばつをつけた。
休み可。
水なし。
短休み。
作兵衛が荷を下ろした。
肩に縄の跡がくっきりついている。
赤い。
俺は思わず顔をしかめた。
「痛いか」
「痛いに決まってる」
「縄を変えるか」
「縄じゃねえ。背に当てる布が足りねえ。米袋が角で食い込む」
かやがすぐに見た。
「背当てが要るね。古い布か、藁を平たく編んだもの」
「荷が増える」
俺が言うと、作兵衛は笑った。
「背が潰れるよりましだ」
その通りだ。
人足の背も兵糧だ。
背当てを用意する。
肩の印に大きく丸をつける。
背当て必要。
さらに進むと、道が二つに分かれた。
左は少し下る。
右は山腹を巻く。
かやが地面を見た。
「左は水の匂いがする。でも泥もある」
「右は?」
「遠回り。荷は右のほうが安定するかも」
作兵衛が左を見た。
「水があるなら左がいい」
五郎兵衛殿が俺を見た。
「清吉、どうする」
すぐ答えられなかった。
水は大事だ。
だが、泥で荷が沈めば困る。
逃げ道は、荷車が通れない。
背負いの荷が泥にはまると、引き上げるのに人が要る。
人が疲れる。
米が濡れるかもしれない。
「両方、少し見ます」
俺は言った。
五郎兵衛殿が頷く。
「よし」
まず左へ少し下った。
小さな沢があった。
水は冷たい。
飲めそうだが、周囲はぬかるんでいる。
足を置くと、草鞋の端が沈んだ。
「ここで荷を下ろすのは危ない」
かやが言う。
「水を汲むだけなら?」
「二人まで。荷を背負ったまま近づくと滑る」
俺は水の印と泥の印をつけた。
沢あり。
水良し。
泥深い。
荷下ろし不可。
水汲み二人まで。
次に右へ行った。
遠回りだが、地面は固い。
ただ、道幅が狭く、枝が多い。
荷を平たくすれば通れる。
途中に、小さな祠があった。
俺は足を止めた。
まただ。
地蔵。
社。
祠。
飯場に良さそうな場所には、土地の人が大事にしているものがある。
「ここでは休まないほうがいい」
俺が言うと、かやが頷いた。
「荷置きにも向かないね。祠の前を塞ぐ」
作兵衛が息を吐く。
「なら、休み場はさっきの岩場か」
「そうなる」
逃げ道は、使える。
だが簡単ではない。
水場はあるが泥が深い。
休み場はあるが水がない。
祠の前は使えない。
荷は平たく。
背当てが必要。
人足の肩を見ながら進む。
しばらく進んだ先で、山道は表道の別の地点へ出た。
確かに、逃げ道になる。
表道が塞がれた時、背負い荷なら抜けられる。
ただし、量は限られる。
「米はどれくらい通せる」
俺が聞くと、作兵衛は肩を押さえながら答えた。
「一人で小袋二つが限界だな。長く歩くなら一つ半。味噌は竹筒に分けたほうがいい。樽は無理だ」
かやも頷く。
「逃げ道用の荷は、最初から別の形にしないと駄目。表道の荷をそのまま逃がすのは無理」
これは大きい。
逃げ道は、ただ別の道があるだけでは使えない。
その道に合わせた荷の形が要る。
俺は小帳面に大きく書いた。
逃げ道用、別荷。
平袋。
竹筒味噌。
背当て。
小袋一人二つまで。
長距離一つ半。
樽不可。
書きながら、胸が重くなる。
逃げ道を使うということは、急な時だ。
その時になって荷を作り直しても遅い。
最初から、逃げ道用の荷を用意しておく必要がある。
つまり、米と味噌をまた分ける。
手間が増える。
でも、これをやらなければ、逃げ道は道ではなくなる。
帰り道、作兵衛は無口だった。
疲れている。
肩も痛いはずだ。
「作兵衛」
「何だ」
「すまない」
言った瞬間、作兵衛が振り返った。
「何に謝ってる」
「重い荷を背負わせた」
「見分だろ」
「でも」
「清吉」
作兵衛は少し怒ったような顔をした。
「背負わせるなら、謝る前に覚えろ。どこが痛いか。どこで休めるか。どの袋が引っかかるか。俺が背負った分を、次の荷に生かせ」
俺は言葉を失った。
謝ることより、覚えること。
また同じだ。
飯を守るには、ただ申し訳ないと思うだけでは足りない。
次に痛みを減らす形を作る。
「覚える」
俺は言った。
「背当てを作る。袋を平たくする。水場では荷を下ろさない。休み場を決める」
「それでいい」
作兵衛はまた前を向いた。
その背に、縄の跡が赤く残っている。
俺はその赤さを、小帳面の肩の印に重ねた。
清洲へ戻ると、伊三郎は俺たちを見るなり顔を変えた。
「疲れていますね」
「逃げ道は、人の背を削る」
俺は思わずそう言った。
伊三郎はすぐ筆を取った。
「それ、書くのか」
「重要です」
もう止めなかった。
報告は長くなった。
川道の荷置き区分。
喜助の「川が軽くても米三俵」。
荷待ち、舟待ち、空荷、人休みの線。
逃げ道の岩場休み。
沢の水と泥。
祠前使用不可。
背当て必要。
逃げ道用の別荷。
小袋二つまで。
味噌樽不可。
竹筒味噌。
伊三郎は書きながら、何度も頷いた。
「逃げ道帳が要ります」
「また帳面が増えるのか」
「増えます。逃げ道は、表道や川道と荷の形が違います」
「だよな」
「あと、人足の負担帳も」
「人足の?」
「誰がどの重さをどれくらい背負えるか。無理をさせれば、人足が潰れます。人足が潰れれば、飯が止まります」
人足の負担帳。
また新しい帳面。
だが、必要だ。
作兵衛の肩の赤い跡を思い出す。
「あれを、帳面に残してくれ」
俺は言った。
「作兵衛の肩。縄が食い込んだ。背当て必要」
「もちろんです」
伊三郎は静かに書いた。
夜、作兵衛も一緒に粥を食べた。
佐助が少し味噌を控えめにした、腹に優しい粥だ。
作兵衛は椀を受け取り、すすった。
「今日はこれでいい」
「薄いか?」
「疲れた背中には、濃すぎる味噌はきつい」
また一つ覚える。
疲れた背中には、濃すぎる味噌はきつい。
伊三郎が書く。
作兵衛が苦笑した。
「俺の背中まで帳面に残るのか」
「残します」
「悪くねえな」
作兵衛はそう言って粥をすすった。
かやが椀を持って言った。
「今日の飯は、肩の味だね」
「それはうまそうじゃない」
「でも大事な味」
「うん」
俺は粥を食べた。
熱が腹に落ちる。
けれど、今日は腹だけではなく、肩にも残る飯だった。
飯は人の背に乗って動く。
その背を削りすぎれば、飯は止まる。
逃げ道を見つけた。
でも、その道はただの抜け道ではなかった。
人の肩と背を使う道だった。
清洲式に、また一つ重い項目が増えた。
水、火、泥、荷、村、人、粉。
その中の「人」が、今日は一番重かった。




