第三十六話 七つの目で、道を見る
水、火、泥、荷、村、人、粉。
伊三郎が作った小帳面の最初の頁には、その七つの印が並んでいた。
水は、波のような線。
火は、三つに割れた炎。
泥は、足跡。
荷は、俵。
村は、屋根。
人は、丸い顔。
粉は、点が散った印。
俺でも分かるように、と伊三郎が考えたものだ。
分かる。
分かるのだが。
「粉の印だけ、少し嫌だな」
俺が呟くと、伊三郎は筆を止めた。
「嫌でも必要です」
「それは分かってる」
「なら見てください」
「厳しい」
「清吉には厳しいくらいがちょうどいいです」
伊三郎のこういう言い方にも、だいぶ慣れてきた。
最初に会った頃の彼なら、こんなことは言わなかったと思う。帳面役は帳面だけを見て、飯炊きの俺は鍋だけを見ていた。
今は違う。
伊三郎は泥を見る。
俺は帳面を見る。
かやは人の流れを見る。
佐助は粉を見る。
五郎兵衛殿は俺の顔を見る。
最後のは少し余計だが、たぶん必要なのだろう。
「清吉」
かやが荷車の脇から呼んだ。
「今日の荷、見て」
俺は小帳面を懐に入れ、外へ出た。
今日の見分は、美濃道の表道だった。
清洲から北へ向かう、いちばん分かりやすい道。荷車が通りやすく、村もいくつかある。兵を動かす時にも使いやすい。
だからこそ、問題も多い。
人目が多い。
荷が目立つ。
道が荒れやすい。
村の畦を踏む。
商人も旅人も通る。
間者も紛れやすい。
信長様は言った。
表道、川道、逃げ道。
まず表道を見ろ。
通りやすい道ほど、腹の中に穴がある。
今日の荷は、試しの小荷だ。
米一俵。
味噌小樽一つ。
塩小袋。
干し菜。
竹皮。
小釜。
水こし布。
薪少し。
これを表道で運び、途中の村近くで仮飯場を試す。
七つの目で見る。
水はあるか。
火は使えるか。
泥は荷を沈めないか。
荷は安全か。
村は受け入れるか。
人は怪しくないか。
粉は混じっていないか。
言葉にすると簡単だ。
だが、やってみると多い。
多すぎる。
「顔、七つ全部背負ってる」
かやが言った。
「何俵分?」
「今日は七俵」
「印の数と同じか」
「分かりやすいね」
まったく嬉しくない。
佐助が味噌小樽の蓋を確認していた。
「味噌は大丈夫です。粉の匂いもありません。塩気は少し強め。表道の飯場なら、川水より井戸水が多いと思うので、少し控えめに使ったほうがいいかもしれません」
「分かった」
佐助はもう、味噌の前では迷わない。
粉の話になると、まだ顔が青くなることはある。
だが、逃げない。
その背中を見ると、俺も逃げられないと思う。
五郎兵衛殿は槍を肩に担ぎ、荷車の周りを見ていた。
「今日は村で揉めるかもしれん」
「いきなり怖いことを」
「怖くない見分などない」
「またそれですか」
「表道はな、誰もが使う。誰もが使う道は、誰もが自分のものだと思っている」
五郎兵衛殿は道の先を見た。
「そこへ兵の荷を通す。飯場を作る。水を汲む。煙を出す。邪魔だと思う者もいる」
「どうすれば」
「邪魔になる前に、邪魔になる場所を見つけろ」
それが七つの目なのだろう。
邪魔になってから謝るのでは遅い。
飯場を置く前に見る。
清洲を出た時、空は薄く曇っていた。
雨ではない。
だが、道の土は少し湿っている。
荷車の車輪が、乾いた音ではなく、少し鈍い音を立てた。
かやがすぐに言った。
「昨日より重い」
「荷が?」
「道が」
道が重い。
川も重いし、道も重い。
俺にはまだ、その感覚が分かりきらない。
「水のせいか」
「夜露と、昨日の通行。表道は人が多いから、踏まれて柔らかくなるところがある」
かやは車輪の跡を見た。
「清吉、小帳面」
「はい」
「泥の印。ここは晴れてても車輪が沈みかける」
俺は慌てて書く。
泥。
表道入口。
踏まれて柔らかい。
荷車注意。
伊三郎が見れば分かるだろうか。
後で自分が説明できるように、足跡の印を濃くした。
しばらく行くと、小さな茶屋があった。
道を行く旅人や商人が休む場所らしい。
桶に水が張ってあり、馬に飲ませている者もいる。
「水がありますね」
佐助が言った。
俺は近づき、水を見た。
桶の水は少し濁っている。
馬も飲む。
旅人も手を洗う。
飯場の水には向かない。
「飲ませる水ではないな」
俺が言うと、茶屋の女が聞きつけた。
「うちの水が悪いってのかい」
しまった。
声が大きかった。
俺はすぐ頭を下げた。
「悪いと言ったわけではありません。馬や旅人が使う水と、兵の粥に使う水は分けたいと思っただけです」
「同じ水だよ」
女は不満そうだ。
当然だ。
自分の店の水を悪く言われたように聞こえたのだろう。
かやが横から口を挟んだ。
「ここの水は、喉を湿らせるにはいい。でも、五十人分の粥にすると足りない。桶も汚れる。茶屋の商売の邪魔になる」
女は少し目を細めた。
「そっちのほうがまだ分かるね」
俺は内心でかやに手を合わせた。
言い方ひとつで、同じ水でも聞こえ方が違う。
水が悪い。
そう言えば角が立つ。
粥には足りない。商売の邪魔になる。
そう言えば、相手の腹に届く。
女は茶屋の裏を指した。
「粥にするなら、裏の井戸のほうがましだよ。ただし勝手に使うんじゃない。使うなら声をかけな」
「ありがとうございます」
「礼はいい。兵が勝手に桶を汚すのが嫌なだけさ」
これも大事だ。
水はある。
ただし、表の桶は不可。
裏の井戸、許可必要。
茶屋の商売を邪魔しない。
俺は小帳面に印をつけた。
村ではないが、人の腹だ。
茶屋も道の腹なのだ。
茶屋を過ぎた先で、表道は少し低くなっていた。
田と田の間を通る道だ。
見た目にはまっすぐで、荷車も通れそうだった。
だが、かやは足を止めた。
「ここ、危ない」
「そんなに?」
「道の真ん中は固そうに見える。でも端が崩れやすい。荷車がすれ違ったら、片方が畦を踏む」
五郎兵衛殿が周囲を見る。
「兵が多いと、広がるな」
「はい」
俺は畦を見た。
まだ稲は小さい。
だが、踏めば傷む。
村の者は怒る。
いや、怒るだけで済まない。
米が減る。
米が減れば、腹が減る。
俺は小帳面に泥と村の印をつけた。
道狭い。
すれ違い不可。
畦踏むな。
荷車一台ずつ。
「面倒だな」
護衛の一人が言った。
俺もそう思った。
だが、かやが即座に返す。
「面倒を先にやると、後で怒られない」
「後で怒られるのは嫌だな」
「米が減るともっと嫌でしょ」
護衛は苦笑して頷いた。
表道は通りやすいと思っていた。
だが、通りやすいからこそ、すれ違いが起きる。
すれ違えば畦を踏む。
畦を踏めば村が怒る。
村が怒れば水を借りられない。
水を借りられなければ飯場が止まる。
小さな畦が、飯の道につながっている。
七つの目は、面倒だ。
でも、見なければ分からない。
昼前、目的の村に着いた。
表道沿いの村で、清洲から北へ向かう荷がよく通るらしい。
村の入口には、小さな地蔵があり、その横に広場のような場所があった。
一見、飯場に向いている。
平らで、荷も置ける。
近くに井戸もある。
火も使えそうだ。
俺は少し安心しかけた。
その瞬間、五郎兵衛殿が言った。
「清吉、顔が早い」
「早い?」
「すぐ使えると思った顔だ」
当たっている。
俺は慌てて周囲を見直した。
水。
井戸がある。
火。
広場なら使えそう。
泥。
地面は固い。
荷。
置ける。
村。
……村。
村の人たちが、こちらをじっと見ている。
誰も近づいてこない。
歓迎ではない。
警戒だ。
人。
子供が家の中へ引っ込んだ。
老人が戸口から見ている。
若い男が二人、鍬を持ったまま立っている。
粉。
まだ分からない。
「村が硬いです」
俺が言うと、五郎兵衛殿は頷いた。
「そうだ。場所はいい。だが腹が硬い」
腹が硬い村。
それだけで、飯場としては難しくなる。
弥助殿の部下が村長らしき男を呼んだ。
出てきたのは、痩せた中年の男だった。
顔色は悪くないが、目が鋭い。
「ここで飯を炊きたいと聞いた」
「試しです」
俺は頭を下げた。
「少人数です。水を使わせていただく前に、井戸と場所を見せていただきたい」
「井戸は村のものだ」
「はい」
「兵が来れば、水が濁る。灰が飛ぶ。子供が怖がる。前に別の兵が通った時、薪を勝手に持っていった」
出た。
村の腹に残っているもの。
前に受けた嫌なことだ。
俺はすぐに謝りそうになったが、五郎兵衛殿の声が頭に響いた。
何に謝るかを見ろ。
俺がやったことではない。
だが、村の腹に傷がある。
「今日は、勝手に井戸を使いません。薪も持ってきています。灰を捨てる場所も、決めてからにします」
村長は俺を見た。
「本当か」
「見ていてください」
また、この言葉だ。
見ていてください。
それは、自分の首に縄をかけるような言葉でもある。
だが、地元の腹に届くのは、たぶんこれなのだ。
村長は広場を指した。
「火を使うなら、地蔵の前では駄目だ」
あ。
俺は地蔵を見た。
広場の横にある小さな地蔵。
俺は気にしていなかった。
飯場として平らかどうかだけを見ていた。
もし、ここで煙を出し、兵が地蔵の前に座り、荷を置いたら。
村は怒る。
当然だ。
「すみません。地蔵の前は避けます」
村長は少しだけ眉を動かした。
「気づいていなかったのか」
「はい」
正直に答えるしかない。
「でも、今気づきました。使うなら、向こうの畑脇の空き地はどうでしょうか」
村長がそちらを見る。
「あそこは水が遠い」
「水汲みの人数を決めます。勝手に井戸へ近づかせません」
「灰は?」
「持ち帰るか、村で決めた場所へ」
かやが横から言った。
「荷は道沿いじゃなく、空き地の奥に置く。道を塞がない。兵は地蔵側へ座らせない」
村長はかやを見た。
「娘が荷を見るのか」
「はい」
「……荷を分かる者なら、道を塞ぐな」
「塞ぎません」
少しだけ、話が進んだ。
井戸を見せてもらった。
水は良い。
少し硬い味がする。
清洲の水とも、社裏の湧き水とも違う。
佐助が言った。
「この水なら、味噌は普通より少し多めでいいと思います。硬さが残るので」
俺も少し試した。
確かに、社裏の水より味噌が立ちにくい。
清洲の味噌を使うなら、やや多め。
ただし、塩は増やしすぎない。
小帳面に書く。
井戸水。
硬い。
味噌やや多め。
塩控え。
火の場所は、畑脇の空き地にした。
風向きを見る。
煙が村の家へ流れない位置。
灰を受ける穴を浅く掘り、終わったら埋める。
これも村長に確認した。
面倒だ。
だが、村長の目が少しずつ変わっていく。
最初は「兵が来た」という目だった。
今は、「こいつらは本当にいちいち聞くのか」という目だ。
良いか悪いかは分からないが、最初よりはましだ。
飯を炊き始めた時、問題が起きた。
若い村人の一人が、荷車の後ろに近づいた。
ただ見に来ただけかもしれない。
だが、かやがすぐに気づいた。
「そこ、触らない」
若者は手を引っ込めた。
「見ただけだ」
「見るなら前から。後ろは死角になる」
「疑ってるのか」
空気が硬くなる。
村長がこちらを見る。
まずい。
俺は鍋の前から立ち上がった。
「疑う前に、見える場所にしておきたいだけです」
若者はむっとした。
「同じだ」
「違います。あなたが悪いことをすると思っているわけではありません。でも、荷の後ろに人が立つと、誰が触ったか分からなくなります。分からなくなると、後で村全体を疑うことになります。それを避けたいです」
自分でも、少し言葉が硬いと思った。
だが、嘘ではない。
村全体を疑いたくない。
だから、最初から見える形にする。
若者は黙った。
かやが荷車の横へ竹の棒を置いた。
「ここから内側は荷の場所。見るなら外から。触る時は声をかけて」
村長が若者へ言った。
「下がれ」
「でも」
「下がれ。疑われる形になるな」
若者は不満そうに下がった。
俺は小さく息を吐いた。
人の項目に印をつける。
村若者、荷に近づく。
悪意不明。
荷の線を作る。
粉の印は、まだ空欄だった。
粥が炊けた。
井戸水で炊いた粥。
味噌は少し多め。
塩は控えめ。
干し菜を細かく。
まず兵に配る。
次に、村長と、さっきの若者にも少し渡した。
若者は受け取るのを迷ったが、村長に睨まれて受け取った。
一口食う。
眉を寄せる。
「……うちの水の味がする」
俺は少し驚いた。
「分かるのか」
「そりゃ分かる。毎日飲んでる」
その言葉で、また一つ腹に落ちた。
村の水は、村人の舌に残っている。
俺たちが飯場で使えば、その違いも分かる。
「味噌が少し濃い」
若者が言った。
佐助が小さく反応する。
俺は頷いた。
「この水だと、味噌を少し多めにしたほうがよいと思いました。でも、村の人には濃いですか」
「兵ならいいんじゃないか。俺らが普段食うなら、もう少し薄い」
大事だ。
兵の飯と村の飯は違う。
同じ水でも、腹の役目が違う。
村長も粥をすすり、言った。
「兵に食わせるなら、これでいい。だが井戸の近くで米を洗うな。米粒が落ちると子供が拾って食う。腹を壊す」
「分かりました。米洗いは別の桶で。水は捨てる場所を決めます」
また一つ、飯場の型が増える。
井戸近くで米を洗わない。
米粒を落とさない。
それも地元の腹を見ることだ。
試し飯は、どうにか終わった。
村は完全には柔らかくならなかった。
だが、硬いまま少しだけこちらの形を覚えた。
村長は帰り際に言った。
「次に来るなら、先に知らせろ。地蔵の前は使うな。井戸は二人ずつ。灰は埋めるな、村の灰捨て場へ持っていけ」
「埋めるより、そちらがいいのですか」
「畑に変な灰が混じると困る」
「分かりました」
訂正だ。
灰は埋めない。
村の灰捨て場へ。
見なければ分からなかった。
清洲へ戻る道で、かやが言った。
「表道、簡単じゃないね」
「通りやすいのに」
「通りやすいから、人の腹が多い」
「茶屋、田、地蔵、井戸、村の若者」
「あと、荷の死角」
「粉は出なかった」
「今日はね」
粉の印は空欄だった。
それは良いことだ。
だが、油断していいわけではない。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が待っていた。
「七つの目、どうでしたか」
「全部見るのは大変だ」
俺は正直に言った。
伊三郎は少し笑った。
「でしょうね」
「でも、見なければ危なかった。地蔵の前を使いかけた」
伊三郎の顔が真剣になる。
「それは重要です」
「あと、茶屋の水。表の桶は駄目。裏の井戸なら声をかける。田の間の道はすれ違い不可。村の井戸では米を洗わない。灰は村の灰捨て場へ」
「待ってください。順に」
伊三郎が慌てて筆を取る。
俺は話す。
かやが補う。
佐助が水と味噌の違いを話す。
五郎兵衛殿が村人の顔を話す。
帳面が埋まっていく。
表道は、ただまっすぐな道ではなかった。
いくつもの腹を持つ道だった。
夜、粥を食べながら、俺は七つの印をもう一度見た。
水。
火。
泥。
荷。
村。
人。
粉。
今日は粉以外の六つが、全部動いた。
粉がなかったことも、記録だ。
「今日の飯は、何の味?」
かやが聞いた。
「地蔵を避けた味」
「また変な味」
「でも、大事だった」
「うん。大事だった」
俺は粥をすすった。
清洲の水で炊いた粥だ。
今日の村の井戸水とは違う。
水が違えば、味噌も違う。
場所が違えば、火も違う。
村が違えば、飯場の置き方も違う。
清洲式を持っていく。
でも、その土地の腹に合わせる。
言葉では分かっていたことが、今日は泥と地蔵と井戸で腹に落ちた。
明日は川道か、逃げ道か。
まだ分からない。
だが、七つの目は手放せない。
面倒でも。
怖くても。
飯を腹へ届けるために。




