第三十五話 清洲式は、敵にも匂った
右足を引きずる男は、最初は何も喋らなかった。
社裏の飯場で捕らえられ、清洲へ連れてこられた時も、縄をかけられたまま口を閉ざしていた。
名を聞かれても答えない。
誰に命じられたか聞かれても答えない。
白い粉のことを聞かれても、ただ薄く笑うだけ。
その笑いが、俺には嫌だった。
飯を知らない笑いだ。
腹を壊す者の顔を見たことがない笑いだ。
いや、見たことがあっても、何とも思わない者の笑いなのかもしれない。
俺は蔵の隅で、味噌樽を見ながらそのことを考えていた。
捕らえた男の取り調べは、俺の仕事ではない。
弥助殿と、その配下の仕事だ。
だが、白い粉と偽印の話となると、どうしても俺たちも呼ばれる。
粉が何に使われるのか。
どの味噌に混ぜれば分かりにくいのか。
どの飯場が狙われやすいのか。
どの印を写そうとしたのか。
そういう話になると、米と味噌と荷を見てきた俺たちの目が必要になる。
嫌な仕事だった。
飯を守るために、飯を壊すやり方を考えなければならない。
「清吉」
佐助が味噌樽の蓋を押さえながら言った。
「この樽は大丈夫です。粉の匂いはありません」
「ありがとう」
「でも……」
佐助は少し言い淀んだ。
「何だ?」
「粉の匂いばかり気にしていると、普通の味噌まで怖くなりますね」
その言葉は、腹に落ちた。
俺も同じだった。
粥の湯気を見ても、一瞬、粉が混じっていないかと思ってしまう。
味噌を溶く時に、前より長く匂いを嗅いでしまう。
必要な注意だ。
けれど、疑いすぎれば飯が進まない。
すべてを疑う飯場は、兵を遅くする。
「怖いけど、止めるなってことなんだろうな」
俺が言うと、佐助は小さく頷いた。
「はい。見て、止めて、それから炊く」
「うん」
佐助は、少しだけ笑った。
「清吉みたいなことを言ってしまいました」
「それ、褒めてるのか?」
「たぶん」
「たぶんか」
かやなら笑っていただろう。
だが、かやは今、渡し場の喜助のところへ行っている。
右足の男が渡しを使おうとした日、他に誰が川を渡ったかを聞きに行ったのだ。
伊三郎は帳面を広げ、右足の男から押収した偽印と清洲式の印を比べていた。
「よく似せています」
伊三郎は低く言った。
「そんなにか」
「はい。完全ではありませんが、急ぎの飯場なら通ってしまうかもしれません」
それを聞いて、背中が冷えた。
飯場は急ぐ。
腹を空かせた兵が並び、火が燃え、湯が沸き、荷が次々に来る。そこで印が似ていれば、通してしまうかもしれない。
それが狙いなのだ。
「どう変える?」
俺が聞くと、伊三郎は筆を持ったまま考えた。
「印だけで守るのは危ういです。印、結び、受け取り役の言葉。この三つを合わせましょう」
「言葉?」
「合言葉のようなものです。ただし難しすぎると現場で詰まります」
かやが聞いたら「また面倒なことを」と言いそうだ。
だが、必要だ。
「飯場の人が覚えられる言葉がいい」
「はい」
「その日の飯に関係する言葉はどうだ? たとえば、今日は腹起こし、明日は足戻し、とか」
伊三郎の筆が止まった。
「悪くありません」
「本当か?」
「はい。清洲式の飯の名と結びつければ、受け取り役も意味を覚えやすい」
そう言われると、少し恥ずかしい。
腹起こし。
足止め防止。
腹戻し。
雨包み。
俺が現場で言った変な言葉が、だんだん正式なものになっていく。
「ただし、敵に聞かれたら終わりです」
「それはそうだな」
「ですから、印と結びと合わせます。三つが揃わなければ通さない」
伊三郎が帳面に書く。
印。
結び。
合言葉。
飯を守るための門が、また一つ増えた。
昼過ぎ、弥助殿が蔵へ来た。
顔が険しい。
「清吉、佐助、伊三郎。上様のところへ来い」
「男が喋ったのですか」
俺が聞くと、弥助殿は短く頷いた。
「少しな」
少し。
その少しが、腹に重かった。
信長様の部屋には、すでに坂井蔵人殿と五郎兵衛殿がいた。
かやも戻っていた。
裾に川の泥がついている。喜助のところから急いで戻ったのだろう。
俺たちは頭を下げた。
「面を上げよ」
信長様の声は静かだった。
だが、目は地図の上に落ちている。
清洲から美濃道へ。
社裏の湧き水。
渡し場。
上流の浅瀬。
石が置かれている。
その石の一つに、白い粉の包みが置かれていた。
「右足の男が吐いた」
信長様が言った。
「名は藤七。美濃側の小者だ。斎藤家の直臣ではない。国境近くの土豪に使われている」
美濃側。
やはり。
俺の腹が冷える。
「目的は、清洲式の信用を崩すこと」
信長様は続けた。
「飯場で腹を壊す者を出す。偽印で悪い荷を通す。村の水を汚したように見せる。渡しの船頭や村人に、織田の飯場は危ないと思わせる」
言葉が一つずつ刺さった。
兵の腹を壊すだけではない。
村人に嫌わせる。
船頭に嫌わせる。
清洲式を、土地に拒まれるものにする。
それが狙いだった。
「飯を腐らせるだけではなく、飯の道を腐らせる策です」
伊三郎が低く言った。
信長様が頷く。
「そうだ」
飯の道を腐らせる。
俺は拳を握った。
社裏の男が言った「うちの水を汚す気だったのか」という怒りを思い出す。
もし本当に粉を撒かれていたら。
もし村人が、織田の飯場が水を汚したと思ったら。
もう二度と水は借りられなかったかもしれない。
それどころか、美濃道沿いの村々に噂が走る。
織田の飯場は水を汚す。
兵に悪い飯を食わせる。
荷の印も信用できない。
渡し場を勝手に使う。
そうなれば、米も味噌も道を失う。
腹が冷えるどころではない。
「上様」
俺は思わず口を開いた。
「飯が届かなくなります」
「そうだ」
信長様は即座に言った。
「敵はそれを狙った」
「兵を斬らずに、飯を止める」
「分かってきたな」
信長様は地図の上で石を動かした。
「清洲式が早く兵を動かすと、敵は気づいた。ならば、清洲式を壊しに来る」
早く兵を動かす飯。
それが敵にも匂ったのだ。
俺たちは、清洲式が形になったことを喜んでいた。
だが、形になれば、敵にも見える。
見えれば、狙われる。
当たり前のことなのに、腹のどこかで分かっていなかった。
「清吉」
「はい」
「清洲式は、もうただの飯場の工夫ではない」
「はい」
「軍の足だ」
軍の足。
俺の胸に、その言葉が落ちた。
飯が足になる。
権六が言った「足が戻る」。
三百人が予定より早く仮陣に入った日。
あの時、飯は本当に足になった。
そして今、その足を敵が折りに来ている。
「ならば、足を守る仕組みを作る」
信長様は言った。
「美濃道の輸送網を整える」
輸送網。
俺には少し難しい言葉だった。
だが、地図を見れば何となく分かる。
清洲蔵から出る荷。
社裏の湧き水。
渡し場。
仮飯場。
村。
川。
浅瀬。
その先の美濃。
点ではなく、線にする。
線をさらに、いくつも作る。
「飯場候補を増やす。渡しを守る。水場を村と取り決める。荷の印を日ごとに変える。偽印を見破る目を増やす」
信長様の声は淡々としている。
だが、内容は重い。
「蔵人」
「はっ」
「美濃道沿いの村へ、米を買う口と水を借りる口を分けて作れ。一人に任せるな。村の長、船頭、荷運び、それぞれ別に話を通す」
「承知しました」
「弥助」
「はっ」
「間者を見張る者を置け。だが飯場の近くで刀を見せすぎるな。村が怯える」
「はっ」
「五郎兵衛」
「おう」
「清吉が前へ出すぎぬよう見ろ。それと、兵の文句を拾え」
「承知」
五郎兵衛殿は少し笑った。
兵の文句を拾う。
それも正式な役になりつつある。
「かや」
「はい」
「荷の道を三つ作れ。表道、川道、逃げ道だ」
かやの目が鋭くなる。
「逃げ道?」
「荷が襲われた時に戻る道ではない。飯を止めぬため、別の飯場へ逃がす道だ」
かやは地図を見た。
しばらく黙り、指で道をなぞる。
「ここは表道。川道は渡しを使う。でも、川が重い日は使えない。逃げ道にするなら、社裏から東へ回って、小さな林の脇を抜ける道があります。ただ、荷車は無理です。背負いなら」
「なら、背負い荷を用意しろ」
「はい」
かやの返事は強かった。
荷の話になると、彼女は本当に頼もしい。
「伊三郎」
「はい」
「清洲式の帳面を、美濃道用に分けろ。清洲蔵の帳面、美濃道の飯場帳、渡し帳、村水帳」
伊三郎の顔が一瞬だけ青くなった。
帳面が増える。
俺なら倒れている。
だが、伊三郎はすぐに頭を下げた。
「承知しました」
「印も変えろ。日ごと、荷ごと、飯ごとに」
「はい」
信長様は最後に俺を見た。
「清吉」
「はい」
「おまえは、飯場の型を作れ」
「型、ですか」
「どこへ行っても、まず何を見るか。水、火、泥、荷、村、人、粉。見落とすな。清洲式を美濃道の腹に合わせるための型だ」
俺は息を吸った。
水。
火。
泥。
荷。
村。
人。
粉。
飯場を見る時の順番。
これまで腹で見ていたものを、誰でも使える形にする。
「俺だけが見ても、足りないということですね」
「そうだ」
信長様は頷いた。
「おまえ一人が飯を見るだけでは足りぬ。おまえがいない場所でも、飯が守れるようにしろ」
それは、清洲式が本当に広がるということだった。
俺がいない飯場でも、誰かが水を見る。
火を見る。
泥を見る。
荷を見る。
村を見る。
人を見る。
粉を見る。
そうなれば、飯はもっと遠くへ行ける。
怖い。
けれど、必要だ。
「作ります」
俺は答えた。
今度は、「やってみます」とは言わなかった。
信長様は少しだけ目を細めた。
「よい」
その後、右足の男――藤七の供述がさらに示された。
美濃側では、清洲式という名までは知られていなかったらしい。
だが、「織田の飯場は腹を壊さぬ」「小勢の動きが早くなった」「荷が分かれている」「印で受け渡しをしている」という噂が流れていた。
その噂を聞いた国境の土豪が、飯を狙えば足が止まると考えた。
藤七と薬売り藤助を使い、白い粉と偽印で飯場を壊そうとした。
薬売り藤助は、まだ捕まっていない。
右足の男は捕らえたが、粉の元は残っている。
俺はその名を小帳面に書いた。
藤助。
薬売り。
粉。
逃亡中。
文字は下手だ。
でも、残す。
「清吉」
信長様が言った。
「粉の元を断つのは弥助の仕事だ。おまえは飯場を止めるな」
「はい」
「敵が飯を狙うと分かった以上、飯場を止めれば敵の思うつぼだ」
「はい」
飯を止めない。
火を消さない。
何度も言われてきた言葉が、今また腹に落ちる。
会議が終わると、俺たちは清洲蔵へ戻った。
歩きながら、かやが言った。
「大変なことになったね」
「なった」
「表道、川道、逃げ道だって」
「かやの仕事が増えた」
「伊三郎の帳面も増えた」
「俺の腹も増えた」
「腹は増やさなくていい」
かやは笑った。
だが、その顔にも疲れがあった。
美濃道の輸送網。
言葉は大きい。
だが、やることは小さい。
水場を一つ見る。
村人に一人話を聞く。
竹皮を一束数える。
味噌を一樽嗅ぐ。
合言葉を一つ決める。
粉を一つ止める。
その積み重ねだ。
蔵に戻ると、佐助がすぐ味噌樽の前へ向かった。
「佐助?」
「粉の匂いを、もう一度覚えます」
佐助はそう言った。
怖いのだろう。
でも、逃げていない。
「無理はするな」
「無理じゃありません。これが俺の役です」
その言葉に、俺は少し胸が熱くなった。
かやは竹皮を広げ、結びを三種類に分け始めた。
「表道結び、川道結び、逃げ道結び」
「もう名前がついたのか」
「名前がないと、現場で混ざる」
「確かに」
伊三郎は、新しい帳面の表紙を書いていた。
清洲蔵帳。
美濃道飯場帳。
渡し帳。
村水帳。
俺にはまだ全部読めない。
だが、形だけでも重さが分かる。
「清吉」
伊三郎が言った。
「飯場を見る型、今日から作ります」
「はい」
「まず七つ。水、火、泥、荷、村、人、粉」
「粉が入るんだな」
「入れざるを得ません」
「嫌だな」
「私も嫌です」
伊三郎がそう言ったのは、少し意外だった。
この人も嫌なのだ。
粉の項目を帳面に作ることが。
でも、嫌でも書く。
書かなければ、次の飯場で見落とす。
「書こう」
俺は言った。
「嫌でも、書こう」
「はい」
その夜、俺たちは新しい型を試しながら、蔵の外で粥を炊いた。
水。
清洲の井戸水。よし。
火。
風向きよし。
泥。
蔵前、乾き気味。荷置き可。
荷。
味噌、佐助確認。米、二つ丸粥向き。
村。
清洲蔵、人足多し。文句あり。問題なし。
人。
権六、勝手に来ている。腹、元気。
粉。
なし。
「俺、項目に入ってるのか?」
権六が粥をすすりながら言った。
「人のところに」
「腹役だな」
「そうだな」
皆が笑った。
笑いながらも、俺は思った。
この型が、これから美濃道へ行く。
水、火、泥、荷、村、人、粉。
七つの目。
これを持って、飯場を作る。
敵は飯を狙う。
なら、こちらは飯を守る目を増やす。
粥をすすった。
いつもの味だ。
粉はない。
味噌は佐助が見た。
水は清洲の井戸。
火は安定している。
腹に落ちる。
その当たり前が、今日はありがたかった。
清洲式は、敵にも匂った。
ならば、もっと強くする。
ただし、押しつけず。
その土地の腹を見ながら。
美濃道の飯の戦は、ここから本格的に始まるのだと思った。




